僕は志磨遼平に騙され続ける。

最近、志磨遼平の活動が気になる。毛皮のマリーズ時代から好きでずっといたのだけれども、特にここ数年、他の邦楽ロックやロキノン系とくくられるバンドたちとは一線を画している。一線どころではなく、もはや変になってきてるのかもしれない。その違和感はなんだ。

まず、2018年初夏に行われたドレスコーズのライブツアー『どろぼう』"dresscodes play the dresscodes"に関して少し説明しよう。ドレスコーズの志磨遼平は横浜のKAAT劇場にて上演された『三文オペラ』の音楽監督を担当していた。これを期に志磨遼平は演劇に目覚める。そして、自らが担当した劇伴音楽をまとめたアルバムを制作しツアーを行った。それが、『どろぼう』ツアーである。
https://youtu.be/u04HoBXFQlw

このライブ、普通の音楽ライブではない。まず、ボーカルの志磨遼平は身体をフルに活用して表現するため、ヘッドセットで歌う。次に、バンドメンバーは全員座って演奏する。そして、舞台上には花や電話機など小物の数々。通常の音楽ライブではありえない光景が繰り広げられる。そう、これはまさに演劇なのだ。
志磨遼平はこのライブで自らの今まで作ってきた楽曲の歌詞をセリフや情景として再解釈することで、演劇の世界を構築することを試みたのだ。

ただ、ここには大きな批判が存在する。楽曲の歌詞を理解していないとなかなかわかりにくいのだ。そして、この舞台は明らかにコアなファンにはかなり画期的に伝わる内容だが、ライトファンにはあまりにもわかりにくすぎる内容である。
最近のバンドはライブへの参入障壁を下げてきている。つまり、盛り上がるところ、みんなで歌うところ、手拍子するところがわかりやすくなってきている。これは、音楽フェスのメジャー化やライブカルチャーがメインになってきたことに伴う影響、傾向と対策とも言える。こんな流れがある中で、全て無視して演劇のような音楽ライブ、音楽のような演劇をやってのけたのだ。

ここには志磨遼平の思想がある。現在、ロックフェスに出るバンドのほとんどはジャンルとしてのロックを演奏しないバンドが増えている。これへのカウンターとして志磨遼平は、毛皮のマリーズからドレスコーズに至るまで常に正統派ロックをやってきた。そんな志磨遼平が演劇をやることは、ともすれば変な感じだ。ただ、これこそがマジョリティーに対するカウンターとしてのロックミュージックの持ちうる意味を体現した姿である。

しかもこのカウンターにはさらに続きがある。「歌詞によりストーリーを紡ぐ。」これだけを聞くと、かつてのCDアルバムがこの役目を担っていたことを思い出す。ただ、もはやアルバムはストーリーとはかけ離れた存在になってきている。シャッフルしかできない音楽プレーヤーや楽曲ごとの切り売り配信によって、もはやアルバムは「なんとなく曲調や雰囲気が似てる曲たちの集まり」か「最近できた楽曲を聞きやすい順番に並べたもの」でしかなくなってきている。そこをあえて志磨遼平は、演劇というストーリー重視のジャンルとぶつけることで逆行してきた。

こうやって書いてくると、志磨遼平は、ドレスコーズは、時代の流れからズレているようなイメージを抱くかもしれない。ただ、これは意図的に演出されたものだ。そして、志磨遼平は観客に媚びない。徹底的に完璧なパフォーマンスを見せつける。芯のあるものがロック・スターであり、フォロワーを生み出す。SNSのようなフォロワーが多いからフォロワーが多くなる現象では本当に人の心はつかめない。僕たちはこの志磨遼平が何をしたいのか、そしてここからどうすべきかをゆっくりきちんと考える必要がある。

あぁ、これだってライブとかフェスが瞬間的な快楽になりつつあるの流れとは逆行してるじゃないか。志磨遼平にまた騙されてしまった。

#音楽 #コンテンツ批評 #ライブ

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