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主従関係を超えて

毎日、放っておいても常に新しい情報と刺激に晒されている現代において、一つの出来事が世間を賑わせても次の日には次の話題がやってきて、一週間もすれば世間の関心は別の方向に動き出しているこの状況で、皆の関心に残り続ける出来事というのはかなり少ない。
次から次へと祭り事みたいにテレビの中やSNSのタイムラインを賑わしては、それこそ祭りの後みたいにいつの間にかキレイに沈静化されている。

あのKaoRiさんによるアラーキーの告発記事もその一つかもしれない。
本人達や本気で共感した人達にとってはそれこそまだまだ重要なことだと思うけど、やはり世間はもう次の話題に移っているという空気が見える。
今になってこの件について書くのは今のスピードからしてずいぶんのんびりしているのかもしれないけど、どうしても心に引っかかっているので今のうちに言っておきたい。




あの記事を読んで、まず最初に思った素直な感覚は「ショック」というものに近かった。
荒木さんの作品が「男尊女卑」を思わせるものだということは今まで作品を見てきたから理解していたつもりだったけど、それは作品の上でのことであって、その作品の裏にある現実的な生活レベルのどこまでそれが反映されているのかまでは分からなかったから、今回の記事でその一部を見せられたことでやはり何らかのショック、というか衝撃を受けた。


僕は普段から写真をやっているし、荒木さんの作品は学生時代から見てきたから、どうしても「写真」という方向からものを見てしまうということは否定しない。
言い訳がましくそう前置きした上で、今回の記事やそれに対するSNS上に溢れた「アラーキー」に対する批判の数々を見ていると、勘違いというか、自分が受け取ったものとは違う方向での批判がされていると思った部分もある。
単純な「男と女」や、圧倒的な立場の違いからくる主従関係とは違う、もう少し根本的な、写真というものが持つ性質や荒木さんの作品に隠されている本質的な部分で、少し認識がズレているんじゃないかといったことろが二つあった。





まず一つは、今回の記事の中でも告発されていたように、
荒木さんがKaoRiさんのことを「ミューズ」と呼んで、あたかも私生活からお互いがどこかで秘密を見せ隠れする恋人(荒木さんの呼び方でいうと「コイジン」)関係にあったというようなことをメディアの前で公表していたが、実はそれが「FAKE」でしかなく、作りものだったということが暴かれた!とされている点。
確かに今回の告発によって、世間の人が知る由もなかった二人だけのやり取りの一部が公開されたわけで、今までそれは二人にしか知り得ることのなかった関係が明るみになったことによって荒木さんの別の顔が暴かれたことは事実であり、あの記事が本当ならそれを肯定することはできない。そして、作品が「FAKE」であることも否定できない。

でも、荒木さんの作品を今まで注意深く見てきた人ならもう気付いていたことだと思うけど、アラーキーの作品はもともと「FAKE」を孕んでいたし、それを前提で作られていたはずだ。
荒木さんの作品を語るときに必ずでてくる「私写真」というワードを聞くと、それがあたかも完全なドキュメンタリーで、嘘偽りのない生の記録だというノンフィクション性が想像されるけど、その認識をそのまま受け取ってしまうと「FAKE」が悪いこととなってしまう。
けれど、アラーキーの作品はもともと「FAKE」であり、それを完全なノンフィクションとしてそのまま受け取って、作品の中の「関係」がすべてである!とするのは作品の裏にあるメッセージとは少し違うと思う。
ドキュメンタリーだってそもそも「FAKE」だ。

だから今回の騒動でSNS上に「作品の仮面がはがされた」「今までのように純粋な欲望を描いたものとして見ることができない」というような批判があったけれど、そう受け取ることこそ、結果的にアラーキーが仕掛けた狙いにまさにハマってしまった状態ではないだろうか。
そして、そもそも本人もそれを分かってて今まで作ってきたんじゃないだろうかと思う。あれほど写真のことばかり考えている人だから、確実にその辺も考えてつくられているはずだ。

荒木さんが作る世界観は、生々しくて、見ているとつい現実世界の隠された世界をナマで目撃してしまった気がするけど、実際にあんな状況になることはフツーの生活ではないし、「センチメンタルな旅」だってセッティングして撮られただろうという写真がいくつもある。ほんとうのところは分からないけど。
他にも荒木さんの作品には日付入りのスナップ写真がたくさんあって、去年開催された「センチメンタルな旅 1971-2017」の展覧会でも日付入りの写真が時系列そのままに展示されていたけど、あれも日付がほんとうにそのまま撮られたものか観ているこちらは分からない。中には同じシチュエーションなんじゃないか?と思われる写真が違う日付で離れて展示されているものもあった。

