パレスチナとともに非暴力を顧みる

1.オーウェルの非暴力批判は正しいか?

 非暴力による抵抗運動を追求する時に誰も一度は直面する課題として、非暴力の抵抗でさえも容赦なく暴力によって弾圧されたらどうするのか、というものがある。非暴力運動に対してそのような質問を投げかけてくる人は、左右を問わない。権力に親和的な連中が嘲笑しながら言ってくることはザラだ。暴力革命を志向する勢力が生ぬるい態度に痺れを切らして罵倒気味に言ってくることもしばしばである。
 質問のクオリティも様々だ。非暴力運動の実態をよく観察しないままに冷やかし目的で訊ねてくる人間もいれば、一度は非暴力運動に携わりながらも挫折し、その限界を見据えたうえで鋭い批判を提出してくる人間もいる。
 非暴力運動に懐疑的な意見を寄せた一連の声のなかで、有名なものとして挙げられるのはジョージ・オーウェルによるものだろう。彼は暴力にもとづく権力の簒奪と、非暴力による独立の成就をそれぞれ目撃できた時代の人だ。ボルシェヴィキや国民社会主義を唾棄した一方で、サッティヤーグラハにも信を置かなかった彼は、「ガンディーを顧みて(Reflecions on Gandhi)」のなかで以下のように問いかけている。

ガンジーの手法は、政権に反対する人々が真夜中に行方不明になったまま消息が途絶えてしまうような国では実行するのは困難だろう。言論の自由や集会の権利のないところでは、国外の世論にアピールするのさえ難しいばかりか、大衆運動を生じさせることも、自分の意図を敵に知らせることさえ容易ではない。今現在ロシアにガンジーのような人物はいるだろうか? いるとしたら彼は何を成し遂げようとしているのだろう? ロシアの大衆が市民的不服従を実行するには、彼ら全員の頭に同時にその考えがたまたま浮かぶということがない限り無理だし、その時でも、ウクライナで起こされた人工的な飢饉の歴史から判断すれば、たいした違いは生まないまま終わってしまうことだろう。

「ガンジーについて」『あなたと原爆 オーウェル評論集』光文社古典新訳文庫p275‐276

さらには、人間というのはすべからく〔ママ〕、程度の差こそあれ基本的にはわかりあえる存在であって、思いやりのある行為にはそれにふさわしい態度で応じるものだ、というガンジーが個人を相手にしたときにはとてもうまく働いていた前提についても、真剣に疑ってみる必要がある。たとえば狂人を相手にしたときにはこの前提は必ずしも正しくない。となると問うべきことは、誰が正気なのか? ということだ。ヒトラーは正気だったか? ある一つの文化全体が他者の基準から見て正気ではないと判断されることもありうるのではないか? そして国家全体の感情をはかることが可能だとして、思いやりのある行為と友好的反応の間になにかしら明確な因果関係があると言えるだろうか? 感謝というのが国際政治において本当に有効なファクターになりうるのだろうか?

同p276‐277(注1)

 簡単にまとめれば、マハトマ・ガンディーによる非暴力運動はイギリスのように理性的な相手だったからこそ成立したが、ソ連のようにそもそも運動そのものを阻止する国家や、抗議の声に聞く耳を持たないナチスのような国家では成立しないだろう、とオーウェルは言いたいのだ。

 こういった意見には様々な回答が考えられる。まず、そもそもイギリスはオーウェルが言うほど理性的な国家だったか? と問い返さなくてはならない。実は最近、この観点からオーウェルに間接的に応答した本が出版されている。アメリカの政治学者エリカ・チェノウェスは、『市民的抵抗』のなかでこう述べている。

 インドの塩の行進は、大英帝国ではなくヒトラーにたいする闘いであったら、非暴力を維持できたか?
 
〔……〕
 第一に、イギリスの植民地主義がいかに残酷であったかを認識することが重要である。〔……〕たとえば、一九一九年、イギリスの植民地軍は、インドのバンジャーブ州のアムリトサルに集まった非暴力抵抗者たちを何百人も殺害した。何千人ものインド人が、ヒンドゥー教とシーク教の祭日であるバイサキを祝うために、そして、数日前に逮捕された独立支持派の二人の指導者――サティーヤパルと、サイフディン・キッチリュー――の逮捕と追放に平和的な方法で抗議するために集まっていた。イギリス軍の准将代理は、英領インド陸軍を送り込み、群衆に向けて発砲するよう命じた。何百人もが殺害され、千人以上が負傷した。事件について、J・P・トンプソン英領インド帝国バンジャーブ州知事は、こう日記に記している。「血のビジネスで二百から三百人が庭で殺害されたようだ……が、おそらくその行為は結果をもって正当化されるだろう」。

エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』白水社p287

 このように、大英帝国はお世辞にも理性的と呼べる国ではなかった。
 そもそも、アムリトサル虐殺のきっかけとなった抗議はなぜ起きたのか?  同年の3月に、イギリスは刑事法緊急権限法(ローラット法)を制定していた。これはインド人を令状なしに逮捕できるだけでなく、裁判すら省略して刑務所に入れることを可能にした法だ。実際に、引用中で取り上げられている「独立支持派の二人の指導者――サティーヤパルと、サイフディン・キッチリュー――」は、この法が公布されて間もなく逮捕されている。イギリスはそれこそソ連のように、やろうと思えばいくらでも抗議運動を封じこめられる状態にはあったのだ(注2)。

 また、イギリスがナチスに比べて「正気」だったか? という問いも投げかけられるだろう。チェノウェスは言及していないが、たとえばイギリスは第一次世界大戦中に、インドに対して将来的な自治を条件に戦争への物的・人的支援を要請していた。にもかかわらず、大戦後イギリスは先ほど見たように、ローラット法を制定することでそうした協力を仇にした。こういった所業を平然とやる国家が、果たして「正気」と言えるだろうか?
 オーウェルは、ガンディーが第一次世界大戦中イギリスに加担していたと指摘している。たしかにガンディーはこの期間中、積極的に地元を渡り歩いて徴兵活動を行っている。だがそれは前述したように、インドの独立を見据えた上での行動だったのだ(オーウェルは、ガンディーが南アフリカ滞在時代に起きたボーア戦争で衛生隊として従軍していたとも指摘しているが、それも同じ理由に基づいた行動である)。
 ガンディーを始めとしたインド人の援助をイギリスが不意にしたという意味では、「思いやりのある行為と友好的反応の間に」はなんら「明確な因果関係」がないとのオーウェルの言い分は証明されているともいえる。だが同時に、大英帝国は国民社会主義に比べればたしかに幾分かは正気だったかもしれないが普通の基準に照らせば十分に狂人だった、とは言えるだろう(注3)。
 これらのイギリスの所業を振りかえるに、そういった暴虐な相手に非暴力でもって対抗しえたガンディーは、やはり偉大と言えるのではないだろうか? ――こういった批判をチェノウェスは(直接言及してはいないが)オーウェルに繰り出しているのだ。

 ただ、歴史を振りかえってみるとやはり、国民社会主義やボリシェヴィキには非暴力抵抗は通用しなかったとも認めざるを得ないように思える。
 国民社会主義が瓦解したのは、ソ連とイギリスを相手にした二正面作戦という自滅的戦略を採用したためだった。もちろん、その間には少なからぬレジスタンス活動がおこなわれたが、それ以上に赤軍の圧倒的な兵数やイギリス空軍の大規模爆撃こそがナチスを破滅に追い込んだ、と認めない人はおるまい(注4)。
 また、スターリン体制にいたっては書記長の死まで崩壊することがなかった。オーウェルに至ってはそれより先に逝ったので、この恐怖政治体制が潰えるところを見られなかった。1924年から1953年までのソビエト連邦は、「言論の自由や集会の権利のないところ」だった。ソヴィエトという国家にしたところで、崩壊したのはゴルバチョフによる内側からの改革や、原油価格下落にともなう経済の低迷が原因だった。多くの衛星国が民主化したのも、それを弾圧するだけの余力が残っていなかったからこそだ(余力が残っていたころはプラハの春を軍事介入で潰していた)。
 つまり、これらの「狂人」が率いる国家に対して非暴力は有効な戦術ではない、というオーウェルの意見は、部分的には間違っているかもしれないが、一方で一定の説得力も備えているように思える。

 果たして、非暴力抵抗は「狂人」が率いる国家にも通用するのだろうか? それとも通用しないのだろうか? こういった問いは、今日においてこそなおさら追究しなければいけないだろう。
 なぜかといえば、ほかならぬソ連の後継国家であるロシアが容赦ない暴力によって多くの非暴力運動を弾圧しているからだ。ウラジーミル・プーチンが権力を握ってからというもの、ロシアでは様々な抵抗運動が組織され、その都度挫折を余儀なくされた。2022年のウクライナ侵攻以降はいっそうデモが活発に行われているが、侵攻反対にせよ、動員反対にせよ、アレクセイ・ナワリヌイが獄中で亡くなったことへの抗議にせよ、局面を打開するには至っていない。つい先日はプーチンが五期目の就任式を行ったばかりだ。
 ソ連は非暴力によっては根本的な崩壊は迎えなかった。そして、ロシアもまた……といった悲観的なシナリオを、我々は想定せざるを得ない段階に入っている。

