体の中に耀る 第4話「腔」
第4話 腔
それから夏休みまでは、穏やかに過ぎていった。校内で、睦と南戸、春は、一緒にいる時間が増えた。睦の退院後、春は、病院で敦子と何を話したか、聞き出そうとしたが、「秘密だ」と言って答えてくれない。実は、敦子と睦はほとんど何も話していない。春が出ていってから、敦子の気分は幾分和らいだようだが、睦に「大丈夫?」聞き、睦が「大丈夫」と答えたあとは、しばらく沈黙が続いた。敦子の頬にキスした後、初めて顔を合わせた。
「あの」
「え?」
「その」
俺の事を、今どう思っているのか、聞きたい。脈なしなら、わざわざ見舞いに来ないだろう。
「えーと、その」
「‥‥あの、睦君。私ね」
「え?なに?」
「うん、えーと」
「なに?」
「やっぱりいいや。また今度」
「え、気になるだろ」
「ううん、また今度」
「その、西の『お願い』の事?」
「え?」
「前に言ってた」
「え?」
「その、お願い事を聞けば、その、俺と」
「うん?」
ひょっとして、忘れている?睦は蒼褪めた。
そして、まともな会話をしていない。しかし、敦子はなぜか満面の笑顔を浮かべた。睦にだけ向けられる、蕩けそうな笑みに、睦はクラクラした。
「睦君。早く元気になってね」そう言って、出て行った。
睦が、敦子に気があるらしい。春はそれが気に入らない。しかし、コミュニケーションのない恋愛は魅惑的だが、現実を直視すれば虚しいだけだ。春は、睦が「春と敦子・どちらが女として優れているか」気付くまで、傍にいることにした。この、意地のような慕情が、睦のプラスになり数値として現れたことが一つある。学期末試験の成績である。中間試験での睦の成績は、普段勉強しないことに加え、俊之の事で気を取られ、散々だった。教師のほとんどが、睦に「もっと頑張れ」と言って、答案を返却した。睦の両親は、普段から勉強について煩く言わなかったが、今回の成績については、何も言わないのではなく、閉口、つまり何も言えないようだった。睦は、表情に出さないものの、人並みにショックを受けていた。学期末試験では頑張ろうと、密かに猛勉強し始めた。睦の腰巾着と化していた南戸は、嬉々として協力し始めた。人に教えるのが嫌いな人間は少ないが、南戸も多分に漏れない。特に地理、歴史、公民が好きな彼は、睦に、試験範囲ではないところまで、語るに語った。甲高い声でたどたどしく、しかし途切れる事がない。じっくり聞いていれば、勉強にはなるが、いささか辟易する。南戸が睦の参謀であるとたとえるなら、春は参謀長と言って差し支えない。睦が驚いたのは、春の大人顔負け知識量である。
睦は気付いたのだが、どうやら春にとって、学校の試験とは「半日の自由時間」らしく、試験そのものを全く意識していない。睦が、急に勉強するようになったのを、不思議そうに
「どうしたの?」と聞く。
「来週から学期末試験だぞ。お前も勉強しろ」と斜に構えて答えると
「ああ、そうか」
と言って下校した。
試験日を知らなかったという態度だ。睦は、当初カマトトぶって、嫌な奴だ。どうせ家で必死になって勉強しているに違いない、と睦は思っていた。試しに、いよいよ明後日から試験という昼休み、窓際の席でぼんやりと本を広げている春に、
「これ、解けるか」
と、自分では解が求められない関数の応用問題を解かせてみた。およそ数分。悩む素振りもない。
「ん」
とノートの端を渡された。
巻末の解と照らし合わせると、途中式もほぼ解答と同じである。
「お前、答え、見ただろ」
睦は言いがかりを付けてみた。
「は?」
と言われた。
「いや、なんでもない‥‥」
睦は引き下がった。
春が、並はずれて勉強のできる奴かも知れない、と思った睦は、南戸と春の三人で一緒に勉強することを提案した。ひとえに自分の為である。案の定南戸は渋ったが、春は、意外にも快諾した。
「それなら家に来たら良いよ。ひとり暮らしだから」
睦の学校では、試験中は図書室に人が多くなるので、長時間席を占拠する事を禁じられていた。確かに鬱陶しい親の目がない個人宅は魅力的である。しかし
「中学生がひとり暮らしなんかできるのか」
睦は尋ねた。
「‥‥できるよ。保証人がいれば」
春は顔をしかめた。その表情で、睦は保証人が誰かを察した。
睦は、女の子の家に行くということで、気持ちが昂っていた。両親に、「友だちの家で勉強してから帰る」とメールを打ち、春に付いて行った。しかしどうだろうか。「狭いけど、どうぞ」と案内された春の家は、二階建ての、豆腐のような形をした武骨なアパートで、本当に狭い。ぬいぐるみやフレグランス、観葉植物など、名前は知らなくとも、テレビや漫画で見る、そういう「女の子らしい」グッズが、ドアを開けたと同時に目に飛び込んでくるものと睦は期待していた。期待は無惨に打ち砕かれた。春の部屋は、この間睦が入院した病室とさして変わらなかったのである。
学習机にはパソコン、折り畳み式の小さな机。睦と南戸に差し出されたのは、ぺたんこの座布団。
「どうぞ」
おまけにホストは、自身が招いたにも関わらず、客人にわくわくした様子もドキドキした様子も見せない。さらに、春は睦らに渋い茶を入れ、音楽をかけると、「さあ勝手に勉強しなさい」とばかりに、本を読み始めた。
睦と南戸が、呆然と立ち尽くしていると、春はなんの弁明か
「これ、私のお気に入りの曲。勉強の邪魔なら消すけど?」
「いや、そうじゃなくて、お前は勉強しないの?」
「え?テスト範囲知らない」
「プリント無くしたのかよ」
睦が渡すと、春は戸惑いながらそれを受け取った。「ありがた迷惑」と、顔に書いてあった。
「うん」
一瞥して、机に置く。そして、また本を読み始めた。睦は、ムッとした。そんなに俺らの前で勉強するのが、恥ずかしいのか。春に構わず、南戸と勉強することに決めた。春は、傍らで本を読んでいたかと思ったら、徐に立ち上がり、パソコンを立ち上げ、何やらカチャカチャやったりする。次には、シンクの下をごそごそやり、茶菓子を出したりお茶を淹れたり。睦は、女の子の家ではなく、「祖母の家」にいるような気がしてきた。
