見出し画像

【初冠】小説伊勢物語 業平

初冠(ういこうぶり)

 春真盛りの、大地より萌え出ずる草々が、天より降りかかる光りをあびて、若緑色に輝く春日野の丘は、悠揚としていかにも広くなだらか。
 その斜面を取り巻く樫や山桃の枝葉を払い潜(くぐ)るようにして、勢い良く駆け出してきた若い男ひとり、額を輝かせ頰を汗で濡らした様が、若木の茎を剝いたように匂やかでみずみずしい。
 追いかけて、暗い森から数人の男たちと馬二頭が走り出てきます。馬も人も空の明るさにはっとたじろいだあと、中のひとりが息はずませて若い男に近づき、声をかけました。
「……若君さま! そのように急がれては、警護のものたちが困ります。鷹飼や犬飼たちも追いつきませぬ」
「憲明(のりあきら)はいつも遅すぎる。何かにつけて、ゆっくりなさいませ……慎重になさいませと……」
「その通りでございます。羽合わせの頃合いも、いささか早すぎます。鷹は鷹飼の呼吸にならされておりますゆえ、若君さまの合図が早いと、飛び立つ羽根が風に泳ぎます。羽根を合わすと申すのは、雉や鴨の羽根の動きを見計らい、同時にわずかな風にも機敏に応じ、動きを重ね合わせることで……」
 鷹は風下よりそのようにして獲物に飛びかかり、共に落下して組み敷く。
「良く解っている。兄からも同じことを言われる。しかし見事に雉五羽、鴨八羽を仕留めた。犬どもも良く働いたではないか」
 憲明と呼ばれた男、苦々しい笑顔ながら、若者の気負いや勢いが嬉しくてたまらない様子で、頰を染め、狩衣(かりぎぬ)の裾を手で払いました。
 馬たちも目の前にひらけた景色に、目くらましでも喰らったように、前足の蹄で草を蹴り黒土を撥ね上げ、いなないたために、離れた木々から鳥が羽音をたてて飛び立ちます。犬も吠えます。
 差縄(さしなわ)を持ち直す馬副(うまぞい)四人は、萎えた烏帽子(えぼし)に水干小袴姿(すいかんこばかま)で足には藁沓(わらぐつ)を付け、このような成り行きは思いもよらなかった様子の荒い息。やれやれ、と言う気配。
 在原業平(ありわらのなりひら)は十五歳。初冠(ういこうぶり)の儀式を終えたばかりで、伴(とも)の憲明は、業平の乳母(めのと)山吹の長子で業平より五歳年上。業平と同じ乳を飲んだ弟は死に、憲明は業平を実の弟のように親しく可愛がってはきたものの、今や身分の違いは、この天地ほども明らかなのです。
 業平の鷹狩り一行には、二十人を下らない供人がいます。食料や衣類の替えを収めた唐櫃(からびつ)を、朸(おうご)と呼ばれる天秤棒で運んで来た下人たちは、春日野の麓にある宿所に控えており、業平たちの帰りを待っております。狩り場への一大行列を好まない業平の命なので、京からの道中はともかく、狩り場への同道を控えるのはやむを得ないこと。とはいえ山賊の出没は恐ろしく、前夜の宇治での中宿りの折りは、篝火を焚き、警護六人が交代で番をいたしました。
 春日野の狩り場は業平の所領内にあるので、宇治より安全とは思われるものの、無事戻られたお顔を見て、控えの供人たちもようやく安堵。それなのに業平は、京から引いてきた替え馬に乗り替えると、ふたたび出て行こうとします。慌てて憲明も馬副を連れて追いかけます。
「若君さま、春の宵は短くもうすぐ暮れ落ちます。今日はゆっくり夕餉(ゆうけ)を召し上がって、お休みになられてください。警護の者も休ませねば」
「案ずることはない。今少し身体のほとぼりを冷まして宿所に戻りたい」
「では私もお伴をいたします。どちらに参られますか」
「……私が生まれる前の、平城帝があれほどまでに懐かしく思われた古の都は今、どのような夕暮れかと」
 憲明ははっとなり口を噤(つぐ)みました。狩り場での業平とは別人のように、声の端々に憂いがあったからです。その憂いの中には、若い貴人の心を曇らせる出来事が、春霞に混じって浮き沈みしているのが見て取れたからでもあります。
 業平は父親阿保(あぼ)親王、その父である平城帝の話題になると、突然無口になる。桓武帝から平城帝、そして阿保親王から業平へと、まぎれもなく貴種直系なのに、それを恥とする曇り心が胸をよぎる様子。
 憲明はその曇り心が少しばかり解るのです。
 平城帝は妃の母親薬子(くすこ)と深い仲になるという不始末をおかし、譲位後に都を平安京から奈良に戻そうと企てて失敗した。業平の父親阿保親王もこれに連座し、長く大宰府に配流(はいる)の憂き目。都人(みやこびと)の評判は決して良くはありません。そのような評判は若い業平の耳にも入り、誇りを打ち砕くばかり。
「平城京は若草が匂う……それともこの匂いは女人の香りか……」
 憂いを紛らわすように深く息を吸うと、業平は大人びた口ぶりで呟きました。

