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歴史の教育の話




歴史の教科書の話




教育は、本を読むことができるが、どの本が読む価値があるかを見分けることができない人口を増加させた。

G・M・トレヴェリアン

[トレベリアン、トレヴェリヤン]

(イギリスの歴史家、1876~1962)




 プーチン大統領が、日本の歴史の教科書にはアメリカではなく連合国が原爆を落としたとボカして書いてある、と、揶揄したというネットニュースを読みました。



 私は、2〜3割、

 「いやいや、仮に民主主義国だろうと世界的に歴史の教科書って大人の事情に左右されているものだろう(日本に限った話ではない)」

 と、いう批判があるかと思ってコメント欄を開きましたが、



 なんと驚きの9割


民主主義礼賛 共産主義批判 プーチン大統領バッシング




 うわあ。

統一教会よりも根深い洗脳の深さ

深淵を覗き込んだ感じで、そっとコメント欄を閉じました。


 まあ、ネットニュースにわざわざコメントを書き込む人と意見を世論として鵜呑みにすることがまず間違っているのだと思います。(わざわざ見る方がどうかということは、棚上げするとして)








 先日、私が「無人ドローン攻撃を神風アタックと報道されることに腹が立つ」と、SNSにコメントしたところ、


 フィリピン人の友人からの、励ましと慰めの返事の中に 


「ロシアもアメリカほど悪くない(※アメリカは管理された戦争といって報復等の空襲をすべて正当化する)」というコメントがあったことが印象的、と書きました。


 

 


 

 先進国の全てに言えることですが、正しい情報、偏りのない情報というものカンペキに規制されている、と、そういうことは民主主義国では確かに無いんですけど、


 おそろしいほどまでの不均等、歪み、偏見というものは、そこかしこに存在します。



 いちばん分かりやすい例で


 任意であったはずのマイナンバーカードと健康保険証の一体化 閣議決定です。




 国民がマイナンバーカードを発行するように政府はポイントで釣ろうとし、国としての目的を徹底的に説明、教育することは、なおざりでした。



 SNS社会で、為政のホンネは隠しきれるものではないのに、かえってただ不信感を煽ることを堂々とやってしまう。

 この悪癖は早く見直されるべきところですが、なかなか抜けません。



 次に、ロシアのウクライナ侵攻は確かに一般市民の立場で見れば気の毒でしかありませんが、同じように、むしろ近隣のミャンマーの軍事政権について、日本はどういう態度を取ってきたか?そこがあまり注目されていません。


 アウン・サン・スー・チー氏が今どういう状態かも分からないのに、日本は国家レベルでどうこうという議論はなく、


 いわば軍事政権にお金を渡るかも知れない(少数民族の差別が激化するかも知れない)にも関わらず、ミャンマーへの支援の規制が厳しくなるという動きは見えません。



 

 

 自由な言論が許されている国だからどうなっているかというと、まあまあ情報操作はされている。

 海外から日本に入ってくる9割方のニュースソース(特にネットニュース)は、偏りなく日本人に情報を、というのが第一優先順位じゃなくて、日本人に喜ばれそうな、注目されそうなニュースが翻訳されているんですね。

 だから、ことばを選ばずにいうと、ウクライナ侵攻とか戦争のニュースも、日本人にとって、ただのエンターテイメントのひとつ程度になっているんです。

 プーチン大統領やロシアバッシングが楽しいから、そこだけ、まだ熱が冷めていない。


 でもなければ、子どもが四肢欠損したりとか、そんなニュース、毎日毎日聞いていたら私は身が持ちません。

 健康で非道な私は、何も感じないように想像しないように、自己防衛反応から想像をやめました。

 でもやっぱりというか、だからこそというか、プーチン大統領への制裁がどうであれ、早く戦争が終わって欲しい、と、言い続けることは必要だと思います。


 


 

 そもそもプーチン大統領を「ウクライナ侵攻」というポイントだけでなく、ここぞとばかりに人格批判に至るまで非難しまくった日本なのだから、




 教科書揶揄




 くらい、そりゃされるよね・・・と思うのですけど(ストレス解消にすらなりゃしないと思うけど)、「人殺しのオマエに言われる筋合いはない」というと、弓なりに論点がズレていきます。

 