数学や化学の問題は、南戸に聞いても要領得ないことがあるので、春に聞いてみることにした。瞬時に明朗な解答がある。教師顔負けである。春は、記憶力ではなく、理解力が抜きん出て優れていた。各科目の体系や論理の、大体を把握し記憶しているので、試験勉強というものをわざわざする必要を、感じられないのである。
しばらくして、春は何やらパソコンで打ち込んでいたものを、プリントアウトし始めた。やっと勉強する気になったのか、と振り返る。春は、自身が打ち出したものを暫く眺めると、クリップで二部にまとめた。
「南戸には、コレ。睦には、コレ。高得点を狙うのなら、最後の方の応用問題を繰り返し解いて」
「先生かよ!」
ついに、睦は叫んだ。
「ここ、壁薄いから静かにしてくれない」
春は、眉をひそめた。
「自分の勉強をしろよ!」
「‥‥だって大体どんな問題が出て、何を書かなきゃいけないか想像つく。わざわざ下らないこと考えたくない」
春は、本心のこの言葉が、睦や南戸にどう思われるかも察しているようだ。目を反らして、囁くように言った。
「嫌味な奴だな!」
睦は言った。春は、睦らがプライドを傷つけられ出ていくかと思ったが、しかし、春の予想に反して、睦はそれ以上何も言わなかった。再び問題集に取り組んだ。
「ねえ、私そんなに嫌な奴かな」
頬杖をついて聞いてみた。南戸が小さく頷いているが、無視する。
「そりゃ嘘吐きは嫌いだけど、嫌味な奴と嫌な奴は違うだろ」
なかなか含蓄に富んだことを言う。でも、睦にとっては、俊之ですら嫌な奴ではないのだ。睦にとって、嫌な奴とは、どんな奴だろう。
「睦は私が嫌いじゃないの。嘘吐かれたりからかわれたり、それでも家に来たりして」
睦は目を丸くした。
「嫌われたいのか」
睦の胸が疼いた。
「ううん。ただ私、嫌われる事が多いから」
「だろうな。嘘吐いたり人をバカにしたりするからだ」
「バカになんてしてない」
あらゆる情報や物に、世間の反応が異常なのだ。一喜一憂。人間の設計と機構には盲点がある。しかし、自然の摂理を覆す超現象は起こらない。過去を遡り事例を探し、そして、事象を精査すれば、必ずさもありなんという理由がある。人間はそれを見付けられる。春が、理解できない事象や物に対して、春が反応を示さないでいると、必ず「バカにしている」「偉そう」と言う者がいる。心外である。春に寄ってくるのは、小利に目が眩んだ俊之のような、姑息な連中ばかりである。春はそう思っていた。しかし睦は言った。
「そうか、じゃあ嘘は吐くな」
春は睦を見つめた。
夕方になり、睦と南戸は席を立った。
「アツシ、また家に来なよ。勉強教えてあげる」
「おう」
何故だろう。睦は天真爛漫である。しかし、春は睦に、睦が敦子に見せていたような、緊張感が欲しい。緩んでいる睦は、春に気を許しかけているとも見えるが、睦の春への印象は、南戸とさして変わらないのではないだろうか。そう思うと、春は無性に悔しくなって、睦にキスのひとつでもくれてやり、動揺させたくなった。
南戸は声高に「僕も」と叫んだ。春は、舌打ちしたくなるのを堪えた。睦は、学期末試験で優秀な成績を修めた。両親に汚名返上して、鼻高々になりながら、夏休みを迎えた。夏の盛りはクライマックスであり、秋の緩やかな涼しさは終末である。振り返ると疾風のように過ぎていった思いを、睦は反芻することになる。
夏休みに入って、まず、睦と南戸と春の三人で、敦子の家に遊びに行った。典子が敦子の母親と食事しに行くので、その間春の相手をして欲しいという典子の頼みだ。敦子の母親を思い出して睦は渋ったが、今度こそ「初めての女の子の部屋」に行けるという好奇心に抗えず、承諾した。それを知った南戸は、「美少女の部屋の 写真を撮りたい」と同行を望み、典子は「女の子を連れて行く事が、敦子の母親の条件だ」と言うので、渋々春を誘った。春はなぜか二つ返事だった。
敦子は南戸に写真を撮られる事に戸惑っていた。常に輪をかけてぎこちなく寡黙だった。春は、乗り気だったにも関わらず、敦子に一切話しかけない。ただじっとりとした視線を、敦子にぶつけるばかり。
この時の訪問に、唯一満足したらしいのは、南戸だけである。敦子が何も言わないのを良いことに、夢中でシャッターを切り、「うん、どうだろうもう少し 」とブツブツ言いながら、勝手にカーテンを開けたり閉めたりして、光源を調節し、敦子の学習机から白紙のノートを取り出して、敦子に持たせたりした。
さしずめ、南戸はカメラマン、敦子はモデル、そして、物言わずそれを睨み続ける敦子は、現場監督然としている。睦はおどおどするばかりの、新米カメラマンというところだった。
敦子の部屋は、確かに睦の「女の子らしい」印象に近かった。ピンク基調で、ベッドの棧には、テディベアが置いてある。しかし、やはり当初期待していたほどの昂りはなく、敦子との進展もなかった。それなのに、なぜ記憶に残っているかと言うと、期待とのギャップが大きかったからかも知れない。敦子の部屋の空気が淀んでいたのは、同行させた連中が、陰気・陰湿だからかと思っていた。が、よく思い出すと、敦子の家も、以前訪れたときの雰囲気と違っていた。どことなく汚なかった気がする。トイレの黄ばみや、部屋の隅の埃。家全体に、カビ臭さが漂っていた。睦は、大雑把を自認している。部屋の中もぐちゃぐちゃなのに、なぜ他人の部屋の汚れが視界に残っているのか、不思議だった。
後日、睦は典子に呼び出された。
駅前の洒脱な喫茶店に入った。飲み会といい、お茶といい、大人は楽しそうだ。
「この間はありがとう。助かったわ」
好きなものを頼んでいいと言うので、睦はその通りにした。ついで、敦子の家に行くのを楽しみにしていたが、思ったほど楽しくなかったと話した。
「そう」
典子は、恬淡に答えた。
「でも、良い感じだと思うんだよ。どうしたら良い?」
「どうしたら、とは?」
「だから、西と上手くいくには」
「さあ」
「なんだよ。まさか先生恋愛経験無いの?愛想無いし、モテなさそうだもんな」
睦の憎まれ口に、典子はキッと睦を睨み付けた。