 同時に、抵抗運動を弾圧している国家はロシアだけに限らない。独裁者が権力を握ったり、少数民族を迫害し続けたりしている国家は多数あるが、その中の一つとしてイスラエルが挙げられるだろう(注5)。大英帝国の委任統治領だったパレスチナの地に新たに生まれたユダヤ人国家は、大英帝国にも劣らない狂人ぶりでパレスチナ人を迫害し続けてきた。
 イスラエルに対して1948年以来パレスチナが採用してきた活動のなかには、暴力にもとづいた抵抗も含まれる。だが一方で、非暴力にもとづいた抵抗が数多くあったことも忘れてはいけない。パレスチナは75年にわたり、様々な手段を尽くしてイスラエルの占領から脱出しようともがき、あがいてきた。部分的には成功した試みもあった。が、基本的には、イスラエルの圧倒的な武力や、強国の後ろ盾を頼りにした政治力の前に、パレスチナ人は敗れ続けてきたと言わざるを得ないだろう。
 そして、2023年10月7日に始まったガザ侵攻は、すでに10カ月を過ぎたが一向に終わる気配がない。北部を起点にした攻撃は時間とともに南下し、ついに最南端のラファまで破壊され、イスラエルはガザを人の住めない土地に変えている。それだけでなく、ヨルダン川西岸に住む人々も入植者たちによる暴力に晒されている。ただでさえガザと西岸の行き来は難しいうえに、西岸を統治するパレスチナ自治政府はまるで機能していない。
 そんなパレスチナにおいても、非暴力は有効なのだろうか?

2.非暴力のポテンシャル

 念のために言えば、ある方法が極端な事例において通用しないからといって、すぐさま無効になるわけではない。言いかえれば、たとえ正真正銘の「狂人」に対して通用しなかったとしても、別の場面では非暴力は有効な手段たりえるのである。
 そもそも、非暴力運動はどのくらい有効なのか? チェノウェスは1930年から2019年までに行われた大衆運動をそれぞれ、非暴力的なものと暴力的なものに分類しつつ、以下のようなグラフを提示している(図1)。

図1 非暴力的なキャンペーンと暴力的なキャンペーンの10年ごとの成功率(1930‐2019)https://www.journalofdemocracy.org/articles/the-future-of-nonviolent-resistance-2/より引用

 ここからもわかる通り、2010‐19年は34%とそれまでの二〇年間にくらべて低落傾向にあるものの、基本的に非暴力を志向する運動は、暴力を辞さない運動に比べて成功率が高い。チェノウェスはキャンペーンの「成功」の定義を説明しつつ、以下のように述べている。

 市民的抵抗の研究者は一般に、キャンペーンのピークから1年以内に政府の転覆または領土の独立が達成されたら「成功」と定義している。過去120年間に始まり、そして終わった565のキャンペーンのうち、非暴力的キャンペーンの約51%が完全に成功したのに対し、暴力的キャンペーンは約26%しか成功していない。このように、非暴力的抵抗は暴力を2対1の差で上回っている。(非暴力的キャンペーンの16%、暴力的キャンペーンの12%は限定的な成功に終わっている一方、非暴力的キャンペーンの33%、暴力的キャンペーンの61%は最終的に失敗に終わっている)。さらに、市民的抵抗運動が行われた国では、内戦を経験した国よりも、争議後の民主的な統合の確率、紛争後の相対的な安定した期間、さまざまな生活の質の指標が高かった。

https://www.journalofdemocracy.org/articles/the-future-of-nonviolent-resistance-2/

 ちなみに、このネット記事が出た一年後に出版された『市民的抵抗』ではサンプル数が627に増えているが、結論はおおむね変わりない。

 もっとも、こういったデータを提示されたとて、にわかに呑みこみづらいところがある。医学のようにわかりやすい数値をもとに行う観察研究と違って、どのイデオロギーを採用するかによって見解が分かれやすい政治的事象を、果たして正しくデータ化できるのだろうか? また、読者の中にはチェノウェスが恣意的な基準をもとに「暴力」と「非暴力」、あるいは「成功」と「失敗」をそれぞれ分類しているのではないか、と疑う人もいるだろう(注6)。
 実際、(今回はくわしく論じられないが)チェノウェスの提示する個々の事例を見ていくと、彼女が対象となる地域の政治事情や歴史に通じていないがために分析が不十分に終わっている例も少なくない。
 そのため、全面的にチェノウェスの研究を信頼するわけには行かないのだが、一方で彼女が非暴力運動がいかに有効かを語るフェーズを読んでいくと、こういったデータもある程度信じていいのではないか、と思えるようになるのはたしかだ。

 チェノウェスの名は『市民的抵抗』の翻訳が出る以前にも、日本では知られていた。なぜかと言えば、彼女がTEDに出演した際に「3.5%ルール」なるものを提唱したからだ。簡単に言えば、国の人口の3.5%が参加した運動は失敗しない、というものである。

 これに注目したエクスティンクション・レベリオンなどが「3.5%」という数字を目標に参加を呼びかけたため、チェノウェスの名前は一気に世界に知れ渡ることとなった。
 しかし、チェノウェスに扇動的なところがあったのは否めないにせよ、この数字は一人歩きしすぎている。TED出演後の研究を踏まえた『市民的抵抗』においても、「三・五パーセントというハードルを超えたのは、三八九の抵抗運動のうちたった一八事例だけである」と書いているし、そのうち二例は(いくつかの考慮すべき事情はあるとはいえ)失敗している、と認めている。そもそも、『市民的抵抗』において「3.5%ルール」に触れられているのはわずか数ページにすぎない。つまり、提唱者自身がすでにこだわっていない「ルール」なのだ。

 もっとも、一方でチェノウェスは、より多くの人びとをまきこむ運動が成功しやすいことは認めている。まず彼女は、非暴力運動を首尾よく進めるためには、「権力保持者の計画や政策を実行・施行する責任者たちを本質的に分裂させたり、抱き込むこと」が欠かせないという。言うなれば、権力者の側近たちの良心に訴える離反工作こそが非暴力運動の武器だというわけだ。そして、権力者の周囲にいる人々の「忠誠心の変化を促す」ためにも、「抵抗キャンペーンが多くの異なるコミュニティから支持を得ている必要がある」と述べる。

家族、友人、仲間や隣人からの承認や、彼らとの気のおけない関係を維持したいという願望があれば、政権のなかにいる人さえも、〔不承認が続くと〕自分たちは現政権の制度を支持し続けることはできないと考えるようになる。それぞれのレベルにいる人びとが、政権の重要な社会的条件や態度に影響を及ぼす。前線にいる歩兵部隊であれ、戦略を企てる将軍であれ、外交官のような公務員であれ、電力系統の作業員であれ。

『市民的抵抗』p137

 権力の近くにいる人々の承認欲求を見透かしつつ、自分たちは民衆に認められていないという孤立感に追いこむことで彼らを運動の側に寝返らせる――運動に参加する人々が増えていけば、こうした事態が自然に増えていくだろうとチェノウェスは見込んでいるのだ。
 そして、非暴力運動こそ多くの人を動員しやすい、と彼女は指摘している。これはちょっと考えれば簡単に思いつく話だ。ためしにここで反対の事例を考えてみよう。暴力的な運動に参加する者はだれか? おそらく、多くの読者が20~30代くらいの男性を思いうかべただろう。念のために言えば、ここで性差別をするつもりは一切ない。暴力による抵抗に参加した女性は歴史を振り返ってみても少なくない。とはいえ現実的には、暴力が必要とされる運動には、体力的にも精神的にも強靭(であることを社会に求められている)な若い男性こそが参加しやすいと考える人の方が多いだろうし、若い男性ばかりが参加している運動に加わりたいと考える女性や高齢者は少ないだろう。
 一方で非暴力運動にならば、男女を問わないだけでなく、「少数派グループの人びと、子ども、老人、障がい者、非暴力を貫く道徳観を持つ人、用事を抱える親、周辺に追いやられた人びと、その他武装闘争には必ずしも手を挙げない日びとを」動員させられる。なにより重要なのは、幅広いのコミュニティに属する人々の参加が見込めることだ。年齢層や性別が限定された運動では、権力に属する人間にたいする離反工作は見込みづらい。一方で、たくさんのコミュニティから動員をかければ離反工作はうまくいくようになる。非暴力運動はこのように、実践的に見てもきわめて有効な手段なのである。

 また、このような離反工作がうまくいけば、非暴力運動が暴力的に弾圧されづらくなる――そんなメリットもチェノウェスは指摘する。たしかに、古今東西を問わず、非暴力運動を権力が軍隊を用いて鎮圧しようとした例は多い。ただ一方で、暴力による抵抗に比べればずっと被害は少ないというデータを引用している。

もし抵抗が唯一の選択肢ならば、非暴力抵抗は政権に対して武器を取るよりもリスクは低い。さまざまな要素を調整して分析してみると、一九四六年から二〇一三年の間に権力構造を変えようとした非暴力運動では、武力による抵抗に比べると驚くほど死者が少ない。この期間における武力を伴う平均的な反乱では、年に二千八百人が死亡するのに対し、平均的な非武装の抵抗で死亡するのは、毎年百五十人ほどである。

同p278

 またチェノウェスは、場合によっては治安部隊側を寝返らせることも可能であるとさまざまな事例を挙げている。

 治安部隊は――警察、民兵、軍隊は、次のような場合に離反する傾向がある。抵抗する者たちあるいは彼らの社会的ネットワークと民族的社会的つながりがある場合、政府や上官が自分たちを公平に扱っていないと考える場合、あるいは競争関係にある治安部隊――たとえば軍のライバル部隊やエリート警察隊――の方が自分たちの所属部隊よりも良い処遇を受けていると感じる場合である。たとえば2011年の夏、シリア軍のスンニ派徴兵部隊は、同国の多数派スンニ派からも参加者がいた非武装の抵抗者たちに対して実弾を撃ち込めという命令を拒否した。もし治安部隊関係者の家族や愛する者が政権に対峙していれば、家族内で圧力をかけやすくなる。あるセルビア人警察官はジャーナリストに対してこう述べた。自分は二〇〇〇年にミロシェビッチに抵抗する群衆の中に自分の子がいると思った。だから彼らには発砲せよという命令に従わなかったのだ、と。

同p157-158(注7)

 このように、非暴力運動は成功確率が高く、しかも戦略的にも優秀で、かつ安全に権力を転覆させやすい手段なのである、とチェノウェスは主張しているのだ。

 では、これを踏まえたうえでもう一度問おう。非暴力はパレスチナにおいても有効なのだろうか?

