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微笑み

席を揺らす振動で舌を噛まないように気をつけながら私はサンドイッチを頬張る。
サンドイッチは早朝冷蔵庫を開けた中にあったものだ。その冷蔵庫は今はもう遠くにある。
車窓から見えるのは以前として赤茶けた大地とまばらに生えた植物だけだ。車窓からは間断なく土の匂いを運ぶ風が送り込まれて肌を打つ。それらを背景にして隣の座席には甲子が座っている。ステアリングの下半分にしか届かない短い腕で舵をとり、下半身を座席に埋めるように傾けてアクセルを踏んでいる。まだ幼い私達にとって車の運転は常時柔軟体操を行っているのと同じで、一時間前運転を代わったのにまだ足腰の痛みがとれていない。
「女神様にはもう伝わっていると思う?」
甲子は答えず、延々と続いていく道に目を据えている。
まだ小さい頃、「女神様」という言葉は単なる音の連なりでしかなかった。
それが意味を持ち始めたのは、丙果姉さんが女神様のところから帰ってきたあとだ。
私達の大好きだった丙果姉さん。
しょっちゅうちょっかいをかけてきて、喧嘩することも多かった。けれど、姉さんの底抜けの明るさは今思えば重苦しい暗さに満ち満ちていたあの村で、私達が生きていく希望になっていた。他の十四歳の子供と一緒に女神様のところに仕えにいって、あんなに変わり果てた(父さんと母さんはそんなことないって言っていたけれど)姿になってから、姉さんの存在の大きさに気づくなんて、私達はなんて鈍感だったのだろう。
「都に行こう」
丙果姉さんが帰ってきたその晩、甲子は寝床で囁いた。
「そして、女神のこと、村のことを誰かに伝えよう」
車体が大きく揺れる。
両親はもう目覚めているだろう。そして、引っ掻き回された倉庫や台所、空になった車庫を眺めていることだろう。村のことを想像すると、不安が増し、その不安は声になって漏れ出てしまう。
「ねえ女神様には」
「『様』ってつけなくていいでしょ。もう」
不意に風が止んだ。
「甲子、前!」
ブレーキが踏まれ、体が前のめりになる。
突然道路に立ち込めた土煙は、みるみる凝集していき、一人の人間の形をとった。私達の動きを止めていた感情の大部分は恐怖だった。けれども、私達はその光景に魅入っていたこともまた、事実だった。
すらりとした四肢と長い髪の中、塵で作られたものとは思えないような精巧な瞳が私達の瞳を射抜いたかと思うと、にっこりと微笑んだ。
その笑顔は一、二秒にも満たない間投げかけられただけだったが、私達の脳裏にその存在を焼きつけるには十分だった。
途端、彫像が真顔になったかと思うと像を構成していた塵は四方に散っていき、あとには道が残された。
私達は互いに顔を見合わせ、互いの瞳の中に怯えた表情を浮かべた自分たちの姿を認めた。
背後の音に首を傾けると、遠方の空には暗雲が立ち込めていた。
稲光が鳴った。



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