「‥‥ごめんなさい」
怖いから、謝る。
「じゃあ、ひとつ心構えを教えてあげましょうか。教えてあげる。多くの男が、なぜか何世代にも渡って勘違いしている事よ。大体どんな分野でも、正しい知見と言うのは同じ条件下で何度も実験を繰り返し、初めて得られるもの。それすらも間違いの可能性は、ゼロにならないの。恋愛に置いて、何人もと付き合うことがステータスとか経験であるというのは、大いなる勘違いよ。十年も経てば人の考え方はもちろん、周りの環境も変わるのに、いつ普遍的なルールを弁えられると言うの」
睦は固まった。
「ええと、つまり‥‥」
「アンタの色事なんて知ったこっちゃないわ」
なるほど。
「あの、生意気言ってごめんなさい」
典子は手をヒラヒラと振った。いつでも仏頂面なので、怒っているかいないか、分からない。
「せ、先生はさ‥‥格好いい人と付き合いたいとか愛されたいとか思わないの」
睦は言った。
「さあ」
「普通に、俺ぐらいの歳の男は、皆思ってるよ。可愛い彼女が欲しいって」
「恋愛感情は普通ではないわ。異常な事よ」
「なんだよ。動物どころか生物も、おしべとめしべがあるだろ。何が異常なのさ」
「普通も異常もすべてをひっくるめた自然よ。普通即ち自然ではないわ」
もうダメだ。疲れてきた。睦は無言でジュースを呑んだ。
「別にアンタが変だとは思ってる訳ではないわ。敦子は可愛いし、恋愛感情を抱くことが間違いだとも思っていない。でも敦子を彼女にするのは難しいわよ。度量も根気も並外れて必要だから」
睦はドキッとした。典子が何を言いたいか、今回はわかる気がしたのだ。西は単に、シャイだとか人見知りであるとか、そういうことではない。
「先生、前に隠し事するの上手くなりたければ、恋愛しろって言ったよね」
「言ったかしら、そうね。よく覚えてるわね」
「‥‥じゃあ、もっと建設的なアドバイスをくれても良いんじゃない」
「素直なんだか、ひねくれてるんだか。そう言われてもね」
典子はそう言いながら、モスグリーンの皮バッグから、板状のものを取り出した。
「貸してあげる」
「これ、何」
DVDである。そして古い。ダレガ タメニ カネハ ナル?
「敦子に貸していたものよ。アンタも見てみたら」
「これ見たら、何か分かるの。恋愛もの?」
苦手だ。
「恋愛ものとは言い切れないけど、主演とヒロインの関係には、いろいろ深いものがあるわよ」
「難しいの苦手だな。愛と希望溢れるネズミのアニメじゃダメなの」
「アレは曲や演出が素晴らしいアニメーションの最高峰だけど、恋愛を学ぶとなると、アレを基盤に考えたら確実におかしな方向に行くわよ」
説得力があった。
「うん‥‥じゃあ一応見てみる」
「ちょっと、何帰ろうとしてるの」
「え?ごちそうさまでした‥‥」
「私が何の用事もなく、ただアンタを呼び出して、涼んでいきましょう、と飲み物を奢ると思うの?」
「違うの?」
「違うわ。本題よ。アンタの予定が空いている日を、このスケジュール帳に書きなさい」
嫌な予感がする。
「補講か何か?」
「そんなようなものよ」
「なんでだよ。学期末試験の成績は良かっただろ!」
ハーと典子は溜め息を吐いた。
「良いから書いて。お願い」
典子は下手に出ているつもりなのか、脅しているのか分からない表情で言った。なんだか怖かった。
「わ、わかった」
まさか取って食われる事はないだろうと、睦は震えながら、典子の言う通りにした。
睦は、そのDVDを持って、南戸を誘い春の家に行った。道すがらネットで調べると、主演俳優はB級西部劇の出演が多いらしい。しかし、睦はそもそも西部劇を観たことがない。男女二人が抱き合うパッケージが、なんだか古くさくて面映ゆくて、あと、つまらなさそうだった。Web百科事典の解説も、よく分からない。南戸か春のどちらか、観たことがあれば、内容を聞くつもりだ。二人が観たことなくても、一人で観るより楽しいだろうし、万一寝てしまっても、どちらかにストーリーを聞けば良い。完璧な作戦だ。
残念な事に、春はその映画を観たことがない、と言った。
「スペイン内戦の映画でしょう。でも、よく知らない」
「なんだ、知らないのか」
「なんでアンタが得意気なんだよ」
春は、DVDを受け取り、
「うち、テレビないから」
と言って、パソコンにセットしてくれた。
南戸が、映画館の雰囲気を出そうと、ポップコーンやジュースを持ってきた。しかし、部屋を暗くして音量をあげて欲しいと頼むと、春は、
「これ以上大きくすると、お隣から苦情来るかも知れないから」
と、許してくれなかった。睦は、なんとか寝ずに最後まで観た。しかし、よく分からないし、つまらなかった。
「なあ、南戸。面白かった?」
南戸は首を傾げた。
「春は?」
「え、うん。面白かったけど」
「本当かよ。どこが」
「どこが、と言われてもねえ。まあ、ゲリラ隊が運命に毅然と立ち向かう姿がカッコよかった、とでも言っておこうか」
「月並みだな」
「さっきから喧嘩売ってるの?」
「そもそも、マリアは複数の男にボコボコにされたって言ってるのに、なんでピンピンしてるんだ」
「別に殴ったり蹴られたりしたわけじゃないよ」
春が言って、南戸が何か睦に耳打ちした。睦の顔がみるみる蒼白になる。
「これ、フィクション?日本でもそういう問題あったよな」
「これはフィクションだけど、古今東西でそういう問題はある。一昔前は、被害者の女の方が世間体を気にして、告発することもおちおち出来ずにいた」
「なんでそんなヒドイ事した犯人を捕まえようとしないんだ」
「知らないよ。男の方が社会的地位があるとかじゃないの。罪に問われない罪なんていくらでもある」
「それと、ロバートとマリアは両思いなんだろ?」
「そうだね」
「なんでマリアが誘ってるのに、ロバートは、一回拒んだんだ?両思いならそれこそ問題ないだろ」
「なんで私に聞くんだよ。死に臨む人間が人を愛するのは無責任とでも思ったんじゃないの」
春は、自分の口から発せられたことばに動じたようで、不機嫌になった。
「で、でも結局やってるじゃん」
「‥‥そうだね」
