花寺のどかは正しかったのか/ヒーリングっど♡プリキュアについて
・今さらながらの前置き
『トロピカル〜ジュ!プリキュア』が放送して約半年、トロピカる部を設立しまさかの部活もの特化で学校と地元を駆け巡る!ギャグ描写が多めながらも所々でプリキュアシリーズが培ってきた繊細な優しさを描いたり妖精くるるんがなんにもしなかったりと大賑わい!この記事を書いてる内にローラに脚が生えてさらなるエンジョイな常夏が発生する中、俺は未だ頭の中に残り続ける存在があった。
『ヒーリングっど♡プリキュア』だ。
別に前作が好きすぎて終わってしまったことによる喪失感(いわばプリロス)に囚われてる訳ではない。自分は割とそれはそれ、これはこれで楽しむドライな人間なんだけど、それならばなんでだ、まさかアレかと言われたらそうである。42話「のどかの選択!守らなきゃいけないもの」。ラスト4話にて書かれた話は話題騒然になった。端的に言えばプリキュアが苦しんでる敵を助けない選択をしたのである。
プリキュアといえば敵との理解共感による和解のドラマ、実際積み重ねたシリーズものとして「お決まり」のような風潮はあったと思う。しかしキュアグレースである花寺のどかは、ビョーゲンズの幹部テラビョーゲンであるダルイゼンが苦しみ己に助けを求める事を明確に拒否した。
「助けてくれ…」
「私はやっぱり、あなたを助ける気にはなれない!」
助けない選択をしたプリキュア。「最近ずっと敵と和解ばっかして食傷気味だったからスカッとした」だの「もっと語り合いとかドラマ発生すると思ったら一方的殴打で肩透かしだな」だの声が湧いたし、さらには敵とはいえ実質見殺しのようなもんにしたのはプリキュアとして間違ってると激しい怒りを覚えた人もいたし、さらにさらには彼女の選択が女性に社会的立場としてたいへん正しいと褒めそやす記事も書かれていた(そんな揉めに揉めた中で新番組予告としてマンホールから出てくる人魚の心境はいかほどだったろうか…)
自分も「とはいってもダルイゼンくん顔が良くて人気キャラだったし、この後にGoプリのクローズさんみたいに最終回でキュアグレースとのファイナルバトルでもすんでしょ」みたいに捉えてたがそんなことなかった。無慈悲にキングビョーゲンに吸収されて彼の意識は消滅し出番は終わり。残った幹部シンドイーネと彼を吸収しさらに強くなったネオ・キングビョーゲンとの文字通り命を賭けた最終決戦。そして必死の想いで倒しきったエピローグ。優しき人々。パートナーとアスミんの別れ。そして再会。すあま。一応は最終回恒例のキャラデザ担当による感謝の一枚絵にて他幹部と共にナノビョーゲン化して描かれてたけど本編にはこれ以降まっっったく出なかった。ウソでしょ!?と俺の声は出た。
そんな終わりで幕を下ろし次回から一年中こころはSUMMERでトロピカっちゃう新番組がスタートした。しかし未だにこの彼女の処遇に対し納得いかんと延々と声を上げ続ける者も一定数いる。こういうネガティブなことばっか見てるとガチで体調が悪くなる(経験アリ)から聞く耳持たずで流してもよかったのだが、それが通り抜ける内にどうしても自分も思う所があるという部分が存在するという認識に気付いた。
実を言うとこれまでのプリキュアシリーズにも何度かそういう釈然としない部分を抱いてしまったという経験はあったりする。そして自分はそういうのが発生した際には……これまでの話を振り返るのだ。そうすることで新たな発見、当時は気づけなかった心情、そして「なぜそのような行動を、選択をしたのか」という喉につっかかった小骨のような部分に対しての“解答”を見つけられるからだ。
そして今回も『ヒーリングっど♡プリキュア』を振り返った際に「あること」に気付き自分なりに腑に落ちたことができたのだ。やはり分からないで終わってしまうのは俺の好みじゃない
