オーフ・ザ・レコード物語;耄碌じっさまvsすれすれ爺の戦い終了 

*注;これは小説・フィクションである

 その名を冠した小さなバーが東京のお洒落とされる小さな繁華街、麻布十番の外れにある。目立つ看板は無く、建物も普通の民家とさほど変わらない。重厚なドアの横に張り付けられた小さな真鍮板の英文字で此処が「オーフ・ザ・レコード」と分かる。
 
 玄関の灯りを受けて控え目に反射するドア上の表札にはやはり英語でメンバーズ・オンリーとも書かれていて、見知らぬ客がふらりと入る気になるような佇まいではない。実際、モニター付きインターホンで客の名前と姿を確認しなければドアは開かない。
 
 店の名前を英語表記だけにしたのは店主によれば気取ったわけではないらしい。カタカナ表記をして日本人が声を出して読み上げると原語の音とは似て非なるものになる。結果「違う名前の店になっちまう」からだという。世間はまさにそれこそ気取っている以外の何物でもないと思う筈だが、店主はそんなことは意に介さない。
 
 意味は日本語のオフレコである。そこで小耳に挟んだ話は記事にしても良いが、誰が何処で喋ったのか明らかにしてはならないという意味だ。アメリカの首都・ワシントンに行けば同じ名前の店がホワイト・ハウスの近くにある。麻布十番のこの店がそれを模したのは想像に難くない。
 
 店内はやや薄暗く、六人掛けの樫のカウンターと四人掛けのテーブル席が二つ、奥に小さな個室が一つある。個室のドアにはディープ・バックグラウンドとこれまた英語の筆記体で小さく書かれていた。こちらは、そこで見聞きした話は一切口外無用、直接の引用は罷りならぬという意味である。そもそも満席になることなど滅多にない店なのだが、この個室に客が入る日は更に少ない。

 店のベルが鳴り、店主はモニターで客の姿を確認するとドアのカギを解除した。時は2024年7月下旬、日が暮れてもなお蒸し暑く、酷暑の厳しさに誰もがげんなりしていた頃である。

「おはようございます。暑くてやってられませんよ。あっはっは」
 入って来た客が挨拶した。もう良い齢になっているのだが、彼は兎に角チャラい。それが一瞬で分かる。
「おはよう。堪らんよね。クールビズとはいえ、その恰好じゃね」
 店主は応え、直ぐに続けた。客は派手なピンクのシャツを着て長袖を捲っている。
「生で良いかな?」
「お願いします」

 客の名は矢吹淳也、50代半ばのメトロポリタン放送の役員なのだが、客と店主のやりとりは常連客と店主の通常のそれとは異なる。かつては上司と部下の関係だったからだ。因みに、たとえ何時だろうと、その日初めて会った相手に「おはようございます」と挨拶するのは業界の慣習である。

「甲斐先輩、早速、この写真ですか?」
 生ビールの注がれたグラスを受け取ると矢吹が尋ねた。

 オーフ・ザ・レコードの店内を見渡すと、所々に不思議な置物や飾りがあるが、それ程雑然とした感はない。それらは時々入れ替わるらしいのだが、この日はカウンター正面の酒瓶の棚のほぼ真ん中に二人の高齢者の写真が額に入れられ置かれていた。矢吹はそれを指して訊いたのだ。写真はアメリカ大統領選挙のかつての正式候補予定者で現職のバイデン氏と今なお復活に執念を燃やす前職のトランプ氏による前月末の討論会のものだった。
 
「言っちゃあ悪いが、バイデンがやっと撤退を表明して、耄碌じっさまと犯罪すれすれ行為常習爺の戦いが終わったからね。ま、それを期にさ」
 甲斐先輩と呼ばれた店主が応えた。この日の直前の日曜日にバイデン氏が選挙戦からの撤退を表明したばかりだった。
 
「あっはっは、確かに、やっと終わったというのは皆に共通する思いでしょうね。でも、実際にはバイデンはまだ民主党の正式候補に指名される前ですからね。異例と言えば異例ですが、これからどうなるんですかね?それにしても、耄碌じっさまと犯罪すれすれ行為常習爺の戦いとは言い得て妙ですね」
 
