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「鳥かごのハイディ」第十五話

第四章

Border境界線
(1)

 ゆっくりと昇っていくエレベーターの速度が、いつもよりも遅く感じる。エレベーター内にあったボタンはすべて押したけれど、行き先はいったいどこなのか? すべては運任せ。
 きっと神様が願いを聞き入れてくれるのなら、開いた扉の先には、外の世界に繋がる輝かしい出口が見えるはずよ。

 ガタンッ!

 ……古臭いエレベーターが、故障したように突然止まるのはいつものこと。どこかのフロアにたどり着いたと感じたわたしは、激しい頭痛を堪えて、開いたその扉を潜っていく。
 この扉が天国への扉に繋がっていると信じて。
 エレベーターから漏れる光りと共にフロアへ飛び出したわたしは愕然とする。エレベーターホールの先には見覚えのある鉄柵扉。
 男の声が、この薄暗いホールの中で響いた。
「このフロアで止まったようです! 捕まえますか?」
 聞き覚えのないその男の声に、このフロアが普段わたしが生活するフロアとは別のフロアだということにすぐに気がついた。
「患者は興奮状態だとスタイルズ先生が言っていたわ!」
 今度は女の声が響く。きっと、このフロアの看護師なんだろう。頭が痛い、足にも力が入らない。でも、わたしだってこんなところで捕まるわけにはいかない!
 再びエレベーターに乗り込んで、その扉を閉めようとすると、大きな男の革靴がエレベーターの扉を遮った。願いも虚しく開かれていく扉の向こうには、見たことのない警備員の男に数人の看護師たち。
 頭の中で、真っ暗闇な声が響く。

「お前はここから逃げられない」
「お前に人並みの幸せなんて、訪れない」

 エレベーターの角に座り込むわたしを取り囲む冷たい視線に怯えながら、わたしはすべてを振り払うように飛び出して叫んだ。
「わたしに構わないでよ! 一体わたしがどんな悪いことをしたって言うのよ!」
 大きな革靴の男をすり抜け、目の前の看護師を突き飛ばし、着ていた服を掴まれながら、わたしは鉄柵扉へと走る。ホールの先の鉄柵からは光りが漏れ、閉ざされた扉の向こう側には、まるで見世物でも見に来ているような人だかり。
 笑い声が聞こえる。わたしがこんなにも必死に逃げようと頑張ってるのに! 罵声が聞こえる。わたしを捕らえようと戻ってきた看護師や警備員を振り払うたびに!
 笑い声が冷たく響く。
 そうやってずっと笑ってりゃ良いのよ!
 ここにいる連中はみんな、自分が何者だったのかなんて、とっくに忘れた頭のイカレた連中ばかりだ。そうやってわたしのことを、ピエロのように眺めているあんたたちだって、同じピエロだってことに気づきもしないんだ!
「ベルトを持ってきて!」
 わたしの体の自由が奪われていく。
「ハルドールを!」
 わたしの頭の思考が奪われていく。
 真っ白になる……真っ白になる。
 笑い声が聞こえる。もがけばもがくほど、薬も回って、わたしからわたしが奪われていくわ……。そして、犬のように涎も何もかも垂れ流しながら、わたしは冷たい床の上に倒れ込むの。
 わたしを笑う者たちの中の一人が言った。
「あれ? あんたエレノアじゃないのかい? 妹が死んだショックで自分も自殺未遂をやらかして、ここにつれてこられたエレノアだろ?」
 失われそうになったわたしの意識に、強烈な電流が走ってわたしを目覚めさせる。
「ど……どどッ……どうい……うことよ!?」
 ありったけの力で、押さえ付けられた頭を鉄柵の向こうの女に向けて、わたしは彼女を睨んだ。
「リース! やめなさい!!」
 聞き覚えのある声が響く。鉄柵の向こう側、リースと呼ばれた女を遠ざけるように、看護師長のクレアが叫んでいる。
「みんなチャーリーから離れて! 彼女は混乱状態にあるだけで、危害を加えたりはしないわ!」
 今度はわたしが乗ってきたエレベーターのホールから、アガサの声が響いた。
「チャーリー? あんた、まだチャーリーごっこなんてやってんのかい!? ハハッ! そりゃすごいね、それで重症フロアに飛ばされたってわけだ!?」
 リースと呼ばれた女が、高笑いしながらわたしに叫び、わけのわからない揶揄を大声で繰り返す。
「リースをおさえて! 鎮静! だれか、こっちへ!」
「離せよ! 私に触るな! 本当のことを言っただけだろ!? 私はどっこもおかしくなんてないよっ! チャーリー様の相手でもしてなよ!? 離せったら!!」
 クレアと数人の看護師たちが暴れてもがくリースをとりおさえ、どこかへと連れていく。一体、何が起こったのか? 頭を整理する余裕もない。

 リースって誰!? なぜわたしを知ってるの?
 チャーリーごっこって一体なに!?
 重症フロアに飛ばされたって? 

