オーフ・ザ・レコード物語;20XX年のゴッチャ 17~2
自己隔離
その夜、菜々子がオーフ・ザ・レコードに到着すると二階の住居部分から賑やかな子供の声が漏れ聞こえて来た。
「お孫ちゃんかな?」
菜々子はそう思いながらベルを押した。入ると桃子が既にチーズを摘まみにビールを飲んでいた。
「おはようございます。お孫さんですか?」
桃子と目であいさつを交わした後、菜々子がこう尋ねた。
「そうだよ。ちょい五月蠅いかも知れないな」
ルークは相好を崩した。
「何を飲む?」
「私も生ビールで」
どんな時間帯でもその日初めて会ったら「おはようございます」は業界の習慣だ。
「その後、新しい情報は入ったの?」
桃子が口火を切った。
「丹東ではなくて北東の吉林省から入ったきり音沙汰無しです。他も特に進展有りません。次にどうすれば良いのか悩んでいます」
「私の方もさっぱり。日本政府の関係者に会ったら中国に入ったらしい以上のことは何も知らないみたいだったわ。言わなかっただけかも知れないけど」
菜々子の前にグラスを置くとルークは言った。
「今日は骨付き鶏腿肉と豚バラ肉、それにソーセージのポトフ風煮込みと芽キャベツのロースト、メゾン・カイザーのバケットのガーリック・トーストさ。もう準備して大丈夫かな?」
「いただきまーす」
二人が声を揃えた。
「少し時間が掛かる。暫くお待ちを」
そう言うとルークは大きな寸胴からポトフを鍋に移して温め始めるとともに、トースターにパンを入れた。芽キャベツのローストもフライパンで軽く温め始める。
「今日もお美味しそうですね」
桃子が声を掛けるとルークは説明した。
「孫が来る時、女房は比較的手間が掛からず、コトコト煮れば済む料理を作ることが多くてね。ガーリック・トーストは孫も好きだしね」
奥方は孫の為のついでに客用も作ったらしい。わざわざ別の料理を作るのは二度手間だ。
「まず、これを食べていて頂戴。摘まみ代わりにもなるし」
そう言ってルークは小鉢に入れた芽キャベツのローストを出した。茶色く少し焦がした部分の風味と細切りのベーコンが良いアクセントになっている。
「美味しいですね。コツを訊いても良いですか?」
菜々子の問い掛けにルークは「見ての通りさ」とこの手の質問には例によってにべもなかった。
ルークはパンの焼け具合を確認するとガーリック・バターをしっかり塗り、再びトースターに戻した。鍋のポトフがぐつぐつと音を立て始めた。
「へい、お待ち」
深皿に持ったポトフと小皿のガーリック・トーストが出てきた。
「芥子は?」
「お願いします」
暫くの間、二人は料理と辛口の白ワイン、そして、他愛もない会話を楽しんだ。店主は口を挟まない。ニコニコと聞いているだけだ。明らかに機嫌が良かった。
ルークが皿を下げ始めると菜々子が嘆息した。
「本当に美味しかったー、大満足です」
桃子が続いた。
「身体も暖まったし、最高でした。ご馳走様でした」
「それは良かった。女房も喜ぶよ」
桃子がさらに続けた。
「それにしてもルークさん、今日はやけに機嫌が良いですね。お孫さんがいるからですか?」
「いや、まあそれもあるけれどね。他にもね…」
「何ですか?」
菜々子が引き継いで尋ねた。
「いや、昨日の日曜日にさ、婿殿と芝刈りに行ってさ…見事に勝ったのさ」
「そうなんですか…スコアは?」
「90は切れなかったんだが、婿殿が不調でね。勝ったのはほんと久しぶりだよ」
桃子はややきょとんとしている。ゴルフに勝つのがそんなに嬉しいものかと訝っていたのだ。桃子は仕事と酒が趣味だった。一方、菜々子はたまにゴルフに行く。ワシントン特派員時代に仕事の付き合いもあって始めたのだ。
「暖かくなったら一度ご一緒しませんか?ゴルフ好きの知り合いの外交官でも誘って」
「ほ、それは珍しいね」
確かに菜々子がゴルフに行こうと言い出したのは初めてだった。桃子がすぐに反応し、肩で菜々子の肩を押しながら切り込んだ。
「良い人なの?」
菜々子がほんのりと頬を赤らめた。彼女がこの程度の酒で赤くなることは無い。太田の事を思い浮かべたのだ。
「そんなことありませんよ」
菜々子が惚けたのは誰の目にも明らかだったが、それ以上の追及はしない。皆、もう、そんな歳ではない。
「それにしてもさ。列車は何をグズグズしているんだい?御大が乗っているにしては変じゃないかな?」
ルークが話題を最初に戻し菜々子に尋ねた。
「本当に乗っているのかい?」
「いや…そう決めつけた訳ではありませんが…」
菜々子が言葉に詰まっているとルークが被せた。
「北の国内状況は芳しくないのだろ?のんびりと列車で北京詣でをする余裕はないんじゃないか?」
「ルークさん、行きは飛行機で、帰りは列車に乗って地方視察をする可能性は結構あると思いませんか?」
桃子が投げ掛けると、ルークは応じた。
「そうだね。それならまだ発表がないのも頷ける」
「でも、列車で訪中というのは北京の情報です。それが間違っているとここで否定する材料もありません」
菜々子が論点を戻した。
「確かにそうね」
桃子が賛同した。それを受けルークが提案した。
「ちょっと整理してみよう。訪中計画と列車説は北京の岩岡ルートが最初。環球時報報道もあった。これらを否定する材料は無い。北のコロナの状況が不透明という言わずもがなの指摘をわざわざ伝えてきたのは北京の菜々子筋、正哲情報と健康問題情報は桃子の韓国筋。私のアメリカ人の知り合いは、正哲情報を否定せずもっと視野を拡げろと。そして、特別列車の越境は支局で確認済み。しかし、今、何処にいるか分からない」
ルークは少し首を傾げ続けた。
「しかも、どの情報もまだ消えたとは言えない状態だ。これが何か大きな動きを意味するのか、それとも単なる偶然か?桃子、どう思う?」
口調は完全に上司時代に戻っている。
「私は正哲情報が一番気になります。きっかけはそれでしたし、国情が力を入れているのも」
「確かに、正哲話が他に比べて異質だ。本筋とは直接の関係は無いように見えるのに国情が依然力を入れているということならばやっぱり何か裏があると考えるべきだろうね。アメリカも歯牙にもかけていないという訳ではなさそうだし。この期に及んでもまだ消えていないんだろう?」
「そうだと思います。異質と言えば重病説も異質です。他の情報・動きと同時に成立する話ではありませんから」
「菜々子、中国筋では正哲話と重病説は引っ掛かってこないままかい?」
「ありません。上がってくるのは訪中・列車、それにコロナ関連だけです」
ルークが暫し思案し、再び口を開いた。
「待てよ、中国から上がってくるのはいずれ明らかになる話か誰でも既に薄々は知っている話だけということになるな。もしも、彼らも正哲話と重病説を知っていて厳重な箝口令を敷いているとしたら?正哲話は他に比べれば、言わばどうでも良い話の筈なのに、これも黙っているとしたら、それは何を意味するんだ?」
菜々子も少し思案し応じた。
「真偽はともかく、国情が知っている情報なら中国も掴んでいて不思議ないと思います。ただ、過去の例からしても、自明のことになる前に重病説に中国が触れることはあり得ません。正哲話を表向きは気にも留めないのも珍しくないと思います」
「そうかー…」
いろいろ考えてみてもやはり埒はあかない。
オーフ・ザ・レコードのベルが鳴った。遅れて矢吹が合流してきたのだ。矢吹は他の客が居ないのを確認すると挨拶も省略して開口一番こう伝えた。
「列車にはやはり御大が乗っているみたいですよ。大使館の国情筋と飯を食っていたのですが、彼らはそう踏んでいます」
全員で顔を見合わせた後、ルークが尋ねた。
「その根拠は?」
「どうも列車と本国の通信量が違うらしいです。誰も乗っていないとすればあり得ない量なんだそうです」
「とすると、それはアメリカも分かっている筈だ」
「きっとそうですね」
ワシントン駐在経験もある菜々子が同意し、続けた。
「だとすると、まだ北京に向かわない理由は何でしょうか?発表だってあっても良い頃ですし、どこかに寄り道するとしたら、そろそろ傍証程度は伝わって来るはずです」
桃子がこれを受けて発言した。
「出発したものの中国側の事情で待たされている可能性ならあるかもしれませんね。もったいぶって数日程度はのらりくらりやることだって考えられなくもないですよね。何と言っても皇帝様ですから」
「それはあり得るな…また粛清でも始めたかな?」
ルークが応じると矢吹が言った。
「いやいや、そんな状態なら中国も訪問を受けないでしょう。もうすぐ全人代だって始まるし、何か合理的な理由があるんだと思いますよ。それも双方納得ずくの」
沈黙の時が暫し流れた。
ルークは矢吹にシェリーのグラスを渡した。
「不思議だわ…」
桃子が呟くと菜々子が続けた。
「さっぱりですね。でも、やっぱり私も北京に行こうと思っているんです。取材の応援に」
「あら、良いわね。いつ入るの?」
「まだ決めていませんが、近々」
「へー、良く加藤がオーケーしたね。どうやって丸め込んだんだい?」
「えへへ、例の奥の手を使ったんです」
「ほー、何度も使えるもんじゃないが、偶に使うと効果抜群な奴だな?」
「矢吹先輩の真似をさせていただきました」
「馬鹿言うんじゃないの。僕はそんなの二回しか使っていないよ。桃ちゃんの得意技だよ。あっはっは」
「まぁたー何をおっしゃいますやら。私は一度も使っていませんよー」
「嘘つきばっかりだなぁー」
三人が声をあげて笑った。
するとルークが素っ頓狂な声を上げた。
「あれっ、まさか…」
「何ですか?」
矢吹が問うとルークが問い返した。
「今日、コロナの話は出なかったか?」
「あ、結構深刻らしいっすよ。幹部連の間で動揺が広がっているらしいと言っていました」
「重病説は?」
「その噂はいつもの事さっつう反応だけで受け流されました」
「とすると、韓国筋と中国筋で一致するのは訪中計画の他は北のコロナは深刻という情報だけにならないか?」
「そうですね」
「確かにそれだけですね」
「でも、それが何か?」
三人が矢継ぎ早に反応した。
「いや、まさかとは思うんだが、御一行様が中国に入ってから全員まとまって自己隔離して体調を観察している可能性はないか?」
「いや、そんなまさか…」
「ワクチンなら打ち終わっているはずですし…もうそんなに怖い病気じゃないでしょう」
「でも、万が一、そうだとすると北京入りは結構先になるかもしれませんね。私はいつ行けば良いんだろう」
「とすると、発症者が出たら引き返す可能性だってあるのかもしれませんね」
桃子が加えた。
「でも、中国なら対策は万全の筈でしょう。そこまで警戒する必要があるんですかね?」と矢吹が問うた。菜々子が応じる。
「全人代前に習近平に感染したら一大事です。それこそ大問題になりますね」
「嘘か本当か知らないが、昔、習近平はB型肝炎が悪化して生体肝移植を受けたという噂がある。もしも、それが本当だとすると彼は免疫抑制剤を飲み続けている筈だ。いずれにせよ、越境後然るべき自己隔離期間を置いているとすれば、ぐずぐずしているのも発表が無いのも説明がつく」
ルークが続けた。
「その説明は成立するかもしれませんね」
「確かにね」
「いや、そうだとすると最長で二週間は隔離することになる。推測のまた推測に過ぎないが、菜々子の北京入りのタイミングはしっかり見極めた方が良いぞ。せいぜい一週間しか留守に出来ないだろう?」
「そうですね。参考になります」
皆、ルークの勘が良く当たるのを改めて思い出した。
「そのまさかのよもやなんですけど…」
桃子が最後に言った。
「まさか、危ない北朝鮮株が出現していたりして…、あー、怖すぎますね」
全員再び押し黙った。根拠はまるで無いが、万が一、そうだとすれば更に説明がつく。既存株でそこまで神経質になる必要はない。