「そう、ほぼトラを覆せるか否か、問題はこれからさ。民主党が後継候補にハリスでスムースに一本化出来なかった場合や次の副大統領候補に変なのが指名されると難しくなるだろうね」
「そうですね。直近の焦点はその辺りですかね。もっとも民主党の連中もそれは良く分かっている筈でしょうから…、ま、結構早めに落ち着くところに落ち着くのではないでしょうか?」
「そうなるのが自然な流れかな…」
 
 2024年11月に本選の投票日を迎えるアメリカの大統領選挙は、所謂、激戦州の帰趨が勝負を決める。彼の地では国より州が先に出来ていた為、連邦の大統領を決める選挙は実にややこしい制度になっているのだが、それはともかく、現在の情勢で、民主党の大票田であるカリフォルニア州やニューヨーク州で共和党候補が、反対に、共和党の地盤であるテキサス州やフロリダ州で民主党候補が勝つ可能性は限りなくゼロに近い。結果、激戦州と誰もが看做すパンシルバニアやミシガン、ジョージアなど7つの州の勝敗が次の大統領を事実上決めるのだ。単純に全国での総得票数が多い方が大統領になるのではない。実際、2016年の選挙では総得票数の少なかったトランプ候補がヒラリー・クリントン候補に勝った。
 
「それにしてもカマラおばさんで大丈夫ですかね。評判はそんなに良くないでしょう?」
 カマラはバイデン氏の後継候補筆頭のハリス副大統領のファースト・ネームだ。
「女房もそんなことを言っていたよ。だがね、討論会であんな耄碌ぶりを晒した後のバイデンと銃撃後の劇的な雄姿を見せたトランプの支持率の差はそんなに大きく広がらなかっただろう?勿論、バイデンではもう勝てないというのはほぼ衆目の一致するところにはなっていたが、逆に言えば、それでもトランプだけは嫌だという人間が如何に多いかということも示している訳だ。若いハリスが反トランプ票をしっかり集められたら勝ち目は充分以上にあるんじゃないかな。バイデンの最大の欠点だった超高齢不安はハリスには無いからね」
「だと良いんですがね…」
「ま、副大統領のイメージなんてそんなもんじゃないの?居るんだか居ないんだか良く分からないのだったり、大統領の足を引っ張るだけのが居たこともあった。陰で大統領を操り、結果的にとんでもない厄災をもたらしたチェイニーってのも居たしね。しかし、現職の陰で目立たなかった御仁が大統領候補となれば話は別さ。スポットライトを浴びて注目度は絶対に高まる。粗探しもきつくなるが、手垢の付いていないハリスなら、上手くやればだが、あっとゆう間に投票日を迎えられる。チャンスはあるんじゃないかな」
「そうですか…」
 矢吹は店主のようには楽観していないようだ。
 
 すると店のベルがまた鳴った。モニターを確認した店主が鍵を解除した。
 
「あ、おはようございます。えへへ、遅くなりました」
 腰の低い小太りが入って来た。齢の頃は50前後、幾分ざんばらの髪が着物姿の浪人を思い起こさせる。
「お疲れさん」
 矢吹が応え、店主が続いた。
「よお、おはよう」
 
 山上正太郎という新しい客は二人の後輩で、特に店主にとっては若い頃に鍛え上げた齢の離れた元部下だ。山上に生ビールのグラスを渡すと店主は二人の客に告げた。
 
「飯にするだろう?」
「はい」
「お願いします」
「今日はロールキャベツとブロッコリーの卵サラダ、それにガーリック・トーストさ。暫しお待ちあれ」
 店主が支度を始めた。
 
 店に食べ物のメニューはない。日替わりで店主の奥方が作るメイン一品とサラダなどの副菜がもう一品あるだけだ。だが、料理研究家が生み出す味は天下一品、これを目当てに常連客は来ると言っても過言ではない。店主は適宜温め、盛り付け、片付けるだけだ。かつての武闘派の姿を記憶する客にとってはその方が安心らしい。口にこそ出さないが、店主が作った妙な物を食わされたら適わないと誰もが思っているのだ。
 
「それにしても甲斐さんは相変わらず口が悪いぞ。それも物凄くさ」
 矢吹が正面の写真を指差して山上に言った。 
「耄碌じっさまと犯罪すれすれ爺の戦いがやっと終わった、だってさ」
「えへへ、それは放送では絶対に使えませんね」
 山上がそう評すると店主が背中を向けたまま補足した。
「正確には『犯罪すれすれ行為常習爺』さ」
「ルークさん、でもニューヨークで有罪判決を受けた犯罪者じゃないですか?」
 山上が問うた。
「それはそうなんだが、トランプは裁判そのものの無効を申し立てて控訴した筈だからね。確定はしていないんだと理解しているよ。それに有罪にはなっていないものの犯罪もしくはすれすれの行為を数限りなくやって全く懲りていないからね」
 
