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継がれるっていいもんだ

最近テレビ番組では旧家の立派な開かずの金庫を見事に開けて中身を拝見!というのがいくつか放映されています。
代々大切に保管されていたそれは威風堂々としてその家の歴史を静かに見ながらたたずんでいます。

子孫のみんなは大判、小判や宝石など価値ある金目の物を期待します。もちろん私が当事者であっても同じです。

何時間もかけて「ガチャ!」という音。「開きました!」
「321」「オープン!」                                             大きくて重い扉が厳かに開くと緊張と期待はマックスとなり、かたずをのんで見守るのですが、また扉、毎回見ているので二重扉には慣れました。もう一度!なかにはほとんどが価値のない株券であったり、メモ書き、小銭と気持ちがしぼんでおしまいとなります。しかしその中にご先祖の書いた、毛筆の伝票、手紙、などが何十年ぶりかで外に出されると、清廉な空気が広がったのが依頼者の顔からうかがえます。

子供のころは江戸時代が遠く大昔の時代だと思っていました。
この壺は江戸時代の物なんて言ってもざらにあるのが分かり、100年が人間も生きれる年月となるとその時代に生きていたご先祖さまがなぜか身近に感じます。
今の私が、携わった仕事でも自分だけの歩んできた道の中で選ぶことはけっしてないであろう職種ばかりでした。
いくら好奇心があると言っても、仕事として生活の糧としての選択ですから、慎重に決めなくてはいけないのですが、なんとなくできそうな…。
これは家族や周りの人に言えば卒倒されそうなレベルなのでひそかに一人で決心しました。
こんなことできるんだろうかから始まって、何かに背中を押されたような、
変な確信が湧いてくるのです。
それは先祖のどなたかが携わっていて志半ばで、断念せざるを得ないことだったように思えてなりません。私の時代でどれだけ満足してもらえたかどうかは分かりませんが、何代か後の子孫に私も無言のメッセージを送ることになるのでしょうか?
生活の中で家族を見守ってきたモノたち。物言わずとも現代の家族にこれらもメッセージを放っているように思います。
祖父のパイプ、父の万年筆、祖母の着物。母のあずき色のショール。
そして主人の時計。
今朝はいつもより暖かな日曜日の朝です。
久しぶりに朝食にはドンクの食パンをこんがり焼いて、ほうれん草と目玉焼きをのせました。子供の時、日曜の朝の定番でした。ホットミルクがミルクティーに代わりましたが、近くの昔に時間旅行ができそうです。




何代も前の自分のルーツである人の肉筆。何気ない日常の一コマが隠れています。

それをいま自分の子孫が見ることをその人は想像できたでしょうか?


ここにもそれぞれの歴史が脈々と繋がれています。命のバトンを改めて渡されたような気がします。自分一人ではなくそのずーと前からまた、これからも。

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