先進国ではとうにワクチンが行き渡り、経口治療薬も普通に使えるようになっていた。自宅療養中の突然死の主な原因と疑われていた血栓症とサイト・カイン・ストームへの対策も徹底されるようになっていた。しかし、それで新型コロナウイルスの脅威がゼロになった訳ではなかった。最初の数年に比べればかなり減ったものの、年間で見れば日本全国で千人単位の重症・中等症患者と、高齢者中心だが百人単位の死者がずっと発生し続けていた。油断は禁物だった。加えて、新たな変異株が出現したとなると、その性質によっては大いなる脅威になり得るのだ。
オーフ・ザ・レコードのベルがまた鳴った。新しい客だ。これを潮時と三人は家路に就いた。
帰宅後、菜々子は岩岡と棚橋に連絡を取った。
バタクラン劇場
パリ市第十一区のヴォルテール大通りに面したバタクラン劇場は、フランスの建築家シャルル・デュバルによって十九世紀後半に建てられ、歴史的建造物に指定されている。淡い暖色系の彩の瀟洒な建物は変遷を経て、現在はパリのロック界の聖地とも看做されていた。
バタクラン劇場が二十一世紀欧州史上最悪のテロに襲われたのは2015年十一月十三日金曜日の夕刻であった。
パリ郊外のサッカー・スタジアムや市内のカフェを相次いで襲撃したイスラム過激派のテロ・グループのうち四人がアメリカのロック・グループが公演中だった劇場に侵入、乱射を繰り返して観客八十九人を殺害、多数を負傷させたのだ。一連の同時テロにフランスはもとより欧州全体が言いようのない悲しみに覆われ、時のオランド大統領は襲撃事件をフランスが誇る近代共和制への挑戦と捉え、徹底的な過激派取り締まりに乗り出した。
当時ロンドンに駐在していたルークも翌日から応援取材に当たった。数々の惨事の取材経験を持つルークにとってもバタクラン劇場は最も忌まわしく悲しい記憶の場の一つになっていた。
そのバタクラン劇場がエリック・クラプトンのファイナル・ツアーの初公演の場に選ばれていた。フランス政府の全面支援も受けていた。
周辺では既に厳重な警戒態勢が敷かれ、この日午前、劇場内では、フランス内務省とパリ警察のセキュリティー担当者を交え、機材搬入前の最終打ち合わせが入念に行われていた。万が一にも襲撃されるような事態があってはならない。
「過激派系のダーク・ウェブのチャットは相変わらずですか?」
クラプトン側の警備担当者が尋ねると政府の現場責任者が応えた。
「ここをまた標的にしろ!潰せ!と言った書き込みは増えています。でも、大船に乗った気になってください。各国と協力して怪しい輩は今、どんどん拘束していますので」
日本と異なり、欧米ではテロ行為に出る恐れのある過激思想の持ち主を令状なしで予防拘禁できる国が多い。欧州各国では次々に捜索が行われ、既に百人以上が拘束されていた。テロ犯達が実行前に使用すると言われる特殊な麻薬の流通ルートも徹底的に洗われていた。
メトロポリタン放送の現在のパリ支局長・大友祐人は、カフェ・オレの入った大きな紙コップ片手にパン・オ・ショコラをもぐもぐと口にしながら周辺を歩き回っていた。大通りを挟んで斜向かいの路地にあるパン屋で買い求めたものだ。朝食は既に済ませていたが、妻から食事制限を加えられている為全く足りなかった。パン屋には同時テロ以来、代々の支局長が顔見知りになっている日本人女将がいた。女将の知り合いのフランス人もテロの犠牲になっていて、当時の取材に店のすぐ前で起きた惨劇の恐怖を生々しく証言してくれたのだ。
「うーむ、車での張り込みは無理だろうな」
大友は独り呟いた。
「野次馬に紛れ込んで何人かで見張るしかないな」
幸い日本人がイスラム過激派の関係者と疑われる可能性は無い。
クラプトンのファイナル・ツアーがバタクランで始まること自体が既に話題になっていた。内部の取材が許される見込みはなかったが、当日の模様はどのみち一般ニュースとしても取り上げるつもりだった。他社も同様だろう。
大友は正規のカメラ一台を三脚を据えて劇場前に設置するつもりだったが、他にも小型カメラを持たせた数人を配置することにした。仮に正哲が現れた時には他社に悟られないように撮影しなければならない。結構難しい取材になる筈だった。
大友はコートの右ポケットから二個目のパン・オ・ショコラを取り出した。
バタクラン劇場は収容人員最大千五百人と箱としては小さい。そして、古い建物は騒音被害が周辺に拡がるのを防ぐような構造ではない。音は外に相当洩れるはずで、それを聞きに集まるファンも多いと予想された。ある程度の混乱は不可避であった。それでもここが最初の会場に選ばれたのは追悼の為であった。二日間の演奏シーンは映像に纏められ、週明けから有料で世界に配信される予定になっていた。収益は犠牲者と遺族の救済基金に寄付される。
その次のコンサートは、丸一週間置いて週末にロンドン郊外のウェンブリー・アリーナで開かれる。大友はそこにも出張るよう指示を受けていた。
「イギリスは飯がなぁ…パンも美味くないし」
大友はそれが憂鬱だった。左ポケットから取り出した三個目を咥えると大友は地下鉄の最寄り駅方向にではなく、反対のパン屋の方向に歩き始めた。まだ足りないらしい。
兄貴
菜々子から新たな連絡・指示があった翌日、ソウルの棚橋支局長は支局の自分の部屋の応接セットで昼食に取り寄せた参鶏湯を食べながらアンおばさんと向かい合っていた。参鶏湯は本来夏の食べ物らしかったが、そんなことは棚橋にはどうでも良かった。熱々の地味溢れるスープが二日酔いの身体に滲み渡る。
和食好きのアンは鍋焼き饂飩を取り寄せていた。寒い季節にはこれが一番とアンはいつも言っていた。日式、すなわち日本風の饂飩は韓国でも人気でこの国に定着して久しかった。ご多分に漏れず、唐辛子を大量投入している。
参鶏湯をあらかた食べ終わって水を飲み、額の汗を拭うと棚橋は言った。
「アンさん、矢吹さんの兄貴でなくとも、せめて補佐官殿にやはり会いたいのですが、何とかなりませんか?」
最後の饂飩を一本啜り、少し首を傾げたアンが申し訳なさそうに問い返した。
「先日、あの…断られたばかりですが…今度は何とお声掛けしますか?」
「そうですね…、北朝鮮のコロナの最新状況について伺いたいというのはどうですか?これなら敷居はそんなに高くないと思うんですけれどね」
「それはそうかも知れません。そんなに難しい話ではないと思います。でも、それだと、却って、そんなことで会う必要は無いと突き放される恐れもあると思いますが…」
「いや、満更嘘では無いし、この線で押してみてもらえませんか?駄目なら駄目で諦めますから」
「そうですか…では、連絡してみます」
「よろしくお願いします」
第一関門を突破して棚橋は少しほっとした。
「あ、そうそう、アンさん、詳しくお話を伺いたいと付け加えてください。詳しく、とね」
「あ、はい、わかりました」
何か具体的な情報でも持っているのだろうとアンはすぐに理解した。そして、棚橋の分も食器を片付け、自分の席に戻るとスマホを手に取った。
これで相手にされなければ韓国政府は北のコロナの状況をそれほど重視していないという傍証にもなる。いま時、その方が自然でもある。逆なら、かなりの関心を寄せている証拠だ。棚橋はそう踏んだ。
矢吹が兄貴と呼ぶ御仁は韓国政界の保守系の大物議員だった。韓国で絶大な影響力を誇る検察出身ということもあって国情院などの情報・治安機関に対しても睨みが利く。棚橋が次に会おうとしているのは、その議員の筆頭補佐官で彼の年若の従兄弟であった。補佐官とも矢吹は互いを兄弟と呼び合っていた。
韓国で日本人が「あなたをこれから兄貴と呼ばせて欲しい」或いは「兄弟と呼ばせて欲しい」と言うと普通、相手は大層喜ぶ。勿論、闇雲に言って受け入れられるものではなかったが、血の繋がりは無くとも、韓国では兄が弟を庇護し、弟は兄に尽くすのが常道であった。
矢吹が大物相手に、ほぼ飲み倒しただけで、短期間にそこまでの関係を築いたのは奇跡としか言いようが無かった。そして、その関係を帰国後も維持している秘訣は更に謎だった。
しかし、矢吹が木原桃子とタッグを組んで、そこまでの関係を築いたからこそ、大事件に発展しかねなかったピンチを未然に収め得たのだ。
同じ頃、北京では岩岡が友人を待っていた。
場所は役所近くの高層ビルの一角にある包子専門店。昼食時の客はほとんどが持ち帰りだったが、外と透明なアクリル版で仕切り暖房を効かせた半テラス席があった。サン・ルームのような場所と言えば分かり易い。注文すれば熱々の肉まん等の各種包子が直ぐに出てくるのが急ぎの時に便利だった。
「どうしたんだ、急に。抜け出すのに苦労したぞ」
少し遅れてきた友人が言った。
「悪い、悪い。急ぎで知りたいことがあってさ」
友人は周りの様子を確認してから応じた。
「何だい?」
「列車の事な…」
列車と聞くと友人は露骨に顔をしかめた。駄目だという合図だ。岩岡は訊き方を変える。
「まさか今更、コロナの事を気にしているのか?」
半ば当てずっぽうだったが、そうとは気取られないように岩岡は尋ねた。
「ある意味、当然だろ。何処だろうと変なものをばら撒かれたら拙いだろ」
菜々子からの指示は的外れではなかったようだ。岩岡は更にカマをかけた。
「隔離して貰わないとまずいんだろう?」
「それはそうだろう。ちょっと考えてみろ。隔離期間も無しにすぐにうろうろさせる訳にはいかんさ」
「何かやばいものが出ているのかな?」
「そこまでは分からんよ。一応、調べているんだろうがね…」
聞きたいことの一つはこれで十分だった。理由は分からぬが、もう他の風邪やインフルエンザと大差のない新型コロナの事を、北朝鮮相手の場合に限り、中国政府は気に掛けている。これは間違いなさそうだ。
「ところでワンさんはお元気にしているのかな?」
ワンさんは中国ではありふれた名前だ。しかし、岩岡がこう言う時は王鶴政治局委員のことを指していた。
王鶴は元駐日大使で日本語はペラペラ。アメリカで言うところの対日政策専門家、所謂ジャパン・ハンドの大ボスで、対北朝鮮政策や台湾政策、更には対米政策の経験も豊富な
中国外交部門のトップであった。外相を経て外交担当国務委員から政治局委員に上り詰め、とうに定年を過ぎていたが、習近平の信頼厚く今なお現役ばりばりの実力者であった。
二個目の包子にかぶりついた後、友人はこう言った。
「畏れ多いな。何が知りたい?」
岩岡が茶を飲み、応じた。
「いや、いつか、また会えないかと、うちの偉いさんが言っているらしいんだ」
日本メディア幹部との付き合いも駐日中国大使の仕事の一つで、大使時代、一部例外はあったものの、王政治局委員は各社のトップとも定期的な交流があった。メトロポリタン放送のラスボスとも当時は昵懇だった。
「そうか…、今度、機会があったら探ってみるか…。もっとも、そんなチャンスがいつ巡って来るか保証は出来ないがね」
用件はこれで済んだ。いつもながら、青春時代を共に過ごした友人は有難い。岩岡は丁重に感謝の言葉を述べた。
夕刻、ソウル支局のアンおばさんに回答があった。棚橋に伝える。
「明日の夜遅くなら会っても良いとおっしゃっています」
「素晴らしい。ありがとう。で、場所と時間は?」
「それは、また明日、改めて連絡してくださるそうです」
「了解」
これで少しは取材らしい取材ができる。成果にそれほど自信はなかったのだが、棚橋は少し安堵した。
党派対立
民主主義国家では権力を濫用して政敵を牢屋にぶち込んだり追放することなど出来ない。自由で公正な普通選挙と議会での討論、そして、投票で白黒をつける。多数派工作で敗れたからと言って選挙で選ばれた大統領や議員がその身分をはく奪されることはない。
同時に、人間社会に付き物の党派対立が無くなることもない。
