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日本の歴史に登場した天皇の人物像に迫る!天皇小史から見る共通することとは?(安土桃山・江戸時代篇)

天皇の歴史は大きく、「神話」「伝承」「歴史」で分けられ、「歴史」はさらに古代、中世、近世、近代に分類されます。すでに中世までは取り上げているため、下記のリンクよりお読みいただけます。

ここでは「近世」の天皇を取り上げ、どのような人物がいて特に重要な先例に何があったかを中心にご紹介します。


近世の天皇

日本の歴史における近世は、安土桃山時代と江戸時代に分けられます。

安土桃山時代の天皇

安土桃山時代は、永禄11(1568)年織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭を擁して京都に上洛した年から、慶長8(1603)年に江戸幕府が成立するまでの時代です。安土桃山時代の天皇には、正親町天皇と後陽成天皇の時代が含まれます。

正親町天皇

正親町天皇は、後奈良天皇と万里小路賢房(かたふさ)の娘の栄子(えいし)の第二皇子で、方仁(みちひと)という名です。戦国時代の天皇は、朝廷財政が逼迫し、即位礼や大嘗会、葬送儀礼が十分に行うことができなかった時代であり、一般的に天皇の権威が失墜した時代とも言われています。

正親町天皇の治世は、織田信長と豊臣秀吉という2人の天下人が存在している時代であり、時代に翻弄されることなく天皇の立場を最大限に活かして朝廷権威を復活させることに成功した人物といえます。

織田信長は、戦争の際に天皇に和平調停や綸旨の発給を依頼していました。正親町天皇も信長の要請に応じ、さらに積極的に戦勝祈願も行っていました。もし織田信長と敵対する者が政権に就いた場合、承久の乱のように「主上御謀反」とされる可能性がありました。しかし、この時期には、天皇が特定の戦国武将に戦勝祈願などを行っても咎められることはなかったという特徴があります。

織田信長と正親町天皇は、お互いに利用し合う関係にありましたが、信長が正親町天皇に譲位を迫ることもありました。しかし、正親町天皇は譲位の要求に対して曖昧な返事でかわしてしまいます。織田信長が本能寺の変で自害した後、変を起こした明智光秀に京都の警護を任せています。その後、明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れました。

羽柴秀吉は、小牧・長久手の戦いで徳川家康に敗れた結果、三河以東の地域に侵入ができなくなり、東国支配の実現が困難になりました。これにより、征夷大将軍任官の希望が断たれます。そこで秀吉は、全国支配の道として朝廷の官位を得るとともに、天皇の名の下でその代官として領域支配を行うことに方針を切り替えました。異例の早さで官位に昇任し、近衛家の養子となることで、正親町天皇から豊臣氏を賜姓され、五摂家しかなれない関白の就任が決定しました。

関白豊臣秀吉は、全国支配する体制を築き上げます。正親町天皇は、天正14(1586)年、孫の和仁(かずひと)親王に譲位し、文禄2(1593)年に崩御しました。

江戸時代の天皇

江戸時代は、慶長8(1603)年の徳川家康が征夷大将軍に宣下され江戸幕府が成立してから、慶応4・明治元(1868)年の明治改元までの時代です。江戸時代の天皇には後水尾天皇から孝明天皇までが含まれます。

後水尾天皇

後水尾天皇は、後陽成天皇と関白近衛前久の娘の前子(さきこ)の第三皇子で、政仁(ことひと)という名です。

徳川幕府が開かれた元和元(1615)年には、武家法である武家諸法度だけではなく、皇室や公家に対する法令である禁中並びに公家諸法度が制定されました。さらに、仏教寺院に対する寺院諸法度、神社や神職に対する諸社禰宜神主法度も定められ、武家勢力だけではなく、公家勢力や寺社勢力も抑える程の権勢を振るいました。

寛永4(1627)年に紫衣事件が発生します。この年の7月、幕府は元和元(1615)年以降に紫衣勅許を受けた禅僧に対して取り消しを含む禁制を発しました。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟のことで、宗派問わず朝廷から賜るものです。

