ジュディス・バトラー『非暴力の力』を読んで

1.死へと駆り立てる超自我からいかに逃れるか

 ジュディス・バトラーは『非暴力の力』の第四章において、どのように暴力を批判すべきかという問題に取り組んでいる。その際彼女はフロイトを引用しているのだが、その参照の仕方はヒネリが効いている。というのも、フロイトが深く携わりつづけた概念を批判しつつ、フロイトが深く論じきれていなかった概念をこそバトラーは重要視しているのだ。
 具体的に言うと、本書では「超自我」に対して批判の目が向けられている。よく知られている通り、フロイトは「自我とエス」において超自我という審級を新たに導入し、これが自我に対して批判的にふるまっているからこそ人間は道徳的観念を得られるのだと主張した。
 これに対してバトラーは超自我に恩恵があるのは認めつつも、一方で超自我によって人間は自らの身を滅ぼしてしまう危険をもはらんでいると指摘する。注1

 超自我の任務は、その破壊的力を自らの破壊衝動に対して向けることだ。この解決の問題点はむろん、他者の破壊を自己の破壊に転換することで、超自我の抑制なき機能は自殺に導き得る、ということである。一方で、「批判的能力」は行動の帰結に注意深いと思われ、侵害的な表現や行動の諸形式を防ぐために表現や行動の形式を監視する。他方でその目的は、死の欲動の表現として、自己そのものを破壊する可能性がある。

ジュディス・バトラー『非暴力の力』青土社p171

 実際、こうした超自我の危険性はフロイトも認識していた。「自我とエス」の中ではこのように警告されている。

 〔……〕意識を占有した非常に強い超自我が、自我にむかって無慈悲に激怒し、あたかも、その個人の中のあらんかぎりのサディズムを発揮するかのようにふるまうことが認められる。サディズムに関するわれわれの見解にしたがえば、破壊的成分が超自我の中に巣食って、自我に敵対したということができよう。超自我の中で支配しているものは、死の本能の純粋培養のようなものであって、自我が躁病に転変することによって、あらかじめその暴君をふせがないと、しばしば本当に自我を死に駆り立てることがある。

ジークムント・フロイト「自我とエス」『フロイト著作集6』p264

2.メランコリーと躁病

 では、こうした超自我の破壊的な力から逃れるためにはどうすればいいのか。
 バトラーは先の引用の最終行、つまり「自我が躁病に転変することによって、あらかじめその暴君をふせ」ぐという箇所にヒントを得ながら、「躁病」の可能性を掘り起こそうとする。そして、躁病についてよりくわしく検討されている「喪とメランコリー」を参照していく。
 フロイトは「喪とメランコリー」において、人間は対象を死別などで失ったあとに「喪の仕事(悲哀の作業)」をなすと述べた。ふつう人は多かれ少なかれ身のまわりの他人に愛着をよせ、自らのリビドーを備給(充当)していくのだが、目の前から対象が失われるとその行先は失われる。目の前にない者に執着しても甲斐がないので、本来ならば失われた対象に労力を消費することはあきらめなければならないのだが、かといってすぐさま撤退が完了するわけではない。

 〔……〕現実検討によって愛する対象がもはや存在しないことが分かり、全てのリビドーはその対象との結びつきから離れることを余儀なくされるがこれにたいし当然の反抗が生ずる――よく見られることだが、人間はリビドーの向きを変えたがらず、かわりのものが、もう誘っているというのにそれでも変えないものである。〔……〕正常であることは、現実尊重の勝利をまもりぬくことであるが、その使命はすぐには果たされない。それは時間と充当エネルギーをたくさん消費しながら、ひとつひとつ遂行してゆくのであって、そのあいだ、失われた対象は心の中に存在しつづける。リビドーが結ばれている個々の対象の追想と期待に心をうばわれ、過度に充当され、リビドーの解放もそこに実現されるのである。

ジークムント・フロイト「悲哀とメランコリー」『フロイト著作集6』p138

 時間をかけて「もうあの人はいないのだ」との諦念に至ることこそ喪の仕事(悲哀の作業)と呼ばれているのだが、中にはこの仕事をうまく全うできない人もいる。彼らはかつて愛着を寄せていた人たちは失われてしまったのだと認めるどころか、自分自身を破滅に向かわせるかのような態度を取るようになる。フロイトはそうした状態に陥った人々のことを「メランコリー」と名づけた。

