写真をするということ 1

写真がこれほど撮られている時代はかつてなかった。

スマートフォンにこれほど高性能なカメラがデフォルトでついているから、もはや誰でもカメラを持っているしいつでも写真を撮っている。
一眼レフも少し余裕があれば誰でも手に入れられるような嗜好品になった。

インスタグラムなど、SNSに日々世界中の写真がインターネット上に集積されてどこからでもアクセスできる。
膨大すぎるイメージの氾濫具合を見れば、もうすべてのイメージは出尽くしてしまったんじゃないかと思うほど。
毎日毎日写真や動画といった形で世界中から新しくコレクションが増え続ける。

おそらく歴史上一番の写真全盛期。
おそらくこれからも形を変えながら加速していくと思う。

今のような状況は写真にとっては素晴らしいことだ。
昨日言ったことと矛盾するところもあるけど、自分の見た世界をカメラを通して画像にし、それを一ヶ所に集約して世界中不特定多数の人達に見せることができて、言葉でも自由にアクセスできるようなかつては夢のような今の環境は、歓迎するべきこと以外のなにものでもない。

こんな状況だから今更こんなことを言う必要はないのかもしれないけど、あえて言う。
みんなカメラを持ち続けよう。

写真をやっていてよかったなと思うことがたくさんある。
大げさだけど全然大げさではではなく、人生を少し豊かにしてくれるもの。
そして写真はコレクションではないということ。生きている時間そのものが写真になる可能性があるし、カメラというものがあるからこそそれができる。
だって写真は少し指先に力を入れればいいだけだ。

すべてを伝えようとするとここには書ききれないし、たぶんつまらない話にもなるだろうから今日は一つ写真についての話をします。
これからも少しづつ伝えていきたいです。
今日は特に、
「カメラを常に身体と一緒に持ち歩く」ということについて。
これこそが僕が写真をやっていて一番素晴らしいと思うことです。



見過ごしてきた世界に少しだけ気付くことができる

人は生きながら常に情報を選択しながら生きている。
目の前の視覚的な情報も、自分の目的や意識に従ってあらゆる情報から必要な情報を抽出して認識している。
普段、朝通勤する時、友人との待ち合わせ場所に移動する時、お店や会社など目的の場所に向かう時、なんとなく散歩している時でさえも、
基本的には人には「目的」があって動いていることが多い。
そういう時には、それ以外の必要のない情報は視覚からも認識からも排除されてなかったことにされている。概念的にも。

でも、その時そこにあった世界の中には他にも「認識できたかもしれない可能性」や事実がたくさんあって、たしかにそこに存在はしていたはず。
人知れず、というより人に見られることなど全く関係なくただそこに「ある」という事実のような世界も存在していたはず。
こちらが認識していた世界があるとすればそれは「自然」と言っていいような空間の世界。

それは、なにものかに見られることを意識しているようなものではなくで、
いつでもそこらじゅうに存在しているような、そのままのかたち。

この「自然」の側にある世界は、フツーに生きているとすぐに見過ごしてしまう。
人はやっぱり目的が必要みたいだから、それ以外のことは基本的には必要のないもの。
だから見られない世界や瞬間は、今この時でも無限に存在している。

この「無数に存在するけど誰からも見られなかった世界」っていうものを、捉えきるのは絶対に不可能だけど、カメラを持っていることでその可能性を少しだけ広げることができる。
カメラを常に持って写真を撮ることを意識するだけで、世界が少しだけ広がる。

目的の為に動いていた時間の中に、少し「無駄」ができる。
この無駄の中に豊かさがほんとうにいっぱい詰まってる。

少し概念的な話になってしまったけど、ただ写真を撮る為にいつもより無駄に周りを注意深く見つめるだけで、
それまで気づかなかった世界がたくさんあることに驚くはず。

朝の通勤や通学で使う道に人知れず生えている草や花。
雨の日に濡れて偶然できた壁の面白いかたち。
偶然通りかかった車のボンネットが反射して見せる眩しい光。
街の配置、人の配置、その偶然の配置。
ごみの日だけに見せる路地に高く積み上がったゴミ山の景色、いつも違う形。
グラスの底に結露した水たまり、そこに入る水。
前を歩く人の服のしわ。垂れるイヤホンのコード。
旅先で見た景色の隅っこ、溶けた氷の水。汚い猫がなめている。
風に流れて逆立った髪の毛、そこから見える耳。

なんでもいい。
見ているようで見ていない世界。
目的だけで忙しくて、合理的に生きていこうとするとなかなか見えない景色。

子供の時、夏場の公園で一時間でもアリの行列を見ていられた。時々葉っぱでその行進を邪魔したりしながら。
冬に結露した窓の水が落ちていく道が不思議でずっと見ていた。ボートレースの動きみたいだなと思っていた。
川の水から逸れて石にぶつかってそれを濡らすだけの水がいた。あいつは海まで辿り着くという目的を果たせず、あそこで蒸発して雲になるんだと考えたら切なくなった。
口に運ぼうとしてあやまって落としたアイス。少しずつ溶けて液体になって流れ出す。別に悪かないけど、なんとなくごめんなって心の中で謝る。
部屋の中で、西日にゆれてるカーテン。すべてを包みこまれるような安心感と、休みが終わってしまうということへの切ない気持ち。いつもカラスとコウモリが飛んでいた。


子供の時にはみんな見えていたはずなんだ。
いつからか分かったつもりになって、見なくなったものがたくさんある。
目的の為に動くなかで、必要がないと判断されたものがたくさんある。

でも、カメラを手にすることでもう一度あの時の世界の見方を少しだけ取り戻すことができる。それは嬉しいこと。
それはきっと豊かなことだと思う。

写真家として生きていこうとすると、純粋に撮ることばかりではなくなる。
半径5メートルの世界を見つめていればいいということでもなくなる。
でも、あの子供の時見ていた世界は今とは違う意味で間違いなく豊かな世界だった。

写真をすすめるとみんな揃っていうのが
「何を撮ればいいのか分からない。」
分からないままでいい。何も考える必要はない。
まずは自分の普段通りの生活の中で、少しだけ余分に時間を持つ。
その無駄な時間の中で、いつもより少し広げて目の前を見てほしい。
あとはシャッターのボタンをただ押すだけでいい。(つまらなかったら、消せばいい。)

そうすれば、あなただけが見た現実がそこにあるしそれは人に見せることだってできる。素晴らしいことだよね。

僕はそういう写真がもっと見たいし、もっと撮りたい。


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