3.パレスチナにおいても非暴力は有効か?

 パレスチナの抵抗運動というと、二度にわたるインティファーダが思い浮かべられやすい。だが、それ以外にもパレスチナ人は様々な形でイスラエルに対して抗議を行ってきた。
 近年の運動のなかで特筆すべきなのは、2018年から2019年にかけて行われた「帰還の大行進」である。最初に抗議デモがおこなわれたのは3月30日で、この時にはおよそ3万人の参加者がガザとイスラエルの国境間に設置されたフェンスに集結した。

 なぜ彼らはこの日にデモ行進を催したのか? それは3月30日が、パレスチナ人にとって記念すべき「土地の日」にあたるからだ。1976年に、イスラエルはアラブ人の土地を没収し国有地にすると発表した。このため、同年3月30日にパレスチナ人たちは抗議デモを組織したが、軍と警察によって6人が殺害され、100人以上の人々が負傷した。以来パレスチナ人にとって3月30日は、イスラエルに土地を奪われたことを記憶すべき日付となっている。
 2018年にデモが行われた理由の一つとして、ドナルド・トランプがイスラエルに置いているアメリカ大使館を、テルアビブからエルサレムへと移転すると決定したことが挙げられる。周知のとおり、エルサレムはキリスト・ユダヤ・イスラームの3つの宗教が共通して聖地と定めている土地である。そのため、無用な衝突を避けるために1948年のパレスチナ分割決議では、国連の管理地として定められた。にもかかわらず、そういった土地に大使館を置くということは、エルサレムはイスラエルの領土だと公認することである(トランプはエルサレムを「イスラエルの首都」と呼んでいた)。
 パレスチナ人はそれに反発してデモを企画したのだった。もちろん、彼らの要求の中にはパレスチナ人の積年の願いである帰還、そしてガザの解放も含まれていた。

 抗議デモに参加した人々はほとんどが武装していなかった。たしかに、国境に設けられたフェンスを切り落としてイスラエル領内に侵入を試みた者もいる。(イスラエル軍の銃撃をかわす煙幕として)タイヤは燃やされたし、投石も行われた。とはいえ、イスラエル側の負傷者は報告されていない。それに対し、パレスチナ人の死者はすくなくとも17名、負傷者は1400名を数えた。イスラエルはパレスチナ人に対して容赦なくゴム弾や催涙弾、場合によっては実弾で応戦し、非武装デモの鎮圧を図ったのだ。
 初回はこのような結果に終わったが、パレスチナ人はめげずに毎週金曜日に行進を続けた。4月6日にはおよそ2万人が参加し、9名が死亡、1350名が負傷した。「PRESS」と書かれたビブスをつけていたジャーナリストも射殺された。

 4月13日のデモでは、およそ1万人が参加した。3名が死亡し、969名が負傷した。死者の中には聴覚障害を抱える人も含まれていた。また、この時にもジャーナリストが撃たれ、25日に亡くなった。

 4月20日のデモは「ガザの女性たちの行進」と銘打って行われた。過去三度のデモでも多くの女性たちが参加し、少なからぬ人々が負傷している。この時にもやはり1万人近い参加者が集まったが、4名が亡くなり、445名が負傷した。催涙ガスから逃れるために走ったところ、頭を撃たれ亡くなったた子どももいた。
 4月27日のデモのテーマは「若者による反抗の日」だった。ここでは3名が亡くなり、884名が負傷している。3名の死者は、いずれも頭を撃たれたのが死因だった。過去4回のデモにおいても頭を撃たれて亡くなった人は多い。
 5月4日は翌日がメーデーであることを踏まえて「パレスチナ労働者の金曜日」と銘打ってデモが行われた。この時のデモはようやく死者が発生せずに済んだ。とはいえ、1100名が負傷し、内82名は実弾で撃たれていた。
 5月11日にはそれまで1万人前後で推移していた参加者が、およそ1万5千人にまで増加している。アメリカ大使館のエルサレム移転は14日に迫っていた。この時のデモでは1名が亡くなり、973名が負傷している。
 5月14日、アメリカ大使館のエルサレム移転への抗議デモは3万5千人から4万人の参加者が集まった。一連のデモのなかでは最も多い62名の死亡者と、2700名の負傷者が報告された。イスラエルは、死者のうち50名はハマースのメンバーだと主張している。国連人権委員会の報道官や、高等弁務官は事態を深刻視し、「非道な人権侵害」だと述べたが、イスラエルやアメリカはいつものごとく無視した。

 大使館移転への抗議をピークとして、以降デモの規模は小さくなっていく。とはいえ、毎週金曜日のデモ自体は引き続き行われていた。10月22日に行われたデモの後には、上半身裸の男アエド・アブ・アメロが投石する様子を収めた写真が、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」を思いださせるとしてちょっとした話題を集めた。

2019年に入っても、3月30日にはやはり数万人規模のデモが催されている。

 1年8カ月にわたるデモは12月27日を最後に終了した。一連のデモでは223名が亡くなり、負傷者は9000名以上を数えたと報告されている。
 しかし、パレスチナをめぐる状況はまるで変わらなかった。アメリカ大使館のエルサレム移転は結局覆ることがなかった。ガザの封鎖が解かれたわけでもない。パレスチナ人の帰還権も認められたわけでもない。むしろ今般のガザ侵攻を踏まえると、悪くなった可能性さえ考えられる。

 こうした結果をどう考えればよいだろうか? たしかに一連のデモでは投石が行われているし、凧を燃やしてイスラエル領内に侵入させる試みなども行われている。ただ、こういった行動はあくまでも限定的なものだった(それにしても、銃を持って応戦してくる兵士相手にこの程度の抵抗をするだけでも「暴力」として扱うのは、なんともおかしな話である)。デモに集まったのはほとんど非武装の参加者ばかりだ。
 その証拠に、一連のデモで亡くなったイスラエル人は、イスラエルの報告を真に受けたとしても一人しかいない(国連人権理事会はイスラエル人の死亡者をゼロと発表している)。第一次インティファーダは非暴力的な運動としてチェノウェスにも称賛されているが、にもかかわらず200名のイスラエル人死者を出したことと比べれば、格段に平和的な運動だったと言えるだろう。注目すべきこととして、一連のデモではハマースも動員を行っている。世界的にテロ集団として認知されているハマースが関与したにもかかわらず、ここまで非暴力的な運動が実現できたのだ。
 動員数自体も(200万人を超えるガザの人口に限っても)「3.5%」は超えていないが、それなりの人数が長期間にわたって集まっている。要求もシンプルだった。ガザの封鎖が解かれ、元住んでいた土地に帰ることこそ彼らの願いだった。それなのにこの運動はまるで成功しなかった。一体、なぜだろうか?

4.インティファーダは非暴力だから成功したのか?

 もちろん、もう一つのパレスチナの自治区であるヨルダン川西岸と連携が取れず、より大規模な運動にならなかったために失敗した、という説明もできるだろう。西岸を支配するファタハとガザを支配するハマースの関係は長年劣悪だった。近年は両者が歩み寄りを見せ、2017年に一旦は和解成立しかけたこともあった。しかし、その後の交渉がうまく進まず、今に至るまで関係性は改善していない。これに加えて、そもそも西岸とガザとの間の移動が困難なためにパレスチナ全域での運動を展開するのは難しい。
 だがそれ以上に、たとえば第一次インティファーダがこの上ないタイミングで勃発した運動であったからこそ成功したのに対し、帰還の大行進がパレスチナにとって風向きの悪い中で行わざるを得なかったからこそ失敗した、という見方もできるだろう。

 第一に、第一次インティファーダの期間中には、パレスチナとイスラエル以外のアクターが様々な形で和平を後押ししていたことが挙げられる。パレスチナ/イスラエルの関係を語る上では、なんといってもアメリカが欠かせない。その点、当時のアメリカの中枢を占めていた人々は、イスラエルに対して強硬姿勢を取っていた。1989年から大統領を務めたジョージ・H・W・ブッシュや国務長官ジェイムズ・ベイカーは、当時の共和党がユダヤ票に頼らずとも選挙に勝てていたこともあってイスラエルに対して気兼ねなく圧力をかけていた(注8)。インティファーダの成功の要因を探るためには、こういった後ろ盾がいたことは認めなければいけないだろう。それに比べると2018年から2019年のアメリカで権力を握っていたのは、考え得るかぎりで最低の人物だった。