〔……〕メランコリーの患者は、喪ではかけている一つのもの、すなわち自我感情のいちじるしい低下、はなはだしい自我の貧困を示している。喪では外の世界が貧しく空しくなるのだが、メランコリーでは自我それ自体が貧しく空しくなる。患者は彼の自我はつまらぬもので、無能で、道徳的に非難されて当然のものとみなし、そしてみずから責め、みずからののしり、そのうえ追放され処罰されることを期している。

同p139訳文を一部変更

 メランコリー患者はなぜこのような自罰的な姿勢を取るのか?
 フロイトは患者の訴えをよくよく聞いてみると、実は彼らが責めているのは自分自身ではなく、「患者が愛しているか、かつて愛したか、あるいは愛さねばならぬ他の人」なのだと気づいた。

このように、自己非難とは愛する対象に向けられた非難が方向を変えて自分自身の自我に反転したものだと見れば、病像を理解する鍵を手に入れたことになる。

同p141

 喪の仕事が上手くいく場合は対象の喪失を認められるが、メランコリーの場合は逆に対象を体内化させてしまう。愛していた人が失われてしまったと認めたくないがために、せめて自分の中に取り込んででも相手を生き延びさせようとするのだ。やがて、メランコリー患者はみずからを失われた対象と同一化してしまう。その結果、本来愛していた相手にぶつけるべきだった嫌悪感情は自己に向けられることとなり、自罰的な態度へと導かれることとなる。
 もっとも、メランコリー患者が常に自己破壊的なふるまいに及ぶとは限らない。彼らは時に「正反対の症状をもつ躁病の状態に転換する傾向」がある。

躁病はメランコリーと同じ内容をもち、おなじ「コンプレクス」にとりくんでいる病気だが、メランコリーでは自我がこのコンプレクスに屈服していると思われるが、躁病ではそれにうち勝つか、またはそれをとりのぞいている、という印象である。〔……〕これらの状態では、大量のながくつづいた心理的消費や、習慣となりきってしまった心理的消費が必要なくなって、そのため多くの用途や支出に向けられるようになる、という事情がある。例をひいてみると、貧乏人が大金を手に入れて、長年にわたるその日暮らしの苦労から解放されたときとか、ながい骨の折れる苦闘がむくいられて勝利の日がおとずれたときとか、おさえつけられた強制やながくつづいた邪魔がいちどになくなったときなどである。すべてこのような状況は、昂揚した気分、喜びの情の表出、あらゆる行動に対する熱心さを特色とするが、躁病もこれとまったく同じで、メランコリーの憂鬱や抑制と正反対である。

同p145

躁病では、自我が対象の喪失を(あるいは喪失にたいする悲哀を、またはおそらく対象そのものを)克服し、メランコリーの苦悩が自我からひきだして拘束していた反対充当の全量が自由につかえるようになっている。躁病の患者は、飢えた者のようにあたらしい対象充当におもむきながら、彼がそれまで悩んでいた対象から解放されたことを誇示するのである。

同p146

3.躁病の批判能力と非現実主義

 バトラーはこうした躁病の特徴に注目しつつ、これこそが超自我から逃れられる手段だと説く。しかも、フロイトの分析からさらに踏みこんで、躁病は「自我の生き延びようとする欲望」であるばかりかサディスティックな超自我に対する「抗議」でさえある、とまで主張するのだ。

 メランコリーは、二つの対立する傾向から構成されている。第一に、「意識」の署名行為となる自己叱責であり、第二に、失われた対象との紐帯を断ち切り、喪失した対象を能動的に断念しようとする「躁病」である。対象の「躁病的」で精力的な非難、失われた対象もしくは理念に対する紐帯を断ち切ろうとする自我の強化された努力は、喪失を生き延びようとする欲望、自分自身の生を喪失そのものが要求する生にしたくないという欲望を含意する。躁病とは言わば、抑止なき超自我が自分を破壊してしまうという見込みに対する生物有機体の抗議なのである。従って、超自我が死の欲動の延長だとすれば、躁病とは世界と自己に向けられた破壊行動に対する抗議なのだ。躁病は次のように問う。「破壊性が自己破壊によって抑止されるという悪循環から出る方法はないのか」と。

