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無数の当事者

一昨日まで3日間栃木にいましたが、時間と主に気力がなく更新できませんでした。

3年間毎日更新する。といいながら新年始まって一ヶ月目でこの調子だから先が危ぶまれますが、こういう時はもう極力気にしないことにしている。

もちろん自分に「毎日続けるということ」をやるべきこととして設定して、毎日のモチベーションや心の支えになるようなことを一つでも持っておこうという防衛線を張っている部分はあるのだけど、
これに固執しすぎるとできなかった時の罪悪感や自己嫌悪の方で意識や心が染まってしまって、
そもそもの「続ける」という部分を失いかねないから、できなかった自分に固執しすぎない。

目標を立てた時のその目標は理想だけど、
その先にさらに大きな射程の目標がある場合、
その「できなかったこと」に執着しすぎるとそもそもの目標すらも見失ってしまうことがよくある。

目標は大きめに設定した方がいいのは自明だけど、
自分を責めやすい人に関してはそれを達成する途中の頓挫に関しては気にし過ぎぎてはいけない。
身動きすらとれなくなるくらいモチベーションを失うこともあるから。
それならそもそもの目標を設定した時に考えた大切な芯がブレずに妥協しながら続けて進み続ける方が賢明だ。




栃木はその3日間も夜から朝にかけて雪が降っていた。
40年ぶりの寒波らしく、東京でも4日前は20cmの雪が積もって、いつもの東京とは違う街の顔を見せていた。

関東で雪が積もるのも珍しいことだからみんな写真撮っているだろう、
自分が見れなかった場所はどんなもんだろうとSNSでここ数日の雪の東京の写真を漁っていたんだけど、
この写真達がどれもほんとに素晴らしい。

特に、Twitterでも拡散しまくっている多摩川の写真が見たこともない東京の風景だった。
雪に覆われた多摩川が朝焼けで靄がかかって、霧状の川が流れていた。
その奥に見えるまだ起きたばかりの東京のビル群。
その中心を分断するように走る鉄道橋。
誰が見ても美しい、いい写真。


この写真を見た時、素直に感動すると同時に複雑な思いがあった。
もう「当事者」に誰もがなれるし、それをひとつの場所に集められるような空間も用意されている。

ほとんどの人がスマートフォンを常に持っている時代に、いつでも誰でも高画質でキレイな写真が簡単に撮れるようになった。
だから、この世界中で誰かが見ている景色はいつでもそこに偶然居合わせた人が、
その目の前の光景を写真に撮れるチャンスは飛躍的にあがった。

写真はもともと「偶然性」の力が高いメディアで、
今まで写真家達はその目の前の出来事が起こった時、そこに居合わせた人として皆の目の代表としてそれをいつでも見れる形として提示する役割を担っていた。
もちろんそれだけじゃなくいろんな表現があったけど、
そこに写る出来事が起きるその瞬間に、その前に立っていた「当事者」としての写真家の役割があった。
だからいつでもカメラを持っていたし、少しでも取り逃がすまいと世界中でいろんな人が膨大にシャッターをきり続けてきた。

しかし、今の時代はその「当事者」に誰もがなれる。
どんな出来事が起こったとしてもそこにいる人が一番早く反応できるし、偶然の傑作が生まれるような瞬間でもそこにたまたまいた人しか撮れないような写真が無数に出てくるだろう。
それが本気で写真をやっている人でなくてもそこにいれば写真家よりもいい写真を撮ることができるし、たとえたまたま居合わせたという理由で撮れただけでその数が1枚でも、無数の人の傑作がSNSなどのインターネット上の空間に集まることでその数は膨大な集合で見ることもできる。


多摩川があんなことになっていたなんて、あの写真が投稿されるまで知る由もなかったし、あの俯瞰で撮れるような場所がどこにあるのかも分からない。
それはたまたまあの瞬間にあの場所に居た人しか見れない風景。

写真家が一生をかけていくら撮りまくったところでこの世界の瞬間を撮り尽くすことは不可能で、
それは今や偶然そこにいた無数の人の中の一人が世界中に発信するというそのことに取って代わられたし、がんばってもまず敵わないだろう。
かつては警察無線を傍受して、事件の起こった現場にいち早く駆けつけてそのリアルを撮るウィージーという写真家もいたけれど、
それは今や無名の大衆がその役割をほっといても勝手にやってくれている。


「いい写真」という定義が曖昧だけど、
いわゆる「決定的瞬間」という意味での写真は間違いなくそこら中にいる当事者的な大衆の方が圧倒的に勝っている。
そこを突き詰めることにもう役割は残されていないんじゃないかと思ってしまう。

そんな時代の状況の中で、写真家の役割はあるんだろうか。
おそらく別の場所にあると思う。
それは、見慣れた社会の日常を別の見方で考えさせることができるようなものでなければならない。

人はあまりに慣れすぎてしまうとそのものを意識しなくなって、見なくなる。
それは単なる「情報」に置き換えられて頭の中で整理されたものとして必要な時にしかその中から出てくることはない。
でも、社会とか自然っていうのはもっと複雑な顔をもっているし、
一方通行で見ることは時に危険だったりする。

世界はもっと矛盾だらけだし、生に満ち溢れているものだし、現実は整理されていくけど整理しきれずこぼれてしまったもので溢れているし、隠された哀しみみたいなものもある。
そういう「見えないもの」(見ようとしていないもの)をすくい取ることができるのが、
同じことをずっとしつこくやり続けていく人間の力だと思っている。

写真は現実の目の前の実体がなければできないからこそ、その「見えずに隠されているもの」をもう一度提示することができる。
だから強いと思う。

撮るものはなんでもいい。
ただ、知らず知らずのうちにガチガチに固まってしまったその慣れた普通が、
突然違和感になるようなそういうものが作りたい。

撮っていてもよく掴めないけど、とにかくただただ撮るしかない。
しつこいのが写真家。



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