見出し画像

まる、せいかく、あかく、

 貴方が誰か、僕は一生知らないのだと思う。
 まるで手紙のように書き記されたそれに、皆沼は首を傾げるしか出来なかった。貴方、それが指すものの定義から始めなくてはいけない。これが例えば手紙であったのなら、その貴方は間違いようもなく皆沼のことだろう。手紙、とはそういうものだった。誤配、というのが起こらなければ、の話ではあったが。びゅお、と風が吹いていく。しかしながらこれは手紙ではない。寂れたホームの、それでも利用する人間がそこそこいるから未だ現役であるホームの、落書きだった。誰かの落書いたものにしては妙に整った文字列ではあったが、それでも落書きは落書きだった。勝手に、公共物にものを書く行為。それはあれこれ問わず基本的には落書きだ。それがどれほど美しかろうと、落書きは落書きだった。社会的に価値のないもの。皆沼が、大した音もしないホームにこうやって佇んでいるように。
 本当であればもうずっと前に追い出されているはずだった。いつもチカチカと煩い電灯だって消え、お飾りの車掌もおらず、車輪はシン、と静まり返っている。ただただ走るために生まれてきたはずのそれらは、すべて死んでいるようだった。草木も眠る丑三つ時はもう過ぎてしまったから、それでも静かなのはやっぱり死んでいるのだろう、と思う。貴方、冒頭の文章に戻る。落書きに戻る。静かに死んでいる世界で、その文章だけが異様に生きている。貴方、というのは誰なのだろうか、これを書いた人間にとって、貴方に該当するたった一人、というのはいたのだろうか。それとも、誰でもない誰か、という意味での貴方、なのだろうか。そうであれば、確かにこれを書いた人間にとって、それを誰か一生知れない、というのも分からなくもない。こんな寂れた駅だ、もしこれを書いたのが此処を毎日利用するような人間ではなく、ただ只管居場所を探してまわるような旅人であったのなら。此処にもう二度と訪れない予感がもとよりあったのであれば、それは一生知らない、という予測を立てても致し方あるまい。
 しかし、と息を吐く。もう風は収まったようだった。案外つまらないものだ。こんな時間なのだから、それくらいあったとて良いだろうに。皆沼の息だけが、侘びしく消えていく。何処でもない何処かへ、消えていく。誰でもない誰か、が一体誰なのか知ることは出来ないように。首を振る。何かが違う、と思った。車輪の軋む音がする。夜の軋む音がする。空が割れていく。一生知らない、なんてそんな予測はそう簡単に出来るものじゃあない。この時代、便利で何処へだって行けるのだ。それでいて一生、なんて旅人だったとしても言わないだろう。それこそ、別の国、でもない限り。しかしこれはどう見たってこの国の言葉だったし、たどたどしさだって感じなかったし、落書きと呼ぶには美しすぎて、吐き気がするくらいだった。ならば、やはりこれは手紙なのだろう、と思う。手紙、だったのだろう。本来は此処にあるべきではないが、それでも此処にしかあれなかった手紙。あの白い手袋から転げ落ちた言葉の残骸。
 急に、目の前が眩しくなった。影が二つ、切符を渡している。箱に入れられた切符はもうお役御免、二度と蘇ることはない。
 たん、と右足がホームを踏む。削れた点字ブロックの黄色が、それを際立たせている。
「おかえり」
口から言葉が出て行った。するり、とそう言うことが最初から決まってきたみたいに。
「―――、」
 その名前を、皆沼はずっと前から知っていた。
 でもそれだけで、だからやはりあの〝貴方〟というのは誤配だったのだと、そんなことだけ脳の片隅で思った。

 もう、朝が来ることは分かりきっていた。

ものすごく自分の作品の説明とか宣伝をするのが苦手なのでもういっそ宣伝代わりになんか書こうと思った。ので試運転。

午前三時の終電車
https://nikumaru-shobou.booth.pm/items/471332

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?