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『トランスジェンダー問題』 ショーン・フェイ(訳 高井ゆと里)

 またしても思うがままに。
 (だんだんと本のことになりますが、なかなかならないw)


 手に取ったきっかけは朝日新聞に載った高井ゆと里さんの記事でした。

 それから当事者研究の熊谷晋一郎さんの駅のエレベータに関するツイート、ウィシュマさん死亡事件関連のユーチューブとたどり、と人権とはなんだろう?と言うことに今、関心が広がっています。

 つまり裏返せばこれまで私は彼らの人権について関心を持たずに「考えずに済んできた」ということです。


 ここまで私の関心は、毒親とはなにか(子どもの権利)、発達障害と家族をきっかけにフェミニズム関連の本を手にするようになり、男性の生きづらさ、家父長制度の根深さ、無自覚な差別へと広がってきました。
 ここまでは私自身とも関連があるテーマで、「考えてきた」ことと繋がっていたと思います。
 自覚的であったかどうかはさまざまだけど、自分がマイノリティ側として突きつけられてきたことだったからだとおもいます。


 マイノリティ側にも「抑圧している人」、「回避している人」、「従順な人」、「自分を守るために戦う人」、「攻撃する人」、さまざまいて、私は子供の頃からいままで主に前者三つをぐるぐるしていたように思います。

 「自分を守るために戦う人」に立つまでは自分の人生を生きることが難しくなる。そしてそれを後の世代にも自分が引き継いでしまうのだと理解して、しっかり理解したいと思うようになりました。

 五つ目の「攻撃する人」は実は「抑圧している人」と裏表じゃないかと感じています。「敵視」しているのが自分の属する側か、相手なのかと言うだけの違いで。

「自分を守るために戦う人」になるためには、相手やこれまでの歴史を理解する必要があります。
 知る中でマジョリティ側は自分の持っている権利を特権とも知らず、当然のものとして持ち、考えることなく生きているんだな、だからそれが当然ではないと突きつけられた時、何かを奪われたように感じて反応するのか、と気が付きました。
 私は私の中のマジョリティ性についても理解しなければならないと思うようになりました。

 マジョリティの心理を正確に理解することは、誰しもが「自分を守るために戦う」のに必要なことです。
 マジョリティとしての私がマイノリティに対してすること、感じることは、マイノリティとしての私がマジョリティにされることですから。


 「LGBTQ」性的マイノリティについて、私は考える必要がない程度にマジョリティでした。
 Tの性別違和についても幼い頃から求められる「女の子」としての躾や役割に対する不満や反発とごちゃごちゃになる程度に無知でした。今もわかっていないかもしれません。

 私は「女の子だからだめ」と言われることに強い不満を持った子でしたし、「男の子だったら」とよく空想した子でもありました。
 身体変化を歓迎しなかったし、動きやすく無駄のない男の子の身体に憧れました。
 でも今思うとそれは大人の男性になりたかったからではなく、子どもでいたかった、大人の女性になるのが怖かったのだと思います。

 こういう子どもの存在の揺れやすさと混同され、矮小化されがちな幼いTの「わかってもらえなさ」は、私の中で毒親育ちの「わかってもらえなさ」(親になればわかるわよという矮小化)、発達障害の「わかってもらえなさ」(やればできるくせにという矮小化)やそれに対して抵抗できない感覚とつながりました。


 LGBの性的対象も同様に、成長過程で同性に対する憧れと恋と混同するようなことは誰しもにあるもので、それとごちゃごちゃにされてしまう(一時の気の迷いだよと矮小化)のではないかと感じました。

 この矮小化は他者からされるもの(われわれと同じであれという期待)であり、また、それを受け取った自分自身が内面化して思い込もうとするものでもあったりすると思います。

 内面化するとは「抑圧している人」が自分の中のそれを否定するために○○フォビアになり、「回避している人」がそれを気のせいの枠に入れて考えることを先送りにし、「従順な人」が普通であるように振る舞うようなことです。
 これらを超えて自分自身を認め「自分を守るために戦う人」にならないではいられなかった人たちが、ようやく声を上げている。