 半馬身遅れて馬を進める憲明を、気遣うように時折振り返る業平、その仕草や後ろ影に憲明は溜息をつく。
 すでに初冠を済ませた成人男子、ではあるけれどまだ少年のような痛ましさも腰のあたりに纏(まと)わり付いてあり、やはり帝の血は気高く受け継がれていると惚れ惚れするようでもあります。
「若君さま、今日はことさら身体がほてりますな」
 水を向けてみる。先ほどの業平の言葉を返したまでなのですが。
「良い女人は、宇治より南にしか居(お)らぬと父上が言われたが」
「そのようなことはありませぬ。宇治より南には、趣きを解せぬ田舎女ばかりで、優れて美しい人など軒端を一つ一つ覗いて一里を歩こうとも、見つかるものではございませぬ。お父上は若君さまをおからかいになられたのです」
 いやそれは違う、あれはからかいなどではなく、父上の言い方の中には多少の妬心が含まれていた。望まぬ人生を送る人特有の拗ねた心が、口の端に匂った。
「私も美しい女人は、平安の都以外には居らぬと思う。とは申せ、奈良の都は長く栄えたのだから、若草の香りのような人がどこかに居ないとも限らない」
 業平は馬を降りて鄙(ひな)びた通りを歩きだす。憲明が追う。後ろからそっと馬の口を取る馬副たちが従います。
 どの家も板葺(ぶ)きの屋根に草が生え出ている。屋根を押さえるために載せた丸太や石ころにさえ、春の若草が絡んでいて、業平にはそれが見苦しいというより妙に美しいのです。
 この高揚は山野で鷹が獲物を追い詰める息遣いから伝わってきたのか、それとも初冠の夜から身内に目覚めたものか、業平自身にも判らないままに、なぜか足が動きます。
 荒く編んだ柴垣にも、春の草が匂うような気がして顔を寄せたとき、柴の隙間から家の縁が垣間見えました。縁の奥に蘇芳(すおう)と紅梅の色がさらりと動いた気がする、まるで流れを透かし見たときに二色が重なり縺(もつ)れるような。
 春らしい色目の御衣(おおんぞ)か。さてこの田舎暮らしにこの襲(かさね)とはまた見事な。
 目を凝らすと女人が二人、何かの遊びに打ち興じていて、手前の庭には紫草(むらさき)が野放図に繁っておりました。
 柴垣の隙間より垣間見ている業平の傍らに、いささか下品な笑みを浮かべて近寄ってきた憲明ですが、
「どれどれ」
 と言いつつ同じ隙間から覗き見ているうち、
「あれは姉妹と見えます」
 かつて見知った家のような様子で申します。
「姉妹であろうか」
「なかなか仲睦まじそうで、若君は姉の方がお好みでしょうか」
「どちらが姉であろうか。憲明はなにゆえ、そのようなことが判るのか」
「あれは碁にふけっております。姉はゆったりと構え、妹は必死で目の色も冴え冴えと挑んでおります。ほうら、眉間に皺を寄せて考えているのが妹で、ゆったり受けておる方が姉に違いありませぬ」
 業平はあらためて柴垣に目を寄せ、このような奈良の田舎にも、美しい女人は居るのだと、ふと父阿保親王の言葉を思い出します。あの折りの父上は正しかったのだと。
 父が大宰府から赦されて都に戻った翌年に、桓武帝晩年の娘である伊都(いず)内親王を母として業平は生まれました。その来し方を思えば、あのころ父上は、都のすべてが美しく見えたはず、とは申せその美しき都への反発もまた、父上の胸に渦巻いていたのでは、などと若き貴人、あれこれ想像を巡らせております。
 大宰府とやらはこの奈良の地よりさらに鄙びておるのでしょうし、紫草は、この家の庭に生えているよりさらに凄まじく荒れ果てた風情で繁っておるのではなかろうかと。
柴垣の隙間は業平の目より細く、あたかも縁取られた景色のように、今は女人二人が笑いさんざめいております。
 業平は聞き耳をたて、声を得んとして身を乗り出したとき、かすかな物音に笑顔を収めて柴垣に目を寄越し、あら、と何やら気づいた様子で二人同じく、袖で顔を覆いました。その仕草の素直で愛らしいこと。
「どうなされましたか」
 憲明が耳元で問うと、しずかに、と息を潰して命じる様子は、すでに成人男子の低い声なのです。
「気づかれたのではないか姉妹に」
「そのようでございます。とは申せ、何やら嬉しげでもあります。若君が都人(みやこびと)であること、察しておる様子で……このような荒れた家に、春めく色目の襲を身につけておるところを見ると、都の男が通い来て、世話をしておるのかも知れませぬ……良き人は、良き人の香に賢(さと)い、柴垣越しにも察せられるものです」
 やわらかに風が動いております。紫草がゆれ、京とは異なる古都の春風です。
「あの姉妹は都人だと察しておろうか。ならば都人の証しを見せねばならぬ」
 業平は自らの狩衣(かりぎぬ)を見下ろし、前裾の裂け目に気付く。鷹狩りの折り、小枝に引っかけたものと思われます。それをたちまち片手で引き裂き、憲明から手渡された刀子(とうす)で切り落としました。
「どうなさいます」
 憲明は怪訝そうに見ております。
「書き付けるものを持っておらぬか」
 憲明は狩衣のふところから筆を取り出し若い主人に手渡しました。
 伴の者の心得として常に用具を携えておりますのは、狩りの成果や旅にかかる路銀を記すためだけでなく、主人のこのような突然の申し出にもすぐさま応ずることが求められているからです。
 業平は引き千切られた布の切れ端を手にし、ひととき紫草のそよぎに心を奪われておりましたが、やがてその布に筆を走らせます。文字は、乱れる草を思わす忍摺(しのぶず)りの模様の上に、すっきり清(さや)けく流れております。