ということでここに自分の見解として、備忘録として、そして誰かの解答になるかもしれないとして明記しておく……のだが注意点がひとつ、今回気付きを得た「あること」については『映画ヒーリングっど♡プリキュア ゆめのまちでキュン!っとGoGo!大変身』を鑑賞してる上で語らねばならない部分が存在するのだ。放映から暫く経過しいつもなら「とはいってもこの記事を読んでる人で映画を劇場で見てない人はいないと思いますが…」なんてしょうもない冗談を交えるのだが、今回は情勢が情勢で見れなかった人もいるだろう。その悔しさを慮るべきである。もしネタバレとか考えてしまうならば7月21日に発売したDVD/Blu-rayを買ったり、それと同時に始まるレンタルで是非とも鑑賞してほしい
脱線しそうになったがこれから話していきましょう。今回も……長くなりそうだ
・『ヒーリングっど♡プリキュア』の“助ける”とは
では「あること」について言及する前に、まず最初に自分がいろんな意見を見て気付いた“思う所”について話そう。
42話でののどかの助けない選択に対して否定的な意見を述べる方は「あれだけいろんな人を助けてきた娘が彼だけ助けないのは行動に一貫性が無いのではないか」という声が多かった。いやそりゃダルイゼンがのどかにしてきた仕打ちを棚に上げてよくもこんなこと言えるなと怒る方はいると思うが抑えてほしい。大切なのはこの「プリキュアが助ける」という部分なのだ。自分はその“助ける”という所においてこう思っていた…
そもそもヒープリってそんな“助ける”要素が強かったっけ?
「こいつ何を見てたんだ……?」みたいに思うかもしれないがいや実際そう思ったんだもん。だってプリキュアで“助ける”となると敵と交流してドラマが発生してなんやかんやで分かり合って敵組織脱退みたいな話になるし。それこそ上で挙げた『フレッシュプリキュア!』のイースとラブちゃんの話とかだったり、それ以外だと『HUGっと!プリキュア』全般あたりが真っ先にそういう“助ける”パートが強い作品だなと個人的に思い浮かべる。
でも『ヒーリングっど♡プリキュア』ってそういう敵との親睦を築くようなドラマがあったか?敵とのドラマはそれこそ決して分かり合えない相反する存在との殺伐な因縁だし…じゃあ彼女たちの“助ける”ってなんだ?キャッチコピーにあった「地球をお手当て」ってなんだ?と考えたら“答え”がおもいっきし本編に出てたじゃないか。
ビョーゲンズとの戦闘そのものじゃないか。
ナノビョーゲンに感染し蝕まれメガビョーゲンやギガビョーゲンの媒体にされてしまったエレメントさんや人間、その発生を機に敏感に苦しむラテ様、そして地球そのもの……地球に害なす存在を浄化という形で撃退し、生命の危機に晒される彼ら彼女らを護り救う。それこそがヒーリングアニマルの、ひいてはヒーリングっどプリキュアの“助ける”。ちゃんと書いてたじゃないか。それならば何故自分がその“助ける”要素に当時は気付かなかったのかも説明つく。これまでのプリキュアシリーズ以上に敵との戦闘=大切な存在を護る行動というのが明確に提示されているから、プリキュア恒例の番組後半の戦闘パートこそがソレなので当たり前に見てたから。な〜るほどそういうことだったか
そんな助ける要素に当時は分からんかったとかじゃあアンタはこの番組に何を感じてたの?と思うかもしれんが、俺はこのヒープリに対してはすこやか市の美しき自然やそこに暮らす住民の優しさ、そして花寺のどかをはじめとしたプリキュア達の等身大の女子中学生の日常を見ていた。(あと小さな妖精たちがキャッキャしてるのも最高だった)