 ルークは店主の渾名である。もともとはある部下の蔭口から始まったのだが、今では矢吹を除いて皆が店主をこう呼ぶ。ガーリックの素晴らしい香りが店に漂い始めた。
 
 ニューヨークのマンハッタン地区で刑事訴追されたトランプ候補はポルノ女優への口止め料支払いを不正に会計処理した罪など34件で有罪評決を受けた。アメリカやイギリスの司法制度下ではトライアルと呼ばれる事実審理は原則一度しか行われず、そこで陪審団から有罪の評決を受けると通常それが確定する。しかし、法の適用や捜査・訴追手続きに疑義がある場合などは控訴可能で、トランプ候補側は、その後に出された大統領免責特権に係る連邦最高裁判断などを梃に、ニューヨークでの裁判そのものの無効を訴える見込みである。
 
 また、ジョージア州で選挙結果を覆そうとした行為やフロリダ州の自宅で機密文書を不法に隠匿した罪、更には20年1月6日に首都・ワシントンで起きた連邦議事堂襲撃事件の関連でもトランプ候補は訴追されている。しかし、例えば、彼が大統領に返り咲き自分自身への訴追の取り下げを司法省に命ずれば、連邦法違反に問われているフロリダとワシントンでの訴追からは逃れられる。また、将来の話にはなるが、連邦最高裁の判断次第では、ニューヨークとジョージアでの州法に基づく訴追もひっくり返すことが不可能ではないと見られていた。
 
 ただし、それでも訴追や有罪評決から逃れられるというだけで、トランプ候補の犯罪行為や数々のすれすれの行為そのものが歴史から消えてなくなる訳ではない。それ故、一部のトランプ支持者でさえ「彼が大統領にふさわしいとは思わない。ただ、バイデンよりマシ」と明言していたし、反トランプ派は法の下の平等を訴え、彼を特別扱いすることに反対していた。
 
「はいよ、お待ち」
 ルークと呼ばれる店主が料理をカンターに並べ始めた。
「えへへ、相変わらず美味そうですね…奥様の料理は…」
「頂きます」
 
 ルークがきんきんに冷やしたシェリーのボトルを開けた。シェリーは矢吹の好みだ。冷房を効かせた店内は涼しく、料理の熱さも気にならない。
 
 暫く食事を続けた山上が手を休めて言った。
 
「それにしても、もしもトランプの返り咲きを今回防いだらバイデンはレジョンドになりますね。二度も彼を負かしたことになります。ヒラリーとは大違いになります」
「確かにそうだ。通常、一期だけで退いた大統領は評価されにくいもんだが、そうなったらバイデンは別格になるんだろうな」
「でも、甲斐さん、そんなに上手く行きますかね?」
 矢吹は本人のチャラさとは異なりあくまでも慎重だ。
「それはまだ分からないが、仮に民主党がすんなりとハリスで一本化して、副大統領候補に良いタマを据えたら、次は、取り敢えず予定されている9月の討論会が見物になるかな…」
 
 ルークは言葉を続けた。
 
「話は戻るが、実はバイデン陣営は討論会前から今回の立候補辞退、ハリス後継を視野に入れていた節も感じるんだ。単なる山勘だろう、後付けだろうと言われたら反論できないんだがね」
「え、どうしてですか?」
 今も現役記者の山上が身を乗り出した。
「あの討論会での余りにも酷いバイデンのパフォーマンスを見て直ぐに知り合いにメールしたんだ。『あんな状態のバイデンを討論会に出したのは、バイデンはもう無理だ、ハリスに引き継ぐしかないというムードを民主党内に拡げようとしたのか?それには間違いなく成功しているが、どう思う?』とね」
「そうしたら?」
「返事は暫く来なかった。3日後の日曜日だったかな、来たのは」
「で、どんな中身だったんですか?」
「『バイデンは戦いを続けるだろう。そして、負ける。大惨事だ』だったな」
「それだけでしたか?でも、そこから何故?」
「いや、まあ此処からは推測だらけになるんだが、まず返事が来たのは3日後の日曜日だったという点が注目だな。それはつまり、先方はその間状況を探っていたということが言えると思う」
「それはそうですね」
「単に出張で留守にしていたのかもしれないが、それにしても、その時の状況をしっかり探っていなければ『バイデンは戦いを続けるだろう。そして、負ける。大惨事だ』とまで断言はしない筈だ。彼の人脈は結構なものだからね」
「成程…」
 