そもそも民主主義は様々な主義主張や意見の存在を許容することを大前提の一つにしているからで、党派対立の存在はむしろ自然であり、その国の政治が健全であることの証でもある。しかし、余りに激しい党派対立は分断を助長し、往々にして政策遂行の障害となる。過度の党派対立は民主政治のアキレス腱とも言えるのだ。
日本時間のこの日昼前、アメリカのマイク・ベン大統領は一般教書演説を行った。
「合衆国は強固であります。経済的にも軍事的にも他の追随を許しません」
歴代大統領が一般教書演説で必ず言及する常套句を使い、ベン大統領はアメリカの現状を自賛したが、議場内の反応は予想通りであった。議場のほぼ半分を占める野党・共和党の議員らはしかめ面で腕を組んだままだ。
建国当初から世紀の変り目頃までアメリカの政治・経済・社会を牛耳ってきたWASP、ホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの男性として、マイク・ベンは久しぶりに大統領の座を射止めた。この為、大統領への期待は野党・共和党支持者の間でも高かったのだが、それも長くは続かなかった。ご多分に漏れず、極端な党派対立が足を引っ張ったのだ。その上、超党派の合意で遂行しようとした税制と医療保険制度の改革は、これを中途半端と批判する与党・民主党左派の造反で皮肉にもとん挫した。泣きっ面に蜂だった。
一般教書演説は上下両院の合同議会を前に、通例では、一月最後の火曜日に執り行われるアメリカ政府の施政方針演説に当たるものだ。しかし、二十一世紀に入ってからは党派対立の煽りでその期日も遅れることが多くなっていた。今年も遅れ、二月に入ってからになった。
「中国の軍事的野心は看過できるものではありません。同盟国と協調して、習近平指導部が過ちを犯さぬよう抑止する必要があります」
満場の拍手が鳴り響いたのは内政問題への言及を終え、演説が外交問題に移ってからだった。中国への対抗策は毅然と着実かつ強力に推し進めるべしという点では党派を超えた合意が存在し続けていた。
「そして、台湾海峡の平和を保つことはインド・太平地域と世界の安定のために必要不可欠です。我々は全力で台湾海峡と東シナ海・南シナ海の平和と現状の維持に努めます」
再び万雷の拍手が鳴り響いた。この分野に党派対立の影響は無いのだ。
「また、北朝鮮の核とミサイルの脅威を取り除くことも喫緊の課題です。金正恩総書記は無条件で話し合いのテーブルに着くべきです。我々が望むのは北朝鮮の政権交代ではなく、北朝鮮の完全な行動変容であります」
拍手の量がやや減った。北朝鮮が事実上の核兵器保有国になって久しい。そして、かつてのお題目、CVID・完全で検証可能で不可逆的な非核化をアメリカ政府が表立って唱えることはほとんどなくなっていた。この為、強硬派の間で弱腰との批判が渦巻いていたのだ。
「習近平指導部には北朝鮮の行動変容を実現させるだけの力があります。その為の丁度良い機会も近々訪れる可能性があります。しかし、習近平指導部の意図には残念ながら疑問を投げ掛けざるを得ないのです」
中国の習近平主席は執務室でベン大統領の演説の模様を注視していた。苦虫を噛みしめたような顔はいつものことだ。アメリカに振り回される時代はもう完全に終わりにしなければならない。主席は常々そう思っていた。そして、その思いを今日もまた強くしていた。
独裁者や専制主義者は民主主義を嫌う。特に民主主義に付き物の党派対立の存在を憎悪していた。その為に余計なエネルギーを使わなければならなかったし、それでも結局思うような政策を遂行できないことが多くなるのが兎に角気に入らなかった。政敵はさっさと葬りたいのだ。
この点に限って言えば、北朝鮮の金王朝は世の独裁者にとって羨ましい存在だった。北朝鮮国内には不満分子こそ多少居ても反対勢力は存在しない。芽を見つけたら直ちに徹底的に潰すからだ。
「中国の人権問題も放置すべきではありません。ウイグル人やチベット人ら少数民族の迫害は民族浄化とも非難されるべき非道な行いです。直ちに止めさせなければなりません」
ベン大統領の中国口撃はなお続いていた。しかし、世界経済のサプライ・チェーンで中国が果たす役割は未だ大きく、この面での『中国断ち』は単なるお題目にさえもならなかった。大統領はそれを百も承知の上で、国内では異論の殆ど無い台湾問題・北朝鮮問題・人権問題に殊更スポット・ライトを当てたのだ。
だが、中国は広く人は多い。現代の皇帝・習主席にとっても全国津々浦々に威光を行き渡らせるのは至難の業であった。それ故、どんなに時間が掛かっても『異端思想』の除去、すなわち洗脳作業を続け領土内で暮らす者は最大限同化させる。それが中国四千年の歴史でもあった。
ただ、北朝鮮は中国の影響下にあるとは言え外国である。面従腹背を十八番とし同化を頑として拒否し続けてきた彼らを意のままに操ることなど皇帝をもってしても不可能であった。そして、アメリカはこれも重々承知の上で中国に圧力を掛ける口実に使う。習主席はそれが一層不愉快だった。
このベン大統領の一般教書演説に関して、アメリカや日本・韓国のメディアは「金正恩総書記の近々の訪中を前提にベン大統領が中国に圧力」という趣旨の見出しを取り報道した。各社とも大統領演説の「習近平指導部には北朝鮮の行動変容を実現させるだけの力があります。その為の丁度良い機会も近々訪れる可能性があります」という部分にやはり注目したのだ。
「金正恩総書記が列車に乗っていることはアメリカも確認しているのだ。そして、御一行は列車で隔離期間を過ごしている」
岩岡の報告も受け、菜々子は自身の北京入りの計画を一週間ほど先送りすることにした。
抗体依存性感染増強
「その抗体依存性なんちゃらが危険なのは分かったが、Nタンパクの邪魔をすると抗体依存なんちゃらが出て来ても大丈夫ということ?」
「抗体依存性感染増強だよ。覚えにくいならADEと言う方が簡単さ。で、実はNタンパクはコロナの遺伝子を包んでいる殻みたいなものを作っていて、抗原検査なんかで探知できるのだけど、これが時々、ウイルスに侵入された細胞の外に顔を出すらしいんだ…」
翌日午後、ルークは知り合いのウイルス学者・道明寺昭彦に根掘り葉掘り訊ねていた。ズームを使っている。専門家の間ではADEとも称される抗体依存性感染増強はとても厄介な現象として知られていた。
人体がウイルスに感染すると免疫機能の働きで様々な抗体が作られるが、そうやって出来る抗体は人体に役に立つものばかりとは限らない。細胞への新たな感染を防ぐ中和抗体が必要にして十分に生み出されれば次の感染や症状の悪化を防ぎ、ひいてはウイルスを退治することに繋がるが、役に立たない抗体が幾ら出来ても意味はない。
ワクチンは人為的にこの中和抗体を生み出させるのを狙ったものだが、エイズウイルスの有効なワクチンが何年経っても完成しないのは役に立たない抗体ばかりが出来てしまうからだ。
特に厄介なのが、役に立たないどころか感染を却って促進してしまう悪玉抗体が出来てしまうケースだ。
東南アジアなどで流行しているデングウイルスは1型から4型まで四種類のタイプが確認されているが、例えば1型に感染した身体に他の型が感染すると、体内にある1型の抗体が他の型の感染を促進してしまうケースがある。そして、時にデング出血熱という重大な症状を引き起こすことが知られている。これがADE・抗体依存性感染増強という現象である。WHO主導のデングウイルスのワクチンの大規模治験がかつてこのADEの出現で取り止めになったこともあった。
「もっとも、増殖時のNタンパクの働きというか役割は完全には分かっていないんだが、細胞の外にちょっと顔を出した段階で、阻害すると言うか、ま、抗体をくっつけて身動きできないよう邪魔をすれば、細胞内で増殖したウイルスが外に飛び出すのを阻止できる可能性もあるのではないか…そういう期待で研究・開発が進んでいるんだ」
「それは本当に必要なのかな?屋上屋を架して更なる金儲けの材料にするだけなんてことは無いよね?」
「金儲けの材料には間違いなくなるだろうけれど、Sタンパク・ワクチンだけだとADEが出た時非常にまずいよ。というよりとても恐ろしいことになるかもしれないよ」
新型コロナウイルスもこのADEを引き起こす恐れのある悪玉抗体を作り出してしまうという報告がある。ただ、これまでのところワクチンを打てば中和抗体の方が遥かに多く作り出されるようで、大きな問題には至っていない。しかし、重症化した患者の体内には何故か悪玉抗体が多いという気になる報告もあった。
これまでの新型コロナ・ワクチンは基本的に人間の細胞内への侵入を果たすのに必要なウイルスのSタンパクの働きを阻害する抗体を作り出す。ウイルスが細胞内に侵入出来なくなければ自己の複製はできない。だから重症化を防ぐし、運が良ければ発症そのものを抑制できるのだ。しかし、ADEが出現してしまうと話は別である。却って酷いことになり得るのだ。
この為、Sタンパクを標的にしたワクチンだけでなく、他のタンパク、例えばこの会話に出てくるNタンパクも標的にした新たなワクチンの開発も続けられてきたが、道半ばという状態のようだった。
道明寺は続けた。
「メッセンジャーRNAワクチンの技術は、元々、不活化ワクチンやタンパク・ワクチンなどの従来の製造技術ではエイズのワクチン開発が全然上手くいかないので考え出されたものなんだ。これなら今やコンピューター上で抗体の設計ができて、人工的に製造できるから速いし、何度でもやり直しが利く。修正もすぐという訳だ。そうやって作り出した抗体が人間の体内でも有効かどうかは全く別の問題になるのだけれど、Nタンパク・ワクチンも案外うまく行くかもしれないよ」
「つまり、SとNの両方を邪魔する混合ワクチンみたいなものが接種できるようになれば遥かに安心ということ?」
「そうなれば良いかもしれない。今はまだ何とも言えないけれどね」
Sタンパクを標的にしたワクチンは変異株が出現すれば更新されなければならなかった。この為、ワクチンメーカーは今も開発・製造を続けていた。同時に、毎年、結構な利益を上げていた。
また、必要な酵素の働きを阻害するなどして細胞内でウイルスが増殖するのを防ぐ経口治療薬も既に出来ていた。しかし、インフルエンザの治療薬が発症から四十八時間以内に服用されなければならなかったのと同じように、ごく初期に服用されなければ効果は薄かった。体内でウイルスが増殖し切ってしまった後では余り意味がない。そして、これには抗原検査キットと治療薬をセットで遍く普及させることが求められた。しかし、ワクチンに加え、治療薬、抗原検査キットという三種の神器が潤沢にあるのは先進国だけだった。
その先進国でも、ADE株とも言うべき変異株が出現すれば、またパニックが起きるだろう。一部専門家の間ではADE株の出現が発生当初からずっと懸念されていた。
ソウル・明洞
その夜九時過ぎ、メトロポリタン放送ソウル支局の棚橋聡はソウルの繁華街・明洞のクラブに呼び出された。美人揃いの高級店として知られる店だ。
天井の高い豪華としか言いようのない内装の、この手の店としてはやや明るい店内に棚橋が入ると客の入りは半分程だった。色とりどりの艶やかな衣装を着た女性達は噂にたがわず美人揃いだった。韓国では当たり前の美容整形の為か、皆、顔付きが似ているように棚橋には思えたが、これはやむを得ない。
奥の個室に案内され、棚橋が入ると補佐官が既に待ち受けていた。入れ替わりに女性達は部屋を出て行った。
「補佐官殿、お忙しいところお時間を頂き、大変感謝申し上げます」
補佐官は軽く頷くと自ら棚橋用の水割りを作った。店の経営には矢吹の兄貴という大物議員が関わっているという噂がある。それが本当なら盗聴の心配はない。と言うより盗聴されても問題はないだろうという方が正確だ。しかし、議員と補佐官の名前は口にしない。それが暗黙のルールだった。
「元気にやっているのかな?」
