マイク・アダムスの憤り ~70年代米国のマスキュリスト~
マイク・アダムス(M・アダムス)は、僕に大いなるカタルシス効果を与えてくれた、『氷河期の子ども』(フランシス・バウムリ編著 “Men Freeing Men” に所収されている一篇)の執筆者です。“Men Freeing Men” は1991年に下村満子氏によって日本語訳されています。残念ながら現在では絶版となっていると思われますが、古本を入手するか、図書館等で読めるかもしれません。
『正しいオトコのやり方―ぼくらの男性解放宣言』(フランシス・バウムリ(著),下村満子(翻訳),学陽書房)
実は、マイク・アダムスの名前は、別の書籍の中にも登場します。それは、“Men Freeing Men” を日本語訳した下村満子氏の著書『男たちの意識革命』です。1980年代の初頭、朝日新聞のニューヨーク特派員だった下村氏が、現地で取材を重ねつつ書いた貴重な本となっています。こちらも残念ながら現在では絶版です。
『男たちの意識革命』(下村満子(著),朝日文庫)
この本の182頁から196頁まで、『根底に流れるレディーファースト体験への怒り』という一節があるのですが、その後半部分にマイク・アダムスが登場しています。その部分は文庫本で5頁ほどであり、手頃な分量になっています。そこで、今回はその内容を紹介してみようと思います。マイク・アダムスはどんな憤りを抱いたのか。詳しくは最初に記した『氷河期の子ども』のほうを読む必要があると思います。ここでは、その大枠だけでも伝われば幸いです。
この9歳の時の出来事が、彼の心の奥底にずっと刻み込まれているのでしょう。「女であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む」人がいます。それと同じように、「男であるということで人が期待する、あらゆることがらを憎む」人もいるのです。筆者である僕自身にも、似たような思いがあります。僕の性自認は男性であって、男らしくありたいと思っています。ただ、それは他者や社会に期待される(強要される)男らしさに副うということではありません。「男だから○○しろ」とか「男だから××するな」とか、そういう縛りの多くは僕にとっては苦痛です。おそらくですが、マイク・アダムス氏も同じような感覚を抱いていたのだろうと思います。
(よく男の《特権》と称されることの多くは、実は、他者や社会に期待される(強要される)男らしさなのではないでしょうか。事実、僕にとってはそれらの《特権》の多くは《苦痛》でしかないのです。)
ここでは、もう一つの問題が提起されています。それは、罰せられるということについての問題です。同じことをしても、男性と女性では罰せられ方が違うということが、現実としてあると思います。男児と女児が同じ“悪さ”をしたとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか? 男性と女性が同じ犯罪を犯したとき、2人は必ず同じように罰せられるのでしょうか? あなたはどう思いますか?
この件については、『男性権力の神話』で多く触れられています。詳しくは、本記事の末尾をご覧ください。
では、続きを読み進めましょう。さらに成長したマイク・アダムスを、どのような運命が待ち受けていたのでしょうか。
高校時代のことについては、『氷河期の子ども』で詳しく記述されています。大切な部分なので、いずれそちらを紹介してみようと思います。ここでは、ごく一節のみ、引用しておきます。
ところで、日本の高校でも、1993年度に入学した世代まで、男子生徒は女子生徒より多くの体育の授業を受けなければなりませんでした。普通科全日制の多くの高校の場合、男子は3年間で11単位,女子は3年間で7単位に設定されていたと思われます。これは、女子のみ家庭科が必修であったことの裏返しでもあります。「女子だけが家庭科を押し付けられていた」と言う批判が成り立つのならば、「男子だけが4単位も多く体育の授業を受けさせられていた」と言う批判もまた成り立つでしょう。なお、この増えた時間数は、柔道や剣道などの武道の授業に充てられることが多かったようです。アメリカではレスリング,日本では武道。置き換えてみれば似たような構図です。