しかし、観ているこちらにはそれが本当かどうか知るすべがないのだ。
というより、知る必要もない。
本当かどうかに関わらず、それが「本当に見えてしまう」というところに、写真が持つ(写真に限らずドキュメンタリーがもつ)「FAKE」性の力がある。
そしてそれこそが荒木さんの写真の本質の一つではないかと思っている。
だから、今回の騒動で図らずもそれが確かなものとして実証されてしまったことになるし、KaoRiさんが告発の中で「荒木さんの作品が今、より深く理解できるようになりました。」と言っていたことの一部はそういうことだったんじゃないかと思います。




もう一つは、今回の騒動で一番問題視されている部分であり、今回の騒動の本質的な部分で、権力や立場の違いで弱い立場にある人物が抑圧されて長年追い詰められる状況が存在した。ということ。
その部分から飛び火して、アラーキーの作品自体が持つ「男尊女卑」性が問題視されていた。「なんであんな下品で抑圧的な作品が評価されているんだ」と。

この部分も、実はアラーキーの作品に隠された本質的な部分に触れていたと思う。
なぜなら、写真はそもそも「主従関係」の上に成り立っているから。
写真を撮るという行為は、その対象との間に「撮る/撮られる」という主従関係を作る性質が本質的にある。
それは、写真が持つ暴力性だし、写真が持つ権力性でもある。
しかも、写真に限らずあらゆる世界で「男尊女卑」の力は長い間歴史に組み込まれてきた。だから、その「撮る/撮られる」という権力関係に対してセルフポートレイトで対抗したり、逆に男性を暴力的なほど生々しく撮るなど、様々なアプローチでそれを転覆させようと表現してきた女性の写真家もたくさんいる。

そして荒木さんはもともと、この写真がもつ「暴力性」、主従関係を作ってしまう「権力性」を意識して作品を作っていたはずだ。
それは作品を見れば分かる。
今回の騒動で荒木さんに本人に限らず、その作品を指して「権力性」に対する批判が数多くみられたけど、実際の現実世界にはそういった権力関係や抑圧性というのはあらゆる所に存在しているし、どんなにクリーンに語ろうとそれが必ず消えない。どこにいっても、いつの時代の存在していたものだ。そして今もこれからも。
そういった本質的なのに隠されている秘密な部分こそを、写真を使って暴いてやろう。というのがアラーキーの作品であるはずだ。
だから、アラーキーの作品に対して「抑圧的だ」「男尊女卑がすぎる」という批判は、荒木さん本人も分かってやっていることで、まさにそれこそが狙いだ。

女性を縛ったり、撮影者と被写体となるものとの間にある主従的な「関係性」というものが、そもそも写真が持つ本質をそのまま表現するものとしてのメタファーになっている。
そしてそれは、現実の世界が常に孕んでいるこの世の中すべての矛盾であり、その関係性とそのまま繋がっている。どんな綺麗事をいっても、現実にはそういう力関係は存在しているのだから。
それをまさに作品によって体現することで、世界の本質が見えてくるからアラーキーの作品は世界で評価されていたのではないかと思う。
だから、今回の騒動で世間が作品の批判をしたことで、批判をした本人達の思いもよらないところで、アラーキーの作品の本質がまさに表に飛び出してきたという結果になったんじゃないだろうかと思う。




これまで、今回の騒動について勝手に写真の側から語ってきたし、勝手に「アラーキー」の作品について語ってきたわけだけど、
冒頭でも話したように、僕は少なからずショックを受けた。
それは、作品のなかだけのフィクションだと思っていた関係性が、生活レベルの深いところにまで入り込んでいた事実に対してのショックだった。

今までの作品を見て、テレビや雑誌などのメディア上の荒木さん本人の振る舞いをみていて、作品の中にあるような主従関係は実はフェイクで、モデルさん達との関係も写真の中のような関係性ではないのではないか。とどこか信じていた。
でも、実際にあの記事が本当かどうか僕たち世間の人間には確かめることはできないが、あの告発記事にある通りの関係性だとしたら、やはり僕はショックだし、その部分を肯定しようとは思わない。

どんな作品であれ、不幸な人間が生まれてしまう表現が、存在していい理由はないからだ。そして、どんな作品や表現からも、人は不幸になるべきではない、と信じている。綺麗事と何といわれようと、人を直接的に不幸にすることは芸術家がやることではないだろう。


そして、今回勇気を出して告発記事を書いたKaoRiさんの人生はこれからも続いていく。
過去をすべて背負って生きていく。という次への一歩への覚悟が感じられたから、もしKaoRiさんにまだ何かを表現しようという気持ちがあるのなら、ぜひ表現でこういう権力関係や「力」というものに対しての答えや問いかけを世間にしていってほしいなと思う。
表現じゃなくても、文字で戦うことだってできるし実際たくさんの人が動かされた。
時代はすぐに流れていってしまうから、信じているものがあるのなら、これからもどうか声を上げ続けていってほしい。




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