「お陰様で」
「兄弟は?」
「相変わらずはっちゃけているみたいです」
「そうか、それは何よりだ」
補佐官は既に大分酔っているようだった。
韓国では特に職場の身内同士の飲み会でいきなり爆弾酒の乾杯をすることがあった。しかも、一杯とは限らない。その方がすぐに酔って、以後、沢山飲んだり食べたり出来なくなるので、支払いをする上司には却って楽なのだ。棚橋はそう聞かされたことがある。もしかするとそんな飲み会があったのだろうと想像した。
「で、何が知りたいのだ?」
補佐官はすぐに本題に入った。棚橋はこの手の押しの強いタイプが苦手だった。
「いや、既にお伝えしたと思いますが、北のコロナの状況が気になっていまして」
「相変わらずクラスターが続いているのは変わらないぞ」
「しかし、皆さん、随分気になさっているようで、何やら様相が異なってきたという話を小耳に挟んだのですが…補佐官様ならきっとご存知だろうと思いまして…」
棚橋は少しカマを掛けた。ご存じだろうと言われると、知らないと惚けるのは己を大きく見せたいこの御仁の性に合わない筈と踏んで期待した。
「それはそうだな…。変わったことと言えば、最近はワクチンを打ってあるはずの階層でクラスターが出始めたようだ。組織指導部もばたばたし始めたと聞いている」
「それがどんな意味を持つのでしょうか?ブレイクスルー感染ならどこでも起きていますし…単なる偶然ではないのですか?」
「もう少し頭を使ってみたらどうだ?」
補佐官殿はそんなことも分からんのかと言いたげな顔をした。
「いや、私にはピンときません。すいません。政府はどう評価しているのでしょうか?」
「変異株さ。我々はワクチンが殆ど効かない全く新しい変異株の出現を疑っている」
「えっ…しかし、もう毒性はそんなに問題にならない筈ですし、仮にそうだとしたら訪中どころではないのでは?健康悪化説もある中で国を留守にするのは腑に落ちませんが…」
「確かに問題はそこだ。訪中の本当の狙いがな…しかし、面倒な変異株が出現して、先行きどうにもならなくなりそうだからこそ、敢えて習近平に支援を乞う為に訪中することにしたという見方も出来るぞ」
「成る程…補佐官殿、流石ですね」
持ち上げられて満更でもない。
「断言できないが、それだけ切羽詰まっているということなのかもしれんな」
「御有難うございます。大変、勉強になります」
これらは、勿論、補佐官の個人的な見解ではない。多分、彼は大物議員が定期的に受ける国家情報院のブリーフィングに同席して聞いた話を披露しただけだ。しかし、だからこそ価値がある。
「もう良いか?」
「あの最後にもう一つだけお願いします。正哲がクラプトンのコンサートに行くらしいという情報はどう評価しますか?」
「それどころじゃないだろう。きっと立ち消えさ」
「わかりました。有難うございます。重ねて御礼申し上げます」
「では飲み直すか」
補佐官テーブルの上に置いてあるブザーを押した。
棚橋はすぐにもオフィスに戻りたかったが、そうはいかない。それに美人に囲まれて飲むのは嫌いではなかった。店でも飛び切りであろう女性達が静かに入ってきた。
この全く新しい変異株の話を原稿に書いて報じればそこそこの独自ネタになるけれどな…でも、まだ早いか…そもそも毒性は分からないし、他で確認の取りようもない…棚橋はとりあえず後で菜々子にメモだけを上げることにした。
暫くして二人が店を引き上げる時、支払いを補佐官が持った。棚橋は珍しいこともあるもんだなと感心しただけだったが、それはこの夜の会合を大物議員も承知の上であることを意味していた。補佐官の裁量で支出できる額ではないからだ。しかし、棚橋はそこまで頭が回らなかった。
動悸
「何かおかしいな」
夕飯前のサンドイッチを咀嚼しながら大友は左胸に手を当てた。
サンドイッチはバゲット半分にハムとチーズを挟んだオーソドックスな奴だ。ただし、二つある。丸一本分だ。本当は大好物のチーズバーガーを食べたかったのだが、匂いで妻にばれるのが怖かった。そんなことになればこっぴどく叱られる。
「ベルンに寄りたいな」
また左胸に疼痛を感じ、手を当てた。
クラプトンのバタクラン公演の後、次のウェンブリーまで一週間ある。特に当てがある訳では無かったが、正哲が欧州に来ればベルンの北朝鮮大使館の人間がアテンドするのが通例であった。様子を窺いたかったのだ。それに十代の正哲が留学していた学校も郊外にある。
「部長のOKが取れるかな…」
胸がムカムカしてきた。
「胃酸過多かな」
一応、粉薬を飲んだ。夕食はどうせ精進料理のようなものだろうが、薬を飲んで、晩飯を食べれば胸のムカつきは収まる筈だった。
聯合通信社報道
翌朝、韓国の聯合通信社が未確認情報を記事にした。
「北朝鮮で全く新しいタイプの変異株出現か。韓国政府が注視」
「韓国政府筋が聯合通信社に伝えたところによれば、北朝鮮で新型コロナウイルス感染のクラスターが続発しているという。それも一般市民の間で発生しているだけではなく、ワクチンを接種済みの高位階層でも発生しているのが特徴で、北朝鮮政府は全土に外出禁止令を出して封じ込めにやっきになっているとの情報に韓国政府は接したという。韓国政府高官は、その原因は解明されていないが、従来株の流行だけでは考えにくい状況が生じていると分析している。この為、ワクチンが殆ど効かない全く新しいタイプの変異株が出現した恐れもあると見て注視しているという。
これを受け、韓国政府は国境の警備を更に強化した。中国も同様の措置を既に取っているが、これも新タイプの変異株の疑いが理由のようだと見て韓国政府は警戒を続けている」
この報を目にして、アンおばさんは直ちに棚橋に電話を入れた。
二日酔いで霞んだ頭で報告を聞くと棚橋は大きな舌打ちをした。後の祭りだが、昨夜、出稿しておくべきだったと激しく後悔した。しかし、もう手遅れだ。自宅でパソコンを立ち上げると自社の昼ニュース用の記事を書き始めた。
内容的には聯合通信報道と大差ない。しかし、「韓国政府関係者はメトロポリタン放送の取材に対し、そのような懸念は確かにある。状況を注視していると明らかにしました」という一文を加えられたのがせめてもの救いだった。
未確認とは言え、聯合通信の記事は世界の注目を浴びた。世間では半ば忘れ去られていたが、ワクチンの効かない新しい変異株の出現は専門家の間でずっと懸念されていたからだ。これで金正恩総書記の訪中がより大きな注目を集めるのも確実だ。
原稿をデスクに送ると棚橋は菜々子に電話を入れた。
「昨日書いておけば良かったです。大後悔ですよ」
「気にしてもしょうがないわね。どのみち未確認情報なんだから、聯合に先に出して貰った方が各社信じるから良かったと思うしかないわよ。それに、すぐに追っかけられるのだから取材は無駄にはなっていない訳だしね」
菜々子は慰めにもならない慰めを言った。
「それでも今朝、出しておけばぴったり機先を制した形になって、もっと良かった筈です」
棚橋が再びぼやくと菜々子は忠告した。
「実は知っていたんですなんてペラペラ喋っちゃ駄目よ。負け惜しみにしか聞こえないし、いろいろ詮索されるからもう忘れなさい。それに夕方のニュースで扱うでしょうから、くよくよせずに準備を怠りなくね。繰り返すけど、余計なことを喋っちゃ駄目よ。分かった?」
菜々子は念を押した。
「分かりました」
確かに、やに下がって飲み続けた自分にも非はある。余計なことを言って追及されると具合が悪い。仕方なく棚橋は出社支度を始めた。
菜々子は半分後悔しながら、半分安堵していた。聯合報道は自分達のこれまでの取材の方向が間違っていないことを示しているからだ。確かに先に出稿しておけばそこそこのスクープにはなったかもしれない。が、こんな未確認情報を韓国の聯合や中国の官製メディアより先に出せば間違いなくハレーションは大きい。それが今後の取材に支障をきたす方が拙いのだ。
これでメトロポリタン放送の水面下での取材のリードがそれ程意味をなさなくなる可能性も出てきたのは事実だが、獲物はもっとずっと大きい筈だ。菜々子はそう自分に言い聞かせた。
夕方のニュースはこれを大きく伝えた。コロナ関係のニュースが大きく扱われたのは久しぶりだ。生中継を繋いだソウル支局からは棚橋がレポートした。
「韓国大統領府のスポークスマンは今日の定例会見で、そのような情報・分析があることは事実だが、確実ではない。確認作業を続けている段階だ、と短いコメントを発表しただけです。韓国政府の関係者も、私共の取材に対し、政府の懸念はまさにその新しいタイプの変異株出現の有無にあると認めています。しかし、現地で実地調査が出来るわけはありません。
北朝鮮国内の動静を伝える最新情報の分析から、このような結論、と言うより推論に至った訳で、韓国政府は警戒を続けると共に、WHO・世界保健機構や関係各国と連絡を散りながら、更に情報の収集に当たる方針です」
「どういったルートで、韓国政府はそのような情報を得たのでしょうか?」
「それは日々の情報収集活動の一環として得たものということです。北朝鮮の動きは韓国にとっては最大の関心事ですから、情報収集ルートは多種多様に保持しています。その中で、今回、特異的な変化を察知したことから推測したものと思われます。しかし、ウイルスを入手して検査したのではありません。なので、確たることはまだ誰にも言えないということになります」
東京のメイン・スタジオのキャスターやゲスト・コメンテーターの一部はすぐに裏話を聞きたがるが、棚橋は上手く躱している。プロならば当然なのだが、それにしても、立て板に水のごとく良く喋る。しかし、菜々子の忠告はしっかり効いていた。
パリ支局からも大友が短くレポートした。時差の関係でパリはまだ朝早い。WHO本部はジュネーブにあるが、そこに移動してレポートする時間的余裕は無かった。
「韓国からの報道を受けWHOは先程、ウェブページで短いコメントを発表しました。それによりますと、WHOは韓国の報道は承知しており、その真偽に注目している。北朝鮮の関係当局には問い合わせをしたが返事を待っている段階だ、ということです。それに加えて、必要とあれば、そして、北朝鮮が望むなら、WHOは調査団を直ちに派遣する用意があるとも述べています。仮にワクチンの効かない全く新しいタイプの変異株が出現したとなれば大事になり得ますが、WHOは確たる情報がほとんど無いことに困惑もしているようです。こちらからは以上です」
大友は少し顔色が悪く、呼吸も浅いように見受けられた。しかし、早朝に叩き起こされたせいかもしれないと菜々子は気に留めなかった。
「続いて、中朝国境地帯から佐藤記者の報告です」
スタジオが振った。
佐藤俊介記者がレポートを始めた。今朝、直ちに向かったのだ。現在流行中の既存株の毒性を考えればもうそこまでやる必要は無い筈なのだが、総書記の久しぶりの訪中情報と重なるからだ。
「中朝国境の町・丹東です。ここから様子を窺う限り国境地帯にこれと云った変化は見受けられません。往来は殆どありません。金正恩総書記の特別列車が中国入りしたと一部で報じられた頃から、国境は全て事実上封鎖され、厳重な警戒態勢が敷かれていると言われています。
今日の定例会見で、中国外交部は、韓国からの報道は聞いているが、中国政府としてコメントすることはない、という木で鼻を括ったような反応しか示していません。しかし、万が一、全く新しい変異株が出現していたとしても、決して入れない、流入させないという中国政府の決意は堅いと言えると思います」
「ところで、その特別列車は今、どこで何をしているのでしょうか?続報が無いようですが…?」
メインキャスターが尋ねると佐藤は応えた。
「おっしゃるように特別列車の動静についてその後情報はありません。実際、本当に特別列車が中国入りしたのかどうかについても公には確認も否定もされていません。