そして最後に挙げた「等身大の女子中学生の日常」だ。ミラクルリープで共演したHUGプリ、そして『スター☆トゥインクルプリキュア』は大人としての憧れで職業体験したり宇宙へ飛んで異星人と交流したりとついワクワクドキドキしちゃう話も多く構成され、そこから様々な人々の立場による悩みや軋轢などに触れ、その問題を前にして成長するといった描写もあり(詳しく語るとすごく長くなるので割愛)最終回では後日談として大人に成長した未来のプリキュア達が出てきた。これはもちろん素晴らしいものなのだが今作は反動かあくまで等身大の女子中学生が出来る範囲でなんとかやりぬこうという気概を感じる描写が多いと感じた。例えば8話「とべないちゆ!?陸上大会大ピンチ!」だと…
他だと放送復帰で印象に残る13話「辞める?辞めない?迷えるひなた!」は…
そしてそんな彼女たちを通じて地球の精霊的存在であるキュアアース・風鈴アスミが人間としての生活の営みを知り……
(画像は1枚目が23話「かわいいってなんですか?アスミと子犬物語」2枚目が26話「びっくり!アスミとラテ日記」より。プリキュアとしての使命以外に「かわいい」と感じた子犬ポチットを護りたいという話と、プリキュアシリーズ初のまったく戦闘しない総集編回でアスミが夏の花火大会を交えつつ日常を楽しむ話だ。全く戦闘しない総集編またやってくんないかな…)
今、自分ができることをやる。その等身大の女子中学生らしさがこのプリキュアにはある。しかし時にはそれゆえにピンチになることも……
護るべき豊かな自然、護るべき暖かき人達、その愛しく素晴らしい命を一方的に踏みにじる悪しき存在から“助ける”ために戦う普通の女の子とその相棒。普通の女の子ゆえに時には完璧な正解へは辿り着けない歯痒さ、それでも今の自分ができることを精一杯やり遂げる等身大の頑張り。それこそが『ヒーリングっど♡プリキュア』なのだなとこの文章を書いて気付いた。こうやって改めて確認し新たな気付きを得れたのでいい機会である。
しかしこの書いたやつは正直に述べると本題である「あること」には完全には届ききっていない。ではその「あること」とは?それを今から本作の主役である花寺のどかを通じて話していこう…
・花寺のどかはなぜ“助ける”のか
さあここからが今回の記事を書くキッカケに至ったパートであります。ここまで今作品のプリキュアの“助ける”についても書いてきたが、となるとこの部分から避けて通れない。そう、
なぜ花寺のどかはダルイゼンを助けなかったのか
一番最初に挙げたようにエレメントさんや人々が命の危機に晒されてるのを助けてきた花寺のどかが、彼らと同じように生命の危機に立ってしまい彼女に助けてくれと縋ったダルイゼンを“助けたくない”と拒み、さらには苦しむ彼に容赦なく追討ちを叩き込んだのは多くの視聴者に衝撃を与えた。
追討ちをかけるかのようにアニメージュ2021年3月号でのスタッフインタビューにてシナリオ構成を担当した香村純子氏は「1話の時点でこの展開は決めていた」そして「『女の子だから優しくしなきゃいけない』という強要から解放してあげたい」と述べる。これにより人によっては激しく怒り作品そのものを嫌うようになってしまったのも散見された(キャラデザ担当の山岡直子氏も1話でその事実知って「なんとかしてくださいよぉ〜!」と監督の池田洋子氏に漏らしてた)。
さらにはこの彼女の行動を一部の人が「勇気ある決断」だの「本音を言えず苦しんでる女性へのヒーローになった」だのと“正しさ”において持て囃す声が見られ、さらにはそこに重点を置かれたいかにもバズり…プリキュアをいつも見てない人にも注目を浴びそうそうな記事が投稿されたりした。これのせいで「また多様性かよ」と一気に白けたり、この展開に対し不満を持つ者は「命乞いする者を見捨てるのが正しさか!?」「あれだけのどかの優しさを書いてたのに、いきなりそんな優しさの否定とかとってつけたようなことするなよ結局社会性だのに媚びてんじゃん」さらなる怒りを覚えたりした。
