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【日本を知る】皇位継承のルールとは?現在まで続く皇統の謎に迫る

天皇の皇位継承には、世界の君主国とは異なるルールがあります。

現在の皇室典範第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあります。つまり、男系男子の皇位継承が原則です。しかし、男系男子であれば誰でも良いわけではなく、例外も存在するため、実際の皇位継承はより複雑です。

本記事では天皇の皇位継承についてご紹介します。

画像の出典:国立公文書館『公文附属の図・二五三号 御即位図 附A00253100』


皇位継承は先例が重要

天皇や皇室は、前述のとおり先例を重視しており、それは皇位継承も例外ではありません。むしろ天皇や皇室にとって最も重要なことは、過去から繋いできた皇統を未来に繋げることです。皇統を未来に繋げるために、天皇の皇位継承では先例が重要視されます。

天皇の皇位継承は践祚ののち即位します。

践祚は位を継承すること

先帝の崩御または譲位によって、践祚します。践祚は、「せんそ」と読み、皇位を「践(ふ)」むことです。「祚」は、祭祀において天子が昇る階段である「阼階(そかい)」を指すことから「皇位」に登るという意味であり、皇位を践むことから転じて先帝から受け継ぐ意味になっています。先帝崩御に伴う践祚を「諒闇践祚(りょうあんせんそ)」、譲位によるものを「受禅践祚(じゅぜんせんそ)」といいます。

践祚にかかる儀式を「践祚儀」といい、皇位の証である三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を受け継ぐことが必要とされており、現在でも「剣璽等承継の儀」が行われます。

ただし三種の神器を承継せずに践祚した先例もあります。後鳥羽天皇や後光厳天皇です。後鳥羽天皇の先帝は安徳天皇で、三種の神器とともに平宗盛以下平家一門に連れられて京都を離れてしまいます。京都に天皇がいないことで政務の停滞が起きたため、それを解消するために後鳥羽天皇が立てられました。その際に、後白河法皇が皇室の家長である「治天の君」として院政を布いていたため、先帝譲位に際して行われる「譲国儀」の「伝国璽宣命(伝国詔宣)」によって践祚儀を行いました

以上のように、三種の神器を承継できない時に治天の君による伝国詔宣によって践祚した先例もありました。

即位は位に即(つ)くこと

即位に際して「即位礼」が盛大に行われます。元々、即位と践祚は同一だったものの、桓武天皇以降、簡素な践祚儀と盛大な即位礼に分けられました。即位礼は準備に時間がかかるため、先帝が譲位または崩御の後すぐに行うことはできません。また、天皇空位期間中に政変などが起きることもあったため、分けられるようになりました。

即位礼では天皇の玉座である高御座(たかみくら)に登り、近代以前であれば宣命使が即位の宣命を読み上げ、明治以降は天皇自身で即位の勅語が発せられました。

即位礼はすべての天皇が行えたわけではなく、とくに戦国時代では即位礼が行えずに崩御した天皇もいました。

男系の皇位継承とは

天皇の皇位継承は、初代神武天皇から続く男系の皇統によって続いてきました。これを「万世一系」と呼んでおり、1つの系統が過去から現代まで続き、未来に向けて続いていくことを表しています。

男系とは、父親を辿った場合にその祖先に行き着く系統です。男系の皇位継承には、皇族であることを前提に男系男子と男系女子による皇位継承の2つがあり、前者は現在の皇室典範にある内容そのものであり、後者は歴史的に存在した女性天皇となります。

男系男子の皇位継承

皇位継承は、男系子孫であることが原則です。しかし男系子孫、特に男系男子であれば誰でも天皇になれるわけではなく条件があります。

それは「君臣の別(くんしんのべつ)」と「五世の孫(ごせいのそん)」です。この2つの先例を前提として、男系男子に皇位継承されてきました。

「君臣の別(くんしんのべつ)」

一度臣籍降下した皇族は原則として皇族に戻れません。「君臣の別」とは、皇族から臣下の地位になったものは皇族に戻れなくなる原則です。

もし天皇の「男系男子が皇位継承」できるのみとすれば、戦前の内閣総理大臣だった近衛文麿や、室町幕府第3代将軍の足利義満、鎌倉幕府を創設した源頼朝も対象になるでしょう。しかし「君臣の別」の先例があることで、一度臣下の地位になったものは原則として皇族に戻れないため、男系男子といえども皇位継承の対象外となります。