「春は、ロバートが無責任な奴だと思うってこと?」
春は、パッケージを見つめて、少しの間考えて言った。
「力不足を、無責任だと責める気にはならない」
「ロバートは強かっただろ」
「戦争じゃ、個人の強さは、勝利とあんまり関係ないよ」
「ややこしいなあ。それじゃあマリアの気持ちはどうなるんだよ。一緒に逃げれば良かったじゃないか。それなら大団円なのに」
「それが出来ない状況だったんだよ。アンタ、何みてたんだよ」
「マリアも、なんであんな生きるか死ぬかって状況で、ロバートとやったんだろうな。それとも、どうせ死ぬか生きるかなら、いっそ、やっとけみたいな感じだったのかな」
「名作も、そんな風に言われたら形無しだよ。女は、男ほどセックス基準に恋愛を考えてないよ」
春が言うと、睦と南戸は顔を赤くした。やるのやらないのと、そんなところばかり見ていたのに、いざ言ってやると、こちらが「恥知らず」みたいな視線を向けるのは、止めて欲しい。
「じゃ、じゃあ女の基準はなんなんだよ‥‥」
「人それぞれだと思うけど‥‥。たぶん、女が恋愛するのは寂しいから。男より体が小さくて弱いし、立場も弱い。心細い。男から守ってもらえない女は不利だ。だから強い男を誘惑して、守ってもらおうとする」
「女は男より弱い?そうかあ?」
典子に、ヨシハルに、母親。クラスの女子達。睦を取り巻く女性の大半は、強く、そして怖い。
「俺はヨシハルが弱いなんて思わないよ。むしろ強い。守ってあげようって言うより、お前の攻撃から身を守らなくちゃ気がする。それは、女としてダメなんじゃないか」
睦は、話をするにつれ、感情が昂っていた。だが、春の顔色が変わってすぐ、自分の失言に気付いたが、弁解するより先に、頬を打たれた。掌は唇に近いところだったため、薄皮が破れて血が出た。春は、言葉より先に手を出してしまった事に、動揺していた。
「失礼な、ことを、言わないで」
睦は、春に怒りを感じていなかったので、彼が謝ればその場は事なきを得た筈である。しかし、そうはならなかった。春の掌が、睦の頬に触れたとき、何か違和感が睦の脳内に一緒に流れ込み、そして、それはごく最近感じた何かに似ていた。
それをどこで感じたか、思い出すことに夢中になり、睦も春も、見つめ合ったまま、無言になった。いよいよ春が暴れだす引き金になったのは、睦の一言である。
「あれ‥‥ひょっとして、お前俺の事好きなの?」
春に飛びかかる俊之を抑えたときに、何か熱いどろどろした感覚が両の腕を通じて流れ込み、その窒息死しそうな圧迫感に、睦は気を失った。今頬を打たれた感覚と似ていた。その瞬間、睦は激しい耳鳴りがして顔をしかめた。再び、乾いた音が響いた気がした。何か陶器のようなものが割れる音である。睦は、春が立ち上がって睦に迫って来るのを見た。いや、春ではなく般若である。足元には、割れた春のお面が転がっていた。
春の手が、睦の手に伸びて押し倒された。春の動きは緩慢だったような気がする。その表情や手の動きの一つ一つを見て、睦は覚えているのだから。それでも、なぜか春の怒りから逃げる事ができなかった。
仲裁してくれたのは、南戸である。春は、無言で睦の首を絞め、殴打を加えた。春と睦の間に、全身を割り込ませて、春を制した。南戸が何かを喚いた。止めてくれとかそういう意味だった、
次いで、春が怒鳴った。出てけとか、帰れ、とか。隣から、壁を叩く音がした。
南戸と睦は、転がるようにして春の家を飛び出した。
睦は、げえげえと噎せた。喉仏が食道に押し込まれた感じがする。
「大丈夫?」
「‥‥あ、うん」
呼吸を整えてから返事をする。南戸は、睦の背中をさすった。
「酷いよね。何もあそこまで」
南戸のことばを制した。
「いや‥‥良いよ。ありがとう。春には後で」
後で謝っておくと言うつもりだが、語尾が小さくなった。殴られた。被害者は俺だ、と心の中で呟いてみる。しかし、変だ。頬の痛みと、春への怒りが繋がらない。春は、めんどくさい奴だと思う。本当に頭が良いのなら、何に傷付き、何に怒っているのか、ハッキリ口に出せば良いのに。肝心な事を何も言わない。だから睦にも、何が悪いか、本当は分からない。なぜか罪悪感だけは確かにあった。
睦が再び典子に呼び出されたのは、それから数日後の事だ。
「課外授業をします。浅草に来なさい」
と言われ、昼一番に、行ってみればそこには典子一人である。南戸や春はおろか、他に生徒は一人もいない。嫌な予感は続いていたが、雷門で待ち合わせをして、出店や観光客で賑わっているのを見ると、睦も遊びたくてウズウズした。にも拘らず、睦が来たのを見るや否や、典子は再び改札を通って行ってしまう。
後ろ髪を引かれる思いで、典子に付いていった。
「はい」
Tエクスプレスの切符を渡され、睦は、ようやく目的地の方向だけは、理解した。直前まで行き先を伏せることに意味があるのか、睦を翻弄して遊んでいるだけではないかと思うと腹が立ったが、典子は電車に乗ると、さっさと座り、睦に美味しそうな駅弁とお茶をくれるので、不満の腰を折られてしまった。
「一時間くらいで着くからね」
「どこに?」
「降りる駅」
まただ。答えになっていない答え。典子に不信感を抱きながら、膝に置いた弁当の誘惑に勝てず、包みを開いた。梅とゴマのかかった飯、昆布巻き、玉子焼き、サワラの照り焼き、エビフライ。酢漬けと焼き物が多いが、駅弁はおいしい。残らず平らげて、お茶をぐいと呑んだ。あっという間に平らげて、睡魔に体を委ねていると、あっという間に「降りる駅」に着いた。典子に肩を揺すられて、浅い眠りから覚めた。
「ねえ、どこ行くの?」
電車から降りて、聞く。
「私の先輩に会いに行くの」
「先輩って」
「アンタを、ちょっと検査してもらうよう頼んでおいたの。大学で教鞭を取っているんだけど、丁度いい機械があるから。アンタにとっても良い社会勉強じゃない」
しかし睦は青ざめた。走馬灯のように記憶が甦る。春の言葉だ。―私が思うに、アツシは学者垂涎の被検体―
被検体。
―保護と言う大義名分の、合法的拉致―
拉致。
「お、俺帰る」