 矢吹は黙って食事をしながら聞いていた。
 
「そして、『戦いを続ければ負ける。大惨事だ』という認識が彼だけのものというのはあり得ない。彼の知る民主党関係者も当然共有している筈だというのも容易に想像できる」
「それもそうですね」
「一般の人間も、あの討論会でのバイデンの体たらくを見ていたら、相当数がそう思うはずだろう?あのほとんど終始のっぺりとした表情、鈍い反応、とんちんかんな受け答えは、自分の祖父母や親が認知症を発症し徐々に悪化していくのを目の当たりにした人間には、バイデンの症状が一朝一夕のものではなく不可逆的でもう決して良くなることはないと本能的に理解したはずだ。だから彼はもう勝てないと思うのは当然だ。バイデン自身があの時どう思っていたかは分からないが、家族や側近にもそれは分かっていたに違いない。にも拘わらず、討論会をドタキャンせずに、あの姿をそのまま晒した。何とかなるだろうと高をくくっていたとしたら、そんな連中にホワイト・ハウスを牛耳る資格はないし、そこまで自分勝手でなかったことは、後付けになるが、今回の撤退判断が如実に示している」
「確かにそうですね…、しかし、戦いを続けると言っていたのでしょう?」
「それはそうだ。選挙戦は止めると発表するまで続けるとしか言えないのはどの国でも同じだろう。それは山上の方が良く分かるだろう?」
「それはそうでした。選挙戦が事実上始まった後に、止めるかもしれないと言ったら、止めると言ったのと普通同じになります」
 政治取材経験の豊富な山上が断じた。
「そう、だから先方が『バイデンは戦いを続けるだろう』と言ってもそれは他に言いようがなかったからだと思う。『負ける。大惨事だ』という言葉の重みの方が遥かに大きい」
「…」
 山上は考え込んだ。
 
「そして、もう一つ重要なのは先方が全く触れなかったことだ」
「と言いますと?」
 今度は矢吹が問うた。
 
「私は『あんな状態のバイデンを討論会に出したのは、バイデンはもう無理だ、ハリスに引き継ぐしかないというムードを民主党内に拡げようとしたのか?』と先方に尋ねたのだが、この問いに対しての回答というか言及は無かったという点だ。討論会直後、バイデン陣営は『彼は風邪気味で体調不良だった』と言い訳したし、本人もヨーロッパ等への長旅が続き『疲れと時差ボケもあって体調不良だった』という旨の言い訳をした。メールの御仁も同じような説明をしようと思えば出来た筈だが、しなかった。想像だが、遠からず嘘と分かる言い訳をしようとしなかったと考えるのが筋だと思う」
「つまり、甲斐先輩の問い掛けは当たりだったということを意味するのですね?」
「そこまでドンピシャだったとまで自惚れてはいない。いつ、どういう状況で選挙戦からの撤退を最終的に決めたのかは勿論分からない。もう勝てないというデータが側近から示されたという報道はあるが、駄目押しになっただけかもしれないし、いつ頃から、そういう選択肢を検討し始めたのかも分からない。先方もそこまで確たることは知らない可能性の方が高い。
 バイデンは討論会後のNATOサミットでも、ウクライナのゼレンスキー大統領をロシアのプーチン大統領と言い間違えたし、ハリス副大統領のことをトランプ副大統領とも言い間違えたのが決定打になったのかもしれない。しかし、共和党大会が終わり、バイデン大統領がコロナに罹って療養すると発表された辺りで、そろそろだなとは思ってはいたな。女房にははっきりそう言った。推測と後付けだらけだが、結果はご存じの通りさ」
 
「流石です。もっと早く此処にお邪魔しに来れば良かったです」
 山上が無沙汰を悔いた。
 
「でも、ハリスとの討論会をトランプは受けますかね?」
 矢吹が再び箸を動かしながら話を前に転がした。
「それも分からない。が、もしも逃げたと思われたら、銃撃後にこぶしを突き上げた勇気ある男のイメージに傷がつく。ナルシストのトランプにそんなこと出来るかな」
「とすると、討論会はまさに見物ですね。元検察官のハリスが舌鋒鋭くトランプを追及すると面白いことになるかもしれませんね」
 山上が受けて続けた。
 