「君臣の別」の例外

「君臣の別」には例外があります。なぜ例外があるかというと、元皇族や旧皇族が天皇になった先例が一例あるためです。

元皇族が天皇になった先例は、宇多天皇

宇多天皇は、光孝天皇の第7皇子として誕生します。しかし、誕生してしばらくすると臣籍降下して、定省(さだみ)親王から源定省として源氏の姓を賜ることになりました。

仁和3(887)年に光孝天皇の発病によって、時の関白・太政大臣である藤原基経が皇位継承者として、源定省を推挙します。しかし、臣籍降下した元皇族が即位する先例はなかったため、光孝天皇が源定省を皇籍復帰させて親王宣下し、その後皇太子にしました。皇太子になった日に光孝天皇が崩御したため、定省親王が践祚し、宇多天皇になりました。

宇多天皇は、元皇族から皇籍復帰して天皇になった例外的な先例です。

なお親王宣下は、天皇が皇族を親王にする命令のことであり、嵯峨天皇の治世から始まり、律令において生まれながら親王や内親王である天皇の皇子女であっても必要となりました。

旧皇族が天皇になった先例は、醍醐天皇

醍醐天皇は、宇多天皇の第1皇子として誕生します。宇多天皇が定省親王から源定省として臣籍降下した後に生まれたのが源維城(これざね)、後の醍醐天皇でした。もし源定省を元皇族とすれば、源維城は旧皇族とみなすことができます。

源定省が定省親王として親王宣下した時に息子の維城も皇籍復帰します。源維城は、宇多天皇の即位後に親王宣下し、敦仁(あつぎみ)に改名しました。

「五世の孫(ごせいのそん)」

皇族であれば誰でも皇位継承できるわけではありません。「五世の孫」とは、皇位継承しなかった皇族は五世の孫までで臣籍降下するという原則です。これは、武烈天皇が崩御ののち、応神天皇の五世の孫である継体天皇の即位を先例としています。つまり天皇になれる皇族の最大範囲が五世の孫であり、その範囲を超える皇族は臣籍降下します。

継体天皇の先例は、先代の天皇である武烈天皇に子がいなかったことで皇統断絶の危機が訪れます。そこで応神天皇まで遡り、その五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が次の天皇となりました。継体天皇の先例から五世の孫までが皇族の最大範囲とする原則が作られました

「五世の孫」の例外

南北朝時代から江戸時代にかけて世襲親王家が設立されました。世襲親王家とは、親王宣下を代々受けることで親王の身位を保持する家のことです。世襲親王家には、4つの親王家があり、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮を指します。その中で一番古いのが伏見宮家です。

伏見宮家は、北朝第3代崇光天皇の第1皇子栄仁親王を初代としています。文安4(1447)年に後花園天皇が、父である伏見宮貞成親王に太上天皇号を送ります。これを後崇光院といいます。

そして後花園天皇の弟である貞常親王に、「永世伏見御所と称すべし」として勅許が下され、貞常親王が伏見宮家を継承し、世襲親王家が誕生しました。世襲親王家は、「五世の孫」の例外となります。

世襲親王家のうち伏見宮家は昭和22(1947)年にGHQの指令によって臣籍降下させられてしまい、江戸時代中期頃に成立した閑院宮家は現在の皇統に連なります。

男系女子の皇位継承

天皇の歴史において、8方10代の女性天皇がいました。女性天皇は、次の天皇を繋ぐ中継ぎの役割を担っています。しかし実際には単に中継ぎだけではなく、次代の天皇に向けた帝王教育も積極的に行っています。

女性天皇の条件は、未亡人か未婚であること、そして天皇になった後は生涯独身でいることとされています。

中国を古くからの手本としてきた日本ですが、中華皇帝は原則として女性天皇を認めていません。しかし日本は、8方10代の女性天皇がいたため、独自の制度として確立されたことが伺われます。

女性天皇には、推古天皇、皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇の重祚)、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、明正天皇、後桜町天皇がいました。