正しいか正しくないか、そんな不毛な論争待ったなしな大嵐の中。しかし先程も言ったが自分はこの作品にスマートではない結末になろうと自分のできる範囲でできることをやる等身大の女の子というのを感じ取っていた。ダルイゼンの最期はともかくそんな社会の代表みたいに彼女を扱うのに対してはぶっちゃけナンセンスのような釈然としない感覚を抱き続けていたのだが……
ふと思い出した作品があった。彼女が脚本した(2018年とルパパトの脚本あって大変だったろうによくこんな大役果たしたよ…)『映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』のとあるシーンだ。
この映画で注目するのがキュアブラックの美墨なぎさとキュアエールの野乃はな以外のプリキュアが記憶を奪われ幼児化してしまいはなを育児ノイローゼに追い込むパート。自分のことを憶えてるみんなはもういなく、どうすればいいか分からず泣き始めるはなに対しハリハム・ハリーが「プリキュアとあろうものがへこたれとる場合ちゃうやろ!?」と叱咤する。それに対し「プリキュアっていったってただの中学生だよ!」と反論する部分。上の感想前編にあるリンク先で言及しているが俺はそれこそが初代最強だの一部から神格化されてる彼女自らが叫ぶ『ふたりはプリキュア』における重要ポイント「プリキュアだって普通の女の子」であると……
そして感想後半にあるパート。自身のほのかの記憶で彼女を取り戻し完全復活した初代、それを見て野乃はなが立ち上がる。たとえ自分はダメな部分も正直あるかもしれない。でもみんながいるから立ち上がりたい。私のなりたい“野乃はな”になりたい。「普通の女の子だってプリキュア」になれると……
ふと気付いた。花寺のどかの“助けたい”そのものがこの構図に近いのでは?もしかしてと物語の始まりである1話「手と手でキュン!二人でプリキュア♡キュアグレース」を再確認してみたのだがしっかり書かれてあったのだ、この疑問に対しての答えが。
1話といえばお母さんの「あの子、やっと自由に走れるようになったんだから」というのどかが長きに渡る入院生活の過去を持っていたと判明する描写だったり、プリキュアになった際に恒例である身体能力の変化に驚くシーンが歴代でもトップクラスに重いとなにかと彼女の過去に関する部分に目が行きがちである。自分も放送当時そうだったし
過去の入院生活で病に苦しんだ過去があるというバックボーンももちろん大切だが、今回注目するポイントはAパート終了前にてメガビョーゲンが暴れるシーン。怪物を前に逃げ惑う人間たちの中にいたワンちゃん(ラテ様)を助けようと戻ろうとする少年、そしてそれを「まず自分が逃げなきゃいけない」と抱えてでも引き止める母親。それを見てのうえで敢えて現場に向かうのどか。
1話だけ切り取ると危険を承知でも(その後に入る回想による理由を含め)助けに行きたいと駆け付けるのどかの決意に心打たれるだろう。しかし今回話すうえで肝心なのは息子を止めるお母さん。助けたい一心で危険に飛び込もうとする自分の大切な子を食い止める親。誰かを“助ける”というのは自身が傷つく危険性を示している。
そりゃそうだろと思うが待ってほしい。その一部始終を見てなお花寺のどかは向かったのだ。犬を“助ける”ために危険な地へ。
「大丈夫……わたしはもう……走れる!」
危険を承知の上で駆け付ける。これが使命を帯びた戦士なら分かるだろう。しかし彼女は普通の女の子、それどころか最近まで謎の病で普通に暮らすこともままならなかった程である。それでも助けたいと強く想い走る。明らかにヤバい怪物が出現してると分かっていながら。モブの子と親という形でその行為がいかに危険かを明示したうえで。
「決めたじゃない……今度はわたしの番……!」
「あなた達はそのお手当ての方法知っているんだよね?わたしに何かできる事ない?わたし何でもする!」
