うつ病に罹患したきっかけ#1

私は大学卒業後、某地域中核病院に就職した。

配属は、地域連携室の事務専任の予定だったのだが、総合受付の職務ができないことには地域連携室の事務としての仕事もできないので、まず総合受付との兼務というところから始まった。


地域連携室について簡単に説明すると、近隣の病院・診療所から紹介された患者さんと当病院の各診療科への橋渡し的な仕事を担う部署である。

そしてこの地域連携室の事務はなかなか不思議な立ち位置に存在する。
事務員だが所属は看護部、また、直属の上司は副院長なのだ。

そして私が後に「うつ病」を発症するきっかけになった人物との出会いがまさに、この地域連携受付だ。

ここには看護部でも有名なひどく気分屋だが仕事はできる看護師がいる。
私はこの看護師とパートナーとして仕事をすることになったのだ。


新卒で入社した訳だが、もちろん完璧に仕事をできる訳もなく、毎日パートナーの看護師には怒られていた。

以前の記事でも触れているが、私は完璧を目指していた。患者の目線を大切に考え、こうするべきと思うことを考え実践し、来る日も来る日も笑顔で対応していた。


だが、そんな努力もむなしく怒られる頻度は変わらず、また高い頻度で気分屋ぶりに振り回されることもあった。

そんな状況が続くものだから、私は日に日にその看護師が怖くなった。
エスカレーターから降りてくる時点で「ああ、今日は機嫌悪いな」と分かるほどに、気分が伝わるのである。

「おはようございます!」と精一杯の笑顔で挨拶をしても、目も合わせてくれない返事もないということは当たり前だ。

連携している医療機関の医師から電話がかかってくることも日常茶飯事なのだが、私が対応に困っているときなどは何も言わずに受話器を取り上げら睨まれることもよくあった。
(すぐに笑顔と猫なで声で医師と話していたが)

これ以上機嫌を損ねないように怒られないようにイライラさせないように、極力気をつけていた。
幼い頃の母に怯えていた毎日を思い出すほどに、私は看護師にも怯えていた。


看護師も完璧を求めるタイプである。

だから、私が分からないことやミスをすると「なんでこんなこともできないのよ」と怒られた。

「君は本当に勉強してきたの?」
耳にタコができるほどに言われた言葉だ。
(ちなみに看護師は女性であるが、敢えて私を「君」と呼ぶことが多かった)


もちろん、総合受付の同僚は私の仕事をフォローしてくれたし、私が落ち込んでいると「大丈夫だよ、気にしない気にしない」と慰めてもくれた。
有り難かったし1人じゃないと思った。


しかし、その頃の私は休憩時間に地域連携室の自分の部屋でひたすら泣いた。
泣いて泣いて、仕事の時間に戻れば、また完璧を目指して笑顔で頑張った。


けれど、もう明らかに自分のキャパシティはオーバーしていた。


仕事に向かう電車の中で涙が止まらず、勤務先の最寄り駅に着くと号泣することもあった。

そんな中、身体に不調が現れた。
ひどい頭痛である。
3、4日耐え切れないほどの頭痛が現れ、仕事は休日を取得し休ませてもらった。

そして休み明け、まだ続く痛みに耐えながらもなんとか職場へ辿り着いたその直後、事務職の課長が私のもとへやって来た。


「NIKOさんよく頑張って来てくれたね。ところで最近はちゃんと眠れてる?かかりつけ医がいれば1度話を聞いてもらってきなよ、仕事は休んでもいいから。」


課長は私の異変に気が付いていた。

自分では気がついていなかったのだが、毎日の睡眠時間が1時間程度になっていた。全く眠らない日もあった。

それは、決して残業が多かったという訳ではなく、寝る前に今日の反省や明日の予習など頭の中で何度も何度も復習していて、気がつけば朝になっている…。

無意識にそんな生活を何ヶ月も続けていたのだ。

体重は10Kg以上落ちていた。


そして、かかりつけ医の判断で精神科への紹介状をもらい精神科を受診することになる。

すぐにでも休職が必要な状態であった。
6ヶ月の休職を経て「復職してもうつ病が悪化する」という精神科医と産業医の診断により、退職することとなった。

もちろん、仕事のストレスだけでなく、私の性格や、もともと持っている気質にも起因はしているが、

「キャパシティがオーバーしている状態で頑張りすぎていた」

それがうつ病に罹患した理由なのだと思う。


きっと、パートナーの看護師は私に1日も早く成長して一人前になってほしかったからこそ厳しかったのだろうと今ならそう思うことができる。

ただ、その頃はそんな事に気付ける余裕などなかった。


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