「何行ってるの。ここまで来て。別に検査といっても痛いことはないし、大丈夫よ」
「それ、痛みを感じる間もないとか、そういう意味じゃないの」
「疑り深いわねえ。大丈夫ったら大丈夫よ。信用しなさい。遅くならないうちに帰るから」
典子に引きずられるようにして向かった。駅から、さらにバスに乗ること数十分。典子が何を企んでいるか、睦には想像つかない。ともかく危険を感じたらすぐに逃げようと、荷物のリュックをしっかと抱きながらバスに揺られた。東京から一時間と少ししか経っていないのに、車窓から見える景色はどんどん牧歌的になっていく。睦はそれに静かな感銘を覚えた。
大学は総合病院と中学校を足して二で割ったような作りだった。病院のようにたくさんの棟に別れているが、内部は教室がたくさん並んでいて、睦の通う学校と同じ。キャンバス内は初めて訪れる睦にとって広すぎた。校内にコンビニやオープンテラスのレストラン、東家の下に西洋風のベンチが置かれカップルが談笑していた。休日なので人は少なかったが、睦はあちらこちらに目移りして、何度か典子を見失いそうになった。
典子は校舎のひとつに入り迷いなく進んでいく。「試験室2」というプレートが提げられた部屋の前で典子は止まった。睦は「試験」ということばに反応し、緊張した。典子がノックする直前に、
「やあ、思ったより早かったね」と、睦の後ろから、声がかけられた。典子の陰で部屋の様子を伺おうとしていた睦は肩を竦めた。
「ああ、お久しぶりです。長谷川先輩」
「典ちゃん、久しぶりだね。その子がメールで言ってた子かな」
廊下を小走りでやってきたのは、背がひょろ長く無精髭を生やした男だった。頬骨が出てえらも張っている。そして鷲鼻。輪郭はごつごつした印象なのに、目がつぶらだ。不思議な顔だった。おまけに左目だけ白い。
「まあ入って」
「試験室2」は雑念としていた。
部屋の周辺を黒い天板の机が取り囲んでいて、よく分からない機器やガラス器具が置かれている。部屋の真向かいにはブラインドの付いたと窓があるが、その前にも机があるので、開閉には机に上半身を預けるかよじ登らなくてはならない。中央にはパソコンと給湯器が、同じ机に置かれている。
「インスタントでごめんね。まあ座って」
男はコーヒーを用意しながら言った。典子は促されるまま席に着いたが、睦は男のことばに従って良いものか逡巡した。それを見通しているかのように、男はニッと笑った。
「幸元睦君だね。典ちゃんから話を聞いているよ。僕は長谷川ジュンシ。仲良くしてね」と言った。
「さて、早速だけど、典ちゃんから君の妙な得意技を聞いていてね。君から出ている『波』をちょっと測らせて欲しいんだ」
「な、何する気ですか。俺は何もできません」
睦は否定した。ジュンシが目を丸くして、睦を、次いで典子を見た。典子は肩をすくめて見せた。
「なるほど」
そう言ってジュンシはなぜかガラス器具のいくつかを側の机から中央に移し、後ろを向いて睦に指示した。
「好きなように並べて」
ジュンシの意図が読めないまま、睦は眼前の器具を見た。三角とナス型のフラスコが一つずつ、シリンダー、ビーカー、そして駒込ピペットである。
睦は適当にフラスコの位置を入れ換えたが、即座に
「もう少し考えて。それじゃ音で分かるよ」と言われた。ビックリして危うく器具を割るところだった。今度はゆっくり時間をかけ、結局ビーカーの中に三角フラスコを入れ、さらにピペットを突っ込んだ。シリンダーとナス型のフラスコは、元あった場所に戻した。
典子は椅子に座り、コーヒーをすすりながら、睦と男のやり取りを見ていた。
「もういいかい」
と聞かれて、
「あ、はい」と答える。
後ろを向いたままのジュンシが、突然舌打ちした。何度も。いや、舌打ちと微妙に違う。舌を上顎に当てて勢いよく弾いた時に出る、「コ」と「チョ」の間のような音だ。リズミカルに何度も音を出した後に、ジュンシは睦が設置したガラス器具の位置を正確に言い当てた。呆気に取られる睦に向かって、ジュンシは得意気に無精髭を撫でながら振り向いた。
「どうかな。なかなかだろう」
「どうやったの?」
睦が夢中で問いかけると
「これがエコーロケーションだよ。テレビで見たことないかな?」
睦は首を振った。
ジュンシは得意満面で再度睦に椅子を薦めた。
「ご覧の通り僕は白内障でね。しかも片眼だけ異様に進行が早い。この歳で難儀だろう。だから練習したんだ。さあ座りなよ。ジュースのが良かったかな」
睦がおそるおそる椅子を引くと、ジュンシはまたニッコリ微笑んだ。睦は、典子の知り合いというので、鉄面皮か仁王像のような強面を想像していたため、ジュンシがあまりにフランクな人柄であることに、虚を突かれた。
「君は音の波動について、どこまで分かる?」
そう聞かれても、と睦は首を傾げた。波動…波。海。心電図。ラムダとか、物理の教科書に出てくる意味不明の記号群。色や形が似ていても繋げる事のできないバラバラのピースのようなことばばかりが頭に浮かんできた。何か言わなければ、何も知らないと思われると、睦は焦ったが、結局何もことばは出てこなかった。
「これを見てくれ」
ジュンシは戸惑う睦を見て、それを回答だと勝手に判断した。一つ頷くと、ジュンシは部屋の隅に置いていた何かガラクタのような物を、机の上に持ってきた。
「ウェーブマシンだよ」
と言うが、それは、試験室の機械に比べると本当に「ガラクタ」で、セロハンテープの上に数十本のストローを置いただけのもの。テープの両端に貼り付けられた、固定用の段ボールが、全体のチープな感じに拍車をかけていた。
「ウェーブ・・・マシン?」
「あ、今バカにしたね」
ジュンシはおどけて言った。睦は反射的に首を振ったが、今どきの子どもの玩具ほどのクオリティもないゴミのような物に、「マシン」という呼称がどうしても馴染まず、内心で首を傾げるばかりだった。
「そう侮るなかれ。これは、干渉、回折、そして反射。音波の性質、つまり君自身が良く分かっていないエコーロケーションの仕組みを最も簡単に説明してくれるものだよ」
