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11/26 『私はだんだん氷になった』『ひだまり童話館短編集4あおい話』『君の傷痕が知りたい』読了

『私はだんだん氷になった』『ひだまり童話館短編集4あおい話』『君の傷痕が知りたい』読了。文フリ購入の本たちです。メモを残します。

『私はだんだん氷になった』

 そういえば、推しって実際なんだろうか? 永遠に恋をする対象。愛を捧げる相手(あちらは決して対等な場所には降りてこない)。
 私が推しという言葉を使う温度はきっと応援している人、だ。この物語の語り手たちのいう推しの温度はそれとは濃度が違う。好きで好きで気が狂いそうなほどの憧れ。そう、憧れなんだ。
 これはネット上で、推しになりきる相手とそれを了承している私の疑似恋愛をめぐる物語。
 決して対等な場所には降りてこないはずの憧れ(推し)と妄想の世界で遊ぶのは、忘れたいほどつらい現実を生きる人にとって癒し、いや、支え、もう全てと言っていいほどになっている。
 現実はおまけのようなもので、妄想こそが本体。
 リアルで「推しのなりきり」と会うことは、推しの同志と会うのとは違う。同志と会うことは妄想をよりディープにするが、「なりきり」と会うことは妄想を醒めさせることになるのではないか。
 禁断の実をを食べるような危うさを感じてハラハラした。

『ひだまり童話館短編集4あおい話』

 宇宙人の話が特に好きでした。子供の必死さがたまらないんですよね。
 ロボットの話、人魚の話、それからユニコーンの話も印象的。いい子なんだよね、ユニコーンも、子供も。
 色をテーマにした物語集です。

『君の傷痕が知りたい』

 こちらも6人の作家さんによる同一テーマの短編集。
 小説紹介のけんごさんの作品も入っています。
 小中学生くらいから読める、認め難い自分自身に向き合い受け止めていくための物語。

 私は、子供ほど保守的なものはないよなってよく思っていて。
 子供は自分の欲望に素直だったり、立場や状況を察する能力がまだ育っていなかったりするために、大人から見ると発想が斬新に思えたり、自由で革新的に映るかもしれない。
 だけど幼児期や学童期は特に正しさに強くこだわって、はみ出すことを許せない時期でもある。
 「先生に言うよ!」に代表されるように、とにかく大人の言うことは絶対だ。
 何を求められているか周囲にアンテナを張って、比べることで振る舞い方を覚えていく。だから大人に許可されない限り、冒険なんかできやしない。周囲の子供に監視され「先生に言う」をされてしまうからね。
 変わったことを言おうものならどんな扱いを受けるかわからない。間違いたくない。そうやって警戒している子がたくさんいたんじゃないかと思う。

 高学年〜中高生と進むにつれ大人にもいろいろな考え方を持つ人がいることが見えてきて、絶対ではないことがわかってくる。
 鬼の首を取ったように「先生に言うよ!」と言う子はいなくなる。権威を笠に着て相手を脅す手段にできなくなるんだね。
 大人に頼ることは悪いことでも恥ずかしいことでもなく、これからもできた方がいいんだけど。
 「完璧な大人のいる世界」から離れることで、段々と保守の姿勢が崩れて、自分らしさが出せるようになっていくんじゃないかなって思っている。

 この時、親の方が変化する子供に合わせて関係性をシフトしていけない。子供が自分らしく居ようとすることを支えてやれない。
 自分の価値観から離れることが許せなかったり、子供を信じきれず心配を抱えきれなくなったり、ただただ不安だったり、自分の気持ちで精一杯になってしまう。
 そうなると、これまでずっと保守だった子供の方が親の気持ちを読んで、譲歩してしまう。本当の自分を隠してしまう。
 自分はきっと受け入れられないだろうと言う悲しみと共に。
 そういう子供たちのための物語集だった。
 

***

雑記


 先日まで

 フェミニズムについて4つの記事を書いてきた。けれど、あれについてはふれなかった。これについては考えが足らない。あれは誤解を受けるのでは? などなど思うことは留まることがないね。

 一つだけこれは誤解を受けるのでは?と思ったことについて書いておきたい。
 それは、戦い方として主張を受け止めてもらうために、相手の抵抗を解くという部分。
 ここで防衛が強い場合、相手からの思いやりのない言葉を聞くことになるが、それに反応せずに受け止めようと私は書いた。つまり怒りに駆られてやり返したり、侮辱したりするなと。
 相手から思いやりのない言葉を聞いて怒りが沸き起こるだろう。でも、それを返すと相手に言い訳を与えてしまうことになる。反応するのは悪手だよというのが私の考えだった。

 しかしこの戦い方に至るまでには、「私は自分のために怒ってもいいいんだ」という認識が必要だ。戦っていいんだ。正当な怒りなんだ。と自分で認めてあげること。
 例えば「女の子には必要ないよ」と言われて梯子を外されたことに「なんで?私だって」と感じていい。伝えていい。
 「私に与えられないのは当然だ」と相手の価値観を塗り込められ、自己価値を下げ、自分で自分の意志を折ってきたことを認める。
 それができなければ、どこかで連鎖を起こす。無意識的に。子供に向けることになるんだから。
 「私たちは自分のために怒らなくてはならない」その怒りを強かな戦いのエネルギーにするんだ。
 それが自分や相手を尊重する社会を作ることにもなるだろうし、ひいては毒親問題の一つの解決の糸口にもなると思う。

 怒りを抑えつけるのではなくどのように使用していけば良いのかについて『怒りのダンス』という本がとてもよかった。

 男性の抑圧についてもこれと同じように考えていくことができる。すると主張すべき相手が誰なのか明確になると思う。矛先違いであったことに気がつくはずだ。これを認めるのはとても難儀だ。だから支えが必要だ。
 それが認められた時にようやく社会の変容が実現するのだろうと思う。というかこれが実現しなければ取り組み始めることもできない。
 だから女性にとっても男性問題について考えることは不可欠なのだと私は思う。男性がフェミニズム問題について考えなくても済むのとは不均衡なのだけれど。


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