  春日野の若紫のすり衣
    しのぶのみだれかぎり知られず

 春日野には紫草のみならず、あなた方の匂い立つ若さが充ち充ちて、私の心もお二人の美しさあでやかさに染まってしまいました。この布の忍摺り模様のように、私の心は限りなく乱れ、野の草々ならばやがて静まるものを、この布の模様は消えてはくれないのです。ひたすら忍んでおります。
 と切ない気持ちを詠んだところ、憲明は感嘆しこの布を押しいただく。早速に文使(ふみづか)いの役目を果たすのでした。
 憲明が文使いの役目を果たして戻ってくると、どのようであったかと問いたげな業平の前にかしずき、
「上首尾でございました」
 との報告はあったものの、
「返歌はいただけませんでした。いかにもおおどかな若い姫君たちはいささか幼く頼りなげで、若君の御歌の素養がどれほど届きましたやら心許なく……一人の姫君を才気ある女房たちが取り囲む京の都とは、やはり違いがございます。このまま立ち去るのがよろしかろうと」
 春の野を覆う草々は匂やかで、そのまま口に含みたくなるほどであっても、野の草は所詮、野の草なのか。
 その草を愛でてみたい思いは業平の胸の底で、忍摺りの文様のように入り乱れてはいるものの、はや暮れが迫ってきており、立ち去るしかありません。馬に戻ります。
「誰(た)そ、追ってくる文使いはおらぬか」
 未練とはこのようなもの。
「誰もおりませぬ。奈良は消えてしまうことはございませぬので、若君とふたたびあの柴垣より垣間見る折りもありましょう。それより先ほどのあの御歌、見事でございました」
「憲明は覚えておらぬか、源融(みなもとのとおる)殿が詠まれた御歌を。あれはどこの歌会であったか」
「源融殿の……それはどのような御歌で」

  みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに
    みだれそめにし我ならなくに

 馬の背で業平は、うたうように声にしてみせます。
 みちのくの信夫(しのぶ)の里にはしのぶ草が生えていて、その草の汁で乱れ模様に染められているのと同じに、あなたのせいで心乱れております。この乱れは私ではなくあなたのせいなのですよ。
「さようでしたか。さすが若君」
 憲明は感服してみせるものの、自分とさほどの年の差もない源融の歌を、業平がうまく取り入れてみせたのはいささか不本意、ふん、と鼻で息をはいたのです。
 得意満面の業平は、伴の鬱屈には気付いておりませんでした。

 宿所までの馬の背は、眠りを誘うほどの心地良さ。足元から指貫(さしぬき)を伝わり太股にまで這い上ってくる馬の温かさに業平は、初冠の儀式を済ませた夜、乳母山吹の妹が、お温め申し上げます、と言いつつ新しくととのえられた夜具に滑り込んできた。決めごととは申せ、あのときのえもいわれぬ柔らかな気配と酔いをもたらすばかりの香が、今、馬上の業平に蘇ってくるのです。
 あの日は万事晴れがましく、心根を研ぎすませていたため顔色も一段と白く、神々しい形であったと、みなが噂しきりで、業平も特別の一日であったと思い返しております。
 角髪(みずら)に結っていた左右の髪は頭上に髻(もとどり)としてまとめられ、冠の中に引き入れるお役目の加冠(かかん)ともども、無事終わったあとは疲れ果てて、傍に臥す女の甘やかな息の中で夢さえ見ずに寝入ってしまったのは、なにやら口惜しくもありますが。
 あの紫草が繁る家の姉妹は、幼いばかりの愛らしさ明るさで業平を惹きつけたものの、歌など返されてそれが上手であったなら、柴垣を越えて家の中へと入ることになり、さて、そのさきには憲明も来ず、導き手もおらずで、どのような成り行きを作れば良いのかと、無駄になった忍摺りを思いつつも、確かに立ち去るのが上々であったようにも、思えてくるのです。
 そのような業平の胸のうちを知らぬ憲明は、しきりに業平の歌の才に心を巡らせておりました。
 先人の歌を引いてくる作歌は、言葉を追い重ねるだけでなく、何よりもその趣きそのものを深く身に沈め、血肉にしておかねば、ただの言葉の戯れにしかならないことを憲明は知っております。
 業平のひとかたならぬ才は、わずか三年年長である源融の歌をそらんじていたことばかりでなく、その切ない心情が乱れる草文様に譬(たと)えられ、いやさらに、その切なさを切ないままに自らの情として受けとめることが出来るという、特別の才なのです。
 憲明はなにやら総毛立つものを、馬上の主人に覚えました。このお方は、自らのとぼしい体験などとは関わりなく、成人や老人、いえ女人の心の動きまで、言葉の穂先で撫で表すお力をお持ちのようだと。

画像1

--------------------書籍のお求めはこちら--------------------

楽天ブックスで購入する

●『小説伊勢物語 業平』
https://books.rakuten.co.jp/rb/16306816/

●『伊勢物語 在原業平 恋と誠(日経プレミアシリーズ)』
https://books.rakuten.co.jp/rb/16449070/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?