ジュンシは芝居がかった調子で言った。
「僕の右手が、君の『感じる』物だとする(そう言ってジュンシは、睦から見て左端のテープの先を摘まんだ)。そして、君は人に聞こえない音を出す(そう言ってジュンシは、今度は右端のストローを揺らして、ウェーブを作った)。」
ウェーブは左端のストローでタッチターン。また、右側のストローへと帰って行った。睦に水泳を想起させた。
「君が出した音は、僕の右手という対象物に当たって跳ね返ってくる。君は、音が帰って来るまでの時間と位相のズレを聞いて、頭の中に像を結んでいるんだ」
「で、でも友だちが、俺のはエコーロケーションじゃないって」
典子が瞬時に、瞳に鋭い光を湛えたことに睦は気付かなかった。ジュンシは顎を触りながら
「そうだね。一応確認するけど、君はエコーロケーションを練習したわけではない。先天的に物の位置が分かる。そういうことだね?」
先天的かどうか分からないが、とりあえず首肯した。
「はい」
「練習によりエコーロケーションを獲得する人は数えきれないほどいる。視力に問題あってもなくても、だ。しかし、僕は生まれつきエコーロケーションが使える人間に、今まで会ったことがない。しかも君は音を出さないらしいね」
「はい‥‥」
「僕はこの眼で見ていないから、どうも信じられない。ちょっとやって見てくれないかな」
「え」
睦は典子を見たが、彼女は何も言わなかった。自分で判断しろ、ということだろうか。ジュンシは何か企み事をしているように見えない。彼を信じて、睦は特殊器官を使うことにした。ジュンシに言われるまま、睦は面を机の上に伏した。軽く口を開けて感じてみる。視界がない分、感じる部屋の様子が睦の脳内に克明に記されていくような気がした。ジュンシは音を殺して部屋の中を歩き回り、睦に、自分がどこにいるかを当てさせた。それは睦にとって造作ない事だ。傍らの典子は相変わらず無言でコーヒーをすすっている。
「すばらしい」
最後に睦の背後に立ったジュンシは、睦の両肩に手を起きながら言った。
「凄いね」
面をあげた睦の前には、いつの間にか通信機のようなアンテナが伸びた機械が置かれていた。
「これはキュビレーションメーターと言って、超音波を測る機械。君にとって嬉しいことか分からないけど、君はやはりエコーロケーションを使っている」
「どういうことですか?」
「端的に言うと、君は人に聞こえない音を出しているんだよ」
「は?どうやって…」
「ははは。それは僕が聞きたいね」
睦は呆然として言葉を失った。傍らの典子がやっと口を開いた。
「何ヘルツですか?」
「バラツキはあるけど、30kHzから40kHz‥‥教室ぐらいの広さなら何が置いてあるか全て分かるだろうね。睦君。可聴音って分かるかい?」
驚きがまだ体から抜けていなかった。睦は無言のまま首を振った。
「音の性質はさっきのビーカーの波紋みたいに、波の大きさと波の間隔で決まる。大きさにはデシベル、間隔にはヘルツという単位がある。人間が認識できる音波の間隔を可聴音というんだ。大体20Hzから20kHzらしい。波の間隔が広すぎたり狭すぎたりする音を、人間は聞くことができない」
「はあ」
睦は間の抜けた返事をした。
「ドップラー効果というのを聞いた事があるかい?」
「はい」
物理の時間に習った。分かりよいので覚えている。救急車のサイレンが、遠ざかるほど低く聞こえるあの現象。ジュンシはまた、おかしな機械モドキを机の下から引っ張り出してきて、机の上に広げた。ストローとセロハンテープだけの「ウェーブマシン」よりは、モーターらしきものが付いていたので機械らしくなっていたが、それでもまだ手作り感に溢れていた。アクリル板に水を張り、その上には棒に突き刺さった飴のような小さなボールとLEDライトが吊るされていた。ジュンシはボールで水面を叩いて波を作り、LEDライトでその波の凹凸を鮮明に浮かび上がらせた。ボールを一定の方向に動かすと、水波はボールから遠ざかるほどに波と波との間隔が広くなっていくのが、よく分かった。
「音源がこのボールだと想像して。君があるひとつ所からその音を聞いているとすると」
「だんだん低くなっていく。音波の間隔が広いほど、低い音になるってこと?」
「その通り」
ジュンシはにやっと笑った。何が面白いか分からなかったが、思わず睦も笑い返した。
「君は、この幅広の波じゃなくてその逆。もっとずっと幅の詰まった高い音の方。超音波と呼ばれる範囲の音を出している」
睦は殆ど空気だけの掠れた声を出した。
「どうした?」
「俺、高い声なんて出ないよ」
今、自分の想像できる精一杯の高い音を出そうとしたのがそれだった。
「ははは。まあ声を出している自覚も無いんだから、声帯から出ている訳じゃないのかもね。」
「じゃあ、どこから?」
「それは、僕にも分からない。それこそ詳しく君自身の身体を詳しく調べてみないと」
ジュンシが言うと、睦は怯えたように身を竦めた。ジュンシは慌てて弁解した。
「誤解しないでほしい。僕は別に、君に危害を加えようとは思わないよ。ただ、典ちゃんの話だと、君は自分のやっている事がよく分からなくて、とても不安がっている、という事だったけど…少しはスッキリしたかな」
「それで、俺にいろいろ教えてくれたんですか」
ジュンシは今日知り合ったばかりだが、典子がそんな風に睦に気を遣った事が意外で、睦は思わず典子の顔を見た。典子はその視線に気づいたが、不愉快そうに顔を逸らした。
ジュンシは笑って
「それだけでも無いよ。僕も典ちゃんの話を聞くうちに興味が湧いてきたからね。連れてきてもらった。あくまで僕の私見だが、君には確かに人並みじゃない能力がある。かと言って、それをPSIのような、本当に「よく分からない」という分野に入るものでもない気がする。特殊だが決して前代未聞ではない。便利だが強力でもない。とすると、何より君が恐れなくちゃいけないのは、君自身よりも君の能力を知りたがる他人の好奇心だ。君は誰より先に、その能力を客観的に把握して自分の支配下に置く必要がある。どう?」
「どう?どうって…」
