"違いを超えて、わかり合いたい" の向こう側へ。
"違いを超えて、わかり合いたい"
というその想いの向こう側には、
お互いが "違う" ということへの、
ある種の、"恐れ" や "かなしみ" が、
隠れているのかもしれない、と思う。
わかってほしい想いを、
わかってもらえなかった
という悲しみや憤りや、
そういうものを経験するから、
人には、わかり合いたい
という願いが生まれるんだろう。
.
それは、言い換えるなら、
この "自分" という存在を、
"もっと大切にしてほしい"
"本当をちゃんと理解してほしい"
と、願っている、という
ことなのかもしれないな、とも思う。
もし、そこに、
そのかなしみが、
存在しなかったなら。
たとえ、どんなに相容れなくても、
すべてを、わかり合えなくても、
その相手に、自分とは絶対的に違う
何かがある、と感じたとしても、
そこを超えて、
わたしたちはもっと、
お互いの違いを楽しむことが
できるのではないかな。
.
"みんな違っていい" のだと、
"誰もが大切にされている" のだと、
心から、そう思えて感じられる体験を、
この世界の現実として体感できたなら、
そこには、世界への信頼が残る。
"わかり合いたい"
というその気持ちすら、
溶けて、消えていって、
いろいろな花が、
それぞれ美しいと
感じられるように、
お互いの違いは、
もはや恐れるものでは
なくなるんだ。
.
"違いを超えてわかり合いたい"
と感じるのは、わたしたちが、
自分自身の自我で作りあげた
分離の世界に生きているから。
分離の世界から抜け出して、
"わかり合いたい" を超えて、
お互いの違いを認めながら、
"響き合う" 世界へ。
ご訪問ありがとうございます。よかったらまた遊びに来てくださいね!インスタやFBのフォローも大歓迎です。