小説 「金閣寺」 小感・2020.10

 言わずもがな、三島由紀夫さんの名著。
 読み返す度に、自分の感想が変わりそうな予感がする。題名に年月をつけたのは、あくまで現時点での感想、という目印にするためである。

 一応、短くあらすじを。主人公の溝口は重度の吃音症(どもり)であり、幼少期から周囲の嘲笑と差別を受けていた。そのため彼は常に孤独であり、またその孤独を彼は積極的に受け入れた。彼の日常の殆どは自問自答の世界にとどまり、外界に飛ぶことはなかった。そんな彼は、金閣寺の美しさに狂おしいほど魅せられていく。
 彼は大学生になった。孤独な彼も性欲の溢れには抗しがたく、数少ない友人から女性を仲介してもらう。しかしいざ行為となったときに、金閣寺の幻影が現れ、行為を妨害する。彼はそんな金閣寺を激しく憎み、ついに放火してしまう。
 大きな火の粉が幾つも舞う金閣寺を見ながら彼は「一仕事を終えた人が一服している」ように、落ち着いて煙草を吸った。

 読み終えた自分は、溝口という人物に、強い嫌悪感を持った。同情、同調するには、彼の行為は、いかにも安直で、愚かだった。
 彼が放火という「行為」に至ったもとは、禅宗の臨済録「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し(中略)」にある。文面こそ物騒だが、要するに「強固な自己を築くためには、他人や既成の概念に惑わされてはならない」という意味である。しかし、溝口はこれを文面通りに解釈してしまい「自己を金閣寺の干渉から解放するためには、放火という『行為』が絶対必要である。」と思い込む。
 しかし、溝口の行為は、なんの意味があっただろうか。現代でも殺人や強姦で、大事を成したように陶酔している人が少なからずいるが、それらの行動心理は溝口と酷似している。それら禁断行為は難しいことのようで、実際は小学校高学年程度の知恵と力と、感覚の欠損があれば誰でも可能な、極めて価値の低い行為である。溝口の場合、金閣寺という建物を消失させたところで、金閣の美は消えない。その後も彼は幻影に悩まされ続けたのではなかっただろうか。
 
 三島さんは、この溝口の自問自答、概ねは妄想で、常人には理解しがたい部分を、実に深く、それでいて可能な限り読者にわかりやすい表現を用いている。形容がやや過剰で、うるさくもあるが、無駄に感じる部分は少ない。戦後の代表作の一つと評されるのも納得である。
 物語中、「美は、暗黒である。」、「どうしても金閣寺を焼かねばならぬ」など、唐突で衝撃的な溝口の独白に、面くらう部分もあったが、こういった「読者に謎を提示して、その後の文章のあちこちにその回答を忍ばせる」のは、小説の常道であろう。

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