「危ないって今ので分かったラビ!?」
「だからって放っておけないよ!この子……こんなにも苦しんでるのに……」
そして次の2話「パートナー解消!?わたしじゃダメなの?」においてもその部分は遺憾なく発揮される。
「あんな恰好(上の剣道着のやつ)意味ないの分かってるラビ!なんで逃げないラビ!?」
「だって助けたいんだもん!ラテも、エレメントさんも、学校のみんなも!みんな病気だなんてつらいよ……!」
「私ね…長い間、ずっと病気で休んでたの。ずっとずっと思うように動けなくて……何も出来なくて……つらくて、悲しくて、寂しくて………」
「でもね……お父さん、お母さん、お医者さんたち、たくさんの人が励ましてくれて……助けてくれて……そうやって元気になったの……」
「だからわたし、思ってた……今まで助けてもらった分、たくさんの人達にお返ししたいって……色んな人達を助けたいって……」
「わたしは運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があっても頑張るから!苦しむ地球をラビリンと一緒に助けたい……これが“今わたしのやりたいこと”なの!」
これが気付いた「あること」の正体。それは普通の女の子・花寺のどかは「助けたい」と強く想ったから、どんなに危険が待ち受けても“助ける”を選ぶ。それは自分が病で苦しんでいた際に多くの人に助けられ今こうやって生きている自分がいるから、誰かが苦しんでいるならば今度は自分が助けたいから。かつて自分はずっと苦しかった。辛かった。その痛みをこれでもかと知っている。だからこそ誰にもそんな苦しみを味わわせたくない。「普通の女の子だってプリキュア」であるように。花寺のどかの“助けたい”と強く想う気質は、プリキュアとしての資質は長き闘病生活によって培われたのだ。
…そう、培われた。培われて“しまった”。たしかに彼女のその信念があるからこそ多くの生命が助けられたのは事実だし、その強き信念あるからこそ彼女のことを好きになったファンは多数いるだろう。しかし自分はどうしてもそれを純粋に賞賛できるものではないとも思ってる。なぜならその“助けたい”というプリキュアとしての資質は(アスミちゃんやヒーリングアニマルのような)生まれ持った時から備わった使命ではなく、あくまで等身大の女子中学生が過去のつらい経験を味わったことによって生じたから。あくまで花寺のどかはようやっと普通の生活ができるようになった女の子……「プリキュアだって普通の女の子」なのだから。心から感じたことを無茶を承知で貫き通しているだけであって時には……
「ここを離れてる間に取り返しがつかなくなっちゃったらどうするの……?」
「わたしは絶対守りたい……ここを離れたくない!」
「諦めなきゃいいんだよ!みんな見捨てるつもりで花のエレメントさん(の救助)を最後にしたわけじゃないでしょ!全部のエレメントさんを護りたい気持ちは変わらないでしょ?」
「だったら、どんなに難しくてもお手当てを続ける…それしかないんだよ。」
このように見ると香村純子氏がインタビューにおいて「『女の子だから優しくしなきゃいけない』という強要から解放したい」と言ったのも分かってくる。花寺のどかの“助ける”は決して他者から「そうしなきゃいけない」とされる強要ではなく、自分自身が心からそう想ったから行動している。むしろ当初ラビリンが危惧したように身の丈に合わない危険な行為だし身分不相応なので時には完璧な解答が出せる訳ではない……それでも自分なりに今できることを我武者羅ながらもやり抜きたいというのはまさに上で書いたような等身大の女の子としての頑張りそのものという作品に一貫するテーマとして戦い、護り、助けている。彼女は都合のいい神様なんかじゃない。