『非暴力の力』p174注2

 さらにバトラーは躁病に対してより重要な価値を付加しようと試みる。フロイトはあくまでも躁病がどんな症状を呈するかを分析しただけであって、それに対して特に価値判断を加えてはいなかった。一方でバトラーは、躁病こそ「批判的機能を引き受ける」ことができると述べるのだ。
 先程も見た通り、超自我には他者に向けられかねない破壊衝動を自己に向け変えることで暴力を防ぐ批判的能力があった。が、一方でそれは抵抗能力までも失うことを意味する。具体的に言えば、独裁者のような悪しき他者に向けられるべき抗議さえもひっこめてしまう危険性が否めない。超自我はこのように、道徳的な人格になれるメリットがある一方で世間並の価値基準に飼いならされてしまうというデメリットもあるのだ。
 これに反して、躁病はそういった抵抗を弱めようとするしがらみ「を断ち切り、暴君と、暴政が要求する服従化とから脱同一化する限りで、批判的能力を引き受ける――それは危機に関与し、危機を解決しようとし、有機体の生を脅かす力の形態から距離を取るのである」。
 とはいえ、躁病自体に危険性がないわけではない。実際に躁的な症状を見せる人々を観察すればわかるが、彼らは(鬱に悩んでいた時は自罰的にふるまいやすいのに)あたかも万能を得たようにふるまうことが多い。躁病に陥ると「非現実的」な夢想に取りつかれがちである、とバトラーは踏まえつつも以下のように述べる。

 もちろん私は躁病を擁護したいわけではないが、それは、権威的で暴政的な支配に反対する反乱的連帯の「非現実的」諸形式を理解するための鍵を提供してくれる、と強調しておきたい。結局のところ暴君とは、権力のネットワークに支えられた擬人化なのであって、だからこそその打倒は、躁病的、連帯的、段階的になされるのだ。そして、国家の指導者自身が興奮をあらゆる方向にばら撒く暴君的子供であり、メディアが彼の一挙手一投足を大喜びで扱うとき、連帯のネットワークを構築しようとする人々、彼の戦略的な操作不可能的方法への魅了から「逃走」する人々にとって広大な空間が切り開かれるのである。

同p176

躁病は決してそれ自体、破壊の危険な形式になることなく、政治になることはできない。しかしそれは、困難にもかかわらずもう一つの現実を主張し、暴力的体制を解体しようとする連帯の諸様態に、力強い「非現実主義」を導入するのである。

同p178

 我々はしばしば、政治的議論にあたって絵空事を述べる人に対して「非現実的だ」との非難を投げかけやすい。確かに現実的な議論をする場において、荒唐無稽な提案をすることでちゃぶ台をひっくり返そうとする連中は場違いだ。
 しかしながら、リアリストを名乗る連中がしばしば犯しやすいミスとして、「現実」を固定的、かつ一元的しか見ないというものがある。この点を鋭く認識していた人こそ丸山眞男だ。彼は、日本の論壇が再軍備をするか否かの議論に明け暮れていた一九五二年に「「現実」主義の陥穽」という論考を発表している。丸山曰く、いわゆるリアリストが対立陣営にむかって「現実的でない」と駁する時に使う「現実」の単語は、きわめて狭い意味でしか使われていない。本来の現実は常に変わりゆくものだ。ある瞬間のみを切り取ったうえで「現実的」な政策を採用したところで、次の瞬間には「非現実的」になっている可能性も否めない。また、現実はまことに多面的に成り立っているものだ。ある立場から見て「現実的」に思える政策が、他の立場からすると「非現実的」である可能性は十分にある。
 このような狭隘な「現実」観でもって世界を観察していると他の選択肢を思いつくための想像力が失われていき、ただただ目の前の「現実」に追従するのみとなって、最悪の場合時の権力への迎合にまでいきつきかねない。