列車には金総書記が乗っているという未確認情報がない訳ではありませんが、こちらも確認されていません。我々報道陣は、次の動きを待っている状況です」
「分かりました。有難うございます」
特派員のレポートが一通り終わると東京のスタジオはゲストの感染症専門家を交え、ワクチンが効かない変異株の脅威について展開を始めた。ウイルスのSタンパクの構造がまた大きく変化し、従来のワクチンが生み出す抗体がほぼ無効になった可能性について紹介されている。ADEについては話が飛躍し過ぎるせいか、それとも恐怖を煽り過ぎてしまうせいか専門家も触れない。その両方が理由かも知れなかった。
国際取材部の出番は終わった。
御前会議
「列車内の様子はその後どうなっている?」
習近平主席が幾分甲高い声で尋ねると防疫・公衆衛生問題を統括する国家衛生健康委員会担当国務委員・趙龍雲が応えた。
「朝晩のPCR検査でも排せつ物の検査でも何も引っ掛かっておりません。これまでのところ金総書記訪問団に新型コロナに関する限り異状はございません」
「後何日待てば良い?」
「厳密には最大二週間でございますが、入国後十日程何も出なければ受け入れを正式に決めても大丈夫かと思われます。それですぐにこちらに到着する訳でもありませんし、ご面談までに万が一の事があれば面談を更に遅らせることも、取り止めることも不可能ではないと存じます。一方、陰性が続くなら、換気を良くし、シールドを置いた上で十分な距離を取ればリスクはほとんど無いと思われます。治療薬の予防服用もご検討いただくことになる場合もあるかと存じますが…」
その日、夕刻、北京の中南海では御前会議が開かれていた。習主席自らが会議を取り仕切っている。
「変異株の調査は?」
人民解放軍軍事科学院の責任者が応える。軍事科学院は対生物兵器の研究担当でもある。
「フル装備の衛生中隊が最新の検査資材を取り揃え、昨日、ようやく平壌に入りました。BSL4並みの移動研究施設を積んだ船も本日平壌近くの港に着きます。数日中にも結果が出るものと期待されます」
人民解放軍の調査団受け入れには北朝鮮軍が難色を示していたが、受け入れなければ総書記一行を追い返すという脅しが漸く効いた様だ。
「やはり変異株と考えるか?」
今度は公安部長が応える。
「ワクチン接種済みの高位層の感染状況と病状からしてワクチンの効かない変異株が出現したと考えるのが筋かと存じます。しかしながら、ワクチンを受けていない一般階層の感染率や重症化率に大きな変動はないようです」
「それはどういうことか?」
防疫・公衆衛生担当の趙国務委員が引き継ぐ。
「新たな変異株の感染力と毒性はワクチン非接種層では変わっておりません。しかし、接種済み層ではいずれも高いということのようでございます」
「つまり?」
「ワクチンが単に効かなくなったというだけでは無い可能性があると懸念致しております。すなわち新たな変異株はADE・抗体依存性感染増強を引き起こす恐れがあるという懸念でございます」
この発言に習主席も暫し押し黙る。一同からは小さなどよめきが起こった。
「それはいつ確認できる?」
「初期の遺伝子解析よりは時間が掛かるかもしれません。と言っても暫定結果なら一日か二日遅れる程度だと存じますが…」
「まずいな…封じ込めは可能なのか?」
「多分、まだ間に合うかと。北朝鮮は事実上の都市封鎖をしておりますし、国境警備は万全です。鼠一匹通しません。彼の国が我が国の全面介入を受け入れればまだ可能かと存じます。検査と治療薬の投与を大規模に行いADE株を抹殺するのです。幸いにと申し上げますと語弊がありますが、ワクチン接種さえしていなければ既存株と感染力も毒性もほぼ変わりません。一日でも早く対処すれば従来株と同じように封じ込めは可能かと存じます」
「万が一、失敗すると?」
「それは…大事に発展するかもしれません」
一同、息を飲む。趙国務委員は「なるかもしれません」と言ったが、ADE株の封じ込めに失敗すれば新たなパンデミックの恐れがある。それもワクチン接種の進んだ先進国でより酷いことになる恐れがあった。
しかし、趙国務委員が補足する。
「恐れながら、ADE株にも対応可能と期待されるワクチンは現在最終治験に入っております。緊急使用なら年内に可能になると期待されております。また経口治療薬も理論上は有効と考えております。万が一、漏れ出しますと一定数の犠牲と大混乱は避けられないでしょうが、対応は可能かと存じます」
「さて、どうするか?」
習主席は劉副主席を見た。
「まずは金総書記を説得する必要があります。全面介入を受け入れるまで説得を続けるのです」
劉副主席が応えた。つまりは全面介入を受け入れるまで帰国させないということになる。
「次に、確かに我が国だけでも十分対応は可能ですが、万が一のリスクを考慮すれば国際的な支援の枠組みを直ちに作り上げるべきかと思われます」
習主席は頷いた。
中国が単独介入して万が一失敗すると、隠ぺいしたとか独断専行して世界に禍を再びもたらしたと間違いなく指弾される。WHOは勿論アメリカや欧州も引き込まなければならない。これも北朝鮮をまず説得する必要があるが、アメリカや欧州は否も応もない筈だ。
「いつ、どういう段取りを踏んで、国際介入を実現するか、計画は出来ているか?」
習主席が劉副主席に確認した。
「はい。まずは説得、そして、次に国際的な根回しを早急に。主席ご自身にもご対応をお願いすることになるかと存じます」
「分かった。一同、然るべき最速の時点で一行の北京入りを決め面談の手配をして欲しい。そして、訪中を公式に発表する」
「承知しました」
一同の返事が会議室に響いた。
会議後、習主席は劉と公安部長を執務室に呼び込み尋ねた。
「病人の様子はどうだ?」
「安定しているようです」
劉が応えた。
「フランス行きの手筈は?」
「予想通り空飛ぶ救急車を予約した模様でございます」
空飛ぶ救急車も中国当局の許可無しに領空に入ることは出来ない。会社から飛行計画の提出と申請があったばかりだった。
「成る程…」
公安部長の報告を受け、習主席は少し考え口を開いた。
「北京での手術を勧めるのも有りだな」
「御意」
劉が賛同した。場合によっては揃って人質にするのだ。
撮り鉄
「日本政府も韓国政府もかなり焦っているでしょうね。何かお聞き及びですか?」
翌週月曜日、オーフ・ザ・レコードのカウンターで菜々子はルークと桃子に尋ねた。
「北朝鮮でワクチンが効かない変異株が出現した恐れは強いと見ているようよ。ただ、そのウイルスを入手して確認できる段階ではないから、結構、焦っているみたいね。北だってどこまで分かっているか怪しいものだし、それを日本や韓国に真っ先に伝える訳は無いでしょうしね」
桃子が国情筋の見方を披露した。
「俺の知り合いもそうなったらどう対処するかという国内対策を考えるのに今は精一杯みたいさ。北以外で真っ先に確認できるのは多分、中国だろうが、問い合わせて教えてくれるような相手では無いからね。アメリカが証拠をどこまで揃えているかだが、多分、まだ状況証拠に過ぎないだろうしさ。武漢株の由来だって多分中国以外、まだ誰も分からないんだから仕方ないんじゃないの」
ルークが披露したのは日本政府筋の感触だ。
「心配ですよね…」
菜々子が応えるとルークはパソコンを持ち出し、ADEを説明するページを二人に見せた。
「これだったらとんでもないことに発展する恐れがある。内調系の別の知り合いも真剣に危惧しているよ…関連情報は無いかとこっちに問い合わせてきたぐらいだからね」
最近の若手の中に情報・公安当局に顔の利く記者は少ない。特に外国のそうした当局者に独自のルートを持つとなると滅多に居ない。政治部記者が官邸筋からこういった類の情報を聞き込んでくる場合もあるが、そういう話は他社も知るケースが殆どだ。横並びで独自色は薄い。そんな時は意図的なリークに近い話ばかりというのが実態かもしれない。だからこそ、ルークや桃子、矢吹の情報網は価値が高く、時に日本の当局も驚くような報道に繋がったのだ。
今回の一連の情報も大元は桃子であった。菜々子はその有難みと共に、後輩達の取材を突き詰めようという姿勢に物足りなさを改めて感じていた。ルークの口癖ではないが、どんなに叱咤しても生温いのだ。
「しかし、ぼちぼち色々と表に出て来てもおかしくない頃なんだが…撮り鉄情報もまだかい?」
「それもまだ…北京支局はあちこち当たっているんですが、難しいみたいです」
「いずれにせよ、もうすぐ北京入りだろうね」
その頃、金正恩総書記一行を乗せた北朝鮮の特別列車は、遼寧省の省都・瀋陽の広大な操車場に居た。周辺にわざわざ住んでいる中国の熱心な撮り鉄達はその姿をカメラに収めていた。しかし、アップロードしようとしてもネットがブロックされ不可能だったのだ。しかも、彼らは軒並み、数日前に地元公安の来訪を受けていた。公安担当者は、他愛のない世間話の後、去り際にこう言った。
「最近は規制が厳しくなっていますから、無理はしないように」
「チクショー、今出せば結構な値がつくのに…」
その撮り鉄の一人、唐軍は嘆いた。唯一外部と繋がる有線電話で同好の士に問い合わせると皆同じ目に遭っていた。
「仕方ないな。それでも、今はもう何も言って来ないということは、ネットが繋がったら出しても構わないという意味だな…。待つしかないな」
勿論、他の町に持ち出せばアップロードも可能だが、そんなことをすれば最低でも拘束され、機材を没収されるのが関の山だった
オーフ・ザ・レコードではあーでもないこうでもないと情報の再精査が続いていた。そして、それが一段落するとルークが言った。
「お腹空いた?今日は特製チキン・マカロニ。グラタンがある。旨いぞ。食べるだろ?」
「はいー」
「もちろん頂きます」
寒い冬の日に熱々のグラタンは嬉しかった。三人組の別の客も入ってきた。仕事の話はもう終わりだ。
通報
「内容的には目新しいとは言えないな。これが意味するものは何なのか?」
アメリカのベン大統領が国家情報長官に問い質した。
菜々子と桃子がグラタンに舌鼓を打っている頃、ワシントンの大統領執務室、オーバル・オフィスでは定例のデイリー・ブリーフィングが行われていた。
ベン大統領の問い掛けにマキシーン・ウイラード情報長官は次のように応えた。
「大統領閣下、確かに北朝鮮で全く新しい変異株出現の疑いがあることと金総書記訪中の可能性は既にいずれも報道されております。我々も含め世界が注目している状況でございます。しかしながら、今回のポイントは、公式確認前に、中国が自ら通報して来たという点かと思われます」
「成る程…」
「内容的にはブリーフ・メモに記されているように変異株の出現の可能性があり引き続き調査する、この点について、近く北京を訪問する見込みの金総書記と協議するというだけでございますが、彼らは進展有れば改めて連絡するとも言っております。同様の連絡は西側主要国にもございました。この事前通報は中国のこれまでの対外姿勢とは明らかに異なります。大きな変化と評価すべきものかと存じます」
「それだけ事態を深刻に捉えているということか?」
「その可能性は高いと思われます。加えて…」
ムーア長官が言葉を濁すと大統領が促した。
「続け給え」
「今回は自分達だけでお荷物を背負うつもりはないという意思の表れかと…」
「つまり、いざとなったら我々にも手伝えと言いたいのか?」
「そう考えるべきかと存じます」
大統領は考え込んだ。台湾を巡って一触即発になったのはついこの間の事だ。経済や人権を巡る対立も根深い。加えて、核・ミサイル開発の脅しを続ける北朝鮮に対する反感もワシントンでは強烈だ。それにも拘わらず「手伝え」とは図々しい。責任は中国が負うべきだという声が左右・党派を問わず沸き起こるのは確実だ。国内政治的にはそう簡単に支援できるものではない。対岸の火事と看做す向きも多かろう。
