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12/1 子犬さんの健康診断『レゾンデートルの祈り』読了

 今日は朝から子犬さんの健康診断です。
 絶食で向かいます。朝9時には預け、お迎えは17時過ぎてからです。
 病院が好きになる理由はあまりないので、やはりすごく緊張する様子。
 吠えたり噛み付いたりして感情を表すタイプの子ではありませんが、なぜか100%病院の待合室でうんちします。
 これ、緊張の反応だそうです。
 わかりにくいな。
 あと、超絶落ち着きがないです。普段の動きを早回ししているみたい。

 検査の後は食事ができるのですが食べられずに帰宅。家に着くとバクバク食べました。
 元気に遊びに誘い、それでもお疲れなのかすぐに眠ってしまいました。
 子犬さんと書いていますがもう1歳半を過ぎた立派な成犬です。


 

『レゾンデートルの祈り』

 申請すれば安楽死することができるとされた世界。
 人命幇助者(アシスター)として死に救いを求める安楽死希望者と向き合うお話。

 人と向き合うって実際どういうことなんだろうか、と思いながら読みました。
 それから何があったというわけでもないけれど死にたい、希死念慮。これについても色々思い巡らせました。

 積極的に「死にたい」といういうよりは「生きるのめんどくさい」
 生きることのほうが怖いというのは、自己信頼の欠如なんではないだろうか。とかとか。
 「自分が嫌い」と明確に感じられる人もあれば、「どうでもいい」と感じないように回避的にぼやかされている人もあって、でもおそらくどちらも変わらないくらいに自己像は傷つけられているんだろうと思う。

 積極的に「生きよう」と思えるには、自分で自分のことが好きになっていく、自分の行動に信頼が置けるようになっていくことが必要なんだろうけれど。
 そこに心の中に自分を攻撃する声を飼っていて、人から見ると些細なことがきっかけで台無しにせずにはいられなかったり。ちょっとくらいと誘惑に負けて望んだ行動を取れなかったり、自分を守るために思わず嘘をついたりしてしまい、自分で自分を信用できないと責めてしまったり。
 そういう癖づいたその人固有のつまずきがある。その箇所を自覚し非難することなく自分で受け止めること。認めること。必要なのはそれを支えることなんだろうなって思ったりした。

 それは決して「私が助けます」というような相手を抱え込む(相手の問題を取り上げるというのが正確か)ことでは実現しなくて。
 相手自身のペースを保障し、認めまいと右往左往するのも含めて、行きつ戻りつしながらそんなあなたをただ受けとめる(観察するようにそばにいる)ことで、自分を受け止めるというのはどういうことかを伝えていく。
 そういうことになるのではないかと思ったりした。

 けれど死にたいという人を前にすればどうしても「助けたい」と思うのが人情だろう。でもだからこそ死にたい人は助けたいという人にこそ踏み躙られてしまう。問題を取り上げられて、あなたにはできないというメッセージを送られてしまうから。ジャッジされてしまうんだ。

 支援しようとした側がもどかしさに耐えられないあまりに、死にたいという人を叱りつけたり、生きられない人もいるのにと比較したりしてしまう。無力感を感じたくないあまりに、あなたはおかしいと非難したりしてしまう。そうやってかえって追い詰めてしまうようなことが起きてしまう。

 多分それは距離が近いほど。一所懸命であるほどに。どうにかよくなってほしいという願いの強さの分だけ、いっそう傷つける。

 そんなことを思い巡らせていました。

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