重祚とは、「ちょうそ」と読み、再即位のことです。

明治になると皇室典範が定められて、皇位は皇統に属する男系男子が継承することになり、男系の子孫から「男系男子」に絞られました。

直系の皇統とは

皇位継承でもっとも重要なのが、天皇の歴史の中で作られてきた先例です。その先例は、原則として男系男子、例外として男系女子が皇位継承します。そして次に重要な先例が、直系の皇統です。特に中世において直系と傍系によって天皇の皇統に対する重みが異なっていました。

正統(しょうとう)の天皇

日本では、男系であることを前提として直系の天皇を重視している時代が長くありました。これを正統(しょうとう)といいます。

正統とは、直系の皇統のことで、皇統は傍流(かたはら)によって枝分かれするのではなく直系によって一つの太い幹とならなければならないというものです。正統の天皇は、皇祖である神武天皇から直系で繋がっています。

神武天皇から景行天皇までは直系の天皇となり、その次の天皇は成務天皇ですが、正統の皇統の場合、日本武尊そして仲哀天皇となります。成務天皇は正統の天皇ではなく、傍系の天皇です。

正統は直系の皇統として幹の部分と、傍系の枝葉の部分で分かれ、とくにどの皇統が正統になるかで争いになることもありました。最も顕著な事例が南北朝時代です。鎌倉幕府の仲介によって大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく両統迭立(りょうとうてつりつ)となり、その後鎌倉幕府の崩壊後、南朝と北朝に分かれます。明治に起きた南北朝正閏論論争によって政治問題化し、南朝を「正統(せいとう)」とすることが明治天皇の裁断によって決まり、現在に至ります。明治天皇は、水戸徳川家の徳川光圀によって編纂が始まった『大日本史』の記述から裁断しました。

実際にどちらが「正統(せいとう)」ということではなく、どちらが正統(しょうとう)になるかを争ったと見ることで、その後の見方が変わってきます。気をつけなければならないことは、正統(しょうとう)の天皇だけがすべてではありません。皇位継承によっては、それまで正統(しょうとう)った皇統が傍流(かたはら)になることもあります。しかしそれは結果でしかなく、正統(しょうとう)であれ傍流(かたはら)であれ、天皇であることに変わりはありません

女系の天皇とは

現代の皇位継承議論の際に、「女系の天皇」と聞くことがあります。女系とは、母親を辿った場合にその祖先に行きつく系統です。

女系の天皇とは、女性天皇が婚姻しその子供が天皇になることです。皇統は男系で繋がってきているため、もし女性天皇の婚姻相手が皇統に連なる人でなければ、現在の皇統が断絶しすることになります。例えば、天皇の娘に藤原氏の男性と婚姻し、その子供が天皇になる場合、藤原氏の王朝になるということです。この場合の子供は、男性であれば女系男子、女性であれば女系女子となります。

女系の天皇は、日本の歴史のどの部分を見てもその先例は見つかりません

皇統を近づけるための女系という方法

天皇の皇位継承は先例に基づいて男系を維持してきました。一方で女系は別の形で活用されることがあります。それは、男系を維持するために、傍系継承が行われる場合です。傍系継承となるため、先代や先々代の皇統とは離れた人が天皇になることがありました。先例としては、継体天皇、光仁天皇、光格天皇が挙げられます。

継体天皇は、応神天皇の五世の孫としてその前の武烈天皇から見れば、皇統が離れ過ぎてしまいます。仁徳天皇の系統が武烈天皇で途絶えてしまったことから、傍系継承として継体天皇になりました。そして武烈天皇の妹の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が皇后となりました。

継体天皇は、男系としては五世の孫です。しかし手白香皇女と婚姻したことで、女系としては武烈天皇の妹であり、仁賢天皇の皇女でもある人を皇后に迎えたため、国民から見れば馴染みない天皇ではあるものの、女系として見たときに親しみやすい皇統になります。つまり継体天皇は、手白香皇女を皇后にすることで、「女系として仁徳天皇の皇統に近づける」という方法を行いました。

皇室の皇統は万世一系といわれるように男系を優先事項にしていますが、女系としてそれまでの皇統に近づけるという方法も同時に行っています。

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