ハサウェイは生き延びることができるか
映画『閃光のハサウェイ』が上映中だ。
小説版は鬱エンディングとして有名な当タイトルではあるが、一ファンとしては製作者が映画版をどう着地させるのかをとても楽しみにしている。
同じタイトルだからといって同じストーリーになるとは限らないのが富野作品である。たとえばリメイクされた映画版の新訳ZガンダムはTV版とは違ったエンディングを迎えているし、初代ガンダムにおいてもノベライズ版ではTVと全く違う結末になっている。
ということで、当新作においても、テーマやメッセージ、その結末については製作者の匙加減でどうとでも変化しうると期待できる。
ハサウェイの運命が今作でどうなっていくのか、そしてどうあるべきか。
過去の富野作品や「逆襲のシャア」への考察を、記憶ベースでのびのびと論じていきたい。
エヴァンゲリオンと富野ループ
さて、先日最新作が公開されたエヴァンゲリオンは、一つの世界設定をモチーフに、ストーリーが成功するまで何度でも繰り返すというループ型の物語であった。
何十個もあるサイコロを、全部ゾロ目が出るまで振り続けるようなストーリーの試行が25年も続いたわけだが、最新作ではついにゾロ目が出て綺麗なエンディングを迎えられたように見える。
そのエヴァンゲリオンの話法を見て改めて気付かされるのは、富野作品のループ性である。
先日エルガイムのTV版を見返してみた。最終的に主人公は復讐を成し遂げ、囚われの妹を取り戻すものの、その妹は精神崩壊し、兄弟ともに隠居するというような内容であった。
次の作品であるZガンダムの最終回。今度は主人公本人が精神崩壊し、隠居するという内容となっている。結末が少し似ている。
毎年のように連続で制作されてきたロボットアニメシリーズである。それぞれの作品を重ねて透かせば、前回こうしたから次回はこう変えてみよう、というストーリーの差分やグラデーションのようなものが見えてくるのは自然である。そういう角度から見ると、一連の富野作品は、タイトルや見た目は違えども、ストーリーはエヴァンゲリオンのような同じ話の世界線違いというループ構造を持つとみることができるかもしれない。
そこで、富野作品について、知っている結末について並べてみる。
富野作品の金字塔といえる初代ガンダムを基準として、
ループの主軸を「人類がわかりあえるかの試行」であると仮定し、
その「結末」に着目してみる。
サンボット3→民衆から非難されていた主人公が認められ受け入れられる。
初代ガンダム→敵とも分かり合えることを訴えつつ、仲間との絆を再認識。
イデオン →敵と分かり合おうと歩み寄るが失敗。全滅後に霊的に成就。
ザブングル →旧人類が新人類を認め、共存の道へと歩み始める。
ダンバイン →戦国群像劇。ほぼ全滅して最後はお伽話というシメ。
エルガイム →支配層VS反乱軍。主人公が復讐を成し遂げ、その後は隠遁。
Zガンダム →分かり合えることを訴えつつ、話の通じない第三者を抹殺。
前半は「わかりあい」へのこだわりが感じられる試行錯誤がある。対立するもの同士がいかにすれば分かり合えるか。イデオンではそのテーマがもっとも強く出ている。
個人的に一番大好きな作品は「ザブングル」である。SFとしてもエンターテイメントとしても綺麗にまとまった一級品だと感じているし、このループ試行という尺度でも見てもうまく決着しているように見える。
挙げた作品の中でダンバインとエルガイムについては、なんとなくテーマ性は薄れ、ファンタージ絵巻だったり、革命劇だったりと、いかに表面的な形式に変化をつけていくかに拘っているように感じる。それはきっと、富野監督本人が人生のテーマとしていたであろう「わかりあい」を、イデオンとザブングルを通じて両極端として結末を描切ってしまったからではないかと個人的には思っている。
初恋と失恋のメビウス
次に、初代ガンダムから強く打ち出されていたモチーフの一つである「初恋と失恋」に着目してみる。こちらの方が作品理解の上ではより重要な要素に思える。「わかりあい」よりさらに一段階深層にあるプリミティブなテーマであるからだ。
「初恋と失恋」は、一連の作品を通じてしつこく何度も出てくる。
そして、富野作品の世界においては「失恋」は、ただの失恋では済まない。
登場人物が初恋をすれば必ず失恋し、そして失恋すれば必ず死ぬ。