 私の中で、ディスカッションにおいて、ポイントや話し合いのカテゴリを定めてそこから出ないようにする、というのは、とても大事なことです。



 なぜなら、ディスカッションも、ディベートでさえも、種々のスポーツや格闘技と同じようにルールがなければ、想像に想像を重ねた不毛な場外乱闘になることがわかり切っているからです。




 

 また、プーチン大統領の立場で考えると、間接的にとはいえ既に女子供問わず何百人と死なせているのだから、今更日本の一般人にローカル言語でどうのこうのと罵られようが、痛くも痒くもないと思うんですよ・・・



 それなりに悲しくなる考え方ですが、ここはひとつ建設的に、なぜ、共産主義は悪いのか?各教育機関でディスカッションくらいシッカリしたほうが良いと思うのね。



 これは昔の話ですけど、オーストラリアに留学していた子が一年の予定を三年に伸ばしていて、なぜか?って聞くと、自由だから


どこが自由か?っていうと、校則はもとより、普通に「セフレは必要かどうか?」っていう際どいテーマでも、めちゃくちゃ真剣にディスカッションするって。


 いけません、では無いんです。


 避妊についてとか、性教育ですらないのが面白いと思いました。



 



 それを考えると、日本人はやっぱりディスカッションがめちゃくちゃ苦手だと思います。

 と、いうか、批判が苦手。批判の応酬が人格否定と受け取られたり受け取ったりするし、それもひとつの文化ではあるのですが、逆にそういう鬱屈からか、ネットでは野放図かつアジアや他いくつかの国以外では問題にならないんじゃないか?って程度の発言が、尾を引いたりする、と、私は思うんです。



 マウントを取る、ということばを婦人系の雑誌でよく見るようになりましたけど、所変われば一体なんのことだかよくわからないんじゃないかな。



 以前、マクロン大統領が、ワクチン接種しない人を侮辱したという、私は日本語と英語でニュースを読んだのですけど(全く分からないけどフランス語原文Tweetも見た)、やっぱりよく分からなかったんですね。


 それが侮辱なのかどうか、すら笑


 英語で「社会のゴミ的なこと」と訳されていて、あーそりゃ酷いわ、と、やっとしっくりくるような気がしたけれど、侮辱も理解するのに時間がかかると、不思議なことに共感で怒るっていうことが少なくなるんです。



 これはすごく興味深い感覚だと思うのね。



 「ウクライナ侵攻に関わるすべてのニュースがローカル言語(日本語)ではなく、世界共通語である英語(もしくはウクライナ語かロシア語)で報道されるとしたら、今プーチン大統領に悪感情を抱く日本人は何割に減るか?」(減るに違いないとは思う)






 もちろん、プーチン大統領に酷いという勘定を抱くには違いないとは思うのですけど、邦訳されているのが、「ウクライナ侵攻以前」のニュースだけだとしたら、かなり微妙だと思いませんか。



 そう、言語支配は思想支配、国を支配するためのひとつの要素(イコール植民地化の条件)


 日本民族が大戦に負けていながら、日本民族としての意志を持っているのは

 日本語をベースに物を考えているからです。GHQの政策には日本の公用語を英語にする案もあったそうだから、どっちに転んでもおかしくはなかったのだと思う。

 祖先の交渉力か、運が強いのか。



 

 ウクライナ侵攻に限って言えば、アメリカよりの考えをしているということで、どのみち反プーチン政権の感情が生まれるのだと思うけれど、

 それでもアメリカを凶悪と見る人が、フィリピンに一人いるという事実を軽視するべきではないと思うんですね。

 フィリピンは400年近くアメリカの植民地で、タガログ語を母国語にしているせよ、英語が公用語なわけだから。


 


 私としては、共産主義国が悪か?というのは、アメリカとNATO及び日本が言っていることで、資本主義民主主義にも問題がある以上、ロシアが共産主義国だとかナチズムに支配されているかどうかというのも、また、問題にするべきではない不毛なポイント


 もしそれを問題にして、ナチとホロコーストや差別意識をイコールでくく?なら、次にはネオナチを徹底的に弾圧しなければならない。


 この戦争で問題にしていいポイントは



 ロシア(プーチン大統領)の目的が、ウクライナを植民地化する気かどうか?