 同時に、第一次インティファーダ中にアラブ諸国がイスラエルに対して敵対姿勢を取っていたことも大きかった。1972年にアラブ連盟はいわゆる「イスラエル・ボイコット」を決定した。イスラエル製品やサービスの輸入の禁止だけでなく、イスラエルと取引を行っている外国企業の交易も禁止したのだ。このボイコットはインティファーダ期間中にも継続されており、イスラエルを経済的に少なからず苦しめ、パレスチナ人の要求を呑むことでアラブ連盟との関係を改善する必要性を認識させた。このように確実な成果を挙げたボイコットは、しかしオスロ合意が結ばれた後の1994年に部分的に解除されてしまった。以来イスラエルはアラブ諸国との関係構築に努め、時間は前後するが2020年にはUAE、バーレーン、スーダン、モロッコといったアラブ連盟に属する国々と国交正常化を果たしている(これにともなって国交を結んだ各国はボイコットを完全に廃止してしまった)。つまり2018年から2019年にかけてイスラエルは、周辺諸国のプレッシャーが少ない状態でガザのデモに対応できたのだ。

 それ以外にも、第一次インティファーダ期間中に世界中で抵抗運動が同時多発していたことも見逃せない。80年代後半から90年代前半の間に勃発したり、大きな動きを見せた反政府・反権力運動は枚挙にいとまがない。ピープルパワー革命、8888民主化運動、天安門、東欧での相次ぐ革命、アパルトヘイト撤廃……失敗した運動もあるが、同時に成功した運動も多かった。そうした時代の空気のなかでインティファーダは世界的な注目を集め、少なからぬ人々がパレスチナ人の置かれた境遇に共感を寄せた。言うなればこの時期のパレスチナ人は、世界の人々と共にイスラエルに抵抗していたのだ。それに対して帰還の大行進が起きていた時期の空気は、黄色いベスト運動や香港民主化デモ、スーダン革命など抵抗運動がなかったとは言えないにせよ、90年前後に比べればどうしても革命や変革などとは程遠かった(もちろん、こうした抵抗運動が少ないということは、それだけ世界に圧政が少なくなっていることの裏返しである可能性に留意する必要はあるにせよ)。それも影響してか世界からパレスチナに向けられる関心は少なく、帰還の大行進にシンパシーを寄せる運動家もきわめて少なかった。この点でもイスラエルはプレッシャーを受けなかったのだ。
 非暴力運動を行う上では、一国ないし二国の単位で戦略を考えるだけでは足りない。国境を超えた往来が容易になり、デジタルメディアなどで他国の状況も簡単に知れる現代においてはなおさら、運動が起きている国以外の人々にもアプローチを行わなければいけない。その点で言えば、第一次インティファーダは世界に訴えかけやすい環境で運動を行えたからこそ成功した。その反対に帰還の大行進は、世界がパレスチナを無視している状況下で運動を行わざるを得なかったからこそ失敗したとも言えるだろう。

 第二に、イスラエルのパレスチナ人に対する態度も第一次インティファーダと帰還の大行進ではまったく違っていた。
 まず第一次インティファーダが起きたころのイスラエルは、非暴力の運動にどう対応していいか苦慮していた。彼らは圧倒的な軍事力を持っていたがために、武装した敵に対しては比類なき強さを誇った。しかし、非武装の民衆を鎮圧するために単純な武力を用いることは必ずしも効果的ではない。インティファーダを相手にして当時の国防省イツハク・ラビンは、「武力、腕力、殴打」も辞さず制圧するようIDFに命じた。それに応えて兵士たちはパレスチナ人の手足の骨を折ったり、実銃でもって銃撃したりした。とはいえ、訓練を積んだ兵士と言えど民衆に暴力をふるうのには抵抗を感じるものだ。その結果、任務拒否を申し出るイスラエル兵が少なからず出ることとなった。

 それに対して帰還の大行進が起きたころには、イスラエルは非暴力運動だろうと効果的に抑止するための戦略を整えていた。まずこのデモに対してイスラエル兵は、「バタフライ・バレット」という銃弾を使用した。

 国際人道法によって禁止されているバタフライ・バレットは通常の銃弾と違って、衝撃と共に銃の先端がめくれ上がるようにできている。これによって筋肉だけでなく、骨や神経、血管などを効率よく破壊できるのだ。頭などにこれを食らうと即死するのは言うまでもないが、イスラエル兵はパレスチナ人の脚に向けてこれを撃っていた。そうすることで神経や血管を破壊された脚は、切断を余儀なくされる。リンク先の猫塚義夫の報告によると、「イスラエル軍はたったの4、5カ月で少なくとも2000人のパレスチナ人を脚の切断に追いこんだ」という。
 バタフライ・バレットの使用によって得られる効果は二つある。まず、デモ隊の流れを断ち切れること。猫塚によると、「脚を負傷して1人が倒れると、最低でも3、4人が負傷者を助けようとする。その結果、デモ隊がだんだん途切れていく。この流れを彼ら(イスラエル軍)は知っている」という。もうひとつは、デモの参加者を次のデモに参加させづらくすること。脚を切断せざるを得なくなったような人が「大行進」することは難しい。これによって、少しずつデモへの参加者を減らすことこそイスラエルの狙いなのである。先ほども見たように帰還の大行進の期間中に出た死者は223人だった一方で、負傷者は9000人以上いて、当然ながら足を切断した人もそこには含まれる。我々はついつい死者の数を重視し、負傷者数を軽く見てしまうが、その内実には注意しなくてはならない。
 それ以外にもイスラエルは、デモ隊に向けて部分的ながらドローンで催涙ガスを投下していたこともあった。今般のガザ侵攻でも無人飛行機によるパレスチナ人の攻撃が問題になっているが、ドローンを使用するメリットの一つに、目の前にいる人を攻撃しなくても済むことが挙げられる。先程インティファーダを鎮圧しようとした兵士が任務を拒否したことを取りあげたが、いかに訓練を積んでいようと目の前の人間が傷つけられたり、苦しんだりする様子を見るのは抵抗があるものだ。一方でドローンならその抵抗を最小限に済ませられる。肉眼で敵が攻撃される様を見せられるのと、モニター越しの敵が攻撃される様を見せられるのとでは、心理に与える影響に違いがある(注9)。あけすけに言えば、ドローンを使えばより気軽に敵を攻撃できるようになるのだ。
 このように第一次インティファーダから約20年を経て、イスラエルが非暴力運動だろうと効果的に対応できる戦術を身に着けたからには、それぞれを単純に比較することはできなくなる。

 それから、第一次インティファーダ中にイスラエルで政権が代わっていたことも指摘しなくてはならない。インティファーダの勃発時、イスラエルでは右派政党リクードと左派政党労働党が大連立政権を組んでいた。しかし、92年に行われた選挙で44議席を獲得した労働党が政権を奪取し、リクードは政権から離れた。この時に首相となったのが、国防相としてインティファーダに対峙したイツハク・ラビンだ。ラビンはインティファーダを間近で見て、武力でもって蜂起を抑えるのは無理だと悟った。だからこそ、オスロ合意へとつながるPLOとの交渉に応じたのだ。一方で帰還の大行進に対応した首相は、考え得る限りで最悪の人物だった。
 一応言っておけば、ラビンが善玉でネタニヤフが悪玉という話をしているわけではない。ラビンは当初インティファーダに鉄拳をもって応じようとしていたし、1948年にはパレスチナ人の民族浄化に加担している。同じように労働党も、パレスチナ人に対する態度はリクードと大して変わりがない。とはいえ、国防相として現場で対応した人間と、首相として遠巻きに見ていた人間の非暴力運動に対する反応は少なからぬ差異が生じるだろう。この点でも第一次インティファーダは(少なくとも運動の後半においては)運に恵まれていたし、帰還の大行進は恵まれていなかった。

 最後に、パレスチナとイスラエルの関係性の変化についても指摘しておかなければならない。第一次インティファーダ中のガザや西岸は、イスラエルの占領地だった。つまり、パレスチナ人は占領民としてイスラエルに組み込まれていたのである。占領されたパレスチナ人が様々な形で迫害されていたことは言うまでもないが、その最たる例は徴税体制に見られた。たとえば、パレスチナ人の所得税は収入の39%に設定されており、イスラエルは滞納者の身分証明書を剥奪したり、物品を押収するなどして納税を強制していた。
 そうして集まった税収は名目上はガザや西岸などの公共サービスに使われるとイスラエルは主張していたが、実際にはろくろく道路は整備されなかったし、医療体制は杜撰なものだった。現実には支出は、占領体制を維持する軍事組織の強化に向けられていたのである。
 こうした中で1988年にベイト・サフールにおいて、住民たちによる納税拒否の運動が広がった。住民たちは「代表なくして課税なし」とのスローガンを打ち出したうえで、納税してほしかったら政治的権力を与えるよう要求した。翌年にイスラエルが軍を率いて村を包囲し、夜間外出禁止令を敷いたり、商店の商品を没収したりといった強制措置に打って出た。イスラエルにとって占領を維持するためにはパレスチナ人からの税収が欠かせない。だからこそ、納税拒否はイスラエルにとって一定程度のダメージを与える戦術だったのだ。
 このように非暴力抵抗は、抑圧されている側の住民が何らかの形で抑圧者の支配下に置かれているときこそ力を発揮する。一方で、現在のパレスチナにおいてこういった戦術はそもそも取ることができない。なぜかといえば現在のパレスチナ人に対する徴税はイスラエルが代理で行っているが、税収は自治政府に還付されるシステムが採用されている。仮にここで納税拒否を行ったとしても、イスラエルにはほとんどダメージはない。むしろパレスチナ人は自らの首を絞めてしまうだろう。