そしてこの“助けたい”という想いの描写が一番強く描かれたなと思ったのが『映画ヒーリングっど♡プリキュア ゆめのまちでキュンっと!GoGo!大変身!!』。ここからが映画についての内容に触れるのでご了承してほしい。
・花寺のどかは“正しい”のか
不穏なトピックだがそれは後にして……さて、この春映画(とはいったものの黄色く染まったイチョウ並木が出たりと完全に秋である)はのどか達が東京へ遊びに行き、そこで夢を実現化するトンデモ装置「ゆめアール」を体験するのだが、大筋の話といえばやはり我修院サレナ博士とカグヤちゃんの親子、そして純粋な“願い”と“エゴ”の話であろう。
「自分と違う種族だろうと大切な存在」や「命を助けるのに時間という問題が無視できない」と所々にヒープリ本編の要素も見受けられるこの映画、そして我修院博士も本編のプリキュアと同じように「大切な存在、娘のカグヤを“助けたい”」という純粋な想いで行動している。しかしのどかようなプリキュアという方法で他者を傷つけるビョーゲンズを撃退し助けるのとは違い、我修院博士は夢を奪うという形(夢を奪われた人間は無気力状態になってしまう)で他者を傷つける手段を用いようとも娘を助けようとしたのだ。ビョーゲンズ細胞から生み出した人工生命体エゴエゴを利用して……
その選択肢が身勝手な邪道であるのは本人も分かってる。我修院サレナ博士は良識も備える人間であり、劇中でも葛藤が見受けられるからだ。しかしそれでもそうしなければ娘を助けるには時間があまりにも足りない。今自分ができる最善手を打つしかない、たとえそれが道徳観念において間違っていようとも。自分の“エゴ”であろうとも。
とまあそんな強引な手法で夢の力を集め娘を助けられるまでの奇跡を起こせそうになったものの、ゆめのつぼみを強奪する手段としてだけ利用され続けてたエゴエゴの不満が爆発し横取りされてしまうという想定外の事態が発生し、さらには命尽きそうなカグヤちゃんまでもエゴエゴは取り込んでしまった!なんとかしてエゴエゴを浄化しカグヤちゃんを救うも、彼女は奪われた夢を元の持ち主に戻すべきと解放した。すなわち自分自身の命が助かる方法を捨ててでも、このまま死ぬ運命を受け入れようとも……
それじゃダメだよ……
みんなでお誕生日回するんでしょ……!
奇跡の花の精霊の、我修院カグヤの決断。それは己の生を諦めてでも夢を奪われ倒れる人々を助けようとする哀しくも美しい自己犠牲だろう……しかしその彼女の行動に異を唱える者がいた。こんなの絶対に認めないとわなわな震え、彼女の命をなんとしてでも“助けたい”と、諦めたくないと想う者がいた。キュアグレース、花寺のどか。
のどかは渋谷区にいたみんなにカグヤちゃんを助けたいから力を貸してと頼み、人々も呼応し想いの力をゆめアールという形で還元する合意的手段を用いて束ね上げ「カグヤちゃんの命を助けたい」というありったけの願いの力をカグヤに注ぎ込んだ。そして無事にカグヤちゃんは助かり母サレナは喜びエゴエゴも浄化技で優しさの力を知りそなござになって反省して映画はハッピーエンドを迎え……
ちょっと待った。実は自分は公開当時に劇場で見たがラストののどかのカグヤちゃんがどう決断しようが絶対に受け入れたくない、まるで自身のワガママじみた気持ちに正直困惑してしまったのである。いや純粋に感動した人には悪いけど個人の感想としてのファーストインプレッションはこれだ。それこそあのまま他者を傷つけず死す方が、エゴで引き起こした騒動を終息させる結末として物語的には“正しい”のではと最悪な発想が一瞬よぎったほどだ。とはいってもそんな邪念はほんのちょっと冷静に考えたらすぐ消えていった。そもそもがエゴエゴに取り込まれたカグヤちゃんを救出するために戦ったんだし、その後の手段が皆に呼びかけ頼む合意的手法だったし、何よりのどかが彼女を“助けたい”と想いたくなるような描写は当然あったし。
