12/12 『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』読了
毎度おなじみ内容の感想や紹介ではなく、読んで思い巡らせたこと浮かんだものの自分よう記録となっております。ご了承ください。
『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』
新聞書評で紹介されていたのを見て、興味を持って手にしました。
「切り裂きジャックに殺されたのは売春婦である」と流布するのはなぜか。
こんなひどい殺され方をする人間には然るべき何かがあるもの。
そう思い込むことで自分には関わりがない事件だと境界を引いて、安心したいから。
人は誰しもそういう弱さを持っている。大なり小なり大人も子供も同様に、自分が安心するために死人に泥を塗って踏みつける。
そして自分のそのひどい行いに気がつかないでいる。
私は、たとえば「人間性」云々を口にしたり、「人として」どうこうと誰かのことを貶める言葉を吐いているのを見るとき、今この人は自分を守るためにその誰かに暴力を振るっている、と思ってみてしまう。
何を守ろうとしているんだろうと思ってしまう。
だって私はいやだといえば、それで済むじゃないか。
なのに「人として」なんて言って相手を貶め、口を塞がないではいられないんだよ?
傲慢にも神か裁判官か何かのように一段上に立っているのにも気づかず、相手は人非人だとジャッジして人間界から追い出さないと安心できない。
そこにはきっと何かがある。
「人として」などという大いなるものを傘にきなければ安心できないくらい必死になって誰かに何かをなすりつけている。
なりふり構わなくなるくらい強烈な危機感を浮かばせる爆弾のような何かを、今その人は持っている。
その大いなるものはたとえば「普通」であったり「当たり前」であったり「常識」であったり「みんな言ってる(やってる)」であったりする。
そういうものの力を借りて、なりふり構わず自分を正当化しなければ、その人は、どうにかなってしまうのである。この「どうにかなる」で浮かんだものをその人は恐れている。
それがその人にとっての爆弾だ。
切り裂きジャックの闊歩する街での爆弾は、殺されるかもしれない不安だ。
だから私は大丈夫と思いたいがために殺された人間を貶める。
相手は、ふしだらで、生きる価値のない、人を害する、殺されても仕方のない、人間以下の売春婦とその人の人間性を引き裂くことでようやく安心する。
ほとんど悪気なく、無自覚に踏みつける。そしてみんなで安心を分かち合う。
私はそれをとても人間的だと思う。
こういうことに一度も関わらないできた人なんて多分いない。
自覚するに至るまで、私もそういう暴力をふるって気づかずにここまで生きてきたんだろうって思う。
だってお母さんが、だって先生が、みんなやってるなど大きなものの傘に入らずに大人になった人がいるだろうか?
いるというならその人は、よっぽど自分を知らないだけだと思う。
『さらさら流る』を読んでいた時にも感じたのだけれど、誰かを追い詰める暴力が、実はものすごい憎しみや強烈な悪意ってことはほとんどない。
当人にとって無自覚なぐらいちょっとしたいたずら心だったり、意地悪だったり。
忘れてしまうような、なんならなんでそんなことをしたのか指摘されるまで考えてみたこともない、意識にも上っていないような、だから覚えてさえいないようなことだったりする。
「これが普通だよね」「当たり前だよね」と実際何を言っているかよく検討されることがないままに共有されていくことの暴力性。
その暴力によって弾かれ、人非人のように扱われている相手があるのを知りながら、私はその対象でないことに安心しようと飛びつく。
知っているんです、本当は。気づかないように誤魔化しているだけで、無意識ではわかっているんですね。そして罪悪感を持っている。
だから認めない。認める恥ずかしさを感じたくないから。
爆弾をお返しするために一層攻撃の手を強める。
不都合なことを隠しおおすために、逃げ回る。
もし消滅させるチャンスが来たなら飛びついてしまう。
こういう状態にあるとき人は、どんなに正しいデータも、踏みつけられた不幸な相手の苦しみも、訴えも何一つ届かない。
見ようとしないし、聞こうとしない。話にならない。
追ってくる爆弾のようにしか思えないから。
罪悪感を突き回されるのだという被害感でいっぱいになるから。
認めることはできない。頑なに防衛する。攻撃する。
そしてそのことを自分自身に隠す。
自分のしたことを矮小化したり、正当化したりして。
私たちが相手にしている人間っていうのは、そういう生き物だ。
自分自身も含めてそういうふうにできているのだと私は思っている。
話せばわかる理性があるはず、感情に訴えれば届く共感力を持っている。もちろんそうだ。だけどそれは爆弾を持たなければの話。
私はちがう、冷静だ、フェアだ、爆弾(恐怖心)なんて持っていないという人ほど自分のしている攻撃に無自覚だ。
そして話せばわかる、もしあなたが同じ立場だったらと訴える人も反対の立場の時は耳を塞いでいる。攻撃を仕掛けて知らんふりをしている。
人間はこういう弱いものなんだ、自分を守るためならなんでもしてしまう悲しい生き物なんだって自覚する。
その場所に立つまでは非難し傷つけあうばかりで、関係することをスタートすることもできない。
そんなことを考えたりした。
この話はさらに、踏み躙り、悪い像をなすりつけていい人間と「判断する」ということについてもいろいろ思うことがあった。
ここでは貧困女性がそれに当たる。
圧倒的に困っている、助けを必要としている人なのに、困った人になっていく。
周囲がまるで彼女たち自身が切り裂きジャックを生み出したのだとでもいうような扱いをすることで。
彼女たちこそが加害者で、近隣の街に住む私たちは被害者だとでも言うような目で非難することで。
そんな像をなすりつけていい人間と判断することで。
「善良な市民」である私たちとは全く違う生き物(人非人)のようにくっきり隔てることで自分は大丈夫と思い安心しようとして、より恐れる。
ああなったらおしまいだと、相手に勝手に悪い像を投影して恐怖する。
貧困女性だった被害者女性たちは市民にとって葬り去るべき「恐怖そのもの」になる。
なんだか今の日本の自己責任論や、老害という言葉、なんかにも通じる話だよなって思ったりした。
*
話は逸れるけど、たとえば痴漢について。
現実に痴漢はあり、女性は被害にあうのを恐れる。
だから対策を考えて欲しいというのは至極真っ当な要望だと思う。
その反応として、全ての男性が痴漢をするわけじゃない。(男に属する私は非難されていると感じ、この話は不愉快だと表明する)
冤罪という問題もある。(女性だって問題だと話をすり替える)
痴漢にあった男性は女性よりもっと深刻なダメージを受ける(比較して自分の側を大きく見積もることで相手の問題を矮小化する)
痴漢は男性だけじゃない(攻撃されたと受け取り攻撃をしかえす)
痴漢なんて大袈裟だ。(問題をなかったことにする)
魅力があるって言いたいわけ?(揶揄して貶める)
誘惑するような格好をしている女性が悪いんだよ。(相手に責任をなすりつける)
などというのをみた。
これは全て防衛反応だろう。
辱められたと受け取り、その嫌な気持ちを自分の中から追い出したくて思わず反応した。爆弾を相手に返した。(だから正当だ、と感じている)
そのような反応をすることと、自分は女性問題に関して理解があるという認識を持っている、ということは両立する。
それくらい人は自分が見えないし、人は責められたと感じるとこういうことをしてしまうものだ。
人には話せばわかる理性があるはず。
感情に訴えれば届く共感力を持っている。
だけどそれは爆弾を持たなければの話。
だからまず爆弾を処理しなくてはならない。
『天上の葦 上』読み始めました。太田愛さんの『犯罪者』の続編です。
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