 これに関連して私はとくに知識人特有の弱点に言及しないわけには行きません。それは何かといえば、知識人はなまじ理論をもっているだけに、しばしば自己の意図に副わない「現実」の進展に対しても、いつの間にかこれを合理化して正当化する理屈をこしらえあげて良心を満足させてしまうということです。既成事実への屈服が屈服として意識されている間はまだいいのです。その限りで自分の立場と既成事実との間の緊張関係は存続しています。ところが、本来気の弱い知識人はやがてこの緊張に耐えきれずに、そのギャップを、自分の側からの歩み寄りによって埋めて行こうとします。そこにお手のものの思想や学問が動員されてくるのです。しかも人間の果しない自己欺瞞の力によって、この実質的な屈服はもはや決して屈服として受け取られず、自分の本来の立場の「発展」と考えられることで、スムーズに昨日の自己と接続されるわけです。嘗ての自由主義的ないし進歩的知識人の少なからずはこうして日華事変を、新体制運動を、翼賛会を、大東亜共栄圏を、太平洋戦争を合理化して行きました。一たびは悲劇といえましょう。しかし再度知識人がこの過ちを冒したらそれはもはや茶番でしかありません。

丸山眞男「「現実」主義の陥穽」『新装版 現代政治の思想と行動』未来社p179-180太字は原文では傍点

 現実主義は一見すると、実現不可能なことに与せず実益のみを追及する優れた態度に見えるが、一方で他の選択肢を排除しやすいため、今よりも現実がよりよくなる可能性を潰してしまうという弊害も否めない。躁病の「非現実」性はこうした現実主義の狭隘な視野を押し広げる力を持っているのではないか。非現実的な提案は一見すると実現不可能に思えるが、一方で現在固定されている目の前の現実はもしかしたら変えられるのではないか、と人々に想像させる力を有している。

4.躁病にまみれた世界で躁病を対抗手段として使えるのか?

 以上のように、フロイトの議論を換骨奪胎しつつ、独自の暴力批判論をつむぎだそうとするバトラーの姿勢はきわめて示唆的だ。だが一方で、そこまで躁病に賭けていいものだろうか、という疑念がぬぐえないのも事実である。
 筆者は躁病の非現実性に懸念を持っているわけではない。むしろ、躁病的な態度が今般の現実社会を支配しているからこそ、躁病を前面に押し出すことが現状に対するオルタナティブにならないのではないか、と懸念しているのだ。
 先程のp176の引用を振りかえろう。そこでは、「興奮をあらゆる方向にばら撒く暴君的子供である」「国家の指導者」に言及されていた。これは明確に、アメリカの前大統領であるドナルド・トランプを意識しながら記された文章だろう。直接名前が出ることはないが、本書がトランプとその支持者たちが繰り出す暴言や暴力に対して抵抗するために編まれたものであるのは容易に見て取れる。それを踏まえるのならば、躁病的な支配者に対して躁病でもって対抗しようとするのは、あまり効果的でないように思えるのだ。
 よくよく思い出してほしい。泡沫候補としか見られていなかったはずの不動産屋が、いかにして大統領にまで上り詰めたか。彼は「Make America Great Again」というスローガンを何度も発しながら爆発的な勢いで支持者を増やしていった。ここで「Again」という単語が使われている点に注目すべきだろう。アメリカはかつて偉大であったが、今はそうではない、ならば再び偉大にしようではないか、というわけだ。つまり、偉大なるアメリカは一度失われたのである。
 改めてフロイトを参照するならば、彼は喪ないしメランコリーになるきっかけは人間の喪失に限らないと述べている。

 喪はきまって愛する者を失ったための反応であるか、あるいは祖国、自由、理想などのような、愛する者のかわりになった抽象物の喪失にたいする反応である。これとおなじ影響のもとに遭って、病的な素質の疑われる人たちでは、喪のかわりにメランコリーが現われる。