「ふふふ。協力するよ。ここは調査や勉強に便利な場所だから」
「協力…」
睦は、仏頂面の典子と朗らかなジュンシを交互に見つめて考えた。睦より何年も先を生きている、頭の発達した人たち。この二人が睦の味方になって、この先あらぬ疑いやトラブルを避ける知恵を教えてくれるのなら、これほど心強い事はない。睦が返事をしようとすると、ジュンシは
「その代わり」
と条件を付けた。
「誰にも言わないでね」
「え、どうしてですか?」
睦は、ジュンシの諧謔的な態度に不安を煽られた。ジュンシは悪人には見えない。しかし、万一睦を利用したり解剖しようとしているのだとしたら…
「うふふ、分かりやすいね。君は」
睦の警戒は、しっかり表情に現れていたらしい。
「深い理由はないよ。単純によく分からないからだ。前例がないと暫時的な対処にも困るものだ。僕は超音波が出せる人間というものを今初めて知った。君はそれだけで僕を信用したかも知れない。ここにある訳の分からない機械たちに、君は知識の「権威」を感じただろう。でもね、実際は超音波と超能力の区別が付いたところで、仕方ない。君にとって大事なのは、君の声帯がどうなっているのか、君の体に果たして影響はないのか、これから君は『それ』をどうするべきなのか、と、こういう事だろう。症例が無いなら疫学研究があったはずもない。検体が君ひとりに限られるのなら、調査は非破壊的な手法に限られる。時間やお金の制約もある。それでも調べられるのは君一人だけ。これがどういう事か分かる?」
睦は、首も振った。
「ほとんど何も分からないと覚悟した方が良い。そして、正解が分からない事には、沈黙を守るのが何より最善だって事さ。」
「じゃあ、どうしてわざわざ生玉先生や長谷川さんが調べたり、俺が勉強しなきゃいけないの?」
「君は、知りたくないのかい?」
「分からない。よく分かんないより知っていた方が良いとは思うけど。…あのさ、できれば、お願いがあるんだけど」
「ん?何かな」
「調べなくていいから、超音波なんて出せないようにできない?」
ジュンシは眼を丸くした。
「意外だな。僕はてっきり、親・友人には話して良いか聞かれるんだと思ったよ。君は眼に見えない暗視ゴーグルを付けているようなものだ。便利じゃないか。自分の知り得た事を、人に話して自慢したいとは思わない?」
「そんなに便利じゃないよ。むしろ、友だちを無くしたり、変な奴には眼を付けられるし、最近良いことないな‥‥。暗視ゴーグルなんて、どこに行っても電気があるから、要らないし」
ジュンシは苦笑いした。
「睦君は意外とペシミストだね」
「ペシミストってなに?」
「いや、残念ながら無理だ。意地悪で言ってるんじゃなくて、さっきも言ったように分からない事ばかりだ。分かった事があったとしても、きっとそれは君の体質そのものを変える事には繋がらない。僕には、生きた人間の声帯から、可聴音以上の音波は出ないようにするなんて、どうすれば良いか見当も付かない」
キャビテーションメーターは玩具の無線機のようだったが、四方は睦にとってよく分からない機械に取り囲まれていた。睦とジュンシが話している間も、何本もの管が、間断なく機械に何かの液体を送り込んでいて、恐ろしい半面、望めばジュンシは何でもできると言ってくれそうな気がしていた。
「なんだ。科学も意外と不便だね」
「ははは。無論さ。さて、せっかくここまで来てくれたんだから、ちょっと外に遊びに行こうか」
「ちょっと待って。俺を調べるって、一体どうするの?」
「そうだなあ。典ちゃんから相談を受けて、今日初めて君に会った。実は僕もまだ信じきれずにいる。君がその能力を能力と思わず、障害だと思うなら、その意思も尊重しなきゃならない。しかし、君自身の気が変わるって事もある。留保だ。僕にも君にも、考えをまとめる時間が必要だ」
「はい‥‥うん」
睦はジュンシを良い奴だと思った。なぜか。身ぶり手振りを交えた話し方、笑顔、ジャガイモに眼と鼻を付けたような素朴な顔。安心できた。
「よし、じゃあ僕らは友だちだな」
何が「よし、じゃあ‥‥」なのか分からないが、睦は頷いた。
ジュンシは白衣を脱いで、椅子の背にぞんざいにひっ掛けた。樟脳のような匂いがふわりと睦の鼻をくすぐった。
それからジュンシは、睦と典子を、大学からそう遠くない宇宙センターに連れていってくれた。睦は、行きしなの緊張が解れて、思うまま夏休みの一日を楽しむ事ができた。NASAの管制室を模した部屋で宇宙飛行士に命令を出すフリをしたり、そこかしこで写真を撮った。ジュンシとは、昔からの知己のように話をした。睦と話しながらでも、何にもぶつからず歩くジュンシを見て、
「長谷川さんは目が悪いんじゃないの?」と聞いた。
「うーん、見えづらいけど全くという訳ではない」
「俺じゃなくて長谷川さんに超音波が出せたら本当に便利なのにな」
「ああ、さっきは君の気持ちもよく知らずに勝手なことを言って、すまなかったね」
「え?別に何とも思ってないよ。でもさ、長谷川さんに言われて、ちょっと考えたんだ。俺のは名前のない病気なのかも知れないって。不便とか便利とか関係なく、『変な体質』ってやっぱり気持ち悪い」
「ふむ、なるほど。一理あるね。しかし、それは逆も然りかも知れないよ」
「どういうこと?」
「治らないなら、病気でもなんでも『体質』と捉え直して割りきっちゃうって事さ」
そう言うとジュンシはおもむろにサコッシュバッグからターコイズ色のカードホルダーを取り出した。
「睦君の今の話で、白内障と診断された当時の事を思い出したよ」
「辛かった?」
「そうだね。でも辛いだけでもなかった。辛いと思えば思うほど、胸の内から負けん気が溢れだして、その煩悶でいつも疲れていた。起きている時間はずっと白内障の事と、治療について検討していた。でもよく考えると、死に直結する病じゃないし、病気の為に生きているみたいでバカらしくなった」
「それでどうしたの?」
「くよくよ考えるのを止めただけだよ。まだまだ勉強したい事があるからね。目が見えないといろいろ困るから、エコーロケーションの練習をした。金と時間の余裕ができたら、手術を受けるよ」