 それに……

 彼女の喚き声が次第に遠退いて、わたしの意識が遠退いていく……。
「チャーリー! 安心して! もう大丈夫よ!」
 わたしを押さえつけていた看護師たちを払いのけるように、アガサが滑り込んでわたしの体を抱き寄せた。
「チャーリー!!」
 わたしはきつい力で抱きしめられた。
「……ア…ガ、サ……?」
 もう、なにがなんなのかわからないよ。わたしが一体何者なのかわからないよ。こんなことなら、あのときちゃんと願い事に付け加えておけば良かったな。深夜に部屋を抜け出して、エレノアと飛ばした、ママの魔法のシャボン玉に。
「わたしはわたしを見失わないように」って。
 わたしというシャボン玉が高く飛んでいき、そして境界線を越えて弾けて消えたとき、わたしはいったいなにを失くしてしまったんだろう。
 それがなんにせよ、とにかくわたしは、自分にとってとても重要な物を失くしてしまったようだ。

 チクタク……チクタク……。

 部屋の中に響く秒針と、わたしたちの笑い声。
「なにを描くの?」
 ママに同じ大きさのチラシを二枚もらったエレノアが、部屋に寝そべってチラシの裏に色鉛筆で絵を描き始めていた。
「わたしたちが歌手になったときの絵よ!」
 足をパタパタとばたつかせながら、エレノアが気持ち良さそうに色鉛筆を走らせている。
「わたしも描く!」
 エレノアから同じ大きさのチラシを貰ったわたしは、彼女の正面に同じように寝そべって、足をパタパタとばたつかせた。
 まるで鏡に映った自分を見ているよう。お互いがお互いの顔を見合って描かれたその絵の構図は、チラシの片側に、きらびやかな衣裳を纏ってマイクを持った女の子。もう片側には、同じようにきらびやかな衣裳を纏って、ママのギターを持った女の子。
 でも、同じ構図のはずなのに、わたしとエレノアの絵は、仕上がってみればまったく別の絵に感じるんだ。
 エレノアの絵は、チラシの左側に右手でマイクを持った女の子と、右側にはギターのネックを左手で掴む女の子。わたしの絵は、チラシの右側に左手でマイクを持った女の子と、左側にはギターのネックを右手で掴む女の子。
 絵心はエレノアの勝ちよ。わたしは本当に不器用で、エレノアの絵を完璧に模写しているつもりだけれど、完全にパースが狂っているもの。
 完璧に彼女の真似をして描いてるはずなのに、どうしても仕上がりがあべこべになってしまう。それがどうしてなのか、ずっとわからなくて、わたしはずっと不思議に思っていた。
 エレノアの絵と、自分の絵を見比べて、納得いかない顔をしながら、じだんだを踏む。そんな、スランプ中の一流絵描きみたいなわたしの態度を見て、ママが笑いながらこう言うの。
「チャーリー。エレノアの隣に並んで描いてみなさい。そうすればきっと、今よりもっと上手に描けるはずよ」
 チャーリー……エレノアの隣……チャーリー……。

