見出し画像

日常生活に支障はない

くも膜下出血は3割が死亡、3割が重い後遺症、社会復帰できるのが3割。自分がなってみて始めて知ったことでした。
そうかそんな大変な病気になったんだなんて理解ができたのは、正直目が見えるようになって回復期病棟に移ってからのことです。

目の手術が成功して視力を取り戻した私は、左下肢の麻痺と長い間の入院生活で体力と筋力が失われた程度の後遺症が残りました。
「その程度で済んでよかったね」
いろんな人から幾度となくかけられた言葉でした。
そして回復期の退院時には「日常生活に支障はないでしょう」と言われました。

「日常生活に支障はない=元の生活が送れる」
私の頭の中ではそう変換されていました。なのでその言葉をあまり深刻に捉えていませんでした。
ところが退院して秋になり寒くなってきた頃から麻痺した足が痛み出すようになりました。心配になり聞いてみると「気温や気圧で痛んだりする」と。
また、ちょっと長距離を歩いたりすると無意識に麻痺した左足をかばっているのか、右足や腰が痛み始めてしまいます。
これって日常生活に支障があるって言わないんでしょうか?

回復期では脳出血後に高次脳機能障害というものを起こすことがあると、記憶力や数字をつなげたりするテストがありました。どれも静かな部屋で先生と二人で行われるもので特に異常はないとされました。
ところが退院して実際の生活が始まってみると「あれ?」ということがちょこちょこ出てきました。

強い光や大きな音がする中会話をしょうとすると会話が理解できなくなったりものが考えられなくなったりしました。
矢継ぎ早に何か質問されたり行動を促されると頭の中が真っ白になってしまいます。
買い物に行っても目的のものを探している間に何を探していたのかわからなくなってしまったり、朝食と夕食が同じような献立になってしまうことも出てきました。「これってなに?私どうしたの?」すごく不安になりました。

目は手術によって良くなったので後遺症は左足だけそう思っていました。
高次脳機能障害はないと言われていました。
聞いてみると喋ることができなかったりズボンを腕に通してしまったりそういう状態じゃないとなかなか高次脳機能障害と疑われないんだそうです。
確かにそうなると日常生活には支障があるし、リハビリも必要とされるのは理解ができます。
でもそうじゃなくてもみんな退院して社会に戻っていく中で、以前のような生活が送れなかったらそれは日常生活に支障があるっていうのではないのでしょうか?

退院して誰にも教えてもらえなくなったり頼れなくなってから「あれ?どうして前にできたことができないの?」「自分はどうかなってしまったんだろうか」そんな不安を抱かせるくらいならば、病院内での生活に支障があるのかどうかではなく、退院後の生活において支障がないのかどうかを検査し、あった場合にはどう対処するのがいいのか教えてもらえたらよかったのにと思いました。

たまたまの診察でドクターから教えてもらえたことは
「まあそんなもんなんだと思って付き合っていってください。3割は死亡、3割は寝たきりに近いような重い後遺症、3割がやっと社会復帰できる病気ですから」
「死ななかったし、そんな重い後遺症じゃなくてよかったね」という慰めでしょうか?でもそんな言葉で「ああよかった、割り切って生きていこう」と後遺症を受け入れられる人はどのくらいいるのでしょうか。

入院中にも自分の身に起きたことを嘆き泣いていたら
「何も言えずに亡くなっていった人もいるんですよ」と看護師さんに言われました。
命がなければ嘆くことさえできない。そのことも十分に理解できます。
でも助かった以上は大小はあろうとも各々が後遺症を抱えて生きていかなくてはならない。そのことに対して嘆いたり悲しんだりしてはいけないのでしょうか。

入院中に大きな後遺症を持つ人はたくさんいらっしゃいました。
その方たちは本当に大変だと思います。
体のリハビリと心のケアそして行政の手厚い手助けが必要だと思います。

でも日常生活に支障はないと言われても以前と同様の生活が送れない人がいるわけです。勤めていた職場に復帰できない人、生きがいだった趣味を断念せざるを得ない人、買い物に歩いて行けていたのにバスやタクシーを使わなければいけなくなった人。それぞれがいろんなことを諦め、受け入れなければならないはずなのに、「日常生活に支障がなくてよかったですね。軽く済んでよかったですね」そんな言葉で終わらされてしまいます。

後遺症が軽い人にも軽い人なりの心のケアと、行政の手助け、そして医療従事者側の寄り添いがもう少しあったらいいのにと思いました。