富野作品において、失恋は死を意味するのである。そういう暗黙のルールのようなものがある。登場人物が多く死ぬ作品が多いのはこの原則によるものだろう。戦争物であるからリアリティのために戦死者も出るが、そこに失恋による死亡者が加算されるのだ。恋をするのは命懸けという非常に厳しい世界である。
ミハル、ララァ、カララ・アジバ、キッチン、フォウ、クェス・パラヤなどはその代表例だ。ほとんど人が死なずハッピーエンドを迎えたザブングルですら例外ではなく、ジロンの初恋と思しきトロン・ミランは登場するなり死ぬ運命を与えられていた。
Zガンダムでも登場人物たちの死因の多くは初恋である。
なぜ富野作品内で初恋をすると死んでしまうのか
岡田斗司夫ゼミの動画だったかどこかで聞いたのだが、富野監督は若い頃の初恋と失恋を長い間ひきずっていたという話がある。この話を信じるならば、富野作品の深層構造も見えてくる。
ここで仮に世界を下記の3つの層に分類してみる。
① わかりあうことに成功し、初恋も成就した理想の世界層
② 理想の世界層への到達を目指し続ける世界層
③ 初恋ではない形で着地した現実の世界層
初恋を忘れられない気持ちが生み出すのが①の理想(幻想)であり、どうすれば過去の初恋が成就するのかを悩み続けるのが②の層である。そして現実の人間社会が③である。当人はもちろんご結婚されて家庭を持ったので③に存在している。
そして、富野作品は常に②の「理想を目指す世界」で描かれていく。しかし、監督自身の過去の失恋という確定した事実を「物語の原典」として作品は作られる。であるから②のシナリオをどう描こうとも、最後に「物語の原典」と照らし合わせたところで、覆せない過去の失恋という事実に突き当たり、③の「理想の世界」には到達できないという結論にしかならない。それがループ構造を生むのである。作品が変わりシナリオを変えても、登場人物は初恋をしては死別し続けることになる。“メビウスの輪から抜け出せなくていくつものを罪をくりかえす”のである。
物語が「理想」に到達するには、原典の書き換え、つまり監督自身が何らかの形でその過去を克服する必要がある。もしくは克服を諦め、自己の過去ではなく未来を原典として物語を紡ぐしかない。
『逆襲のシャア』での決着
ここから『逆襲のシャア』の考察を進めていく。
まず前提となる仮説として、シャアとアムロはそれぞれが富野監督自身の分身であるとさせていただく。
こうありたいと願う理想の姿、革命家、カッコイイ男としての第一の自身像がシャアであり、自らが置かれた状況を打破していくビジネスマンとしての第二の自身象がアムロであるとする。
この二人の自身像が、ララァという共通の初恋の相手と”失恋”をしている。
『逆襲のシャア』は、その失恋をどう克服、決着していくかという話が焦点であったと捉えている。
まずシャアの行動について。ララァを失い、ララァは戻らない。そこでシャアはララァの意思である「わかりあえる人類」「ニュータイプ」を実現することで、ララァとの愛を成就させようというモチベーションで行動していくことになる。初恋が最重要テーマという仮説ですすめるので、ジオン・スム・ダイクンの意思がどいうのというのはここでは建前に過ぎないと捉えておく。
人類をニュータイプに進化させるには全員を宇宙にあげる必要があり、そのためには隕石落としで地球を住めない土地にするしかないというカルトな理屈が生み出される。しかしそれは愛ゆえになのである。”平和より自由より正しさより、君だけが望むすべてだから..” と歌詞にもあるが、シャア(としての富野監督)は初恋を喪失してもなおそれを求め続けるロマンティストなのである。
正直、若い頃はシャアの行動が支離滅裂であると感じていたが、このような解釈をすれば腑に落ちる部分もある。自分の作品世界の中でロマンティストでありつづけるのは作者の自由だ。
もう一方の富野監督の分身であるアムロはどう出たかというと、「貴様ほど急ぎ過ぎもしなければ、人類に絶望もしちゃあいない!」と言い切った。
アムロはララァへの失恋を乗り越えてベルトーチカ(もしくはチェーン)と結ばれている設定で考えると、現実世界で1971年、30歳で結婚されている監督はシャアよりもアムロに近い③の「現実の世界層」の住人である。アムロは失恋した初恋という幻想を追い求めつづけるのではなく、現実をあるがままに受け入れ、今の家族を守るために命をかける「現実の大人」に成長できたとも捉えることができる。
劇中ラストのアムロとシャアの直接対決は、アムロが勝利したという形で描かれた。不思議な力でアクシズの落下の阻止に成功。つまり初恋の成就というシャアの願望をなんとか防いだのである。