「ボブ、君はどう評価する?」
感染症対策を統括するボブ・カタオカ博士に大統領は尋ねた。
「それは変異株次第かと存じます。最悪の場合には我々も手を拱いている訳には行きますまい」
「最悪の場合とは?」
「ADEが出現した場合でございます」
「あれか…、では事態の進展次第ということになるな…」
ベン大統領は暫し間を置いて続けた。
「しかし、いずれにせよ、オプションは用意すべきだろう。考え得る複数のシナリオに応じて、行動計画を策定して欲しい」
「イエス・サー」
情報長官、国務長官、国防長官、それに博士が口々に応じたのを受け、大統領はジュディー・アマール安全問題担当補佐官に命じた。
「取り纏めは君に任せる」
新華社電
「北朝鮮政府代表団が中国訪問へ」
中国政府によるアメリカなど西側主要国への通報の翌朝、国営の新華社通信社電が世界に発信された。
「中国共産党対外連絡部の発表によると、朝鮮民主主義人民共和国政府代表団が近々北京を訪れ、中華人民共和国政府首脳と会談する。会談では最近の周辺情勢について意見が交わされ、新型コロナ感染症に関わる北朝鮮への医療支援と経済支援の問題も話し合われる見通しだ」
短い記事だったが、訪中がやっと公式に確認されたのだ。同じ日の昼前には北朝鮮の朝鮮中央通信社も次のような記事を配信した。
「われらが敬愛する金正恩同志総書記様が近く北京を訪問される。数日間の滞在中、同志総書記と中国の習近平主席との会談も予定され、両国を取り巻く状況や両国の協力問題などが話し合われる」
こちらも極めて事務的だった。大々的な宣伝は訪中終了後になるのだろうと菜々子は思った。各国メディアもすぐに転電した。
その直後、瀋陽の撮り鉄・唐軍はネットの封鎖が解かれたのに気付いた。直ぐに特別列車の写真をアップする。仲間達も同様にした。
「しかし、発表の後では大した金にはならないな。仕方ないか…」
唐軍はぼやいた。
「ま、それでも多少の小遣いにはなるだろうし、もうトラブルにはならない。良しとするしかないな」
そう自分に言い聞かせた。
暫くすると唐軍にロイター通信社などから連絡が入った。いずれも使用許可を求める連絡で、わずかながら使用料の提示もあった。唐軍の写真はすぐに世界に配信された。
「今月初めに中国入りしたとも伝えられた北朝鮮の特別列車の写真が配信されました。ご覧の写真は遼寧省の省都・瀋陽の電車区に居る特別列車を地元住民が数日前に撮影したものです。
北朝鮮の金正恩総書記が乗っていると見られるこの特別列車の現在の居所は明らかではありませんが、遠からず、北京に到着し、中国の習近平主席と金総書記による中朝首脳会談が行われる見通しです。それでは北京支局の佐藤特派員に詳しく伝えてもらいます。佐藤さん!」
東京のスタジオからキャスターが呼び掛けた。
「はい、北京支局です」
メトロポリタン放送の昼ニュースも金総書記の訪中を大きく報じた。日本ではこの日は建国記念日の休日だったが、テレビ局の報道番組は平日と変わらない。
「北朝鮮の金正恩総書記が乗っていると見られる特別列車が中朝国境を越えたという未確認情報が流れてから既に十日程経ちましたが、総書記の訪中が漸く公式に発表されました。中国政府の発表は詳しい日程に触れていませんが、数日中に総書記一行は北京に到着するものと見込まれます。そして、北京で行われる首脳会談では北朝鮮国内の新型コロナを巡る状況やそれに対する支援問題が最大のテーマになりそうです」
「主に変異株の問題が話し合われそうということですか?」
「変異株の出現はまだ確認されたものではありません。しかし、現在疑われているように、それがワクチンの効かない新しいタイプの変異株ということであれば間違いなく首脳会談の最大のテーマになると思われます。金総書記の訪問が、漸くですが、公式に発表されたということは両国政府の下準備も十分に整ったことを示している訳でして、一部には、中国政府の新型コロナ調査団が既に北朝鮮に入っているのではないかという憶測もあります。
何故かと申しますと、ワクチンの効かない変異株出現の有無を、北朝鮮の言い分だけといいますか、北朝鮮の調査結果だけで判断する訳に行かないからです。中国政府もこの点だけはまずしっかりと確認したい考えと思われます。それなしに、闇雲に会談し、支援問題を話し合う筈もありません」
「いつ頃、確認される見通しでしょうか?」
「調査団の話も現時点では憶測に過ぎません。発表を待つしかないと思われます」
「それにしても、特別列車の中国入り情報から今日の発表まで随分時間が掛かりましたね。その理由は何が考えられますか?」
「やはり、下交渉をぎりぎりまで続けていたと考えられます。しかし、それにしても中国入りの後、発表までこれほどの時間が掛かったのは何故かという疑問は残ります。しかし、こちらも未確認ですが、中国入り後に検疫の為の隔離期間を取らざるを得なかったのではないかという見方があります。
万が一、ワクチンが効かない変異株が持ち込まれては大変ですし、中国では、新規感染が見つかると直ちに一帯を封鎖し、住民の一斉検査と隔離を徹底するという所謂ゼロ・コロナ政策を今でも、ケース・バイ・ケースですが、発動することがあります。新型コロナの感染が止まないと言われる北朝鮮の代表団にも当然、隔離期間を過ごして貰うというのは不自然なことでは無いと思われます。北京からは以上です」
続いて、スタジオで欧米各国の反応が紹介された。
「重大な関心を持って状況を注視している」「万が一の事態に備えて対策立てるよう関係部局に指示が出された」「新タイプの変異株が確認されたとしても、治療薬は有効と考えられるので直ちにパニックになる必要は無い」などと云った反応・論評が続いた。関心は高い。
その中で特に耳目を集めたのはアメリカのワシントン・ポスト紙の報道で、同紙が「中国政府とアメリカなど各国政府・関係機関が、これまでの対立を脇に置いて、北朝鮮の変異株の問題に関して既に水面下の接触を開始した」と伝えた部分であった。これらの報道に接した誰もが「そんなに重大な事態が起きているのか」と厭な予感をした程だった。
「なかなかやるじゃないか」
自宅でメトロポリタン放送の昼ニュースを見ていたルークは呟いた。北京支局の佐藤のレポートに感心したのである。話し振りは自然だし、内容的にも十分だ。本来なら画面に登場するべき岩岡が喋りを苦手にしているのをルークは当然知っていた。
「ま、佐藤がいれば北京のレポートは大丈夫かな」
ルーク自身は佐藤の事を良く知らなかったが、これで少し安心したのである。もう直接関係は無いが、何と言っても放送が上手く行かないとお話にならないからだ。
昼ニュースが終わると菜々子は北京入りすべく直ちに羽田空港に向かった。もはや社内に文句を言う者はいなかった。胃が重い。コンビニで買い求めたサンドイッチを口にする気にならなかった。
北京支局
菜々子の乗った全日空機が北京空港に着陸態勢に入った。すると、少し離れた軍用空港から離陸したと思しき中国の戦闘機と思える機影が、遠くに小さくであったが、窓越しに視界に入った。それが菜々子のある記憶を呼び起こした。
特派員時代、菜々子は、搭乗した中国の民間航空機内から中国軍機の映像をこっそり撮影しようとしたことがあった。今は軍専用になっている北京西郊空港が当時はまだ軍民共用空港だったのだ。実際にはカメラの用意が間に合わなかったのだが、それをルークに報告したところ、激怒されたのだ。
「でも、あの空港に行けば誰でも見えるんですよ。何故、駄目なのですか?」
菜々子がこう反論するとルークはこう言ったのだ。
「いいか、その誰でも見えるシーンとやらの映像をどこかで一度でも見たことがあるか?」
「いえ…ありません」
「その、誰でも見える、その気になれば撮れる映像が一度たりとも表に出たことが無いということがどういうことを意味するか考えてみろ。撮影は禁止されているということだろ。
そんな映像を流したら中国ではただでは済まないぞ。持っているのが見つかっただけで摘発されても文句は言えないんだぞ。だから、二度とそんなことを考えるな!」
ルークの権幕は大変なものだったのだ。
その後、日中関係の悪化に伴ってか、日本のビジネスマン一行が、多分、無邪気に撮影した写真の背後に中国軍関連施設が映り込み、スパイ容疑で拘束されたり、追放されたりするケースが続いた。そして、中国でこの手の事案が起きても詳細がオープンにされることは無かった。裁判が公開されることも無い。恐ろしいことになり得るのだ。菜々子は改めて気を引き締めた。
支局に到着すると菜々子は取材態勢を岩岡に確認した。
支局は北京駅周辺の二か所で既に張り込みを始めていた。北京の北朝鮮大使館周辺も定期的に見回っていた。特別列車の動向を探る作業も地元スタッフが継続していた。
スケジュールも全く分からずに張り込みを何日も続けるのは幾ら慣れているとはいえ辛い。しかし、遅くとも数日以内に本番が始まるのだ。支局と応援のソウル支局・戸山班の士気は高かった。
「いよいよだね」
岩岡が言った。
「訪中も隔離も岩岡さん情報がばっちりでしたね。出稿は海外メディアに先んじることは出来なかったけれど、内容的には他社よりずっと良いと思っています。編集サイドからも文句は出ていません」
「そうか、それは良かった…」
岩岡が続ける。
「それにしても変異株がな…とんでもないことになりそうだな。それに重病説と正哲話の真偽と関連が全く見えてこないし…どうなっているんだろうな…」
「そうですね。そっちの話の方が肝になって来る可能性はまだあると思いますよ。取材を続けるしかないですね。王鶴さんの方は?」
「まだだね。どのみち、今はそれどころじゃないしさ。一段落してからだね」
「はい。ところで、薬は大丈夫ですね?」
菜々子は支局の治療薬の在庫を訊ねた。
「それは大丈夫さ。ばっちり確保してあるよ」
新型感染症の治療薬を常備するのは、インフルエンザ治療薬のタミフルとリレンザが出回り始めた頃からメトロポリタン放送国際取材部の伝統だった。当時、強毒性の鳥インフルエンザのヒト・ヒト感染が懸念されていたからだ。結局、鳥インフルのヒト・ヒト感染は起きていないが、タミフルとリレンザを支局に配布した直後に豚由来の新型インフルが発生し、支局スタッフの安心確保に大いに役立ったのだ。
夕食は支局が取り寄せた中華の弁当だった。まだ暖かいのが有難かった。それをそそくさと済ませると、菜々子は翌日以降に備え、近くのホテルに入った。
甲斐機関
その頃、麻布十番ではディープ・バックグラウンドの小部屋に二人の来客が座っていた。
一人は現職の官房副長官・神山伸介、もう一人は元内閣情報官の袴田剛である。
官房副長官は政務担当の国会議員と官僚出身の事務方の両方が居るのだが、事務方の副長官は霞が関官僚の事実上のトップで、事務次官会議を取り仕切る他、省庁間の連絡・調整を担う。加えて、内閣人事局長を兼ねるのが通例で、霞が関では絶大な権力者と看做されている。内閣人事局長がうんと言わなければ省庁の幹部人事は動かせないからだ。
「お久しぶりです。お忙しいのに休日にも係わらず今日はわざわざお出ましとはどういう風の吹き回しですか…?」
ルークがスコッチ・モルトのオン・ザ・ロックとチェイサーの氷水、それにチーズをテーブルに置きながら、神山に尋ねた。その物言いはいつもより丁寧だが、遠慮は無い。
例外はあるが、事務方の官房副長官は、旧内務省系の省庁の次官経験者が務めるのが慣例だ。神山もその一人で、四十年近くも記者を務めたルークの古くからの知り合いだ。知己を得てからの年月は袴田よりずっと長い。
「いや、休みの日に押し掛けてこちらこそ申し訳ない。袴田からも少し聞いたんだが、甲斐機関は現状をどうみているかと思ってね」
