「人間への敬意を取り戻すべき」まさにこのことをずっと考えていた。
学び続ける教師であるべき我々が、生徒にレッテルを貼り、教師同士でもレッテルを貼り、そんなことで優位性を保とうとするなど愚の骨頂。
人間誰しもいいところ悪いところ、好き嫌いがあるのだから、どこに着目して接していくかが大切であって、ダメ出し一辺倒では何の学びもないのではないだろうか。
家庭でも、母親が父親の不平不満ばかりを子どもに毎日聞かせていたら、父親の権威は失墜し、居場所がなくなるのと同じ。
学校というシステムに組み込まれている中で、親が学校批判を繰り返したら、事態が好転することはまずない。
最近の若い人が使うリスペクトという言葉、それも、あえて「リスペクトしてます」と口に出して言うことからも、普段の前提が「人に対する敬意が失われている」ことを意味しているようにも思う。
人に対する敬意が希薄な現状で、学校のシステムを持続可能にするためにはどうしたらよいのか。
一つは、敬意を取り戻すための工夫をすること。
二つは、敬意の有無に関係なく成立するシステムを開発すること。
一つ目はたとえば、篠原さんの言うようにもっともっと学ぶことを楽しめるようなカリキュラム編成や、ファシリテーションのスキルを教師が身につけること。
二つ目はたとえば、教師があくまで伴走者になりきること、学習者主体の学びを徹底すること。見下されている教師が「指導する」から、クレームが来るわけで、であれば、学校はあくまで支援はするけど学びを深めるのは生徒自身ですよ、というスタンスになるしかない。というか、すでにそういう流れになりつつあるのかもしれない。
およそ20年前、退職間際の大先輩から、「教員はこれからバカにされる職業だから、心してやれ」と言われたことが今でも胸にずっと残っていて、生徒にも保護者にも同僚にも、これまでずっと誠意をもって接してきたつもりだが、周りを見ると、あいつはダメだ、あそこの親はおかしい、そんな言葉をよく耳にする。
教員集団も、例に漏れず、人への敬意をもてない人が増えている。
道徳だ人権教育だと言ってはいるが、まずは脚下照顧ではないか。教員の質、人の質が問われることをしっかり自覚したい。