 「われわれと同じであれという期待」は「そうでなければ排除する(対等に扱わない・人間扱いしない)」という脅しとワンセットです。だからこそ抑圧したり、回避したり、従順になったり、先んじて攻撃したりしなければならない。
 つまり勝つのは相手か自分かどちらかしかないという形で対立するか、自分自身が「同じであれという期待」を押し付ける側の人間になって、同じであることを証明しなければならない。
 そんなことを「強いている」ことを、私を含めマジョリティはほとんどまったく理解していない。


 マジョリティにとって一番目に止まるのは「攻撃する人」かもしれない。
攻撃を受ければ意識せざるを得ないからだ。

 「攻撃する人」は被害者ポジションに立って全てをマジョリティのせいにする。勝つのは相手か自分かどちらかしかないという形で対立する。
 例えば毒親育ちが「生きにくいのは全部親のせい」、一部の女性、または男性が「生きにくいのは全部男性、または女性のせいだ」と嘆くように、私の苦しみは全部お前たちのせいだと言う。償えと迫る。対立する。
 「攻撃する人」を捕まえてマジョリティは、これは取り合うに値しない相手だ、「言いがかりだ」と退けてしまう。
 (この場合の「女性のせいだ」は実際言いがかりだが……これについては「弱者男性」を弱者たらしめているのがホモソーシャルだから矛先違いなので)

 マジョリティは自分が「強いている」ことをまったく理解していないし、抑圧したり、回避したり、従順になったりして適応するマイノリティの姿を見て、あるべき態度だと思っているから「攻撃する人」の言うことに取り合わない。


 正確には「攻撃する人」の苦しみの何割かは相手によって与えられたもので、何割かはそれによって自分自身を見捨ててしまった怒りによって生まれたものだろう。(9:1くらいだとしても)
 例えば「就職氷河期」の私は長く不遇に不満を抱いたし、それには確かに社会の問題が大きく横たわっていたが、現実は変わらないと諦めて非常勤であることを従順に引き受け続けてきた(私にはふさわしくない、与えられなくて当然と自分を低く見積り、見捨ててしまった)のは私の選択でもあった。

 この世代の不遇が「自己責任論(私の責任が全て)」に収められることに対して抵抗しなければならないが、「もしも男なら」「もしも氷河期でなければ」「与えられるはずだったのに(期待)」という私の社会に対する希望が「あるべき世界(社会の責任が全て)」と考えるのも誤りだ。


 (話は外れるが、「本来与えられるはずだったのに、剥奪された、裏切られたと感じる」と言う発想は日本における「弱者男性」の持つ怒りについて考えるヒントになった。)

 白人のゲイは、自らが白人であるがゆえに安全な世界に生まれたと信じていたのに、ゲイであることで危険な目に遭わされることになり、そうした意味で「裏切られたと感じる」だろうと、ボドウィンは述べている。

『トランスジェンダー問題』第5章 国家 P249



 私には自分を大河を流れる木端のように無力だと感じることもあるし、実際そのように感じざるを得ない状況もある。
 でも、実際は泳ぐ能力を持つ人間なのだ。
 例えば心身にアダルトチルドレン的特性を備えるようになった毒親育ちが、傷ついた自分自身を見捨て、嘆き、ただ過去の親を恨む日々を送るのではなく、傷を負った今の私ために何ができるか真剣に考え、取り組み、この私を抱えてどう生きるかを考えることができるように、私たちは全てを相手のせいにして「攻撃する人」になる誘惑に負けず「自分を守るために戦う人」になることもできる。(誘惑に負けないためには同じ立場の者どうしで力をあわせる、共感によってケアすることができるだろう)

 「自分を守るために戦う人」になるまでの道のりはなんというか、私にとっては限界まで自分を壊した後にようやく見つかるような困難なものだった。
 それも未だ指先をひっかけた程度で、油断すればいつでも慣れ親しんだ態度へ落ちてしまう。
 それは私が弱く、臆病で、愚かであったからかもしれない。そんな私のような人間はありふれている。
 そういう人に僅かでも届くといいなと思って書いている。



 長く本とは関係ないことを書いてきた気もする。
 私が受け取ったことではあるけれど。

 「自分を守るために戦う人」の場所にどうにか引っかかった今、私は私の中のマジョリティとしての無自覚さに向き合いたいと思っている。
 私にとってそれが戦い方だと思うからだろう。