休日だったからこそ時間が取れた神山はルークに連絡し袴田と共に店を訪れたのだ。
「成る程…今やもう大した情報を持っているとは思えないですがね…」
メトロポリタン放送国際取材部の全盛期とも目される時代に部長だったルークが築き上げた情報網を、この世で唯一人、神山だけが皮肉も込めて甲斐機関と呼んでいた。その呼び方の由来となった戦前の児玉機関とはその性格も規模も行動目的も全く異なるのは明白だったが、ルーク・チームがしばしば日本政府をも出し抜く情報を入手し報道したことから神山はこう呼んだのだ。
「いや、変異株をどうみているのかと思ってさ。どんな情報がある?」
やはり遠慮なく神山が尋ねた。
「少し前から、あちこち泡を食ってシャカリキになって調べているみたいですが…言い方は悪いですが、ただの変異株ならむしろ良い方かもしれませんね」
「と言うと?」
「ご存知でしょう?ADEだとまずいと」
「あー、それはそうだ」
やはりADE出現の懸念は耳にしているようだ。
「何か具体的な情報でも?」
袴田が割って入り尋ねた。
「いや、それはまだ無いですが、専門家の中にはADEをずっと心配していて、だからワクチンはまだ受けていないという人も居ますよ。いろんな筋の慌てぶりも、きっとそれを懸念しているからだろうと我々は踏んでいます。勿論、まだ分かりませんが…」
「うーむ、どうなっていくと思う?」
実際にはこの少し前まで、変異株問題で事務方の緊急会議を主宰していた神山が尋ねた。
「差し当たって、国内的には治療薬と検査キットを積み増し、万が一の時の都市封鎖も考えなきゃいけないのでしょうし…そうですよね?」
「まあ…それもありかな」
神山の反応は積み増しと厳密な都市封鎖案の検討に既に着手していることを示唆していた。
「しかし、それが本当だとしたら北朝鮮だけで対処できるとは到底思えないですから、どうやって封じ込めるのか、難題だらけかも知れませんね。首脳会談がどんな話になるのか…ADEなら西側も黙って見ているだけという訳には行かないでしょうから…。お隣さんや海の向こうは何と言っているんでしょうね?」
今度はルークが水を向けると袴田が応えた。
「確たることはまだ…」
アメリカや韓国が何を言っているのか、部外者に話すわけにはいかない。
「そうですか…いや、韓国筋やアメリカ筋も色々気にしているらしい気配があるんですが…」
「色々と言うと、つまり懸念は変異株だけではないということかな?」
神山が尋ねた。今日は話を聞きに来たのだ。
「はっきりしないんですが…ファミリーの中にも奇妙な動きがあるらしいと小耳に挟みました。コンサートに出掛けるというタイミング的に理解不能な噂も…でも、現時点ではもう何も言いようがないですかね。後輩達は暫く動きをしっかり見続けるしかないと思っているみたいですよ」
「コンサート話はまだ生きているのですか?」
袴田が意外そうに尋ねた。
「もう消えたという話が無いのが不思議なくらいですね」
来客二人は顔を見合わせた。
程度の差こそあれ、ルーク達の情報も日本政府や同盟国の情報と同じ方向を指し示していることは神山達も確認できた。これ以上は此処に居ても進展はない。神山が言った。
「そうか…何かあったら、また…休みの日に有難う」
「それはこちらこそ…また宜しく」
翌朝も早いのだろう。二人は一杯だけで帰って行った。
記者達が日々行う取材活動はスパイ組織のヒューミントと呼ばれる情報収集活動の合法部分とそれ程変わらない。というより、スパイや外交官達が時に羨むような取材という名の情報収集活動を報道機関は日々合法的に堂々と行っている。だからこそ、記者達はしばしばスパイ機関の監視対象になる。意見交換の相手にもなる。ロシアや中国は記者を隠れ蓑に使う。
だが、目的は明らかに異なる。記者は、国民の知る権利に応える為、事の真相を世に遍く知らしめることのみを目指す。が、情報機関はここが全く違う。それも現実なのである。
遺伝情報
翌朝、中国人民解放軍軍事科学院の対生物兵器研究室に平壌に派遣した衛生中隊から新型コロナウイルス変異株の遺伝情報が送られてきた。
生物兵器の使用は国際条約で禁止されているが、万が一、敵国が使用した場合の対処法の研究は各国で続いていた。二十世紀には旧ソビエトで生物兵器用の炭疽菌が漏洩した事故や2001年にワシントンで兵器級の炭疽菌がばら撒かれるというバイオ・テロ事件も起きており、各国とも目を瞑る訳にはいかないのだ。
平壌から送られてきた変異株の遺伝子情報はSタンパクを作る部分に既存株とは明らかに異なる特徴があった。そして、現地での研究室レベルの実験では、人間の細胞への感染力に、そのままなら大きな変化は見られなかったが、各種抗体を中途半端に加えると感染力が高まるという現象が確認された。
直ちに論文にして発表する訳にはいかない、ごく初期段階の試験に過ぎないとは言え、変異株は懸念されていたADE・抗体依存症感染増強を引き起こす可能性が高かった。ただ、同時に、治療薬が効くことも研究室レベルでは確認された。
治療薬はワクチンのようにSタンパクの働きを妨げるのではなく、細胞内に入ったウイルスの増殖に必要な酵素の働きを阻害するからだ。科学院が事前に予想した通りの結果だった。
これらの事実を北朝鮮政府も既に知っている筈だった。彼らも生物兵器の研究はずっと続けていて、この程度の解析能力なら十分ある。
担当者は直ちに上層部に報告をした。習近平主席の下にもこの情報はすぐに届く。
解放軍の科学者達は出来れば変異株の実物を取り寄せ詳しい検査をしたかったのだが、独断でその作業を進める訳にはいかなかった。習主席の承認が必要なのだ。そして、仮に許可が下りるとしても少し先のことになる筈だった。
習主席は拡大関係幹部会議を緊急招集し、金正恩総書記が乗る特別列車を北京に招き入れ、翌々日の金曜に首脳会談を開催することを決めた。関係部局には最終手筈を整えるよう指示が飛んだ。だが、発表は無かった。
北京駅周辺のメトロポリタン放送取材チームは特別列車の到着を今日も首を長くして待っていた。運動不足が祟り、皆、身体が重かった。しかし、待つしかない。各社同様だった。
オルリー空港
パリ南方のオルリー空港ではAAI、エア・アンビュランス・インターナショナルのパイロット、トニー・ジョンソンが飛行計画の最終確認を行っていた。日本とは冬季八時間の時差がある。
「許可は下りたのかな?」
ジョンソンが営業担当に尋ねた。
「いえ、まだです」
「それだと予定より遅れる可能性があるね」
「北京空港の離着陸枠は押えてあるのですが、当局の飛行許可が未だなんです」
「ちょっと珍しいな。何かあったのかな?」
「金正恩総書記の訪中の影響ではないかと思われます。空港からは駐機場を変えて貰うかもしれないという連絡も来ています。ただ、北京側の訪中受け入れの準備が整えば許可も下りるかと期待しています」
「タイミングが悪かったということか…仕方ないね」
「そうですね」
機体の整備は完了していた。搭乗客の名簿も出揃った。全員、北朝鮮国籍でフランスのヴィザは入手済みとある。患者は、どうやらカン・チョルという名前の人物らしかった。
パリ・セーヌ南総合病院
パリ南東部十三区にあるパリ・セーヌ南総合病院は医療水準が高いフランスでも十指に入る大病院である。十七世紀にルイ十四世の命によって創設されたという歴史を誇り、近年では一九九七年にパリで交通事故死したイギリスのダイアナ妃が事故直後に運び込まれた病院としても知られている。
中にバス停が十二もある広大な敷地には病棟や研究棟、事務棟、教会などなど八十の建物が立ち並ぶ。そのタイプも古めかしい石造りから現代的な大型ビルまで様々だ。病床は救急用も含めると全部で千八百近くもある。
大物政治家や財界人、各国の王族などが使う貴賓室とも言うべき特別な病室は幾つも存在するが、中でも特別な部屋は日本流で言う2LDKで100平米以上、備え付けられている医療機器はICUと変わらない。お付き用の部屋も隣接していて、当然、同じフロアにナースステーションや医師の詰め所もある。そのフロアには同様の部屋が複数あるが、互いの部屋の様子は分からないようになっていた。セキュリティーも厳重で、アクセスできる医師・看護師も厳選されていた。職務上知りえた患者の情報を医療スタッフが口外してはならないのは当たり前だが、特に口の堅いスタッフが揃えられていた。
そのフロアの半分が二月十日から既に押さえられていた。患者側はフロア全てを貸し切りにしたがったが、それは受け入れられず、半分になったのだ。パク・チョルという名前と生体肝移植を受けるという以外、患者の身元情報はスタッフにも伏せられていた。そして、肝臓外科の権威、アラン・パスカル教授率いる医療チームが手術と予後を担うことになっていた。
受け入れ態勢は既に万全であった。
病院を出て目の前のセーヌ川を北へ渡り、バスチーユ広場を過ぎるとバタクラン劇場はすぐ近くにあった。劇場ではステージのセットアップが大詰めの段階を迎えていて、翌日にはエリック・クラプトンのファイナル・ツアーのリハーサルが始まる予定だった。
「随分小さいんですね。これなら観客の出入りを見るのは楽ですよ」
淡い暖色系で彩られた瀟洒な建物を見上げながら、今はメトロポリタン放送のロンドン支局長を務めているゾウさんこと山瀬孝則が言った。パリ支局長の大友祐人が応援に来た山瀬を案内してまた下見に来たのだ。
「その通りなんだ。特別扱いで裏から入ったりされると面倒だが、多分、そんなことは無いだろうしね。人混みに紛れてしまって見落とす可能性はあるけれどね」
「でも、東洋系の何人かのグループが纏まって来れば嫌でも目に付くでしょ。何とかなりますよ」
「そうだと良いのだが…終了後にそっと追い掛けて少し離れたところで当たるんだろうね。騒ぎになるのはまずいから」
「それですね」
山瀬が直ぐに同意した。
「ところで、お腹空かない?近くに良いパン屋があるんだ。昼飯にしよう。イート・イン・スペースもあるしさ」
大友が誘った。
「イイですね~」
また直ぐ同意した。山瀬も旨い物に目が無いのだ。分厚い体躯の大和男児二人がとことこと連れ立ってパン屋に向かった。
歩きながら大友は少し悩んでいた。バゲットのサンドイッチを二つ、ハム・チーズとツナ・アンチョビを食べるとして、デザートを何にしようかと…。アプリコット・タルトにするか、カスタード・タルトにするか、考えた末、「いや、両方頼んで山瀬と半分ずつにするかっと。嫌とは言わないだろうから」
そう、決めたのだった。
北京入り
その夜、既にすっかり帳の下りた北京駅に三十両編成の特別列車が到着した。張り込みをしていた各社が直ちに世界に打電した。依然、発表は無い。
「いよいよですね」
オーフ・ザ・レコードの壁に掛かったテレビ・モニターで流れた速報を見て桃子が言った。日本では既に夜の十時を過ぎている。食事は済ませてあるようで、自ら持ち込んだ森伊蔵のお湯割りを飲んでいた。
「鬼が出るか蛇が出るか?大山鳴動して鼠一匹なんてことは、ま、もう無いのだろうけどさ」
ルークはそう応じると、桃子の摘まみとしてセロリの出汁引きの梅おかか和えと蓮根の胡麻マヨネーズ和えを其々小鉢に入れて出した。
「これ、セロリですか?私、苦手なんですけれど、これなら大丈夫です。というより美味しいです」
セロリを口にした桃子が言った。
いずれも夕食のメイン・鮪の漬け丼に添えるものだったが、もう食事をする客は来なさそうだった。残った漬けは翌日のルークの昼食になりそうだ。
「俺も昔は苦手だったんだが、女房にこれを食わせて貰って以来、大丈夫になったよ」
「それは奥様に感謝ですね」
「…」
ルーク世代は素直にその通りとは言えないのだ。
