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きみはいい子

アルバイトの帰り道。

ご飯を作るのがめんどくさくって、すき家で牛丼買って帰ってやろ、って思ってドライブスルーに車を滑らせていた時。


ぼんやり流し聞いてたラジオで、誰かもわからんラジオパーソナリティが自粛期間中何してました?って話で盛り上がっていて。

「あぁ、最近家で映画を観ましたよ」
「『きみはいい子』っていう映画なんですけど」
「めっちゃ泣けました、オススメです」

って。

すき家の赤々と光る安っぽい看板の光の下で、ひゅっ、と喉が締まるような思いをした。


『きみはいい子』という映画を、観たことがあるでしょうか。
小学校教師役の高良健吾と、
未就学児の女の子の母親役の尾野真千子が出てる映画で
「子ども」と「わたしたち」の話です。

きゃあきゃあとはしゃぐ児童が手に負えず、貧困と暴力の家庭に生きる子どもをどう守ってあげたら良いのかわからず苦悩する教師。
過去のトラウマから、自らの子どもに手をあげることをやめられない母親。
そういう彼らも誰かと付き合って甘えたり喧嘩をしたり、近所のママ友との付き合い方に悩んでいたり。


自分のことをもう子どもではない、と思うし
もういよいよさすがに大人である、とも思う。
けれど、いつから、何故大人になったと確信できるのかと問われるとなにも答えがない。
子どもの頃に叱られたことはたくさんあったはずなのに、成長してまったく別人の大人になったとは到底思えない。

わたしたちは大人だから、子どもの誤りを批判し、叱り、導こうとするけれど
心のどこかではいつも「本当にこれでいいの?」という不安がつきまとうし、いつでも正しい聖者にもなれない。

わたしたちは歳を重ねてみても、貧困も病も救えず、争いもやめられない。
「ちゃんとしなさい」とか「喧嘩はやめなさい」とか「ひとに迷惑をかけるのは控えなさい」と子どもを諭すけれども、自分の苛立ちは抑えられず、酷い言葉を言い放ち、自己中心的な行動だっていくらでもする。

わたしたちが時間をかけてやったことは、「このくらいは大丈夫、仕方がない」という折り合いがつくところを大人同士ですり合わせ、それで目を瞑ることを覚えただけだ。


『きみはいい子』という映画は
そうやって誤魔化しているつもりになっている、困難や痛みをまざまざと描いている。
「子ども」と「大人」の話などではなく、
「子ども」と「わたしたち」の話なのだ。
別々の生き物なのではなく、子どもはわたしたちのカテゴリーに内包され続ける。

だからこそ『きみはいい子』というタイトルは、わたしたち自身をも抱きしめてくれる。
救われない痛みとそれでも共存し、戦っている我々すべては、とてもえらい。いい子なのだ。


だからラジオ聞きながらさ、めっちゃ泣ける、でいいんかなって。
牛丼買いながら思ったの。
泣いておしまいじゃないでしょう、わたしたちこそが、その日々の中にいるのだから。

いい話なんかじゃないよ。
けれども、とてもいい話だよ。
たまらない気持ちから、目を背けずにいたいよ。


#エッセイ #映画 #映画レビュー #きみはいい子

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