     ♰

「チャーリー……」
 目を覚ますと、不安そうにわたしを覗き込むアガサの姿があった。見たこともないほど哀しげな表情をしている。
「ここは? ……」
 頭がぼんやりとする。体が鉛みたいに重いし、一切のやる気も出ない。体を起こすことはおろか、鼻の頭を指で掻くことさえも面倒だと感じるほどよ。
 瞼を開けた視線の先には、うっすら残る天井の染み。殺風景な部屋の中に響く時計の針の音。そう、ここは見慣れたわたしの鳥かご。
「また……失敗したのね」
 独りつぶやいたわたしの言葉を、アガサは黙って聞いていた。最初の自殺未遂にしても、今回の脱走未遂にしても、わたしはいつも失敗してばかりだ。
「いったい、なにを失敗したんだい?」
 聞き覚えのある淡々とした声に身体を起こそうとするけれど、腕も足も、四肢のすべてが分厚いゴムのようなもので縛られて身動きができない。
「スタイルズ! どこよ!? 在りもしない嘘を並べたてて、この施設の人間を洗脳してるんでしょ!? 姿を見せなさいよ!!」
 何度も何度も体を揺さぶりながら、わたしはどうにか拘束ベルトを緩めようと試すけれど、ベルトはビクともしない。
「アガサ! 気をつけて! スタイルズはやっぱりあなたが睨んだどおり、わたしたちの脳みそをいじくって、都合良く洗脳しようとしてるわ!!」
 隣で心配そうに見つめたままのアガサを逃がそうと、わたしは動かない首を必死に持ち上げて叫んだ。コツコツと部屋を移動する足音は、やがてアガサの傍で止まる。
 天井を見上げるこの視界の中に、ドクター・スタイルズが姿を見せた。哀れみの表情でわたしを見下ろしている。
「わたしたちに構わないでよ!! アガサから離れろ! このサディスティック野郎!」
 わたしはさらに激しく暴れた。
「アガサ! 逃げて!」
 ベッドがギシギシと音を立てる。激しく体を揺らしアガサが逃げるための時間を稼ごうとするけれど、彼女は一歩もその場を離れようとしない。
「ハルドールを持ってきてくれ!」
 大きな声でスタイルズが部屋の外に向かって叫ぶ。
「ドクター! 待ってください!! 彼女はまだ覚醒しきれてなくて、状況もわからない混乱状態なだけです!」
 そんなスタイルズを制止するようにアガサが叫んだ。
 この狭い鳥かごの中、拘束されているのはわたしひとり。いったいこの不様なやり取りはなに!? スタイルズはなぜここにいるの? これじゃまるで、わたしは哀れなモルモットで、ドクターのスタイルズに助手のアガサじゃない!
 なにがどうなっているの? わたしの現実はどこへ行ったの!?
 アガサが制止するのも聞かず、スタイルズは別の看護師からアンプルを受け取って、注射器を刺しこんで中身を吸い上げると、その足音がわたしに迫った。
「先生! 待ってください!」
 わたしを庇うように、アガサが彼の前に立ちはだかった。
「アガサ、どきなさい。残念だが、今回もやはり失敗だよ。強制的に現実を知らされた彼女は、また自殺を試みる恐れがある!」
「先生! お願いです! 私に任せて!! きっと彼女は立ち直るわ!!」
 いったい、わたしはどうしてしまったの? 自分が自分でわからないのよ。ひとつのシャボン玉のようなわたしたち双子は、見た目も背丈もまるで同じだったわ。
 でもわたしには、きっと境界線の魔法がかけられているの。
 紅葉に染まるグランド・ブラフの赤と青の境界線を越えていくとき、魔法のシャボン玉は一瞬消えてその色を失くし、この目に映らなくなる。そして再び目に見えたときには、本当にそれがさっきまで目で追っていた同じシャボン玉なのかどうか、わからなくなってしまうのと同じように、わたしの目に映るこの世界も、さっきまでわたしが過ごしていた同じ世界なのかどうか、わからなくなってしまうんだ。
 わたしはちゃんと境界線の向こうへと行くことができるの?
 わたしはちゃんと割れずに空に昇り、神様に迎え入れられることができるの?
 魔法のシャボン玉はこの願いを零さずに叶えてくれるの?
「あなたたち! いったいわたしになにをしてるのよ!?」
 唯一動く頭を激しくベッドに叩き付けながらわたしは叫ぶ。
「アガサ! どきなさい!」
 スタイルズが、わたしの前に立ちはだかるアガサを退かそうとすると、彼女はわたしの上に覆いかぶさった。
「先生! 今、彼女に必要なのは薬なんかじゃないわ! 状況を把握して自分と向き合う時間よ!!」
 スタイルズはわたしになにをしようとしているの? アガサはわたしをどうしたいの?
 何者かがわたしの腕をつかみ、もぎ取られるようだ。
 頭が痛いよ……目の前は真っ白。とても怖いよ。
 ママがいなくなったあの日から、わたしはずっと恐れていたよ。ママが宝物のように大切にしてきた家族がバラバラになってしまうんじゃないかって、いつも恐れていたよ。
 精一杯頑張っていたつもりだったのに、いつの間にか周りが見えなくなってたのかもしれない。
「エレノア、愛してるわ。チャーリーのことをよろしくね。チャーリー、愛してるわ。エレノアのことをよろしくね」
 病院のベッドの上、眠ったように横たわって動かないママが、ふとそう言った気がしたんだ。

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

ありがとうございます!!!!!!がんばります!!!