「なめられる」教師の必要性

一般的に、教師というのは生徒になめられてはいけない、だから教師はなめられないような振舞いを常に心掛けねばならない、と思われている。

しかし、そのような考えとは真逆な、「『なめられる』教師が教育の新たな地平をひらく」という文献を以前読んで感銘を受けたことを思い出したので、それを読んで考えたことを書き記したいと思う。

教育現場の現状:ゼロトレランス方式とスタンダード

ゼロトレランス方式(以下、ゼロトレ)という教育方式では、教師は生徒に対して、実際の行動のみを見て、その理由・動機の如何に関わらず定められた対応を毅然として行う。教師の権力の乱用とも言えるこの方式については、是非がこれまでにも論じられてきた。

また、近年教育現場で導入されている「スタンダード」という考え方においては、教育において求められるべき「標準的な」子ども像というものが設定され、子どもたちはその標準に従って行動することが要求されている。
ゼロトレによる教育では、教師に甘え、反抗し、暴言を吐く生徒は有無を言わせず厳しく処分される。このような言動は「スタンダード」から外れるため、どんな理由があるにせよ、直すべき言動とされるのである。しかし田中(2016: 70)は、このように教師に甘え、反抗し、暴言を吐く生徒は「親から汚い言葉でののしられ、邪険にされ、時には殴られ、傷つけられてきた」のであり、「傷つきやすいナイーブな生徒で、実は『弱さ』を内に抱えている」のだと指摘している。したがって、そのような背景を考えずに問題行動のみを取り上げて罰するということは、生徒に寄り添った指導とは言えない。

また、山本・藤井・高橋・福田(2014: 75)によれば、子どもが起こすトラブルや問題行動は、それぞれの発達段階でのゆがみ、もつれ、そびれが原因であることが多く、それらは排除・抑圧すべきでない。そのようなトラブルや問題行動は奪われてきた発達のゆがみ、もつれ、そびれを解消しようとする子どもたちの存在要求・発達要求と捉えるべきなのである。

この山本他(2014)の論で重要な点は、トラブルや問題行動を本人の不真面目さや怠慢などに起因すると考えるのではなく、発達過程における環境にその原因を見出すべきだとしている点である。トラブルや問題行動の原因が本人ではなく、その周りの環境にあると考えれば、ただ単に叱るということだけが教育ではないということが見えてくる。

「なめられる」教師の必要性

田中(2016)では、教師が「なめられる」ということに、新たな教育の方向性を見出すことができると述べられている。田中(2016: 68)はこれまでの教師の生徒に対する考えについて、「生徒は教師の言うことを聞くもの、コントロール可能な存在だと思っていることは、生徒を対等な人格を持つ存在として認めないことを意味し、生徒の人権を軽視していることだ」と指摘する。久田(2016)も、なめられないための教師の言動は権力の非対称性の乱用に当たり、「スクール・ハラスメント」として検討すべき問題であるとする。教師が生徒になめられるということは、逆に言えば、生徒に教師をなめる権利を与えていると捉えられる。そして、その権利はすなわち、生徒が教師に対して自己表現を行う権利なのだと考えられる。

また田中(2016: 67)は、そのような「なめられる」教師は「家父長的権力支配から脱することで生徒の本音を聞き取り生徒の生活現実に直接触れることができる」とする。そして、このことを可能にするために必要なことについて、次のように述べている。

「なめられる」教師であっても、生徒を評価したり、処分したりする大きな権限を持つ教師という身分から逃れることはできない。だからこそ、意識的に評価者、処分者としての眼差しを一端捨て、「教師は常に生徒を教え導くべき存在である」という上から目線の態度を改め、徹底した共感の眼差しで生徒に接することにより、生徒を支配しようとしない「なめられる教師」になるのである。そこで初めて、生徒と対等な地平に立ち、自身を相対化し、生徒から大いに学び、生徒とともに成長する教師になりうる。(田中 2016: 67)

すなわち、これからの教育においては、教師自らが生徒との権力の不均衡を意識的に正していかなければならないということである。

また、小泉(2016: 91)は「理不尽で納得のいかない指導に『抑圧的な』力で従わせるだけでは、人間としての自主性や創造性を養うことはできない」のであり、「『なめられない教師』だけでは生徒の自主性や創造性を養う機会を奪ってしまい、『考えない』、指示待ち体質の人間を世に送り出してしまう」として、「なめられる」教師の存在の必要性を指摘する。

以上をまとめると、教師が生徒にあえて「なめられる」ことで、権利主体としての生徒を尊重し、生徒がその権利によって自らの個性や自主性、創造性などを養うことができるようにするということが、今後の教育に求められているのであると言える。

参考文献

小泉宮子(2016)「「なめられる」教師であることを肯定するまで」『高校生活指導』201: 86-97.
田中幸恵(2016)「「なめられる」教師が教育の新たな地平をひらく」『高校生活指導』201: 66-73.
久田晴生(2016)「スクール・ハラスメントから共生のルールづくりへ」『高校生活指導』201: 98-105.
山本敏郎・藤井啓之・高橋英児・福田敦志(2014)『新しい時代の生活指導』東京: 有斐閣.

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