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【蛍】小説伊勢物語 業平


 朝より空の白さが目立つ暑い日、業平は唐撫子(からなでしこ)を添えた厚い文を受け取りました。
 文は烏帽子に直衣(のうし)姿の老いた男により届けられたので、南の廂(ひさし)に屏風を立て、この男を通しました。
 邸の外に牛車を停めての来訪であったのも、家人たちを驚かせました。
 女人からの文でないのはたしかで、すぐさま業平は目を通します。それはまた、思いも寄らぬ、奇妙な依頼でした。
 男はまずは自らの身分や名前を名乗ったあと、ぶしつけな遣り文を謝り、これより他に成すすべの無かったこと、時を置く余裕の無いことなどが記されてありました。
 さらに業平を驚かせたのは、この文使いが上位の官であったことです。
 業平より官位として上の者が、手ずから文を持参するなどということ、よほどの訳があるに違いない。
 文を受け取るだけでなく、使いの男を待たせるよう命じたのもそのためでした。
 文に書かれていたのは、男の娘のことでした。
 春まだ浅きころ、業平が徒歩(かち)で西洞院大路を行くのを、近くの神社に詣でていた娘が牛車の中より見て、たちまち恋情のとりこになったという。
 以来、神社に詣でること数限りなく、周りも不思議に思うものの心に決めた祈願などあるに違いないと親や乳母などは思い、参詣を許していましたが、やがて病を得て食べるのもおぼつかなくなったというのです。
 そのころより、細い身体を無理に起こして琵琶を弾くことたびたびで、それがまた身の負担となり、いよいよ衰えて参ります。
 なぜ苦しい身体で琵琶を弾くかと問えば、美しい横笛の音と合奏(あわせ)ているのだと消え入るように言うものの、耳を澄ませど笛の音など聞こえません。
 横笛は業平が吹いているのだと知ったのは、娘の身がいよいよ弱りきて、明日をも知れぬ篤(おも)さとなってからのことだと、文には書かれてありました。
 その娘と横笛で合奏た覚えなど、業平にはありません。業平にとっては見知らぬ女人です。
 業平は文に在ることが誠かどうかいぶかしく、廂に待たせている男に会いに出ます。
 娘の親である男は、業平より身分が上にもかかわらず、急ぎ現れた業平に両手をつき、苦しげに詫(わ)びるのでした。
「御文、読みましたものの、いささか腑に落ちませぬ」
「さよう、さようでございましょう。ここに参るまで深く深く迷いましたが、ことここに到り、無礼を省(かえり)みず、こうして参った次第でございます」
「それで御容体はいかが」
「まだ息はありますが、すでに時は遅く……」
 と涙を拭います。
「業平殿にこれほどまでの懸想をしていますこと、親も乳母も知らず、胸にしまい込み、ひとり思いに耐えて病を篤くしたと知りまして、せめて最後に、業平殿にひと目だけ逢わせてやりたいと……こうして参ったのでございます。それも叶わぬなら……文だけでも届けたと申せば、あの世への旅立ちも楽になろうかと……」
 またしても老いた男は袖を顔に当てて、息を殺してむせびます。
 春まだ浅きころの西洞院大路。
 夜ごと五条に通っていたころか、いやそれ以前の西の京であったか。停めた牛車の中より女人に見られていたとは。
 気ばかり昂(たか)ぶり、大路に停まる車にも気付かず、訪れた先でのことのみに心を注いでいた自らを思い出します。
「……琵琶を弾かれる」
「それももう叶わず……」
「わたしの横笛の音を」
「幻でございます……起き上がることも出来なくなり果てても……業平殿の笛の音が聞こえると……」
 業平は老いた男を待たせて、急ぎ仕度(したく)いたしました。男の牛車に乗り、邸へと向かうのです。
 半蔀車(はじとみぐるま)の右前席に、勧められて業平は座りましたが、そこは業平の位の者の座所ではありません。しかし無理にもそう勧められたのは、特別の客人としての扱いでした。
 それが判る業平は、心が重い。
 路上の瓜売りは笠をかぶり、瓜! 瓜! と高く声を張り上げ、その声を牛車の車輪の音が掻き消します。