幕府は、紫衣の授与を禁中並びに公家諸法度で規制していたにもかかわらず、従来の先例に基づいて紫衣の勅許を与えてしまいました。これを幕府が法度違反として紫衣を取り上げるよう命じたため、朝廷は反発します。朝廷の面目が潰れたことで、後水尾天皇は激怒しました。実際に法度が優先されたことで、天皇の勅許よりも幕府の法度の方が上位であることが、この事件によって示されました。

その後、後水尾天皇は幕府に相談することなく、また気づかれないように、寛永6(1629)年11月8日の節会の儀で公家を集め、突然に譲位し興子内親王が即位することになりました。興子内親王は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘である和子(東福門院)の第二皇女で、後の明正女帝です。これにより、奈良時代の称徳女帝以来の女帝の誕生となりました。

後桜町女帝

後桜町女帝は、桜町天皇と関白二条吉忠の娘の舎子(いえこ)の第二皇女で、智子(としこ)という名です。女帝が擁立される多くの場合、皇位継承予定者が幼年であるために直ちに即位できない事情があり、中継ぎとして即位することが一般的です。後桜町女帝の場合も甥の英仁親王が10歳になるまでの中継ぎとしての即位に加え、当時院政を布く院が不在だったため、院を設ける意義も考えられます。

後桜町女帝は、英仁親王のために帝王教育を行い、明和5(1768)年に英仁親王が立太子すると譲位し。後桃園天皇が即位しました。しかし後桃園天皇は、在位9年目に病死しました。後桃園天皇には、女御維子との間に生まれた欣子(よしこ)内親王しか継嗣がいなかったため、継承が不可能となりました。

そこで、天皇崩御の前に、生母の一条富子と伯母の後桜町上皇が内談し、祐(さち)宮を養子にし、さらに祐宮と欣子を親王宣下することが決定されました。血縁の遠い宮家から皇嗣を選ぶため、「親近親他に超え、天性聡明、至尊と仰ぐべき人体なり」(『広橋勝胤卿記』)とされ、閑院宮家の祐宮は、兼仁(ともひと)親王、後の光格天皇を立てることに決定しました。

また、欣子を入内させることも考えられ、帝王教育にも心配りがなされました。女帝は中継ぎのためと言われるますが、次の天皇に帝王教育を施す役割も担っていました。

光格天皇

光格天皇は、閑院宮典仁(すけひと)親王と岩室磐代(いわしろ)の第六皇子で、初めは師仁(もろひと)、その後兼仁(ともひと)という名に改められました。光格天皇の即位は、3度目の皇統断絶の危機を迎えたものでした。

皇統断絶の危機に際して選ばれた皇族は、閑院宮家から閑院宮直仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子です。閑院宮家は、東山天皇の皇子である直仁親王によって創設されました。宮家創設に際して、新井白石が天皇を補完する家として徳川家宣に建言しました。

光格天皇は、後桃園天皇との血縁を考慮し、皇女である欣子内親王を皇后に迎え入れました。光格天皇の皇統は、現在の今上天皇に繋がっています

光格天皇の治世では、松平忠信が寛政の改革というデフレ政策をやったことで、農民や庶民が飢饉に苦しむ状況が続きました。光格天皇は、その状況に対して幕府に対し失政を諫めました。また、文化8(1811)年には、千島列島を測量していたロシア軍艦の艦長ゴローニンが捕縛されるゴローニン事件が発生しました。その際、光格天皇は幕府に対し、外交文書や外交交渉の経過を報告するよう命じます。政治に関わる中で尊号一件が発生しました。

尊号一件では、光格天皇が即位したことにより、父親である典仁親王よりも位が上がってしまいました。また、禁中並びに公家諸法度では親王の序列が摂関家よりも下とされていました。光格天皇は、江戸幕府以前の先例に倣い、典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしましたが、当時の老中松平定信は、徳川家康が定めた禁中並びに公家諸法度を江戸幕府の祖法とし、これに反対したため、尊号は贈られませんでした。

また、当時の将軍である徳川家斉も、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうとしていましたが、尊号一件の対応により、一橋治済の尊号も実現しませんでした。その結果、松平定信は、一橋治済と徳川家斉父子の怒りを買い、失脚しました。

明治17(1884)年には、典仁親王が明治天皇の高祖父にあたるため、慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られました。ただし、典仁親王は天皇に即位していないため、大統譜には記載されていません。

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