篠原信さんに共感


篠原さんの言葉に共感することが多い今日この頃。

採用試験を受けるような若い人たちが口を揃えて「子どもに寄り添う教師でありたい」といった話をするのを聞いて、昔から強い違和感をもっていた。
寄り添うことを強調するあまり、それが目的なの?って聞きたくなるような場面に遭遇することも多いし、どういう意味で寄り添うって言葉を使っているのかよくわからないことも多い。
概念規定が曖昧だからなのか、都合よく使われて、思考停止を引き起こす言葉になってしまっている印象。
寄り添うを連発する人に限って、子どもをよく見ていない、自分に酔っている。相手のためを思ってしてあげているつもりになる危険があるので、私は出来るだけ使わないようにしているし、より具体的な言葉で示したいと思っている。

人の相談に乗るのに、「寄り添う」って必要なのかな、と思う。寄り添われたら嬉しい。しかし先日まとめたように、溺れた人が救助に来た人を踏み台にして息を継ごうとするので、寄り添った人間が深みに沈められるリスクがある。「寄り添う」よりよい形はないものか。

「寄り添う」は、寄り添われる側からしたらありがたい。甘えられると思うから。だから急速に依存してしまうことがある。溺れる者がワラをもつかむように。しかしそれをされると寄り添った人間もたまらない。全エネルギーを「寄り添う」ことに奪われ、全精力を失いかねない。

ドリカムの「サンキュ」の歌にある情景が程よい距離感のように思う。何かつらいことがあったのだな、と察し、そばにいるけど、あれこれ聞かない。励まそうともしない。ただ一緒に花火をして楽しむ。
やがてつらかった体験を話しても共感するわけではない。「えらかったね」と静かにいたわる。

髪を切るならつきあうよ、と、これからもそばにいるということは伝えるけど、変に励まさない。ただ、そばにいるだけ。
そばにはいるけど一体化はしない。共感もなんならしなくて構わない。ただ、そばにいるよ、という距離感。もしかしたらこれが「寄り添う」なのかもしれない。
(中略)
悩んでる人は大概、「脳内サーキット」ができている。「あの時こうしてれば」「いやでもあの時あいつが」「でも他にも方法がなかったのか」「しかしあんなことがあったら誰だって」悔しかったこと、やり直せたらやり直したいこと、同じことをグルグル考えている。同じことばかり悔いるものだから。

思考の轍(わだち)ができる。車輪が轍にはまると出られなくなり、轍の通りにしか進めなくなるように、悩みも同じことを考えていると、思考の轍ができる。しかも何度も繰り返し考えているから、轍は深くなり、同じ思考を繰り返しやすくなる。しかも高速で繰り返し。

脳内サーキットができると、同じことを高速で繰り返し考えることができる。悩んでる人はこの脳内サーキットができていることが多い。「寄り添う」というより一体化する感じだと、この脳内サーキットに巻き込まれる形になってしまう。渦に飲み込まれかねない。

大切なのは、脳内サーキットが作る轍に、わき道となる溝を掘ること。すると、溝に沿って脳内サーキットの轍から外れることが増える。そんな考え方もあるか、と、これまでと違う思考になったりする。わき道作るには、一体化しないほうがよい。
(中略)
相談に乗るときに大切なのは、観察することで脳内サーキットの轍の軌道を見抜き、それをなぞる形で溝を掘ること。轍と同じ軌道ではダメだし、轍の軌道とくっついてないのもダメ。軌道から延伸する形で溝を掘る必要がある。うっかりわき道の溝にはまりやすい角度に。

そういう言葉をデザインできるよう、相手の話をよく聞き、相手の話に合わせる形で、しかも微妙に脳内サーキットからずれる思考の言葉を探す。相談に乗るときは、いかに相手の思考をずらすか、ずらしやすいように溝を掘るかが大切な気がする。

そのためには「観察」が何より大切な気がする。相手の話を聴くだけでなく、時に問いを発してその反応を伺うとか、身振り手振り表情などをよく観察し、仮説を立てる。その仮説を検証するために問いを発し、その反応を見て仮説を手直しする。そうして、脳内サーキットがどんな軌道を描くのか見極める。

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