 LGBTQ、中でも掴みづらいだろうTトランスジェンダーというもの、そして彼らの置かれた困難な現実を知ることを通し、私たちは自分をマイノリティ当事者として置いて考えていた時に困難だと感じていた問題が、彼らの上に同じようにして起きていると理解する。

 特に発達障害など一見して理解し難く、個別的で掴み難い特性を持つ人たちにとっては類似していると感じるのではないだろうか。
 しかしTの現実にとって、シスジェンダー女性でありヘテロセクシャルだろう私が立っている場所こそマジョリティの場所なのだが。

 読みながら私は「マジョリティ」の気持ちを体験する。
「何もしてないのに悪者にされる」「どうして私たちが配慮してあげなきゃいけないの」「彼らは優遇されている(わがままだ)」「私たちが我慢させられるの?」「今まで普通にやってきてたじゃないか」「脅かされる、被害者はこっち→証明しろよ」「寝た子を起こすんじゃないの→悪影響を与える・社会が乱れる」「自然に反している」「親不孝だ」

 これらの感情がどこから来るのか。
 彼はTの存在に反応して表出しているけれど、それらについて問題を持っているのは本当はトランスジェンダーではない。
 マジョリティである。

 マジョリティの感覚で、「みんな」が思うから、ただそれだけを理由に作られた「普通」。それらはけっして「正しさ」を保証しない。
 にもかかわらずマジョリティは「普通」を理由に「正しさ」を主張し、自分を正当化する。
 その「普通」を脅かされることに憤る。
 「普通であること」に「特別な権利」があり、それによってそうでないものを改変すべき、排除すべきと考える。(「→」の部分など)

 先ほどの「」の感情はどれも何の根拠もない「普通」を根拠に相手の人権に侵入していいと考えるマジョリティの側の持つ問題だ。
 私たちマジョリティはまず、自分が根拠にしているものの都合の良さに気づかなくてはならない。


 普通を根拠に人権に侵入してはならないという理解のもとで、トランスの抱える問題に向き合ってみたらどう感じるだろうか。

 例えば

  •  外出の機会が狭められていること(使えるトイレがないところに私は安心して出掛けられますか?)

  •  カミングアウトの問題(あなたの職場や取引先は性別移行する私を排除せずに置いてくれますか? 家族や友人はどうですか?)

  •  人間関係や家、仕事を失う問題とお金が必要問題(生きる場所が性風俗しかないのに、排除されることをどう思いますか?)

  •  問題の矮小化問題(私に起きている問題を無かったことにされていいですか?)

  •  医療機関が理解してくれない問題(私に起きている問題について有耶無耶にされ続けてもおかしいと感じませんか?)

  •  トランスの性被害問題(誰よりも危険に晒されてきたのに加害者扱いされても苦しくないですか? ……あなたを脅かす本当の加害者は私ではありません)

  •  家族(子供を含む)を望んではいけませんか(自分の困難を証明するために、どんな危険を冒してもどんなに費用をかけても完全に身体を改変しなければならないとしたら?)

 これらの個人の切実な問題に対して、私たちはどのような根拠を持って反論するのか。
 生物学や社会への影響か何かが、このたった全体の1%もいない人間によってどれだけ脅かされるというのか?
 そのことが自分自身を生きたいと願う人間の権利を踏み躙る根拠になりうると本気で思うだろうか?
 むしろ反対にマジョリティの思う普通に合わせるために、彼らの困難を無視し、生き方に干渉してよしとする実績を作ってしまうことこそが危険なことだとは思わないか?

