あなたのためにの危険性
クレーマー
以前クレーマーについて書かれた記事を見ました。
はっきりとは覚えていませんが
"若者のクレーマーはクレームをつけているという自覚がある人が多い。一方年配者のクレーマーにはその自覚がない。あなたたちのためと思って言っている人が多い。それゆえ年配者のクレーマーの方がタチが悪い"
と言った内容のものでした。
ファストファッションブランドで自分たちの着るものがない。
ファミレスで自分たちの食べたいものが置いてない
"高齢化社会になるのにこれでは店としてやっていけないから忠告してあげる"
そんなクレームが年配者には多く、善意と思っているだけに厄介であると書かれていました。
こういった人たちは何故アンケートに書くだけでは満足しないのだろうと不思議に思います。
あなたのために
「あなたのために」ほど厄介なものはないと私は思っています。
"あなたのため"と思って発せられる意見は、それを相手が聞き入れるまで引き下がらない気がします。
そして意見が聞き入れられないと
「あなたのためを思って言ってあげたのになぜ聞かないのか」
となります。
どうして
"あなたのためになる"
と勝手に判断するのでしょうか。
経験談ならば、
"こういうとき私はこう行動して上手くいった"
と語るだけで良いのではないでしょうか?
そこから相手が何かヒントを掴めば取り入れるだろうし、自分は違うと思えばスルーするだけではないのかと思います。
また、その時その場で気がつかなくても、後から"そうだ"とヒントに気がつくこともあると思います。
でも、押し付けられたアドバイスって却って拒否しがちな気がします。何気なく言われた言葉に自ら気づき拾い上げてこそ、素直に受け入れられそうです。
感情に正誤はある?
xで
「人に迷惑や心配をかけたことを嘆いてたら、家族に"障害なんだから仕方ない"と言われて、情けない気持ちを理解してもらえず余計に辛くなった」
と呟きました。
共感する声や、そんなネガティブにとらえなくていいんじゃないか、など様々なコメントを貰いました。
みんな色んなことを感じながら生活しているのだなと思いました。
そんな中、"理解されず余計に辛くなった"という私の感情そのものを否定する意見がありました。
その方はご自身の生活を通して様々なことを考え習得されて来たのだと思います。
"そう思わない方が生きやすいのに"
そんな風に感じたのかもしれません。
けれども人の感情に正誤はあるのでしょうか?
チャップリンの喜劇から"笑い"を感じる人もいれば"悲哀"を感じる人、どちらも感じる人、それぞれだと思います。
同じ作品を見ても何を感じ取るのかは自由だと思うのです。
湧き上がる感情を他人が変えることは出来ないと思います。
チャップリンの映画を観て
"ここ笑ったよ"
"ここは哀れだったな"
そんな感想を聞いて
「ああそうか」と思ったり、
「その目線でもう一度見てみようかな」ということはあると思います。
けれども
"ここ笑うとこだよな"
と言われて可笑しいと思える訳ではないと思います。
そもそも
"ここ笑うとこだよな"
と強要すること自体おかしいと思います。
だから、私が家族に「理解して貰えず辛くなった」
という感情に対して
「その感情は間違っている」
と指摘することはナンセンスだと思います。
善意こそ危険
以前のブログにも書きましたが、善意と思っている言動にこそ注意が必要だと思います。そこは自戒の念を込めて。
ためになるかどうかの判断は、本人が決めることです。相手がそれを受け入れなくても仕方がないはずです。
けれども「あなたのため」と思って取った行動はどうしても見返りを求めがちです。
だからこそあなたのためではなく、自分の一意見として伝えるべきだと思います。
そして相手の価値観をジャッジしないこと。
なぜなら判定する時の基準はあくまでも自分の価値観となるからです。
10人いたら10通りの、100人いたら100通りの価値観があります。
私は人の価値観に当てはめられてしまうことは嫌だと感じます。
ブログにしてもポストにしても自由に自分の思いを綴っていきたいです。
この記事に対しても色んな感想があるかと思います。ご意見を聞かせて頂くことは嬉しいです。
けれども、私の価値観そのものを否定されるのは違うと感じます。
あくまでもアイメッセージで
「私はこう思う」とご意見いただけると嬉しいです。