 それ以外にも、インティファーダ中には納税拒否以外にも様々な手段が尽くされていた。先程も言及したベイト・サフールでは、イスラエル製の牛乳を買わなくても済むように、住民たちが乳牛を飼育して牛乳を自給する取り組みが行われていた。当然イスラエルはそうした行動を取り締まろうとしたのだが、住民たちは牛をあちこちに隠匿することによって当局の目をかいくぐろうとした。これに対してイスラエルは牛を指名手配にかけ、数百人の捜査体制を敷いたという。滑稽な話だが、こうした間抜けさを引き出すことによって民衆の支配者に対する恐怖心を取り除き、抵抗心を育むことも非暴力運動にとっては重要なことである。

 ひるがえって、仮に現在のパレスチナでイスラエル製品のボイコットを促したら、果たして効果は生まれるだろうか? ――きっと無駄に終わるだろう。上でも述べたように、イスラエルはアラブ諸国との関係改善に努めた結果、製品のボイコットを取り下げることに成功した。それでなくてもイスラエル製品は世界中で取引されている。そんな中でパレスチナ一国でボイコットをおこなったとしても、さしたる影響はもたらさないに違いない。
 繰り返すが、非暴力抵抗は抑圧されている側の住民が何らかの形で抑圧者の支配下に置かれているときこそ力を発揮する。第一次インティファーダを非暴力で進めるにあたって、パレスチナはある意味ではうってつけの環境だったといえるだろう。
 それに対して2018年のガザは、形式上はパレスチナ人はイスラエルの支配下になかった。もちろん、ガザにいるパレスチナ人がイスラエル領内に出稼ぎに行く例は少なくない。こうした中で労働拒否をするという戦略も不可能ではないだろう(第一次インティファーダにおいてはゼネストが有効な戦術として活躍した)。しかし、イスラエルの人口は1980年代後半に比べて格段に増えている。パレスチナ人が労働に来なくなっても代わりの人材を使えばいいだけの話である。イスラエルにダメージを与えるための手段が限られている中で抵抗を行わなくてはならなかったという点で、彼らは不利な環境下で非暴力運動を行わなくてはならなかったのだ。

 以上、第一次インティファーダと帰還の大行進との比較をとおしてわかったのは、非暴力だからこそ運動がうまくいくとは限らず、過去の成功例を踏まえるにしても運動の主体が置かれていた環境をつぶさに分析しなければならない、ということである。
 たしかに第一次インティファーダはきわめてうまく統率がとれており、多くの人々を動員し、かつ長期間にわたって継続したという点で優れた非暴力運動だった。だが、だからといってすぐさまパレスチナにおいても非暴力は有効なのだ、と結論を出すのは拙速と言わざるをえない。第一次インティファーダは大変巡り合わせの良い状況で行われたために成功したのであって、必ずしも非暴力のみが成否を左右したとは言いきれないのだ(注10)。
 たしかに非暴力運動は、暴力による抵抗に比べて成功しやすいというデータはある。だがそのデータを妄信して、非暴力がどんな局面においても成功すると考えるようではいけない。我々はそういったデータから非暴力にはとてつもないポテンシャルがあるのだと希望は得つつも、一方でそれぞれの事例を注意深く観察しながら、果たしてこの運動は非暴力だからうまくいったのか、と疑う目を持つ必要がある。また、現在自らが置かれている環境を踏まえながら、果たして今ここにおいても非暴力は有効か、と検討しなくてはならないだろう。そうした作業を怠れば、非暴力は有効な戦略でなくなり、単なる金科玉条になってしまう。その結果、無意味な闘争が繰り返されるようでは本末顚倒だ。 

5.ふたたび、パレスチナにおいても非暴力は有効か?

 もっとも、こういった留保は帰還の大行進にも与えられてしかるべきだろう。帰還の大行進は失敗だった。ただし、だからといってすぐさまパレスチナにおいては非暴力は無効だと結論づけられるわけではない。諸々の要素がパレスチナにとってことごとく味方しなかっただけで、風向きさえ変わればパレスチナにおいても非暴力抵抗は可能になるかもしれない、と。
 とはいえ、こう言っても現状においてはあまり説得力はないだろう。今般の侵攻はガザ全域におよび、多くの人々が亡くなり、負傷し、住居や建造物が破壊されている。こんな状況においては、そもそも生存者の生活すら成り立たなくなっているのだから、民衆の抵抗運動など夢のまた夢だ――そう考えるのももっともである。
 一応言っておけば、パレスチナはガザだけではない。西岸にもパレスチナ人はいる。しかしながら、こちらから強力な抵抗運動が育まれるのも考えづらい。こちらではイスラエルの分離壁に邪魔され人々の交流が妨げられているうえに、違法な入植活動が後を絶たず、やはりパレスチナ人の居住地が奪われ続けているばかりか、入植者による暴力も頻発している。10月7日以来西岸ではガザ侵攻や西岸での横暴な行為に対して抗議するデモやストライキが行われているが、芳しい結果は得られていない。

 このように、現地の空気は絶望的であることは疑いない。ただ一方で、世界の風向きがパレスチナに味方しているのも確かだ。これまで細々と続いていたイスラエルに対するBDS運動は、かつてないほどの盛り上がりを見せている。スペインやアイルランド、ノルウェーなど、これまでパレスチナの国家承認を渋っていた国々が態度を改めたのも大きな動きだ。国際刑事裁判所は、ハマース幹部とともにネタニヤフへの逮捕状を請求した。これが訴追へとつながる可能性は少ないが、こういった動きが出てくるだけでも大きな進展と言える。
 なにより、イスラエルではネタニヤフの退陣を求めるデモも頻繁に行われている。言うまでもないが、それらの参加者がすべてパレスチナに同情的とは限らない。中にはあくまでもネタニヤフに信頼をおけないというだけで、ガザ侵攻や入植活動自体には反対していないというイスラエル人もいる。だが一方で、ベツェレムのように正常な人権感覚のもとパレスチナ人との和平を望む団体がいるのも事実だ。いずれにせよ彼らが望むように選挙が行われ、ネタニヤフともども極右勢力が負け、左派やアラブ系政党とは言わないまでも、せめて中道的な勢力が議席を伸ばしてくれればまだ対話のしようはある(一方でアメリカにおいては、バイデンのイスラエルへの対処が右往左往するあまり支持を失う一因となり、トランプが再選する可能性が高まりつつあるという油断できない情勢にあることも忘れてはいけない)。
 筆者は「危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ」といったハイデガーじみた思考は唾棄している(そもそも危機など起きないほうが良い)が、今回の危機が結果的にパレスチナ解放の可能性を切り拓いたのも確かだ。
 果たしてパレスチナ人が生活を取り戻し、故郷に帰還できる日がいつになるかはわからないが、それでも希望をもってあえて問うてみよう。パレスチナは非暴力でもって解放されるべきなのか? それとも、暴力でもって解放されるべきなのか?

 まず今回の侵攻で分かったのは、パレスチナにおいて暴力による抵抗を行えば、壊滅的な人的被害が避けられないという事実だ。もちろん、ハマースやイスラーム聖戦によるイスラエルに対する攻撃はこれまでも行われ、そのたびに報復が起き、たくさんの人命が失われてきた。ただ2023年以降の侵攻を踏まえると、たとえば2008年や2014年の侵攻は運よく短期間で終わったおかげで数千人程度の死者(というのもおかしな話だが)で収まったものの、ちょっとした歯車の嚙み合わせ次第で今回のように4万を超える死者が出てもおかしくなかったと振り返られるだろう。
 今般のガザ侵攻が長期化している要因としては、ハマースが停戦条件を有利なものにしようと固執している面も否めない。だがそれ以上に、ネタニヤフが専制的な司法改革で支持を失い、選挙を行おうにも行えなくなった、という事情が大きいだろう。ネタニヤフは首相を退けば逮捕が避けられない。だから彼は戦時体制を解けないのだ。これに加えて今の連立政権に多くの極右勢力が入りこんでいるのも見逃せないし、アラブ諸国との国交が正常化したおかげで周囲のプレッシャーを気にせずに侵攻に注力できるのも大きい。――つまり、イスラエルはタガが外れてしまえば何らかの衝突をきっかけにいつでもパレスチナ人殲滅を目指すような狂人だったということである。こういった敵を前にして今後も暴力闘争を続ければ、パレスチナ人の存在もろとも消滅させられる可能性が否めない。オーウェルは狂人を相手に非暴力による抵抗が成り立つか、と問うていたが、パレスチナのような群小勢力の場合は、むしろ狂人を相手に暴力による抵抗が成り立つかと問わなければならないだろう。

 ただ念のために言うが、暴力闘争を否定するからと言ってハマースやイスラーム聖戦の存在もろとも否定するわけではない。彼らがオスロ合意以降、まったく頼りにならない自治政府に代わって抵抗の火を絶やさなかった存在であることは疑いえない。たとえば今般のガザ侵攻においては、ハマースのテロは許せないが、との枕詞が頻繁に発せられ、中には非暴力でもって解決できなかったものか、と嘆く人もいるが、仮にハマースのテロがなかったとしてパレスチナに関心を持った人はどれだけいただろうか? 今日においてパレスチナを気に掛ける者のなかで、帰還の大行進が行われていた最中にパレスチナへの関心をもった人がどれだけいるのだろうか?
 
