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遊びに行ったり失敗したり



遊びに行ったり失敗したり



 ネットで買った子供用自転車ですが、ブレーキの部品がどうやら発送前にちゃんと組み立てられていなかったらしく、

 

 外れるはずのないところが、すぐに取れてしまいました。


 マイナポイントで買ったものなので、得したと思っていた矢先ですが、おせわになっている自転車屋での購入ではないぶん、厄介です。


 他のところならまだしも。たとえばタイヤを代えるとかすぐパンクするとかなら、高く付くにしろ、自転車屋に持っていければ済みますが


 手前の自転車でブレーキが壊れた経験は無いし、カバーを外して、もう片方のブレーキと比較してみるに、そもそもちゃんと組み立てられていなかったっぽい。

 金属部品を外すのは普通のドライバーでは無理みたいだから、なんともしようがありません。もちろんブレーキが片方機能していない自転車なんか、乗れません。


 楽天から苦情を言っているところです。


 ネットショッピングで自転車は買わない!って気持ちになりました。


 ある程度のアフターケアを必要とするものは、いろいろ比較検討を経るにしても、万一の不測の事態にそなえてネットショッピングで済ますべきではないのかも知れません。




 さて、返事はどうか?





 お腹の調子は悪いけれど、機会がなかなか無いから、遊びに行こう、と、映画を見に行きました。


 なんと、家でQEDA(Quantum Entangled Divided Agent、邦題 アンダー・ザ・ウォーター)を見て、

 映画館で新海誠作品・すずめの戸締まりを見て、二本立てです。


 ここからネタバレなどなど注意です。


 ジャンルも雰囲気も全然違う二作ですが、どっちもso-soでした。



 口コミでQEDA「量子もつれ」の邦題が、アンダー・ザ・ウォーターであることをセンスが無いと酷評されている方がいました。


 私もちょっと思いました。

 伝わりにくいですね。



 ざっくり一言でいえば、悲しい映画です。

 2090年に、環境破壊が進み、大陸のほとんどが海水に沈んだ世界で、塩水を淡水に変える技術を確立仕掛けている学者がいる2017年に、現代タイトルのエージェントが活路を見出し、量子で繋がったもうひとりの自分(イメージはクローン)をタイムスリップさせる話なんですけど、


 なんにもうまくいきません。


 2017年の学者というのが、主人公の曾曾祖母なのですが、なぜか(欲に負けて?)ワンナイトラブで結局なんの因果か生き残るはずだった曾祖母まで死んでしまい、主人公が消えるっていう


 救いようのない話でした。


 割といい映画ではあったのですが。


 




 さて、すずめの戸締まりのほうです。



 新海誠さんといい、細田守さんといい、名前が売れてしまうと、失敗できないプレッシャーがすごいんでしょうか。



・巡礼先の聖地を新たに作る

・ほんの少しの恋愛要素

 (吊り橋効果)

・ASMR?

・時をかける要素


 ついでに新海誠さんの場合、神道系の儀式


 これであらかたプロットが決まるのかな、と思いました。



 世界観としては、震災の原因は「常世という異世界から来るミミズという化け物」にあるとし、それは裏扉(うらと)を開けてやってくる、という。


 主人公のすずめと相手役・閉じ師のソウタは、それを閉じるという話です。



 おばさんのちょっと辛めの意見なのですが、そこまで感情移入しないのは、東北大震災で母を失ったすずめ、そのトラウマとして描かれる「廃墟」が


 あまりにも、きれいな事です。



 と、いうのは、震災で壊された廃墟がモデルとなっているシーンに、死体がひとつも無いんですね。無論、焦げ臭さ、磯臭さ、悪臭、何も無いです。


 





 私は、東北大震災で生活を破壊された女性(当時は小学生)のお話を聞いたことがあるんですけど、


 彼女が生き残ったのは、学校で着衣泳を習っていたからだ、と話していたんです。


 けれど、救助を待つ間、溺れていたのであろう必死の何人かに、足を掴まれ引きずり込まれそうになった、という話と・・・


 津波災害にあった学校で、我が子の生死だけでも確かめたい一心で

 土左衛門の顔を一人ひとり確かめる親がいた、という話、衝撃でした。


 淡々と話されていましたが、忘れられません。


 

 耳で聞いただけでもそれなりのショックがあります。五感で死を感じていたら、そりゃ忘れられないだろう、と、思う。


 彼女がその話をできるようになるまで5年くらいの間があるのですけど、やはり学生の頃は、「思い出したくない記憶」だった頃があるわけです。

 講演の依頼はあるけれど、学校の閉鎖で離れ離れになった友達とも、話せないよね、という話。



 震災直後の話がタブー化される。




 それはたぶん、どちらも被害者だったから、それだけじゃなくて、


 震災被害の中で出てきた

「我が子だけを探し、他の子の遺体を見てもいちいち悲嘆にくれることのできなかった自分」

「自分が助かるために、溺れている人間を振りほどいていったこと」

 そういうエピソードの、自身が加害者的性格を持つにも関わらず


 生き残ってしまったこと


 に、後ろめたさ、罪悪感があるんじゃないかと、私はそう思う。


 被害者経験だけなら話せるかもしれないけど、災害を生き残った人に話を聞く、というのは、たぶん多かれ少なかれ、戦争と同じような話で


 誰かを死においやったことがあるか?