「それはそうなんだが、最初の討論会で、バイデンの耄碌ぶり以外に記憶に強烈に残っていることがあるんだ」
「何ですか?」
 矢吹が先を促した。
「私はポルノ女優とセックスなんかしていないとトランプがいけしゃしゃと言い切ったことさ」
「そんなことがあったんですか?」
「全部、見ていたからね。まあ、あの厚顔振りには本当に唖然としたよ。確信犯の否認にしか思えなかったな。そんなトランプに元検察官なら上手く対処すると期待できるんだが、やり過ぎると、言い方は正しくないが、嫌みできつい黒人おばさんだと思う有権者も出て来るかも知れないな…」
 
「つまり人種問題と女性問題が頭をもたげて来る恐れもあると言う事ですか?」
 アメリカ駐在経験の無い矢吹が問うた。
「良く分からないが、アメリカのアフリカ系のおばちゃんにはやけに気が強いのが結構いて、駐在時代に私も辟易したことが何度かある。そんな印象を、仮にハリス候補になったとしてだが、持たれると選挙に響くかもしれない。それがどう結果に結びつくか未知数だけれどね」
 
「人種問題はまだあるということですね?」
「それはあると思いますよ。放送ではなかなか言い出せませんが…えへへ」
「今時、アフリカ系大統領はもう嫌だ、女は嫌だと堂々と言う人間は殆ど居ないからね。一部の過激な人種差別主義者を除いてさ。だから、本当の実態はずっと分からないと思う。ヒラリーが勝てなかったのは本人が高慢ちきと思われたのが大きな理由だと思うが、女性だったから、或いは、その前のオバマ大統領にうんざりして、今度は俺達が自分達の代表を選ぶんだと思っていた共和党支持者は多かったかもしれない。ただ、本当の本音は出てこない。垣間見るしかないな」
 
「飯が不味くなるかな。ま、こんな話は仮定の仮定に過ぎないし、取り越し苦労かもしれないから、忘れて食事を続けて。大谷翔平の話でもするか」

 ルークは大統領選挙絡みの話を打ち切った。
 
「ロンドン駐在時代のことなんだが、サッカーのワールド・カップ決勝の時の町の静まりように驚いたことがある。道路はがらがら、歩いている人もがた減りだった。みんなどこかでテレビに齧りついていたんだと思うが、それと似たような現象をワシントンでも目の当たりにしたことがあるんだ。ワシントンの町全部が日本で言えばお盆休みの都心のビジネス街みたいだったんだ」
「フットボールの試合ですね」
 同じくワシントン駐在経験のある山上が食事を終え言った。
「そう、あの時はワシントンとその周辺だけの現象だったと思うんだが、なんでこんなに空いているんだろうと不思議に思ったら、地元のアメフトのチームが試合をしていたんだな。こちとら全く興味が無かったから、試合をやっていたのさえ後から知ったんだがね。それに比べると野球人気は大分熱量が下がるよね」
「試合数も違いますしね。野球は時間もかかりますし、えへへ」
「どうなんだい?翔平ちゃん人気は?」
「野球界、ファンの間では凄いと思いますよ。でも、いかんせん野球人気そのものが大分劣りますからね」
「でも、彼は凄いですよ。私は野球少年では無かったんですが、あの活躍は胸がすく思いですよ。あっはっは」
 矢吹が合いの手を入れた。
「彼の豪快なホームランを見るとすっとするよな。その日、一日、気分良く過ごせるよ」
「僕らは仕事も捗りますよ。大袈裟に言えばですけれど」
「まあ、テレビ局の中はテレビがずっとついていても不思議では無いからね。ちらちら試合を見ていても全く問題にならないからね」
「普通のオフィスではそうはいかないでしょうけれど」
 
 すると店のベルが鳴った。モニターを見るとルークの知り合いの医師の姿があった。ルークはドアの鍵を解除しながら二人に告げた。
 
「他の客が来たよ。11月にも翔平ちゃんのホームランを見たような気分になりたいものだな。ま、ゆっくりしていって」

 ルークは二人のグラスにシェリーをまた注いだ。
 
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©新野司郎
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