抵抗の手段として暴力が採用される理由の一つとして、権力との衝突を起こすことで大きなニュースを生み出し、第三者の興味を惹きつけ支持をとりつける機会を作る、というものがある。実際、今回ハマースが攻撃に打って出たのも、孤立が深まるパレスチナの現状を打開するため、との見方もある。その点に限って言えば、(最悪な形ではあるが)彼らは成功したと言わざるをえない。パレスチナに対する無関心が世界を覆っていた中で、彼らは毎日のようにニュースのヘッドラインにガザの名前が連なる状況を作った。代償として多くの人命が奪われた点で彼らの罪は小さくないが、一方で功績は功績として認めなければならないだろう。
 これに加えて、ハマースは未だ少なからぬパレスチナ人の支持を得ている事実も忘れてはいけない。そんな中で彼らの存在を否定するような措置を取ってしまえば、反発は免れられないだろう。最悪の場合、ハマースを受け継ぐ武装グループが現れ、パレスチナの分裂はさらに深まることが予想される。そういった事態を避けるためにも、ハマースの処遇は極めて慎重に検討しなければならない。

 もっとも、多くの人命と引き換えに世界の関心を惹くような方法は、とうてい長続きしない。たしかに現在行われている休戦交渉が合意にいたり、戦闘が終わったらパレスチナに関する世界の関心は止んでしまうかもしれない。人々は、よかった、これで戦争は終わるんだ、と胸をなでおろし、パレスチナなんか忘れて今まで通りの生活に戻っていくかもしれない――戦時のみならず平時においてもパレスチナ人は迫害され続けている現実に目を向けず。
 とはいえ、そういった無関心を破るために武力による抵抗を繰り返していたら、いくら人命があっても足りない。今こそ戦略を変えるべき時だ。パレスチナに対する関心が高まっている現状をうまく生かせば、非暴力抵抗でも十分に解放への道は開ける。
 たしかにハマースは長年武装闘争を繰り広げてきた組織だ。それがすぐさま武力を捨てて、非暴力による抵抗を取るようになるだろうか、と疑問に思う人もいるだろう。だが同時に、彼らはこれまでも少なからず非暴力による抵抗を採用してきた組織であることも見逃してはいけない。帰還の大行進はその一例だし、第一次インティファーダにおいてもストライキなどの非暴力キャンペーンへの参加を呼びかけていた過去もある(注11)。彼らの組織力や動員力をうまく生かしたうえで、ファタハとの和解が進みさえすれば、相当な規模で非暴力運動が巻き起こる可能性は十分にある。
 ただ、こういった意見に対して、中にはこう反論してくる人もいるだろう。パレスチナ人には自己決定権があるのだから、外側からあれこれと容喙するべきではない、彼らには暴力を選ぶ自由がある、と。実際、10月7日以来ハマースの立場を擁護するために様々な人々が暴力を用いることを肯定してきた。
 これについてはこう答えよう。先ほども述べたが、イスラエルのようにパレスチナ人の殲滅を辞さない相手に対して暴力で臨めば、民族もろとも滅亡する可能性も否めない。そんな状況において自決権を盾に外側から暴力を肯定することこそ無責任ではないか。戦えば死ぬことが目に見えている状況において敵に立ち向かおうとするのは、自殺と大して変わりない。人には自殺する自由があるから他人には止められない、などというのは、あまりに馬鹿馬鹿しい。
 筆者は、敵の意のままにされて惨めったらしく死ぬよりは自らの選択に基づいて誇り高く死ね、とのたまう連中が大嫌いだ。そんな二者択一しか与えられていない時点で自由などあるはずがない。それでも自由だの自己決定権だのと言うのは気休めだ。ほかならぬマハトマ・ガンディーこそがそういう気休めを言う人だった。

ヒトラーが五〇〇万のユダヤ人を殺害したのは今の時代の最大の犯罪です。しかし、ユダヤ人は自ら屠殺者のナイフに身を差し出すべきだった。自ら断崖から身を投げるべきだった。……そうしたら世界やドイツの人々を目覚めさせていただろう。……いずれにせよ、幾百万の人が死んだのだから。

ルイス・フィッシャー『ガンジー』紀伊国屋書店p358

 ガンディーは、ナチスによる迫害に関して戦前から一貫してユダヤ人の抵抗を呼びかけていた。彼はユダヤ人に対し、抵抗したらヒトラーに虐殺されるかもしれないが、それでも無抵抗の死よりはずっといいと訴えかけていた。ガンディーは宗教的信念によって死は恐怖するべきものではないと考えていた。神を信じているユダヤ人ならば、自分と同じように死を恐れずに抵抗できるはずだとみなしていた。
 無論、ガンディーはユダヤ人に対して暴力による蜂起ではなく、非暴力による不服従を勧めていた。が、いずれにせよ結論としては、おめおめと殺されるくらいなら自らの選択によって死ね、とユダヤ人に要求していたのである。
 ガンディーの独特な宗教観について詳しい人なら、こうした発言についても意を尽くして擁護するかもしれないが、筆者はさして興味がない。ヒンドゥー教やジャイナ教を独自の視点で解釈しつつ自分なりの宗教観を練り上げたガンディーや、敬虔な宗教者ならばたしかに死は恐れるべきものではないのかもしれない。だが、現代においては死を恐れる世俗的な人の方がほとんどである。より大きな抵抗を繰り出すためには、こういった人も参加できるような考え方に基づいて運動を組織しなければいけない。最も死者を出さず、かつ効果的に権力を打倒できる方法として、非暴力による抵抗を採用すべきなのだ。

 一方で、パレスチナが非暴力抵抗によって解放されるためには、世界中からの支援を取り付ける作業も欠かせない。第一次インティファーダの成功要因を分析したくだりで、筆者は非暴力運動は一国ないし二国単位で戦略を練るのみでは足りないことを確認した。ことにパレスチナ/イスラエルのように、マイナー民族が抑圧されている環境においては、なおさら第三者の介入が必須となる。
 たとえば独裁者に対して民衆が蜂起するような、よくある闘争の様子をイメージしながらパレスチナ人の抵抗を模索しても意味がない。独裁者は彼を支持する人々を懐柔しさえすればあっけなく倒れるが、イスラエル相手に解放を要求するならばユダヤ人を丸ごと相手にしなくてはならない。これに加えてイスラエルを支持するユダヤ人は世界中にたくさんいるし、ユダヤ人以外にもイスラエルを支持する勢力はたくさんいる(念のために言えば、これは陰謀論でもなんでもない。この期に及んでもイスラエルを支持している連中が後を絶たないのは、黒幕らしき誰かが裏で人々を操っているからではない。彼らはあくまでも自発的にイスラエルを支持しているにすぎない)。パレスチナはイスラエルを相手にしているだけでなく、世界をも相手にしなければならないのだ。こういった状況においてはどれだけ多くの人々をパレスチナ側に取り込めるかを、世界単位で考えなくてはならない。
 では、世界の人々が心置きなくパレスチナを支持できるような抵抗の方法とは何か? それこそが非暴力抵抗に他ならない。今般のガザ侵攻においては、パレスチナに対して同情的な声が高まる一方で、踏ん切りがつかずにパレスチナを支持しきれない人々も多くいた。なぜかと言えば、ハマースの手法は無条件に肯定できるようなものではなかったからだ。チェノウェスも述べているように、暴力による抵抗は確かに人々の関心を惹くことができるが、一方でそれが必ずしも支持につながるとは限らない。だが、非暴力による抵抗ならば人々の支持を取りつけるのは難しくない。この意味でもパレスチナは非暴力抵抗を採用すべきなのである。
 ちなみに、ここまで述べてきた見解は筆者のオリジナルなアイディアではない。さかのぼること40年ほど前、エドワード・サイードの盟友イクバール・アフマドはレバノン内戦の時点ですでに、パレスチナにおける暴力闘争を否定し、非暴力抵抗をPLOに向けて推奨していた。

レバノン南部のPLO基地を訪れた後、アフマドは助言を請う者たちを狼狽させるような批判を携えて戻ってきた。アルジェリアのような植民地主義体制に対する武装闘争を基本的に支持する立場ながら、PLOがこの戦略を実行しても効果は望めず、時には逆効果になる、とアフマドは強く批判した。
 さらに深刻なのは、道徳的・法的な観点ではなく政治的な観点に立つと、PLOの敵イスラエルに対する武装闘争は果たして正しい行動なのか疑問だという。ことに二〇世紀のユダヤ人の歴史に照らせば、暴力の行使はイスラエル人が持つ被害者意識を強めるだけで、イスラエル社会を団結させ、急進的なシオニズムを助長し、さらに外部からの支援を活気づけるだけであるとアフマドは主張した。

ラシード・ハーリーディ『パレスチナ戦争』法政大学出版局p215

 アフマドの卓見は、そっくりそのまま現在においても通用しうるだろう。それどころか、今日においては「外部からの支援」は40年前よりも「活気づ」いている。ユダヤロビーが長らく跋扈しているアメリカは言うまでもなく、ヨーロッパにおいても(ムスリム移民への嫌悪や偏見も交えつつ)反ユダヤ主義を封じるとの口実のもとパレスチナへの連帯を示すデモを禁じる動きが後を絶たない。彼らの言い分の正当性を切り崩すにあたっては、武装闘争は逆効果になりうるのだ。