「仮にADEだったとしたら北朝鮮だけに任せて置くわけにはいかないのは明白としても、西側がどこまで関われるのか難しい問題だね」
ルークが話を戻した。
「中国政府に丸投げするんでしょうか?」
「既存のワクチンを更新すれば済むというレベルの話ならそれでも構わないかもしれないが、ADEだとそうはいかないんじゃないかな?別次元の新たなパンデミックがやって来る恐れがあるのを知っていて防げなかったということに万が一なってしまったら、西側の新たな被害も甚大だし、各国政府もWHOもただでは済まないだろうからね」
「そうかも知れませんね。でも、北朝鮮が協力するでしょうか?」
「それこそ皇帝陛下に総書記様を押し倒してもらうしかなんじゃないの。中国だって自分達だけが責任を負わされるのは困るだろうし」
「確かに北朝鮮指導部も自分達がまず危ういのは分かるでしょうから、中国の全面介入は受け入れざるを得なくなるのでしょうけれど、西側の介入までは嫌がるでしょうね…」
「条件次第ってことになるのかな…でも、まごまごしていると間に合わなくなる。皇帝陛下に頑張ってもらうしかないね。もっとも、まだADEと確定したわけじゃない筈だけれどね」
間もなく始まる中朝首脳会談の結末を世界が固唾を飲んで待ち構えていた。
人民大会堂
「昨夜も今朝も北朝鮮の特別列車に於けるPCR検査に異状はありませんでした。隔離期間中、一度も陽性は出ておりませんので、もう大丈夫と考えて差し支えないと存じます」
翌朝、北京の人民大会堂の一角を占める国家接待庁事務局にある主席専用控室で、中国政府の防疫・公衆衛生問題を統括する趙龍雲が習近平主席に報告した。
「面会室の準備は?」
「はい、会談は十五メートル程距離を置いた場所に着座して行っていただきます。ご挨拶もその距離を保っていただき、抱擁や握手は勿論省いてくださいますようお願い申し上げます。お座席の間には西側で言うところのエアー・カーテンを敷き、空気の流れを遮断させていただきます。万が一にも飛沫が漂って来ないようにするという訳でございます。距離もございますので、会話はマイクとスピーカーを通じて行っていただきます」
国家接待庁の黄強事務局長が応えた。
人民大会堂は北京市の天安門広場の西側に位置する。そこには万人大会堂と名付けられた大会議場や要人・各省庁・各省等の控室、宴会場、国家接待庁などがある。そして、国家接待庁の一階に外国要人との会談を開いたり、外交使節を接受する部屋があり、中朝首脳会談もそこで行われるのだ。
「会談に同席するのは対外連絡部の郭燿部長と通訳、それに記録係の三名のみの予定です。先方の同席者は通訳と記録係のみです。駅の出迎えは胡立山外交部長が当たります」
公式・非公式の会談含め中国政府の接遇関係のロジを司る黄事務局長がこう続けた。
「郭部長と胡部長始め、会談に同席する者、接遇に当たる者は全員既に治療薬の予防服用を開始しております。今一度、確認させていただきたいのですが、主席は予防服用をなさらないということで宜しいでしょうか?」
趙龍雲が改めて尋ねた。
習主席は趙に黙って頷くと今度は韓高麗中央宣伝部長に尋ねた。
「報道対応は?」
「金正恩総書記が列車を降り、胡部長が出迎える場面のみ新華社が写真撮影し報道致します。会談なども関連行事は全て録音・録画いたしますが、一先ず報じるのは駅の出迎えのみです。北朝鮮側も同意しております」
「よし、それでは予定通り明日午後二時に会談を始める。一同、抜かりのないように」
主席が号令を発した。
お茶
翌日、北京駅に隣接するホテルの上層階の部屋でメトロポリタン放送北京支局の特派員・佐藤俊介は地元スタッフのカメラマンと共に、特別列車とその周辺の様子をずっとチェックし続けていた。張り込みを始めてもう一週間以上になる。佐藤は今日こそ動きがあって然るべきだと思っていた。
部屋のベルが鳴った。
少し早いが、また支局手配の弁当が届いたと思い、佐藤は重い身体を自ら引き摺り上げるように椅子から立ち上がりドアを開けた。
しかし、弁当のデリバリーでは無かった。公安の制服を着た男二人を従え、私服姿の男が立っていた。
「こんにちは。安全確認に来ました」と言い、男は身分証を出した。中国の公安要員だった。
「すいませんが、部屋の中を見せてもらいます」
男は佐藤の返事を待たず、彼を押しのけるように部屋の中に入ってきた。三脚に据え付けたカメラとカメラマン、機材が当然目に入る。
男が後ろの二人に合図すると、制服姿の二人はずかずかと窓際まで歩み寄り、有無を言わさずカーテンを閉めた。
男が尋ねた。
「撮影許可は持っていますか?」
佐藤とカメラマンが出した身分証をチェックすると男はこう続けた。
「身元を確認する必要がありますね。カメラを持って付いてきてください」
「一体、どういう事だ?中国政府の記者証だぞ。邪魔をするのか?」
佐藤はこう言いかけたが、飲み込んだ。言っても無駄なのはもう分かっていた。
佐藤と機材を抱えたカメラマンが男に先導されて部屋を出ると廊下の奥で抗議の大声が聞こえた。英語だ。
「ここは私が借りた部屋だ。私にはここにいる権利がある。記者証だって持っているだろう!」
見覚えのあるイギリス・BBC放送の記者の姿がちらりと視界に入った。無駄な抵抗をしている。そんなことをしても拘束時間が長くなるだけなのだが、彼らはすぐには諦めない。いつもの事だ。多分、抗議の音声を隠し撮りしているのだろう。
佐藤達は二階まで降ろされ、ビジネス・センターの一角にある小部屋に一緒に通された。身体検査は無い。
「記者証に記載の事実を照会させてもらいます。暫くお待ちください」
こう言って男は記者証を取り上げて出て行った。
ビジネス・センターの入り口には制服姿の公安要員二人が立っていた。こっそり抜け出そうとしても無駄だった。暫くして、ホテルのスタッフがお茶を運んで来た。
遠くで喚き声が聞こえて来た。多分、イタリア語だ。ホテルで張り込んでいた取材陣は総浚いされたようだった。携帯などは取り上げられていなかったので、佐藤は支局にメッセージを送った。
「お茶に呼ばれました」
かなり遠いが、駅の反対側のホテルに陣取っていた別チームも同様の目に遭っていた。
岩岡は、最初、ソウル支局の戸山昭雄のチームをそこに配するつもりだったが、用心して良かった。中国政府発行の記者証を持たないソウル・チームがお茶に呼ばれていたら、結構な面倒になる恐れがあったからだ。不幸中の幸いと言えるかどうか分からないが、これは正解だった。
報告を受けた岩岡は市内の北朝鮮大使館と天安門広場で観光客を装い徘徊しているスタッフ達に用心するようにメッセージを送った。いよいよ金正恩総書記が動き出すのだ。菜々子はやっと始まる首脳会談に身構えた。最前線の取材現場に居るわけでもないのにそれが記者の性だった。しかし、間もなく天安門広場に居たスタッフも排除された。ただ、大使館前のスタッフには何も無かった。
およそ二時間後、天安門広場前の大通りを遠くに見渡すホテルの部屋にいた戸山班が車列を捉えた。金正恩総書記がいつも使う黒塗りのベンツ二台と北朝鮮の警護の車が二台、それに何故か救急車が付き従い、前後を中国の公安車両が固めている。
アメリカ大統領の車列にも救急車が加わっているのが通例だった。万が一の時の救急スタッフが乗っている。加えて、重武装の警護要員が潜んでいても不思議ではない。車両の中の様子は外からは分からない。
人民大会堂の敷地に入る様子は死角になって見えなかったが、そこに入ったのは間違いなかった。
連絡を受けた岩岡からの報告を受け、菜々子は東京の本社に速報を出すように指示した。
「金正恩総書記が人民大会堂に入る。間もなく中朝首脳会談開始」
各社も同様の速報をほぼ同時に配信した。暫くして新華社が写真を公開した。
列車から降り立った黒い人民服姿の金正恩総書記をかなり離れて胡立山外交部長が出迎えている。随分とワイドな画像で、意図的なのか解像度は高くない。拡大すると総書記の貫禄たっぷりな態度は何となく分かるが、顔の細部までははっきりしない。むしろ、髪の毛を少し伸ばし新しいヘア・スタイルにしているのがネットでは話題になった。刈り上げを止めて耳が半分ほど隠れていた。
写真は国営通信社が発信したその一枚だけだった。写真の説明をするキャプションには
「北京駅で午後、北朝鮮の金正恩総書記を中国外交部の胡立山部長が出迎えた」と書かれているだけだ。記事は無い。
中国に自由で独立した報道機関は存在しない。国内の民間企業が報道活動に従事することはだいぶ前から禁じられ、政府に都合の悪いニュースをSNSで発信する個人は摘発された。現地報道は基本的に中国共産党中央宣伝部の意のままだった。
夕方のニュースでメトロポリタン放送は首脳会談開始をトップで伝えた。
「中国訪問中の北朝鮮の金正恩総書記が、今日午後、北京の人民大会堂に入りました。人民大会堂では、現在、中国の習近平主席との首脳会談が行われている模様です。それでは北京から中継で伝えてもらいます。岩岡さん!」
「はい、北京支局です。昨夜、ようやく北京に特別列車で到着した北朝鮮の金正恩総書記は、今日昼過ぎ、北京駅で、中国外交部の胡立山部長の出迎えを受けた後、車に乗り換え、人民大会堂に入りました。
御覧頂いている写真は金総書記が列車を降り立った時のもので、黒い人民服姿の総書記は堂々としていて、一部に流れていました健康不安説を払拭する元気な様子でした。その後、中国当局の先導で人民大会堂に向かう車列の映像を北京支局は撮影しました。総書記がいつも使用している黒のベンツが写っています。
中国当局からは、先程の写真一枚が公開されただけで詳しい発表はありませんが、車列は人民大会堂に入っており、現在、習近平主席と会談していると見られています。ただし、会談がいつ終わるのか、或いは何回行われるのか、はっきりしておりません。
会談の主なテーマは、ワクチンが効かない変異株が北朝鮮で出現したと危惧される問題と見られ、その変異株への対応と北朝鮮への支援策が話し合われている模様です」
やはり岩岡の喋りはぎこちない。用意した原稿を棒読みしているように聞こえた。
「岩岡さん、ワクチンが効かない変異株が出現したという情報は本当なのでしょうか?」
「まだ確認されたものではありませんが、大方の見方はそうだろうという点でほぼ一致しています。しかし、それが北朝鮮国内でどのような状況を生み出しているのか、どれほどの脅威なのかなど、不明の点が多く、詳細は発表があり次第、お伝えしたいと思います」
「ありがとうございました。スタジオには感染症対策がご専門の…」
東京のスタジオではまたも専門家を交え、変異株の脅威について議論が展開された。
総書記が人民大会堂に入り、中朝首脳会談がいよいよ始まった模様という以外、これと云った情報は無く、放送内容の大半は焼き直しだったが、それでも大きく扱うしかない。関心は高かったのだ。
「時間が掛かりましたが、記者証に問題はありませんでした。もうお帰りになって構いません」
その頃、北京駅近くのホテルのビジネス・センターで缶詰にされていた佐藤らは漸く解放された。しかし、中国公安の係官はこう付け加えるのを忘れなかった。
「この地域は住民や職員以外、当分立ち入り禁止になります。すぐにチェック・アウトしてご自宅にお戻り下さい。面倒を起こさないよう忠告させて貰います」
「立ち入り禁止だと?駅周辺の取材は一切認めないと言う事か…チクショー」
やはり口には出さなかったが、佐藤は怒り心頭であった。しかし、どうにもならない。
支局に戻る途中の車内で疲れがどっと出た。
***
これは近未来空想小説と言うべき作品である。
当然、全てフィクションと御承知願いたい。
©新野司郎
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