上で書いたように花寺のどかはどんな危険や困難があっても“助けたい”と強く想い行動する信念の強さを持っている。この映画ではその“助けたい”という彼女の想いを、我修院博士が行った他者を犠牲にしようが叶えたかったエゴ――自分自身の純粋な気持ち――とあえて似せて書くことによって際立たせたのだなぁと改めて思う。それこそ自分が一瞬そうあるべきと考えてしまった物語の導線から感じた“正しさ”を無視しようが……
「たのむ……助けてくれ……キュアグレース……」
「お前オレに言ったよな!『自分さえ良ければそれでいいのか』って!?」
「結局お前も同じじゃん!!」
映画の話から本編に戻そう。上記でさんざん話したようにキュアグレースが、花寺のどかが生命の危機に瀕した存在に対して唯一“助ける”という選択をしなかった存在がいる。ダルイゼンだ。
みなさん当然ご存知だとは思うが彼は別に弱ってるフリしてのどかを騙し討ちしようみたいなグアイワルがやりそうな狡猾な算段なんざ微塵も考えてない。マジで命の危機に迫られて必死の想いで彼女に縋ってる。グアイワルじゃ飽き足らずさらなる進化したいからお前も吸収したいというキングビョーゲンの魔の手から逃げるために。己の自我が消えて無くなるという実質的な“死”を前にして
事情を知らなかったとかではなく明確に彼の命の危機を知った上で、それでものどかは拒否した。逃げた。その胸中には……
「のどかはダルイゼンを助けたいラビ?」
「そうしたほうがよかったんだと思う………」
「そのほうが良かったんだと思う」とあるように、無慈悲にビョーゲンズを浄化するアスミ(味方サイドです)と違い花寺のどかには一般的な良識としてダルイゼンを助けたい気持ちも存在していた。しかしラビリンはもう一度聞く、「そうじゃないラビ。のどかの気持ちを聞いてるラビ…」と。
「無理………わたし…どうしても嫌!嫌なの!」
「無理」「嫌」、そして「助ける気にはなれない」それこそが花寺のどかがダルイゼンに対して抱いてしまった“本当の気持ち”。それは彼女が心からそう思ったから。思ってしまったから。
そして思い出していただきたい、彼女・花寺のどかはなぜ助けるのか。それは「助けたい」と強く想ったから。だからこそ無茶を承知で戦地へ駆けつける。己の正直な心で感じた気持ちだから。そして彼に対しては心の底から嫌だと想った気持ちも同じように彼女の正直な気持ちだから。これまで“助けたい”で行動しており視聴者からも優しき女の子として見られていた花寺のどかが助けたくないと叫ぶのは一見すると物語として一貫性が無いように見えるかもしれない。だからこそ彼女の決断に作品上の矛盾やそこから湧き出る不満を抱く人もいるかもしれない(この後の春映画を見た自分のように正しくないと感じてしまったように)。しかし上で解説したように自分で正直に感じた気持ちからの行動だと見れば実は彼女の行動に矛盾が無い。それが……「そうした方がよかったんだと思う」と言ったように常識や倫理などの上で“正しい”という行為に反してると分かりつつも。見出し画像での「私そんなに優しい子じゃない…」と言ったように。
“エゴ”。映画でのフレーズを用いればこれで表現できよう。ラビリンに危険だと言われても止まらなかったように、自らの死を選ぼうとしたカグヤちゃんの悲壮な決意を受け入れたくないように、そして助けてくれとすがったダルイゼンそのものを拒んだように。悪く言えばそれは普通の女の子の花寺のどかのワガママなのかもしれない……