「悲哀とメランコリー」p137訳文を一部変更

 「祖国、自由、理想などのような」「抽象物の喪失」も喪やメランコリーの対象となるのならば、自国の栄華もまたそこに含まれるだろう。アメリカ(の白)人は、かつてのように世界を支配する自国を失ったことに起因するメランコリーを抱えていた。そこに現れた野放図に暴言を発する色物セレブはいわば、アメリカ(の白)人にとって躁的防衛を代理してくれる存在だったのではないだろうか。注3
 そして、こうした躁病的な支配者が権力を握っているのは、アメリカに限った話ではない。現在の世界は躁的防衛に満ち溢れている。言いかえれば、かつてそこにあったはずの対象の喪失を認めきれず、それをどうにかして取り返そうともがく万能を装った権力者たちが跋扈しているのだ。
 彼らはもう二度と自国がかつての栄華を取り戻せないと認められない。あるいは、彼らは地球がかつてのように環境に配慮することなく住める星ではなくなってしまったと認められない。あるいは、彼らはこの世界がもう二度とかつてのように感染症の蔓延に悩まされることなくあちこちを行き来できる場所ではなくなってしまったと認められない。あるいは、彼らは人間は知能の点であらゆる存在を支配する生物ではなくなってしまったと認められない。あるいは……このように、現在の世界にはかつて愛着を寄せていた対象が過去のものになってしまったと認められず、躁病的な乱痴気騒ぎを求める者たちで溢れているのではないだろうか。
 そんな中で躁病に批判能力を与えつつ、それこそが暴力を批判できると主張することにどこまで有効性があるだろうか。バトラーは躁病こそが「失われた対象との紐帯を断ち切り、喪失した対象を能動的に断念しようとする」反応だと述べているが、双極性障害や気分循環性障害に悩む人々を見るに、躁病になったからといって失われた対象との紐帯が断ち切られるとは限らない。現実にはフロイトも述べているように、「メランコリーの時期と躁病の時期がきちんと交代する例」もあるのであって、躁病的な振る舞いを見せたからといってその患者の根本的な問題が解決されているわけではない。むしろ躁病にこだわることは、対象喪失の克服をスムーズに促せない危険性さえ否めないのだ。
 そもそも、「喪とメランコリー」においても、躁病的な振る舞いを見せている人はかならずしも対象喪失を克服しているとは言い切れないのではないか、と留保している節さえうかがえる。フロイトは喪の作業をするとき人がどのようにリビドーを対象から撤退させていくかを振り返りつつ、「この場合、喪の過ぎ去った後に勝利の時期を迎えるはずの経済的条件が、喪の時期には片鱗さえみせないのはなぜであろうか」といぶかしんでいる。仮に躁病的な振る舞いが対象喪失を克服した証拠だとしよう。それならば、(メランコリーとは違って)正しい形で対象喪失を克服する喪の作業をするときもまた、人は躁病的な振る舞いに及ぶはずだ。にもかかわらず、現実はそうではない。ならば、本当に躁病は対象喪失を克服している証拠だと言えるのか――フロイトはこの点に決着をつけてはいない。いずれにせよ躁病で現状を変える、つまり、対象喪失を克服しようとするのは相当に難しいのは間違いないだろう。

5.喪失された喪

 これまでの批判を通して、筆者の中にはある思いつきが浮かんでいる。あくまでも思いつきであって、具体的な裏付けがあるわけではない。しかし、おそらくそれなりの確率で正しいと思えるような直感である。それはこういうものだ。
 我々が本当に取り戻すべきものは、喪の作業ではないか?
 すこぶる簡単な話なのだ。なぜ世界がこうも躁病的な振る舞いに満ちているのか。それは正式な喪の作業をしっかりと行っていないからにほかならないのではないか。失った対象を体内化することなく、時間をかけてもうあの人はいないのだと認める作業を通してこそ対象喪失は克服できると、フロイトは述べていた。それこそが現在の我々に欠けているものなのではないか。黄金時代にあった祖国、気兼ねなく棲みつくことができる地球、国境をなきものとする自由な往来、人間による世界の支配、その他もろもろ……そんなものは別に取り戻せなくてもよいのだ。それよりも取り戻すべきなのは、そうした喪失をきっちりと清算するための喪の作業なのではないか。それが出来さえすれば、現在の社会の問題のいくつかは解決されるはずなのである。
 喪の作業? そんなものはいつだってやろうと思えばできるものじゃないか――いや、どうやらいつの間にか我々はそのやり方を忘れているらしいのである。でなければ、こんなにも愛着を寄せていた対象が喪失されたことを認められない連中が跋扈していることの説明がつかない。
 じゃあ、いったいいつ私たちは喪の作業ができなくなったのだろうか――それはわからない。はっきりとしたある時点を画定することはできない。過去の人々はつつがなく喪の作業ができていたという保証もない。ひょっとしたら喪は相当に難しい作業なのかもしれない。どころか、喪の作業はそもそも可能なのか、という気もしてくる。だから、我々の抱えている問題は正しくはこう言いかえるべきなのかもしれない。
 我々は不可能な喪とどのように向き合うべきなのか?