続いて、ベトナム戦争に伴う徴兵の話が出てきます。これは言うまでもなく、マイク・アダムス氏にとって重大な局面となりました。この辺りの事の顛末も、『氷河期の子ども』に詳細に記述されています。徴兵制は、言うまでもなく重大な男性差別です。日本で日本人として生きていると、実感の湧かない部分もあります。しかし、世界にはまだ徴兵制が健在の国がたくさんあります。当然のように、その殆どは、男性のみを対象とした徴兵制です。今、この瞬間にも、当時のマイク・アダムス氏と同様の心境を味わっている若者がたくさん居るのです。
例えば、隣国である大韓民国では、徴兵問題から男性差別問題に開眼する人々もいて、実際に社会運動が繰り広げられていると聞きます。軍隊内部では酷い人権蹂躙や暴力が横行しているようで、仮に戦闘地へ行かずに済んだとしても、軍隊へ入ることそのものが多大な苦痛であり、心に大きな傷を残すことになるでしょう。ただ、そこから逃れる方法は無く、兵役拒否を貫けば犯罪となり、刑務所送りです。あまりにも救いがありませんね。
(註:国によっては、《 良心的徴兵拒否 》を認めているようです。例えば、代替としてのボランティア活動を行うなど)
10代後半の多感な少年が、このような厳しい現実に直面したとき、平静でいられなくなるのも当然のことでしょう。まして、同い年の少女たちはこの運命から全くもって無縁であるとしたら……。自分が暴力や人権蹂躙の渦巻く軍隊の中に国家権力によって押し込められている間、かつてのクラスメイトであった女子は悠々と大学で学問を修めているのだとしたら……。
もちろん、すべての男性にとって、徴兵が苦痛であるということは無いのかもしれません。しかし、如何にしても耐えられないほどの苦痛を感ずる人が存在するのは事実であり、それを無視した逃げ場のない徴兵制は大いに問題でしょう。軍隊はすべての国家にとって必要なものだと思います。しかし、然るべき待遇を用意した上での志願制であるべきです。そして、軍隊組織を浄化する(暴力や人権蹂躙を排除する)必要があるでしょう。
さて、精神を病むに至ったマイク・アダムス氏は、どのようにして闇から解き放たれていったのでしょうか。続きを読み進めることにしましょう。
仲間を得ると言うことは、とても大きな意味を持ちますね。それだけで、癒される部分はあると思います。男性差別に開眼した、《マスキュリスト》はマイノリティです。フェミニストと比べればその差は歴然としています。マイク・アダムス氏が苦しんでいた当時であればなおさらでしょう。孤独だった彼は、仲間と出会うことで、安心感を得て少し癒されていきました。
最後のところ。少し洒落が効いていますね。読者の皆様はお分かりになりましたか?もちろん、冒頭に書かれていたエピソードと、重ね合わせているわけですね。でも、その真意を周囲の女たちは分かっていない。分かっていないということを彼はすべて受け止めてしまっていて、むしろ楽しんですらいる。なかなかこういう風にはできないなあと思います。僕も、いつか、マイク・アダムス氏のようになれるのかな。
それにしても、欧米の “レディーファースト” と、日本の “男尊女卑” は、真逆の構図になるんですね。やはり、欧米と日本では、根底にある文化がまるっきり違うんだろうなあと思います。父(男性)が実質的な力を握ることの多かった欧米では、形式的に女性を立てる “レディファースト” が根付いたのかもしれません。母(女性)が実質的な力を握ることの多かった日本では、形式的に男性を立てる “男尊女卑” が根付いたのかもしれません。もちろん、これは1つの仮説に過ぎません。
男性と女性の間には、“非対称な構造” があります。それが “レディファースト” と名付けられるにせよ、“男尊女卑” と名付けられるにせよ、結局のところ男女双方が旨味を享受したり、損をしたり、傷ついたり傷つけられたりするのだと思います。我々は、この “非対称な構造” を、フラットな目で解明していかなければならないのだと考えます。
補遺:男性と女性では罰せられ方が違うということについて。
男性と女性では罰せられ方が違うという件について、『男性権力の神話』より資料をご紹介します。
主に、「第7章:誰に対しての暴力?」,「第9章:どのようにシステムが女性を保護するのだろうか、それとも…私たちが住んでいる世界は2つの違った法律が存在するのだろうか」,「第10章:女性は多すぎるほど殺し、司法は彼女らを釈放する―12の“女性にだけ働く”バイアス」に記載があります。
米国の書籍ですから、すべて米国での事例となりますが、日本においても同じような傾向がみられると思います。