でも思い出していただきたい。8話でペギタンがスランプのちゆのために彼女の練習を止めてほしいと心配するも「ちゆちゃんのやりたい意志を尊重したい」と止めず沢泉ちゆは自分の力でスランプを脱却した。39話で罠かもしれないから危険と止めようとしたニャトランの制止に対し「やってみれば変わるかもしれない」と平光ひなたは進んだ。43話での風鈴アスミの乾坤一擲の一策を。そして花寺のどかを。どれだけ危険か無理かという正論、そして“そっちのほうが正しい”か、そのような諸々を知っての上で「自分の心から感じたこと」を貫き通したい。それがたとえワガママのようにトゲが立つかもしれない“等身大の女子中学生としての気持ち”でも。それこそがヒーリングっど♡プリキュアが1話から書き続けてるものである。
そしてその“正しさ”より優先したい気持ちというのは果たして社会的だのと持て囃すべきものだろうかという疑問が湧いてくる。確かにダルイゼンに対してNoを突きつけた描写単体を切り抜けば(昔よか改善されてきたとはいえ)抑圧されていた女性の言いたくても言えない意見の代弁という見方もできるっちゃあできるかもしれないし、倫理観念の高さで作品を評価するという捉え方は否定することはできない。アニメージュのインタビュアーも「ジェンダーロールからの解放」と例えそれを肯定した。しかし花寺のどかは「助ける方が良かったかもしれないという一般的な良識以上に無理、嫌というダルイゼンに対しての感情が上回ったから」という“正しさ”に反していると分かっての上で助けたくないという個人の意思で下したのだ。むしろそのような持て囃す…いわば期待され模範となるヒーロー像からかけ離れてるくらいに。
以上がタイトルにもあった「花寺のどかは正しかったのか」に対しての自分としての結論…社会性に正しくとかの判断で見ると間違ってるかもしれない、でもそれ以上に個人の心から感じた気持ちを貫くというのは物語上の導線としては(あえて用いれば)正しいである。ここ最近なにかとプリキュアの台詞や描写を切り抜き己の都合のいい発言として利用してる人もいる気がする(個人の見解です)が、自分としてはその行いに対してどうしても違和感を抱いてた。そもそも基本的に彼女たちプリキュアは程度の差はあれどオールスターズメモリーズのなぎさの台詞のように「普通の女の子」であり、そんな年若く時には等身大の悩みに当たり悩みそれでも前へと進もうとする物語に大人も勇気をもらうなら分かるが変に社会的メッセージ持たせようとするのは冷や水を差すものではないか?だいたいその発端になったHUGプリの若宮アンリ君はそういう正しさの象徴に持て囃されても彼の内心は……おっと話が脱線してしまった。いつかこの件についても書こうとは思ってるからその機会に……
とまぁこうやって花寺のどかが感じてしまった想いによる是非を見ていったが、実は彼女の心情描写の説明を強調するために「なぜ死に瀕するダルイゼンを“助けたくない”までに思ってしまったのか」というその心情にまで到達した理由をあえて省略し書いた。これでこの話を終わってしまえば“助けたい”と想うようになってしまった理由はちゃんと書いたのに逆に対して触れないのは説明不足だの印象操作だのと言われてしまうだろう……だからこそ書かねばならない、なぜ彼女が“助けたくない”と心から思ったのか、彼女にそこまで思わせてしまったダルイゼンは何者だったのか……それを書いていこう。
・長くなっちゃったので後編へ続きます……
な筈だったけど。当初はこの後にも延々書いてたんだけど、冗長になりすぎて読まれもしないのではと判断して後編と分割することにします。
次は今作の敵ビョーゲンズについて、そしてダルイゼンの正体、最後にメインになるのどかが助けたくないまでに嫌となった理由について書こうと思います。それを書かねば俺の中のヒープリは終わらない、これは自分のためでもあるのだから……
ということで書きました。こっちもよろしくね!
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