 最後に一つ。ここまで筆者は非暴力抵抗が戦略的に優れているから採用すべきだ、という立場を採ってきた。これについて疑問に感じる人もいるかもしれない。非暴力は道徳的に優れているからこそ採用すべきものであって、戦略面を強調しすぎるのはいかがなものか? と。
 まず言えるのは、非暴力を採用しているからと言って、すぐさまその運動が道徳的になるわけではない。チェノウェスも述べているが、非暴力は道徳的でない連中によって採用されることもある。権力の手先が運動を撹乱するためにデモを行う例も少なくない。非暴力抵抗は本質的に道徳的なわけではない。あくまでも運動の過程を通して参加者が道徳的になり得る手段なだけである。本文で示してきたとおり筆者は非暴力抵抗を支持しているが、非暴力であれば無条件で道徳的になれるのだからその運動は大して努力しなくても多くの人々に支持されうるはずだ、などと考えている連中とは一線を画すつもりでいる。


脚注

(注1)このオーウェルの問いかけは読者に相当なインパクトを与えたため、様々なエピゴーネンを生んできた。たとえば、以下の文章は典拠を挙げず、まるで自分が独自に思いついた意見であるかのようにカモフラージュしながら「ガンディーを顧みて」を剽窃している。

もしガンディーの途方もなく強力で上首尾に運んだ非暴力的抵抗の戦略が、イギリスではなくて、別の敵――スターリンのロシア、ヒトラーのドイツ、さらには戦前の日本――にたいするものであったとすれば、結果は植民地からの脱却ではなく、大虐殺であり屈服であったことだろう。

ハンナ・アーレント「暴力について」『暴力について』みすず書房p142

(注2)ちなみに、このローラット法は制定されて三年で廃止されている。この間に一体何があったのかと言えば、ガンディーが率いるサッティヤーグラハだ。ガンディーは1920年からストライキやスワデーシー(国産品奨励運動)などを駆使しながら、様々な団体と手を組みつつ運動を組織していた。この第一次不服従運動は、1922年2月にチャウリー・チャウラーで起きたデモ隊による警官22名の殺害によって中断を余儀なくされる。が、一連の非暴力抵抗が大英帝国にある程度プレッシャーを与え、同年3月のローラット法廃止につながったという見方は十分にできるだろう。ガンディーはその後逮捕されたが、この時は(8日で結審するという杜撰な流れだったとはいえ)裁判の末に投獄されている。

(注3)これらの歴史的事実をオーウェルが知っていたかどうかは定かでない。いずれにせよ、オーウェルが(いかに自国の帝国主義に対して批判的だったとはいえ)イギリス人ゆえに大英帝国への評価が甘くなっている可能性は否めないだろう。彼は観念的な「ナショナリズム」を唾棄する一方で、実感に基づいた「愛国心(Patriotism)」は手放してはならないと説いたことでも知られている(「ナショナリズム覚え書き」)。しかしながら、ここにおいて彼は「ナショナリズム」によって目が曇らされているように見える。

(注4)チェノウェスは、ナチス政権下においても「白いバラ」を始めとしたさまざまな非暴力運動が敢行されていたと指摘している。とはいえ、一方で彼女はそれらの運動が直接ナチスの瓦解につながった、とは述べていない。『市民的抵抗』に記されているのは、このような弱弱しい結論だけだ。

さらに、ナチス支配下の非暴力抵抗は単に存在しただけではなく、場合によっては効果を発揮した。そのような抵抗がナチス政権を崩壊させられなかったとしても、それでも何千もの命を救い、かつドイツ国内のナチス支持者の忠誠心を弱めていった。

『市民的抵抗』p292

 さらに、チェノウェスはスターリン体制下における非暴力抵抗のデータはほとんど提示していない。『市民的抵抗』のおけるスターリンの言及箇所は以下の部分だけである。

 このような完全支配の試みにもかかわらず、ナチ関係者やスターリン政権を諷刺する冗談は、権威主義支配がなされている期間もずっとあった。こうした冗談は、典型的には酒場で信頼できる友人や腹心の友との間でストレス発散のためにささやかれるものであり、必ずしも積極的な抵抗を意図してはいなかった。しかし、全体主義政権下でさえも批判や諷刺がそこら中にあったということは、いかなる体制にあっても、あらゆる人びとをあらゆる時間、完全な支配下に置くことはできない、ということを示している。一度に多くの人びとが冗談を言い始めれば、彼らは、王は裸の王様だと信じ始める。そうすると、冗談は、抑圧的な体制にあっても、超越的で政権を破壊させかねない力を持つ。

『市民的抵抗』p85-86

 結局、チェノウェスはオーウェルに対し根本的に反論できているわけではない。本文中で引用したp287の箇所においてヒトラーのみが言及され、スターリンが省かれている理由はこのあたりの事情が絡んでいるのではないだろうか。

(注5)ロシアとイスラエルを並べて語る際には、両国の浅からぬ因縁にも言及しておかなければならない。というのも、19世紀末にパレスチナへの入植活動を始めたシオニストの中には、ロシア帝国圏からの移民が多数を占めていたからだ。また、ソ連崩壊にともなって、1990年代にソ連出身のユダヤ人が相次いでイスラエルに移住したことも指摘しておくべきだろう。ロシア系ユダヤ人の中には医師や弁護士などの専門職に就いていた人も多かったが、イスラエルではすでにそうしたポストは埋まっていた。ましてやヘブライ語のできない移民がそうしたポストに就ける可能性はゼロに等しかった。彼らは移住し始めた時期にインティファーダが継続中だったことも相まって、パレスチナ人がやっていた肉体労働を代わって担ったことさえあった(一方でエンジニア出身の移民もいたため、21世紀以降のイスラエルのIT先進国化はソ連からの移民が支えたという見方もある)。そのため移住後も彼らは経済的に恵まれなかった上、まともな援助も受けられなかったため政府に強い不満を抱いていた。そんな移民の不満に応えた政党に、2000年代に台頭した『イスラエル我らの家(イスラエル・ベイテイヌ)』がある。モルドバからの移民であるアヴィグドール・リーベルマンを党首とし、かつてウラジーミル・プーチンも所属していた『ロシア我らの家』に倣って命名されたこの政党は、あけすけに言えば極右である。イスラエルはオスロ合意以降も平然と西岸地区で入植活動を行ってきたが、『我らの家』はソ連からの移民に住居を与えられるメリットを重視しこの活動を現在に至るまで強く支持している。アラブ系イスラエル人にも差別的で、彼らの市民権や参政権の剥奪も公約に盛り込んだことがあった。『我らの家』は最も勢いのあった時でも120議席中15議席を獲得するのが限界で、必ずしも主流政党とは言えないが、少数政党が乱立しやすいイスラエルの選挙制度に助けられてたびたび連立政権の一翼を担っている(たとえばリーベルマンは様々な連立内閣の一員として外相や国防大臣を歴任し、一時期は首相候補とみなされたこともあった)。こうした歴史を踏まえれば、2000年代後半以降のイスラエルの右傾化の一因を担ったのはソ連からの移民という見方もできるだろう。もちろん、だからといってロシアの民族性が暴力的であり、それがそっくりそのままイスラエルへと受け継がれているといった話をしたいわけではない(たとえばロシア系ユダヤ人のヤコブ・ラブキンは共産主義にもシオニズムにも批判的であり、『トーラーの名において』でシオニズムの暴力性の原因をロシアに求める議論を行っているが、その論理の運び方は粗雑と言わざるをえない)。だが一方で、イスラエルを論じるうえでロシア及びソ連との関係性は見逃せないファクターであることは間違いない。

(注6)チェノウェスの批判者にベンジャミン・S・ケースがいる。

 この記事では、チェノウェスがマリア・ステファンと共同で出版した本に触れつつ、彼女たちが「非暴力」と分類している運動のさなかに起きた低レベルの暴力を無視していると指摘されている。たとえば、2011年にエジプトで起きた革命では、かねてから警察への不信感を募らせていた民衆によって警察署への放火や銃撃戦などが行われている。にもかかわらず、チェノウェスたちは「非暴力」と分類している。
 実際のところ、過去に起きたいくつかの運動の中には、完璧に非暴力を徹底できたわけではないものも含まれている。運動の中心から暴力が起きるときもあるし、非暴力を志向する団体と暴力も辞さない団体が連携したことで起きる暴力もある。
 こういった不透明な事例についてチェノウェスはどう考えているのか。『市民的抵抗』では非暴力運動のさなかに起きる暴動について、「周辺暴力」と呼びつつ30ページ以上にわたって検討している(「3.5%」ルールに比べれば圧倒的に重視されている)。彼女は「周辺暴力」が過去の非暴力運動を少なからず損ねてきたという研究を数多く引用している。が、2011年にエジプトで起きた「周辺暴力」についても言及しつつ、場合によってはこういった暴力が運動の支持を集めることにつながると認め、以下のように続けている。

