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絶対は窮屈


絶対!という言葉。好きですか?

父はこの世に絶対はない!と日頃から言っていました。

気持ちの絶対は自分がこうありたい、こうなってほしいという願いの究極。

強い意思を感じる言葉ですがそれと同時にがちがちな窮屈さを感じます。

先日野良猫の世話をしている女性から、猫の数が増えすぎてどうにもならなくなったおばあさんが入院されたので引き取り先を探していると聞きました。

私も「何人かの猫好きに尋ねてみます。」とその日は別れました。

早速心当たりに聞きましたが、先住の猫がいてその子も年寄り。急に新しい猫が来たら弱ってしまうとか、うちは飼いたいけれど1頭しか許されないマンションだから…。となかなか見つかりません。そのうち自分の仕事もあり声掛けを忘れていました。

2,3日して、「どお、見つかった?」と聞かれました。

「なかなかねぇ」

叔母さんは「絶対に見つけてよ!」と私への指令?を念押ししました。

いつの間にか「にゃんこお助け隊」の一員になっています。

もちろん気にはなりますが、そのことばかりするつもりもありません。なんだか不真面目で非協力な人間のようで申し訳ないのですが、その「絶対」という言葉で少し気持ちが引いてしまったのも事実です。またその方と話すようになったのも数回目。なににおいても命令口調は苦手です。

よっぽどの強い意思が働くとき、時として絶対という言葉を抱くことはあるりますが、口にだすことはありません。

私は天邪鬼で絶対に!と言われるとかえって萎えるところがあります。

困ったものです。おばさんの何とか子猫たちを助けたい!という気持ちに申し訳ないけれど乗っかれない。

おばさんの命令口調と、みゃあみゃあと鳴く子猫たち!なんかだか複雑です。

1週間ほどして、朝の散歩のとき、足早に近づいてくるおばさんの姿がありました。

ニケも少々苦手な人らしく、男の子みたいな低い声で、一哭き。

急いできたので息が上がっています。また絶対!と言われるかと思っていましたら、「だいぶ引き取りが出来たのよ。あと少し!」と言って忙しそうに離れていきました。

「よかった~!」は引き取り手のいたことと同時に、絶対!から解放されたと思ったからです。

今から考えると彼女にとっての絶対と私が抱くそれにはずいぶん差があったように思います。

なんだか勝手に面倒だなあと思ったことを申し訳なくなりました。

こうでなければダメ!は時として最初から目標が明確なので、ひたすらまっすぐ進めばいいのですが、そこに強い気持ちをもっていけない場合は重荷になります。

 一生懸命里親探しに奔走しているおばさんの生きがいが言葉にすると…だったのでしょう。

未だ残っている子猫の姿が浮かびました。

今朝は雨。まだ二階から降りてこないニケは気が乗らないようです。

今日もいい日にしましょう!


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