 車輪が停まったところへ、わらわらと人が走り寄り、牛飼童(うしかいわらわ)たちが急ぎ榻(しじ)を置いた上に、業平は足を下ろしました。
 良く行き届いた邸の庭には、片隅に唐撫子の花が群れ咲いています。おそらく、この邸の姫君が好んだ夏の花に違いなく、可憐な花に添えた文を思い出すと、父親の娘への情が胸深くまで迫るのでした。
 牛車を追いかけてきた業平の家人、そして慌てて走り来た憲明が、邸の外に着いたと報(し)らせがあります。
 衣類を調(ととの)え終え、通された几帳(きちょう)の向こうに、その女人は真白い顔で横たわっておりました。
 父親の声に促され、わずかに目を開けますがそこにはもはや生命の光りは見てとれず、痩せた頰には死の影が忍び寄っておりました。
「業平殿が見舞いにみえられた」
 と父親が声をかけ、衾より取り上げた手を握るも力は無く、だらりと垂れます。
 業平は哀れさと惑い心で、思わずその手を押しいただくと、女人の頰にわずかに明るみが兆(きざ)しました。
「業平殿ですよ」
 侍女たちもひっそりと、けれど慌ただしく躙(にじ)り集まって来る中、業平は何かに気圧されるように女人の身体を掻き抱き、持ち上げておりました。
 その身体はあまりに軽く、乾いた木のような手触りでしたが、皆が感涙の嗚咽(おえつ)、声を上げて泣くものもあり、業平も耐えがたい気持ちで涙を流します。
 その身体を茵(しとね)に下ろしたとき、すでに女人は息絶えておりました。
 すすり泣く声が溢れる中で、業平はあらためて死の淵を越えてしまった顔を覗くと、病に取り付かれる前の清潔な美しさが顕(あらわ)れてきて、ああ、なぜもっと早く思いを知らせて貰えなかったかと、無念で仕方ありません。
 乳母が急ぎ女人の亡骸(なきがら)を、業平から引きはがします。
 その意味が判っているだけに、業平も亡骸を手放しましたが、様々な思いが身体を駆け巡り、途方にくれるとはこのこと。
 わたしはあれほど人を恋しく思い、夜ごと訪れ、歌を贈り、飽くことのない自分に呆れ果てていたつもりであったが、このように死にまで届く恋情までは至らなかった。
 あのときの自らの思いを何十にも重ねた恋情を、自分に寄せてくれていたのだろうと、哀れむ心は涙とともに、増し溢れます。
 乳母が身体を寄せて、声低く耳打ちしました。
「しばし籠もらなくてはなりませぬから、日用の物など、こちらで調えさせて頂きます」
 言われてはたと穢(けが)れのことわりを思い出し、途方もないことになったと、あらためて打ち沈みます。
 死者に触れたなら、三十日は外出を慎まねばならない。弔問のみであっても、不浄の身は遠慮せねばならないことが多いのに、この手に抱いたのである。
 亡き姫君の父親もそれに気づき、慌ただしく業平の御座(おまし)など調えにかかります。こうなればこの邸に、しばらく身を置くしかありません。
 死せる人はまだ北枕にはならず、陰陽師により魂呼びが急ぎ行われますが、もはや業平に出来ることとて無く、そこかしこに泣き声が流れる中を、西の対へと誘われてやって参りました。
 西の対からは唐撫子の群生が目の前に見えて、神仏が業平に、恋情の真の姿を教えている気がして参ります。
 それと知らぬままに酷な仕打ちを与えてしまうのも、酩酊にも似た至福で全身を満たしてくれるのも恋なのだと、しみじみ思うのです。
 思いも掛けぬことに、この邸で物忌みの日を過ごさねばならなくなった業平は、主人(あるじ)の采配で急ぎ調えられた几帳や屏風、茵や脇息などの御座のほか、泔坏(ゆするつき)や角盥(つのだらい)などの整容の具に、あらためて溜息をつきます。
 いよいよ胸苦しさが増してきました。
 懸想は目に見えざる力を持つのです。天に通じて縁(えにし)を支配するのが人の思いとあらば、自らの女人への懸想もまた、因果の法に沿い、相応の波風となって戻されてくるのが必定(ひつじょう)かと。
 鬱々となります。
 空は一向に暮れません。
 業平は硯箱(すずりばこ)から筆を取りだして、一首書き付けました。

