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懐かしさも小慣れると価値が生まれる。
オフィスリノベーション
2021@阿倍野
オーバーハングの包まり感は頭から被る毛布的なニュアンスです。
視線の遮蔽感も相まってコンフォーティブル。
オフィシャルな空間こそ大雑把さは必要で、デザイン的耐久力はマストだと思う。
誰がどのタイミングでどんな風に使うとしても「耐えられる」デザイン。
和柄や江戸幾何学にはその耐久力があると思っていて、障子や襖の意匠は正しくそれである。
今回のパーティションは手捏ねで模型サイズのスギ材を捏ねながら作っていったわけですが、手捏ねの想像と創造に比べると3Dみたいなデジタルは決められたアルゴリズムに乗っとって制作する必要がある。
それ故にデジタルはアルゴリズムに隷属するわけで、コンセプチュアルにならざるを得なくて。
手捏ねもコンセプチュアルもどちらが正しいというわけではなくて手法論なだけでどちらもできるに越したことはない。
みんなわかってるはずなのに建築やインテリアでは圧倒的に手捏ねが多数。
ものづくり感出るし楽しさや尊さももちろん分かるけど影響を自覚せずに作ったものに価値はないとも思ってしまうわけで。
デジタルの有用性は否定されるべきではないし、デジタルなレンダリングの再現性は道を作る上ではなくてはならない存在だと思う。
とはいえ、手捏ねでアナロジカルに進める作業でしか生まれない脊髄反射的創作は本当に尊くて、デジタルのレンダリングはトレーサビリティ高めだけど、絵の具の配分は開示しないと真似できないわけで。
どちらが有用かよりも、「ケースによって使い分ける」がやはり正しくて、ケミカルプロセスだけどそのプロセス自体にも表現し得る余白はあるはずだと信じたいと思うわけである。
建築業界のデジタルアナログ論争も1900年初頭から言われてるわけで2021年になってもまだ言うかと思うんですが、1900年代に想いを馳せながら、懐かしさも小慣れると価値が生まれるのではないかという写ルンです的な妄想を抱くわけです。
大先輩方の手捏ね信仰もわかるけど、今年36歳の僕くらいの年齢以降は手捏ねとアナロジカルを中庸として、選択肢として捉えて頂けると500年後に概念として残るのではないかと。
「軽さと繰り返しの相性が高い」
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