 と聞くような、致し方ないとはいえ、生涯で最も自分の加害者的性質を掘り起こす質問だからでしょう。


 どんな聞き方をしても、被災者が自発的に話せないかぎり、それは尋問のようなものだと思います。


 たとえば誰かをいじめ殺したとして、


 その人がその場にいさえすれば


 酷いと責めるのなら、止めれば良かった、といえるけれど


 「震災を経験していない」人から、「いかに震災とはいえ、そんな酷いことをしたのか?」と言われれば、それはひとつの意見かも知れなくても、そんなに残酷なことはありません。

 

 


 


 誰に話しても、


「仕方ないよ」「誰だってそうだよ」そう言ってくれる人が大半だろうけど


 とかくアニメの主人公のように、自分が犠牲になっても他人を助けようとするような、それを我が事のように置き換えると、いたたまれなくなるから、


 単なる、ファンタジー、作り話、に


 なってしまうんじゃないか、と。


 つまりは大衆娯楽でした。





 特に、正誤白黒ハッキリ付けすぎる世知辛い世の中だから、


 私は、寂しさだけでなく、死ぬこととか破壊とか、人の気持ちの荒々しさとか、もっと踏み込んで表現してほしい


 と、物足りなさを感じたわけです。


 まあ、全年齢対象アニメーションにそこまで求めるな、と言われればそれまでだが。



 



 全年齢対象だと、そういった災害の生生しさというのは、描けないのかもしれないけれど、


「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」など初期スタジオジブリ作品を見るに、アニメだから、全年齢対象だから、と、決して描けないものでもないと思います。


 私はすずめの戸締まりを見て、今より地震が怖いと思う子は少ない(もしくはほぼいない)んじゃないかと思う。


 それがテーマではない、と言ったらそうなんですが、エンターテインメントとして、可もなく不可もなく


 といった印象です。


 ですから冒頭の、監督にネームバリューがあると、下手に物議をかもすような作品は作れないのかな?といった感想になったわけです。



 と、くれば震災ではなくて、素材を借りぐらしのアリエッティみたいな「普通の生活」創意工夫、小さい人間から見た世界、みたいな、現実から見て、ゴジラや震災と戦うような壮大さは無いけれど、ミクロな視点で描いたほうが、かえって色鮮やかでアニメーション映画として見ごたえがある、と感じるわけです。


 



 あと、最近見たのは、韓国のゾンビ映画、新感染ファイナル・エクスプレス、それと、ちょっと遡って、ノア・バームバック監督のフランシス・ハです。


 前者は、それまで「流行らないだろう」と言われていた韓国verゾンビ映画、後者は2014年日本公開映画ながら、モノクロの映画です。



 どちらも面白かったです。


 前半で紹介したものより楽しめた理由のひとつは、監督の遊び心?を感じたかどうか、だと思います。


 新感染ファイナル・エクスプレスは、ゾンビもののお決まりを踏襲しつつ、韓国らしい家族愛、感涙ポイントがあって、制作サイドに狙い通りと言われればそうなのですが、号泣しました。

 

 フランシス・ハの帯セリフは「半端な私で生きていく」

 ルームシェアしていた女友だちを誰より大事にしていたフランシスだけど、親友のソフィーはそうでもなくて。

 ソフィーはあっさり結婚して、ルームシェアは解消。フランシスは直前に、同居している親友がいるから勝手はできない、彼氏と仲違いしていただけに、焦りやいらだちを消化しきれないフランシス。

 それが「半端」なんですけど、20代ー30代の女性は、共感するところがあるんじゃないだろうか。

 友達の幸せや成功は祝ってあげるもの。それは理想論だけど、劣等感を抱くと、それは本当に友情か?と思う。

 結婚や出産で簡単に揺らぐ友情、簡単に揺らぐ友情は友情か?という疑問、女友だちというのは、簡単に揺らぎ、感情とことばは必ずしも一致しない、アンビバレントだからこそ、貴重で大事にするべきなんだな、というパラドックス



 

 新感染ファイナル・エクスプレスは、お約束といえばお約束、なんですけど、いわゆるゾンビが無知性であるところ、

 主人公の「娘」がどうやって生き残ったか?

 それは、もうひとり、パンデミックが起こった特急電車に同乗し、しかもそこで旦那さんを失った妊婦を励ますために歌っていたこと

 クライマックスの、彼らのフラフラした足取りは、釜山のトンネルでゾンビ流入を防ぐため厳戒態勢で待機していた軍からゾンビのそれと区別が付かなかった  ので、撃たれるところだったのですが、歌で生存者認定され辛くも生き残る、という。


 

 たとえご都合主義があっても、面白い映画は面白いと思う、


 どこが?と言われると、


 監督?の「遊び心」?なのかな?


 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

 タランティーノ監督など、まさしくそう。私は彼の作品を面白いと思うのですが。どうしてなのか、よくわからないんです。


 この監督、いつも酔っ払ったまま映画作ってんじゃないの?と思うし・・・


 ストーリーらしいストーリーがあるわけでもない

 


 これが儲かる!とか

 一発当てよう!と思っているらしい作品って、今ひとつ面白くないんですけど(たぶん過去のヒット作を踏襲しているため、既視感が強い)、監督に「自棄」感というか、売れないんじゃないの?どうだろう・・・って要素があると、すごく面白いかったりします。





 ちょっと映画フリークでもないのに語りすぎですね、反省。


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