  くれがたき夏のひぐらしながむれば
    そのこととなくものぞかなしき

 早く暮れて欲しいのに、時はゆるゆるとしか動かず、早く暮れれば女人の魂が亡骸に戻る時を失うことにもなり、そう願うのも非情なこと。
 とは申せ、死の間際に掻き抱いたその身体に、何の責もあるはずはなく、家人が葬送のために動き働く衣擦れの音さえ、溜息を誘うばかりなのです。
 亡き人の父親が入り来て、申し訳ない思いを縷々(るる)述べますが、業平のもの悲しさは晴れません。
「……今少し早く、文など頂いておりましたなら、わたしにも何ほどかのことが出来ましたでしょうに」
 と涙声で申しますと、父親はひれ伏し、
「有り難くも、誠に申し訳なきことになりまして」
 と、さらに袖を濡らします。
「……唐撫子に添えられた御文、姫君にかわりよくぞお届けくださいました。唐撫子は、暮れ泥(なず)む空のように、淡く名残惜しい色ですね」
 業平は書き付けた歌を、そっと差し出したのです。
 撫子色の空が、紺味(あおみ)を帯びて暑い日も暮れかかるころ、業平は懐より横笛を取りだしました。
 左京高倉邸から、あまりに急ぎこの家の主人の車に乗った折り、持参してこなかった横笛を、憲明らが届けて来たのです。
 門の下より届けられた横笛と憲明の文。
 文には、業平と同じ邸に暮らす母、伊都内親王からの言付けとして、すべて仏の縁と思い、亡き御方に尽くすようにとの言葉がありました。
 母君は業平の所業には関心が無いと思われるほど、日頃は御口を挟まれないけれど、何事かあれば心を傾けてお言葉を下さるのだと、業平は有り難く感じ入ります。
 西の対の簀子に出て眺むれば、まさに陽が落ちんとしておりました。
 その中を泳ぐように動いているのは雁の影でしょうか。ならばひと息に季(き)が移ろったか。
 業平、持てあます寂寥の思いを、横笛に託します。雁らしき影を追いかけて、細く澄んだ笛の音が、簀子から空へと流れていきます。
 するとどこからか、琵琶の音(ね)が加わって参りました。
 業平が横笛を離し、耳をそばだてますと、琵琶の音は西の空に吸い込まれるように消えてしまいます。
 慌ててまた笛を震わせ鳴らしますと、空の彼方より竹をしならすほどの琵琶の音が、降って参るのです。
 なんとこれは。
 胸騒ぎ立ち、怪しき心地もしてきて、思わず簀子の端に座り込みました。
 もしやこの邸の誰かが、業平の笛に合わせて琵琶を奏でているのか、さもなければ、逝きかけた魂が戻り来て、業平の笛に寄り添い合わせているのか。
 この邸の主人や乳母たちにも、業平の笛のみならず琵琶の弦の音節(おとふし)が聞こえているはずだと、しばし息を静めて邸内を窺いますが、誰ひとり業平の御座を訪ねては参りませんし、簀子にも人の影はありません。
 哀しみのあまり、笛の音も琵琶の弦も、ただ幻にしか聞こえないのでしょう。
 西の対から見上げる空も、すでに暮れ落ちました。
 業平は、笛を吹き疲れた身体を、簀子に横たえます。
 唐撫子の色もいまや薄闇の色。
 草叢(くさむら)より、すだく虫の音も聞こえてきて、我が身の在りどころが、あてどもなく揺らいで参ります。
 死の国、とはいかなる世か。常世と申すからには、永久(とわ)に在り続けるのだろう。
 雁は死者の霊魂を運ぶと言うが、夕景の中を泳いでいた鳥の影は、すでに姫君の魂を運び去ったのであろうか。
 穢れのことわりとは言え、御仏の御心がいま、業平をこのように閉じ込めておるのだと思えば、母君の御諭(おさと)しもしみじみ深く滲みて参ります。
 とそのとき、なにやらすうっと、池のほとり、あの唐撫子の繁みあたりより、夜空に上(のぼ)る一筋の光り。
 いえ、二筋も三筋も。
 目を凝らせば、その光りは明滅しながら、いっとき線条を成し、すぐさまその線条を搔き消しながら、それでもゆらゆら宙に浮いております。
 業平は思います、いのちとは、現世(このよ)でのささやかな光りの明滅。これこのように目にする光りの筋は、長くとも短くともたちまち消えるのが必定。
 さはあれども、常世の蛍より現世の蛍の方が美しいのも真なりと、蛍飛び交う闇に目を凝らします。
 あの一筋が亡き姫君ならば、その隣にて光りを放つ蛍は業平自身。
 その二つの光りは交わることなく、一つに混じることもなく、揺れては落ち、落ちてはまた虚しく飛翔しております。
 業平は御座の奥に控えているこの家の者に、蛍に聞こえぬほどの密やかな声を掛けました。
 そこに控える者、灯りと硯をこれへ。
 蛍より小さき灯りを、これへ持て。
 手元のみを照らす灯台と、硯箱が運ばれてきて、ふたたび人の気配は消えました。
 その消えた気配に導かれるように、涼しい風が蛍のあたりよりゆるりと来て、女人が横たわっていた部屋へと流れ込んで行く様子。
 あの酷な暑さも、ようよう去ったのである。
 いまはもう、陰陽師が魂を呼ぶ声も消え、家人たちの泣き声さえ、闇の底に押し込められております。
 動くのは蛍の光りのみ。
 その中の一つが、天に吸い込まれるように、あたりより明るい筋を残して、屋根近くまで上りました。
 業平は身を起こし、指先のみを照らす灯台に筆先を寄せるようにして、蛍に呼びかける一首を書き付けました。

  ゆくほたる雲のうへまでいぬべくは
    秋風ふくと雁につげこせ

 上っていく蛍よ、雲の上まで飛び行くのですか。もし雲の上にまで行くことができるならば、この世ではもう秋の風が吹いています、どうぞ戻って来られますようにと、雁に伝えてください。
 業平は、死に向かい苦しみに耐えながら、この暑い日々を過ごし、なおも自分を思ってくれた女人に、今夜の涼しい風を届けたいと願います。
 あが君よ、今生では添うことこそ叶わなかったものの、この心地良い夜風の中であらためてお会いし、睦み合いましょう。
 そこまでの思いを筆先に込めましたが、ふとその筆を止め、ああ、秋風かと呟きました。
 季節は酷なもの、秋が来れば人の心にも飽きが参ります。この世にあるものすべて、飽きの来ないものがありましょうか。
 けれど常世へ旅だった人は、飽きることがない。
 あが君、睦んで飽きるより、叶わぬままに、飽きることもないあなたとわたしの方が、永久に忘れ得ぬ縁ではありませぬか。

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