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第2回 「私達はコロナウイルスからどんな影響を受けているか?」 by 虹の朝子

コロナ禍で何かと世の中に文句を云いたくなる。こんなことをしていたら、ああなるとかこうなるとか。でも、正直なところ、コロナ禍によって私たちの生活が根本からひっくり返るようなことが起こるとは考えたくない。もしかしたら、経済が破綻し、企業がバタバタと倒産し、金銭の価値がガラガラと崩れるような、かつての世界恐慌のようなことが起こるかな?そんなことが起こればそれこそ一大事である。そういう未来は、私だけでなく誰だって考えたくはないだろう。この困難な時間を何とか遣り過し、2年後か或いは3年後には以前と変わらない生活をしているとようになっていて欲しい。しかし、近所では見知っている店舗が閉店の張り紙を出している。コロナウイルスの犠牲になった人の話や企業が倒産したというようなニュースも目にする。そういうものが、私を不安と淋しさのないまぜになった遣り切れない気持ちにさせている。私たちはもう既に犠牲を払っている。それをただ耐え忍ぶだけでなくて、コロナ禍から何かポジティブに受け取ることはないのか。 
 振り返ってみると、コロナ禍を巡るニュースの中にも明るい話題があった。パリではセーヌ川の水の透明度が増して川底が見えるようになったらしいし、或るところではかつてなく夜空が晴れ渡り満天の星だそうだ。インドの北の町では大気中から排気ガスが消え、遠くの山々がくっきり見えるようになったという。さすがにこれだけ自粛すると、インスタグラムに写真を上げたくなるような自然環境の変化が世界のあちこちで起きているらしい。ならば、コロナ禍を理由とせずとも、一年に一回くらい、短い経済活動の自粛期間を設けて、環境汚染に思いを馳せるのも良いかもしれない。失われた自然に対する追悼である。ともあれ、コロナ禍によって、経済活動が活発であれば自然環境は悪化し、それを止めれば環境は改善するという単純な関係を私たちは再確認することになった。
 今更であるが、経済活動とは消費―生産―消費のサイクルである。消費者がモノを買うと、需要のあるモノを労働者が生産する。労働者はこれを売ることによって賃金を得て、今度は消費者としてモノを買う。その有り様は、回転ホイールの上で懸命になって走っているハムスターを彷彿とさせる。経済の回転ホイールの上を懸命に走れば余剰の利潤が生み出されるが、それは労働に過剰の時間が費やされていることも意味している。走るのを止めれば労働もなくなるが、モノもなくなり生活は苦しくなる。経済活動の中で、生活の水準と労働時間とは密接に関係している。ウルグアイ東方共和国の大統領だったホセ・ムヒカの印象的な言葉がある。


「人がモノを買うとき、それは持っているお金で買うのではない。そのお金を得るために費やした時間で買うのである。」(双葉社「ホセ・ムスカの言葉」)


コロナ禍の中で、とかく人は「経済成長」の停滞を口にする。しかし、「経済成長」が私たちの目指すものなのでしょうか。好景気は、余剰の利潤と高い生活水準と過剰な労働に加え、自然環境の悪化をももたらします。過剰な労働による疲労は翌日になっても取れず、どこかでプチ贅沢な休養を取りたくなっても、そこには癒してくれるはずの自然はもうないのかもしれないのです。いや、それどころか、気象の変化は普段の生活すら脅かすようになった。私たちが目指さなければならないのは「経済成長」ではなく「経済のコントロール」ではないでしょうか。それは、生活水準と労働時間のバランスを取ることだし、経済活動の規模と自然環境の保全の間のバランスを取ることです。ここまで考えて、求職中の私はどういう仕事を探すべきなのか、少し見えてきたような気がしています。


 さて、コロナ禍における経済活動の自粛は、大気中の二酸化炭素の増加を多少でも食い止めているのかが気になった。世界の指標となっている大気中の二酸化炭素の濃度は、ハワイのマウナロア観測所で計測されている。5月の観測データをみると、濃度は昨年の同じ時期より増加していることが報告された(2020年6月6日付朝日新聞)。これを知って私ががっかりしたのはいうまでもない。ダメにしてしまった自然を元に戻すことはできるのか、にわかに不安になってきた。

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