ふつうの保育園。
「ふつうの保育園」。
鹿児島のひより保育園に行くと、そんな言葉がすっと降りてくる。
園児たちは味噌も堆肥もつくれるし、5歳で一通りの料理ができるようになるし、レストランをひらいて遠足費を稼ぐし、耕作放棄地を田んぼに再生したりもするし、その情報だけ切り取ると、ちょっとふつうじゃない。
そうなのだけど、やっていることは一貫して“ふつう”だ。
(参考)保育園については以前の↓note記事もあわせてご覧ください
できる限りご近所の食材でおいしく食べたいから、例えば魚は、魚種でなく用途を指定して、その時に採れる旬の魚を、ちゃんとした価格で仕入れる。
さつまいもで子どもたちが大学イモをつくりたいというと、答えを先回りせずに、「どうぞ」と、彼らの生きる力に委ねる。
(結果、一発で完成させてしまった)
従来の形の連絡帳は必要か?など、いつの間にか当たり前になっていた慣習を、一人ひとりが問い直し続ける。
(使うべきことに時間を使えるようになり、残業もほとんどない)
先生はみんな地域で“ふつう”に暮らす人たち。日々の中で、一人ひとりが自己決定する土壌が育まれているから、代表がコロナで海外から数ヶ月帰ってこれなくても(!)、問題なくまわる。
こういった誇張のないストーリーが、現場からとめどなく出てくる。
その底にある問いかけは、「人間が人間としていられるか?」ということだと思う。
(転職されてきた保育士さんから、「はじめて一人の人間として扱われた」という声もあったという)
子どもたちも、先生も、地域の人たちも。
関わる一人ひとりが、その生命力を活き活きとさせていられたなら、自然とよい場が生まれていく。
人間の身体感覚、人と人、人と自然は、連続し関係しあっていて、その生態系に「無理」がない状態であれば、活動は小さな半径へと溢れ出し、よい循環が生まれていく。
あたりまえのことを、あたりまえにやる。
そういう意味では、極めて「合理」的なことをやっている。
これは、人間味なくルールで統制するのとも、ルールなどなく自由にまかせておけば大丈夫、ともちょっと違う。
人と自然がともに生きる里山のように、適度に手をかけながら。
足元のイートローカルな生態系が、いい湯加減か?楽しいか?おいしいか?を問い続けていくということ。
新留小学校は「ふつうの小学校」を合言葉にしているが、そのインスピレーションは、保育園でのリアルな実践の積み重ねからふと浮かんできた言葉でもある。
人間の“ふつう”にアプローチしていくことが、各地の学校や地域へと広く普く通ずるイニシアチブに、そして近い未来に国境もこえていくものになる予感がしている。
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(参考)私立新留小学校 企画資料