 だと思うんですけど、こちらもイマイチ議論が進んでいません。




 現時点でプーチン大統領の言うことはすべて嘘、と決めてしまうのは、思考の放棄なんですね。なぜなら、侵攻のはじめに東部の開放という「嘘」をついているから、後はもう全部嘘だろう、こう考えるほうが


 考えることが少なくて楽だから。






 

 教育とは、という点で、たまに「少年革命家のゆたぼんさんは何がしたいのか」ということも考えます。



 これは、歴史の教科書の中で私へのインパクトが大きかったのは、(あさま山荘事件とか)共産主義革命だからです。

 社会に革命を起こすため「私刑実施」って、かなりカルトです。


 ゆとり世代〜さとり世代の私だからそういう感覚なんですけど、政治的な事に対して、辛うじて知る努力しかない、情熱が薄いのは


 民意を聞こうという姿勢だけで、決して私の意志を組むことはない民主主義社会


 ってものに、飽きているからです。



 無関心という選択というやつです。


 政治や改革のために命を懸けるっていうのが、あり得ないんです。無駄死ににしか感じないから。




 好奇心なくして、なんの役にも立たないと思うものをただ知るだけなのは辛いものです。



 ですから私は自分の意志で「学校に行かない」ことが間違いだとは全く思わないのですが、


 少年革命家のゆたぼんさんは誰をどう励ましたいのか?




 やっぱり、同世代を励ましたら良いんじゃないかなと思うけれど、今の彼はアンチとの不毛な言論闘争が多くて、そのアンチの中に、真面目に学校に行っている子も不登校の子(外に出る勇気がない子)もいるんじゃないかと思うと、むしろ、ゆたぼんさんがまだ年齢的に幼いばかりに、誰かを励ますよりも、多くのいがみ合いを生んでないか、という気がする。



 と、思うのは、そもそもクラウドファンディングで彼一人が自分の望むような教育を実現するのって、確かに誰でも出来ることじゃないからです。


 というと、悲しいことのようですけれど、じゃあ何百万お金をかけて、父親にサポートをしてもらいながら楽しみつつ勉強したいか?って



 そんなの、誰でもしたいだろう、そこまで言わずとも、多くの人がしたいだろう、と、思うのですよ。けど、全国の子どもたちがそうやって学べるほど日本に生産力・資産があるかというと、そうではなく、この不公平を目の当たりにして、それでも嫉妬しないよう人を応援できる美しい心を持つのは、




 無理じゃないですか?






 共産主義というのは、大雑把にいうと国民が生産した富を国が管理して再分配します、と、だから貧富の差はありませんってことなのですが、


 共産主義の問題は


・いくら頑張っても得られるものが変わらないので国民の勤労意欲は低い。国際的な競争力は落ちる。

・政治腐敗(国民から取り上げた資産を、為政者が横領する)


 後者の問題によりソ連邦崩壊時に生まれた?のが、オリガルヒ(新興財閥?)です。

 確かに彼らは時代の荒波を越えて生まれたものではありますが、その間殺された人間がいることを考えると羨ましいと言い切れるものではなく、また、現在経済制裁の対象にもなっています。



 と、いうように、共産主義に問題は確かにありますが、結局資本主義社会でなければ、「ゆたぼんさん」のようなエンターテイナーは存在できないし、掲げる看板の中に革命が入っていても


 革命的なことは絶対に起こらないだろうと思う。



 誠に革命らしいことが起こるとしたら、日本で起こるのは、共産主義革命や宗教革命とは言われない「呼称が違うだけでそれに近い」何か、だ。

 

 なぜなら、ウクライナーロシア間で、ナチズムはどちらだと不毛なやり取りから見てもわかる通り、歴史のキーが知識のための知識、相手を侮辱するだけのことばと化しているのを見るに、日本も例外でなく、おそらく日本という大きな括りで考えれば愚行は繰り返されるからです。


 宗教や神様を信じないと既存の教義や慣習をだめだと言いながら、占いなど「スピリチュアルなもの」がある程度市民権を得ている日本というのは、かなりおかしな感じがする。


 占いを否定するものでもなく、占いを信じるのは良くて信仰は危険視するとなると、ハッキリと区別できるのは、規模と組織化されているかどうかの違いだと思うんですね。


 で、あるなら、国家的に行われる悪こそ警戒するべきで、そういう教育をするべきで、都合の悪いことは教えない、見えないようにするというのなら、その教育が生み出すのは、華氏451度の世界です。

  







 私としては、ベーシックサービスモデルのパイロットな実行とか、こう、未来が明るかったりワクワクできそうな、革命的な出来事(無論無血)が起きてほしいところですが、どうなんでしょうか。











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