 そういう意味でも、六章の最後のこの部分は本当にその通りだと思った。
 性的マイノリティに限らず、あらゆるマイノリティにとっても。

 残酷な形をとるトランスフォビアに抵抗するための単純な道徳的主張としては、社会から同じように 迫害されてきた全ての人が、私たちと共に連帯し立ち上がってくれれば十分である(シスジェンダーの レズビアン、ゲイ男性、バイセクシュアルの人々が、何らかの仕方でそうした迫害をみな受けてきたように)。
 しかし、これはまた自己利益の問題にもなるはずである。
 トランスたちの権利が制約される世界は、トランスジェンダーを人間扱いしないナラティブや、トランスジェンダーは性的侵略者であるとする神話 の上に成り立っている。
 トランスたちの権利の制約は、十分なくらいに男性や女性に見えるのは誰かを 決めること、そしてまた脅迫や暴力を使って堅固な規範からの逸脱を処罰することによって、トイレや 更衣室における他者のジェンダー化された外見を警察的に取り締まることに基づいている。
 トランス 権利の制約は、大人たちがやっていることを子どもが真似して、人と違っているという理由で学校の校 庭で同級生に嫌がらせをしたりすることを伴っている。
 トランスの権利の制約は、自らのアイデンティ ティを主張する子どもを服従させるために保護者が子どもを叩くことや、コンバージョンセラピーを使 って保護者が子どもたちを心理的に破壊することに基づいている。
 これらのトラウマ的な経験は、トランスであるかシスであるかを問わず、全ての「クィア」に影響する。
 どのような文字で書かれた、どんな形態であろうとも、そうした行為をする人々の味方となることは、クィアであると判断された全ての人に対してそのようなトラウマ的な行いをすることを避けがたく標準化することになる。

(中略)

 ゲイとトランスたちは、「自然に反する」という同じような論難と闘わなければならなかった。
 ホモフォビアは依然としてしばしば、セクシュアリティの最も価値ある形態は生殖が可能なセクシュアリティであるとする偏見に基づいている。
 トランスフォビアもまた、その人が語るアイデンティティが 信頼できるのは、それが人間の生殖における「自然な」役割を反映しているときであるとする偏見から 生まれている。
 同様に、シスジェンダー女性の生殖の自由は、保守派陣営にとって最初に抑制すべきものである。
 ミソジニーとホモフォピア、そしてトランスフォビアは、たくさんの同じDNAを共有している。
 家父長制にとっては、私たち全員が、誤ってジェンダーを行っているのである。

『トランスジェンダー問題』第6章 遠い親戚 P312-313

 また、トランスジェンダーの話題は、Twitterでは主に浴場、トイレ問題として浮上した。
 女性の安全と、トランスが安心して外出できるかどうかという問題は現実として対立するのかということだ。

 前提として、トイレがあるかどうかは瑣末な問題などではない。安心して外出できる場所がないというのは、さまざまな機会や経験を奪う、とても切実な問題だが。
 果たして本当に女性かトランス、本当にどちらかが安心して外出する機会を奪われることになるのだろうか? 

 既にこれまでもトランス女性はそれでパスできていれば女性のトイレを使っているだろうし、そうでない人は自分が見られているだろう性のトイレを使ってきたんじゃないだろうか。

 むしろ安心してトイレを使えないできたのは、男性用トイレを使用するトランス男性やパスできないトランス女性の方ではないのだろうか。
 有徴化されているトランスは、女性からは性のモンスターのように扱われるが、翻って見て男性からは過剰に性的な存在として見られるため、性被害にあいやすいと考えられるからだ。
 
 トイレ問題はトランスフォビアによってわざわざクローズアップされ問題化されたものという気がしてならない。
 もともと女子トイレを使用するトランス女性の問題では無かったし、クローズアップしなければそれを利用して犯罪を犯すのではという方向にも行かなかった気がするから。


有徴化
ある社会の中でマイノリティに属する人々だけが、ある種の特徴を特別に有した存在として理解され、翻ってマジョリティ集団が「無徴」の存在として、つまり自然で、デフォルトの状態として理解されることをいう。例えば性差別がある社会では、男性であることがしばしば「無徴」であり、女性はそれに対して、性に基づく様々な特徴をことさらに有している存在として「有徴化」されることがある。
 他にも異性愛者は自らの性的欲求性行動を自明のものと考え、自らのセクシャリティを「有徴化」されることはないが、たいして同性愛者やバイセクシャルの人々は過剰な制欲を持っているとか、性行動に過剰に積極的であるといった仕方で、殊更にセクシュアルな存在として「有徴化」されることがある。

『トランスジェンダー問題』第5章 国家 P247-249


 こちらの本の翻訳者、高井ゆと里さんと、男性の生きづらさについての本を書かれている杉田俊介さんの対談、とても良かったです。
 有料ですが、良かったら。
 ……もう一度聞き直そうかな。


 あと高井ゆと里さんのブログ。
 久々に覗いてみたら記事が増えている!

 とりとめもなく。

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