・・・しかし、あくまで「防いだ」に過ぎない。
初恋のこじらせはハサウェイに受け継がれた
『逆襲のシャア』で失恋に決着がつけられたかのように見えたが、そうはならなかった。
アムロの最期をもってしても、初恋の失恋という富野監督の「原典」の書き換えにまでは成功しておらず、その怨念はより純度を高め、より明確な形で『閃光のハサウェイ』のハサウェイ・ノアに受け継がれたといえる。
初恋のクエス・パラヤを失った(殺めた)ハサウェイ・ノアというド直球の主人公設定。結局、閃光のハサウェイを書いた時点での富野監督は、初恋の相手を諦めきれないロマンティストのままだったのである。
この初恋の怨念とどう向き合い、どう決着していくかこそが『閃光のハサウェイ』のテーマであると考える。
今作でハサウェイは、生き延びることができるか
ようやく本論である。
ここまでお付き合いいただいたみなさんなら、ハサウェイ・ノアを富野監督の中にある初恋の相手への想いのエネルギーの塊であると見なすことにもご納得いただけると思う。
そのエネルギーは御しがたく、作中世界ではみ出しもののテロリスト、そして英雄として大暴れしている。
小説版のハサウェイにおいて、富野監督がどうやってこのどうしようもない恋煩いを克服させたのか。
それはご存知の通りであり「死刑」であった。
ブライト・ノアという「現実」が、ハサウェイ=監督自身の初恋へのエネルギーの塊を抹消するという決着のつけかたである。
それで物語は終わらせることができたかもしれないが、本当の課題は解決したといえるだろうか。
なぜ小説版ハサウェイが鬱エンディングなのか。それは主人公が父に殺されるとかではなく、富野監督の本来のテーマであろう「初恋の成就」としっかり対峙せず、またも解決が見出せなかったからである。そんなことで富野監督の初恋の執念が消えるわけがないのである。
富野ループから解脱するためには、初恋と失恋は正しく乗り越えられなければならない。
ロマンティックな想いを処刑してなかったことにする・・・とかではなく、今作においては初恋・失恋としっかりと向き合った新しい成就が模索されるべきである。富野監督の初失恋の整理の仕方に、ハサウェイの運命がかかってる。
製作者がテーゼ(初恋・理想)とアンチテーゼ(失恋・事実)の対立のみで思考停止せず、ジンテーゼへと進めるかが試されているように思う。
例えばだが、ハサウェイがギギと”真の初恋”に落ち、今度はケネスのような相手に奪われずに”初恋”を成就させる、という手があるかもしれない。ただ劇中でとにかくよく喋るギギもまた富野監督の分身である可能性があり、その場合はあまりくっつけない方がよい気もする。
もしくは、クエスへの想いを成就させるため、つまり全人類のニュータイプ化を実現させるために、地球粛清ではない方法、ジンテーゼを見出すといったことでも決着できるかもしれない。それは人類が地上にいながらニュータイプ化することができる(地球上の人類はνガンダムの機体から突如として発せられた“虹色の光”を見ているから)とか、そういったご都合的な決着のさせ方でもかまわない。
小説版からはすでに30年が経過している。
富野監督と作家陣の進化と知恵に期待したい。
補足
そんな記憶ベースの考察をずらずらと書いてしまいましたが、映画は映像にかなり力が入っていて、思ったよりも面白かったです。
反乱軍の巨大な基地が見つからない理由とか、海の描写のリアリティが場面場面でチグハグだったりとか、アムロやカミーユのような感情移入できそうな登場人物が全然でてこないとか、そういうところは気になりました。
冒頭15分が先行公開されたものと違っている!? これはやはり小説とは違う世界線で描いていくのか!? みたいなサプライズをちょっと期待してしまいましたがとくにそういうギミックもなく。3作を通じ現代に対してどういうメッセージを込めていくのか、もしくは30年前のものをそのまま描いて終わるのか。楽しんでいきたいと思います。
初代から逆シャアまでは他の作品に比べて「質量」を感じるものがありましたが、今回の作文を通じて失恋への想いという富野監督の内面、魂が入っているかどうかの違いのような気がしてきました。UCを読んだ時に感じた表面的な感じ、軽さは、魂ぬきに表面の設定だけをペロッと辻褄あわせで作られているからかもしれないなと思いました。そんな感想。
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