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妻と共感と重箱の隅。


妻に僕が共感ができないことを伝えた。

共感を主軸で生きる彼女にとってはひどく辛いことなのだと思った。

ここ数ヶ月で随分解像度が上がってしまった僕には本当に共感が難しい。

絵を見て美しいと感じる時、
タッチが美しいのか
色彩が美しいのか
曲線や筆の重なりが美しいのか
ストーリーが美しいのか
何に対して美しいと感じてるのかは他の人とはおそらく違っていて、それを一言で「あなたと同じように感じています」と言ってしまうのはあまりに雑な気がして。

ポジティブな共感もネガティブな共感もパフォーマンス的に共感を演じることもできるのだけど、それは僕には随分嘘をついてることになり、その嘘は相手に失礼なことだと感じるようになってしまった。

彼女からするとそれは随分機械的に映り感情のないように見えてしまうのだろうけど、嫌われる覚悟で正直になろうと。

どうコミュニケーションを取っていたのかすらも忘れてしまって今に至るのだけど、共感で生きる彼女にとってひどくつらいパートナーになってしまったなーと思う。

そんなことを考えていたら、夫婦という仕組みってそもそも何のためにあるのか?を改めて考えてしまって、それはやはり民法でしかなくて全く意味のないもので。

つまり自分達で決めていくしかないわけで。

共感とインプットと成長が幸せの彼女と、理解とものづくりが日常の僕での価値観は対岸にあって、そのズレをどう埋めていけば良いのだろうと随分考え混んでしまい昨日は誰にも連絡を返さずすみませんでした。

おそらく彼女の周りには共感が溢れていてそれが楽しかったりして、僕も脊髄反射的に共感できればきっと彼女は喜ぶのだろうけど。

彼女からは様変わりしてるように映っているのかもしれない。

もしかしたら別人のように感じてるかも知れない。

でもこれはこれで私自身なのでどうしようもない。

「演じるのやめたら」と言われたことがあって、シングルタスクの瞑想的な時間を作るようになってからそのメッキもボロボロと剥がれ落ちて今に至ります。

妻と入籍する前はそういえばこんな感じだったなという記憶も微かに残っていて、ここ3年程度で出会った人たちにはもしかしたら妻と同じ感覚を持たれているかも知れない。

無意識に共感を振る舞っていたのは彼女に好かれたかったからなのだと思うけど、彼女と共に生きるには共感というメッキを剥がさないと僕の心が持たず。

僕と生きるのは本当に面倒臭いだろうなと心の底からそう思う。

彼女からすると僕は多くの言葉を持っていて上手く使うらしく、僕との会話は重箱の隅をつつかれてる感覚で随分窮屈なのだろうなと。

本当に厄介だ。

さらに厄介なのがコミュニケーションは時々ではなく日常的だからこそ。

僕はものづくりで生きてる人間で、今作ってるものや書いてることをアーカイブする理由は、10年後30年後50年後の未来の自分が見返した時に「ああ、この時はこんなことを思ってたんだな」と自分が分かればそれで良くて、今の自分と未来の自分の辻褄が合ってても合ってなくても面白いと思えるのだろうと。

人のため社会のために生きる彼女と、自己満足で生きる僕とではなかなかに擦り合わせるのに骨が折れる。

ぎこちなく違和感たっぷりな彼女とのコミュニケーションが慣れるまでは続きそうで多くのストレスを孕むだろうけど、それに慣れた時に新しい距離感や価値観が生まれそうな気はしている。

彼女がそれを望んでいるかは知らないので、それはそれでその時また考えることにする。

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