 ただし、こうした行為が運動に不可欠であり、究極の目標であるということをいっているわけではない。運動を組織する者にとって、行為が非暴力と分類されるかどうかよりも、見物人たち――積極的支持者、消極的支持者、中立的集団――がその運動の戦術を、賢く、正統で、割に合い、究極的な目標と一致していると見るかどうかの方が重要なのである。つまり、多くの運動にとって鍵となる問いは、運動参加者の行動が、裾野を広げ、多様なグループからもっと多くの人びとを取り込むことで、力を拡大しつつあるかどうか――あるいは運動の戦術によって人びとが離れていってしまっているかどうかである。

『市民的抵抗』p243

 とはいえ、チェノウェスは初歩的な批判、つまり彼女の「非暴力」/「暴力」分類が雑なのではないか、という批判には正面から答えていない(それに対してケースは『Street Rebelion』において低レベルの暴力を「暴動(riot)」と呼びつつ、過去のデータにより厳密な統計処理を施したうえで、非暴力運動のさなかに暴動が起きたとしても必ずしも運動の成否が左右されるとは限らないと分析している)。

(注7)ただ、チェノウェスがここで「民族的・社会的つながりがある場合」と条件をつけていることには注意しなくてはいけない。たとえばブルドーザー革命の主体となったのはセルビア人だったが、彼らを鎮圧できなかったのは警察や軍隊と言った治安部隊もまたセルビア人だったからだ。民族を同じくする者たちに銃を向けるのは(相手が非武装であればなおさら)難しい。だが、こういった躊躇が民族を違える者たちを前にしたときに起こるとは限らない。同じセルビアにおいて民族浄化が起こった歴史をぜひ想起して欲しい。進化心理学の諸研究を踏まえて書かれた書籍を読んでいると耳にタコができるほど聞かされる話として、人は自分と同じ
グループ(民族、政治思想、宗教etc.)に属している他人には宥和的に振舞えるが、自分と違うグループに属している他人には敵対的に振舞いがちである、というものがある。これは非暴力運動に対する対処にも当てはまる話で、チェノウェスは以下のように述べている。

 ところが、政府が少数派グループ――たいてい人種的あるいは民族的集団、あるいは地方や遠方の地域に住む集団――を服従させなくても支配できると考える場合には、暴力的に抑え込んでも政治的に裏目に出ないことがある。たとえば、中国共産党は、一党独裁支配を維持するうえで、チベット民族の服従を必要としない。チベットは、中国西部の辺境に位置し、人口が集中している都市部から離れている。またチベット民族の人口は、中国全体の人口と比較すると非常に小さい。そのため、中国政府はチベットにおける目に余るいかなる抵抗も完全に抑え込む。国に不安定化をもたらしかねないと思われる地域で厳重な監視を続け、抗議に関する情報を入手したりチベット民族の亡命者と連絡が取れないようにインターネットを遮断したり、少しでも抵抗の気配があると、チベットの僧侶や若者活動家を一網打尽にし、処刑する。

『市民的抵抗』p274

 マジョリティがいてもいなくても構わないマイノリティを容赦なく弾圧する構図は、イスラエルとパレスチナにも当てはまる例だろう。非暴力運動に関する知見を利用する際には、こういった点にも気をつけなければいけない。

(注8)ブッシュが大統領に選出された選挙では、ユダヤ人の票は27%しか獲得できなかったという(ちなみに1992年の選挙では15%まで落ち込み、それが一因となってビル・クリントンに政権を奪われた)。

 また、ブッシュの任期中にはソ連が崩壊し、ユダヤ人がイスラエルに移民する事態が起きていた。移民を受け入れる援助としてイスラエルは100億ドルの融資を要請しているのだが、ブッシュは西岸やガザの占領を踏まえてこれを拒否している。
 ベイカーはそれ以上にイスラエルに厳しく対応していた。1989年にイスラエルの占領を批判した彼に対して、当時外務副大臣を担当していたベンヤミン・ネタニヤフは「政治的公正さと国際的誠実さの象徴であるはずのアメリカのような超大国が、歪曲と嘘を土台に政策を構築しているのは驚くべきことだ」と反発した。その結果、ネタニヤフは国務省の出入りが禁じられた。

(注9)ドローンを操縦する人間の心理を考察した研究に、グレゴワール・シャマユーの『ドローンの哲学』がある。

 シャマユーはドローンのオペレーターとターゲットの距離が遠いがゆえに、攻撃にともなう心理的負担はだいぶ軽減されると述べつつ、以下のようにつづける。 

 もう一つ重要なことがある。オペレーターは見られることなく見るということだ。ところで、ミルグラムはこう示唆していた。「われわれの行為が見られうるときよりも、見られることがないときのほうが、一層簡単に悪事を働いてしまうことがある」。殺害者とその犠牲者が「相互的な近くの場」にいないことによって、暴力の管理は容易になる。当事者は、自分の行為が他者にみられているために生まれる気まずさや恥じらいから免れるわけだ。グロスマンはこう付け加えている。「殺害者の大部分が短距離での人殺しに払わなければならない代償――『苦しみと憎しみ、そうあの憎しみで歪んだ恐ろしい顔』の回想――は我々が犠牲者の顔を見ることを避けられさえすれば、まったく払わなくてもよくなる」。ところで、ドローンが可能にするのはまさしくこのことだ。ドローンが表示するのは、照準を合わせるにはまさに十分な、ただし本当に見るにはあまりにわずかなものである。そしてとりわけ、ドローンでは、オペレーターが、自分が他者に対し行っていることを他者が見ているときにこの他者を見ないことができるのだ。

グレゴワール・シャマユー『ドローンの哲学』明石書店p140-141(太字は原文で傍点)

 余談にはなるが、『ドローンの哲学』の原著が出版されたのは2014年だ。一方で、その10年後を生きる我々は新たな可能性も追求しなければならなくなっている。それは、とうとうドローンは心理的負担が無視できない人間が操縦するのではなく、あらゆる心理的負担を取っ払った人工知能によって稼働できるようになった、というものだ。ガザ侵攻で人工知能によって稼働するドローンが採用されていることを踏まえるならば、この点は別稿で是非とも検討しなければいけない。

(注10)他ならぬチェノウェスこそがこういった視野狭窄に陥っている感が否めない。『市民的抵抗』ではp266-271にかけて、ウェンディ・パールマンの著書を参照しながら、第一次インティファーダと第二次インティファーダの比較が行われている。

パールマンによれば、第一次インティファーダの特徴は、合意に基づく連合の指導者構造、大規模な民衆の参加、そして目的と目的を達成する方法について適切かつ正統であるという共通感覚を伴う、はるかにまとまるのあるキャンペーンにあった。第二次インティファーダは、いくぶん自然発生的に組織的認識からはじまった――そのきっかけは、二〇〇〇年の和平プロセスがうまくいかなかったことへの不満であり、当時防衛大臣であったアリエル・シャロンの扇動的行動であった――そして草の根組織を基礎とする調整の取れた構造は含まれていなかった。その結果、第二次インティファーダは、過激派組織間での戦いを特徴とするようになり、組織間で何ら指導者レベルでの調整は撮られなかった。さらに、第二次インティファーダには、第一次インティファーダのパレスチナ人のような大規模な民衆参加はなかった。第二次インティファーダ中の武装抵抗の激化それ自体がライバルであるそれぞれの過激派グループによる支持獲得合戦であった。

『市民的抵抗』p271

 たしかに第一次インティファーダ中はPLOが武装闘争を放棄し、彼らに批判的だったハマースもまだまだ組織として未熟だったため武力衝突は散発的にとどまった。一方で、第二次インティファーダは本格的に力をつけたハマースやイスラーム聖戦による自爆攻撃が相次いだため多くの死傷者が出ることになり、それまで続いていた和平交渉は絶望的なものとなってしまった。非暴力か、それとも暴力かが抵抗運動の成否をわける一因になったのは疑いない。
 だが、一方でチェノウェスはそれぞれの運動が行われていた期間中、パレスチナとイスラエルがどんな環境にあったかということはほとんど言及していない。要するに彼女は、第一次インティファーダはまとまりのあった運動だったために暴力的な勢力につけこまれず成功したが、第二次インティファーダはまとまりのなかった運動だったために暴力を食い止めることができずに失敗した、といった粗雑な分析しか行っていないのだ(第一『市民的抵抗』では、それぞれのインティファーダを論ずるにあたって一冊の本と一本の論文しか参照されていない)。
 たとえば、第一次インティファーダ中にアメリカ大統領を務めたブッシュ・シニアが冷戦終結後の講和的な雰囲気が冷めやらない中、和平交渉のセッティングにあたって重要なアクターとして立ち回った一方で、第二次インティファーダ中にアメリカ大統領を務めたブッシュ・ジュニアは同時期にアフガニスタンを侵攻するにあたって「テロとの戦い」を掲げていたこともあって、同じような姿勢をパレスチナにも向けた。こういった要因もまた抵抗運動の成否をわけるものに違いないだろう。しかしチェノウェスはそうした違いになんら言及することなく、非暴力/暴力にしか焦点を合わせていないのだ。

(注11)第一次インティファーダ中にイスラエルがPLOの支持切り崩しを目論んでハマースを支援していたと指摘する人は多いが、なぜか彼らはインティファーダ中にハマースが採った行動には目を向けない。当時ハマースが統一指導部やファタハと合同声明を出すほどインティファーダに浅からぬ関与を持っていたことなどを詳しく振りかえった書籍として、鈴木啓之の『蜂起〈インティファーダ〉』がある。


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