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肩書きなんていらない
名前の拘束力は強い。
人、物、場所、事、名前は説明書だ。
役割が固定化され、制約も生まれる。
知能が発達した人類は、「知ること」が最強の危険回避になっていたからここまで数を増やせた。もっと言うと、言葉。情報伝達が行えることが危険予知の手段だった。
逆に言うと、言葉のつけられないものは「未知」の存在。つまり名前は「安心」そのものだったりする。
危険予知、つまり間違いを選択しないために生まれた名前。
では間違いってなんだ?それこそ原始の人類は生が正しく、死が間違い。でも今の日本ではよっぽどことがあったとしても死なない。死ねないと言っても良い。
おそらく世の中的な「危険」はお金。収入がなくなったり、大きな借金をしたり(しそうなイメージ)がリスク(という大衆イメージ)。
「分かりづらい」は世の中にとっては不便な時が多い。何か名詞(肩書き)が必要になる事が多い。
個人で生きてるひとや経営されてる人だとわかると思うけど、名詞はひとつじゃなくなる。複数の名詞は「メイン」という概念が無くなって、「何されてる方ですか?」に答えるための回答に時間が必要になる。
世の中のパラダイムが超速で変化してる今、名詞にこだわっててたら苦しくなる。名詞を自分で決められるようにならなくてはならない。コピペ文化だと相当にしんどい作業だと思うけど、自分で決めるとそのあとが楽になる。
コップをペン立てにしたり、着物をカーテンにしたり、新聞をキャンバスにしたり、建築家がケーキを売ったり、弁護士が描いた絵を展示しても良い。
日本人特有の「見立てる」という考え方。多分DNAに刻まれてる。名詞を「壊す」と「生む」これは永久的に続けるべき作業。
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