脚注

 注1 本書では言及されていないが、バトラーがこのように超自我を批判的に論じる理由の一端には、それが「父」に由来しているからではないかと推測できる。フロイトは「自我とエス」の中で、超自我の発生は「幼年時代における父との同一視」を起点とする、と述べている。簡単にまとめれば、子供(男児)は母を独り占めにできる父を排除しようとするが、幼い力ではそんな芸当ができるはずはない。ならばとばかりに子供は戦略を変え、今度は父になろうとする。父に対して愛着を寄せることで、彼と一体になろうとするのだ。が、無論そんな願いも叶うはずはない。その結果子供の中には「お前は父のようであらねばならない」という勧告と、「お間が父のようであることはゆるされない」という禁止が沈殿する。これは言いかえれば、「お前はお父さんのように誰かの行動を禁止できる存在になりなさい」という要求と、「お前はお前自身の欲望を制御できる存在になりなさい」という要求であり、ちょうど自分の中にある破壊衝動を自分自身へと向け変える超自我の性格と一致する。子供はいわば、自分の中に父を住みつかせることによって自分の中にある破壊衝動を自分に向け変える存在となるのだ。「超自我は父の性格を保持するであろう」。フェミニストであるバトラーからすればこうした家父長的論理を丸ごと飲み込むわけにはいかないだろう。
 
注2 ここではメランコリーと超自我がほぼ同じものとして扱われているが、これはバトラーの独創ではなく、フロイト自身の態度をしっかりと継承していると付け加えておこう。「自我とエス」において超自我を分析する際、フロイトはほかならぬ「喪とメランコリー」を参照しつつ議論を進めている。注1でも確認したが、超自我の発生は「幼年時代における父との同一視」を起点としている。子供は父を愛そうとするが許されない。その結果子供は父をせめて体内化してでも生き延びさせようとする。体内化した父はやがて超自我へと発展していく。なぜ超自我がしばしばサディスティックな要求を繰り出してくるのか、と疑問はメランコリーの分析を介せばわかりやすくなる。子供は本当なら父親に向けるべきだった嫌悪感情を自分自身に向け変えているのだ(もとはといえば子供は母親を独占できる父親を排除しようと思っていたが、それが叶わないからこそ戦略を変え父になろうとしていたのだった)。こうした来歴を踏まえれば、バトラーが超自我を撤廃しようとするのはなおさら理解しやすくなるだろう。
 
注3 だからといって、筆者はトランプが双極性障害や気分循環性障害だと臆断するつもりはない。それは精神科医でも精神分析家でもない筆者にとっては手にあまる話だ。だが、トランプの在任中、彼の無軌道な言動に接した人々がしばしば躁病を疑っていた事実は見逃せないだろう。実際、アメリカでは『ドナルド・トランプの危険な兆候』という精神科医たちが共同で編んだ本が(面会して診療した患者以外の人物へのコメントはしてはならないという禁を破って)出版されている。その中でジョン・D・ガードナーは、軽躁気質の特徴(過活動、短時間睡眠、過信etc..)を確認しつつ、以下のように述べている。

 この記述はトランプに恐ろしいくらいよく一致している。彼は「私はたいてい夜には四時間しか眠らない」(一九八七年)と言っている。短時間睡眠は軽躁のかなり確実な指標である。しかも彼は「私みたいに四時間しか眠らい人間には勝てないでしょう」と自慢している。彼は週に七日仕事すると言う。一日の平均労働時間は一八時間だと言う。そして「一〇〇本以上電話をかける」と言う。「少なくとも一二回ミーティングをする」と言う。ツイッターではこうも言っている。「エネルギーがなければ何もないのと同じだ」。〔……〕「成功した人のほとんどは、次から次へと物を考える。それが想像力と強く相関している」とトランプは『億万長者の思考』〔……〕に書いている。それは正しい。そしてそうした思考の速さは創造性を生む一方で、地に足が着かない思考でもあるのだ。トランプは自分の考えと判断が誰よりも正しいと思っている。これもまた軽躁状態の常である。彼は「他人から見てどんなにクレイジーで馬鹿げていても、自分の考えに従う」のである。

ジョン・D・ガードナー「ドナルド・トランプは、(A)悪なのか、(B)狂なのか、…」バンディ・リー編『ドナルド・トランプの危険な兆候』岩波書店p104-105

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