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ギターを弾く人

ショートショート 750文字

 仙人みたいな髭のじいさんが芝生の上に胡坐をかいてバイオリンを弾いていた。高音を弾くときに弓が体に当たらぬように、器用に体をくねらせて弾く姿は蛇のようだ。
 その妙なじいさんのいる大きな広場の端にベンチを見つけ、俺は煙草に火をつけた。火をつけてからここは禁煙かもしれないと思ったがあたりに看板などは見えない。そうだったとしても、もうすぐ日付が変わる頃だし勘弁してれと願った。
 疲れ切っていた。星一つ見えない空だったが、こんなに広い空を見るのは久しぶりだった。今日、いや今週になって初めて一息つけた気がする。トラブルが重なって山積になった仕事は何一つ解決していないが、とりあえず明日からの週末はゆっくりできる。
 続けて二本目に火をつけたとき、ギターケースを背負った中年の男が歩いてきて別のベンチで練習を始めた。その男がギターのチューニングをしているのをぼんやり見ていると、その後ろの暗がりの中、植え込みの石垣に座るカップルが見えた。
 大分若い、大学生くらいに見える。女のほうが男の上にまたがってしきりに口づけを交わしていた。が、着衣に乱れはないようだ。お互いの体に手を伸ばすわけでもなく、ただただ抱擁と接吻を繰り返していた。
 俺はその光景に見惚れてしまった。出歯亀をしたかった訳ではない、と思う。少なくとも今までそういう趣向に思い当たったことは一度もない。ただ笑顔で見つめあい、口づけを続ける若い二人が神々しく見えたのだ。二人は生きる喜びに満ち溢れているようで、暗がりの中にあって金色に輝くクリムトの絵画を思い起こさせた。

 やがて男がギターを弾き始めた。俺より少し上の世代の間で流行ったフォークソングだった。上手くはないが悪くもない。
 もう一度空を見上げた。音楽が流れ、風が吹いた。
 煙草の煙の奥で、星が瞬いた気がした。

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