「ふうん。それは?」
「これは、落ち込まないおまじないみたいなもの」
ジュンシはカードホルダーを開いて見せた。中には名刺ではなく、同じ構図で色合いが違う風景画が二枚、見開きに収まっていた。左側には青基調、右側は全体に黄色がかっていた。
「それは?」
「ある白内障の画家が描いた風景画だ。どちらも同じ場所を描いたものだけど、右側のが、症状は進行している。白内障の事で気が病みそうになったら、僕はこの絵を眺めて心を落ち着かせていた」
「ふうん。まだ大丈夫って?」
「どちらかと言うとその逆かな。世の中がこんな風に暖かい色合いに見えるなら、進行もそんなに悪くないって思い込んだ」
「それ苦しくない?無理矢理前向きになろうとしている感じ」
「そうでもない。実際に僕はこの絵を知ったとき、右側のが好きだと思った。世の中どの方面から見ても悪い事なんて、なかなかないよ。白内障にならなければエコーロケーションだって練習しなかったろうし」
「そういうもんかなあ」
典子は、二人の間に首を突っ込む事なく、静かに後ろから付いてきた。退屈しているのか、怒っているのか、たまに不安を感じて振り返って様子を伺ったが、典子はパネルやパンフレットをしげしげ眺めていて、むしろ彼女なりに楽しんでいるような気がした。
「ねえ。長谷川さんて、生玉先生の彼氏なの?」
「なんだい、急に。そう見える」
ジュンシはおどけて見せた。頬骨が盛り上がったり下がったりして、笑みを調節しようとしているジュンシ。
「いや、別に。なんとなく‥‥」
睦が首を振ると、ジュンシはガックリと肩を落とした。
「なんだ、期待させるなよ。そりゃ、僕だって典ちゃんに興味がないわけじゃないけど、典ちゃんは難しいんだ。イケるかも!と思って押すと、スッと引かれちゃう。典ちゃんは学校で、どんな先生だい?」
「うん、怖いよ。いつも何かに怒っているみたい。なんで先生になったかわからないぐらい、生徒が嫌いみたいだ」
「別に典ちゃんは、君ら生徒の事が嫌いじゃないと思うよ。むしろ優しくて、尚且つ超の付く心配症なんだ」
「嘘だ」
ジュンシの、典子に対する評価が睦の意表を突いた。睦は眼を丸くした。
「本当だよ。君の事が嫌いなら放っておくさ。わざわざ貴重な夏休みを潰して僕のところに連れてきたりしない。むしろ、教師という権威的な立場から、君たちに関わらなきゃいけないのが嫌なんだと思う。多感な時期だのに、生半可な言動が君たちにどう影響するか分からない、というのが怖いんだ」
つまり、なんだ。典子が生徒らを怖がっている?睦はますます驚いた。しかし同窓生であり、ジュンシのような知的(少なくとも睦にはそう見えた)な人物が、典子に対して見当違いな見方をするとも思えなかった。睦はまじまじとジュンシを見た。
「大学での生玉先生はどんなだったの?怖くなかった?」
「口数は少ないけど、怖くないよ。人当たりも悪くない。今とそう変わらない。けどやっぱり‥‥」
そう言ってジュンシは口ごもった。
「やっぱり?」
睦が促すと、
「何て言うかな。責任感が強すぎる‥‥というか。僕なんかいい加減な事をしても、まあいっか、で自分が納得してしまう。それを相手が気にしていても、『やっちゃったものは仕方ないしな』ってね。ところが典ちゃんは違う。例えば北極の氷が溶けてシロクマが溺れましたっていうニュースを見ても、責任を感じて悩まずにはいられないんだな」
「どういうこと?北極の氷と先生と、なんの関係があるの?」
「地球温暖化の責任が誰にあるのか、ということさ。呼吸だけじゃない。物と情報の便利さを享受していながら、その責任は誰か個人に問えるものじゃない。そしてそれを感じずにはいられるのは、『誰にも責任がないから』ではない。単に原因と結果のプロセスが複雑だからだ。たとえば僕が睦を殴ったとする。睦は怪我をする。加害者と被害者の関係は明らかだ」
「先生は、北極でシロクマが溺れることが、自分のせいだって思ってしまうってこと?!」
睦は典子を神経質だと思った。
「まあ‥‥そういうことだね。そんなに意外かな。ちょっと極端かも知れないけど、要はいい加減な事をするのが嫌なんだ。典ちゃんはそういう人だよ。大学では優秀なのに、人に物を教える事を極端に嫌っていたから」
「へえ。じゃあ、生玉先生はどうして先生になったんだろ?」
「それは‥‥分からないな。」
ジュンシのことばは尻すぼみだった。言いたいことを呑み込んだ。急ブレーキで歩道に乗り上げた感じ。睦が怪訝な顔をすると、ジュンシは取り繕うように言った。
「僕はね、昔、典ちゃんが『教師になる』って言ったとき、『優しいから向いている』って返事したんだ。進路に悩んでいたから、先輩として背中を押すつもりで‥‥それが重荷になっていたとしたら、嫌だなって思ったんだよ」
ジュンシは、口は災いの元だよ、と睦に耳打ちした。
典子が「そろそろ睦を連れて帰る」と言うので、睦はそれに従った。家族へのお土産に宇宙食を買った。
ジュンシは駅前まで見送りに来てくれた。別れ際に「ちょっと」と、ジュンシは典子に手招きした。何を話すのか気になったが、遠目から二人のやり取りを見ていた。ジュンシは典子に気があるようだし、典子もジュンシを憎からず思っているようだが、二人の別れ際の会話には色気が感じられなかった。真面目な顔で何やら言葉を交わしたあと、典子は「お待たせ」と睦の方にやってきた。
帰りの電車の中で、やはり典子は仏頂面だった。しかしジュンシとの他愛無い会話の中、睦は彼を通して典子に親しみを覚えていた。
「先生って、夏休みは何してるの?大人でも夏休みがあるって良いよな」と言った。
「生徒と同じじゃないわ。夏期講習や教師としての勉強会、二学期に向けての会議。部活の顧問やっていると、もっと仕事がある。大変よ」
「ふーん。先生は、先生になりたくてなったんじゃないの」
「そうね、いろんな事情があるわ」
「事情って?」
「事情は、事情」
睦はむくれた。なんでもかんでも秘密、秘密。
「先生はひねくれてるよな。生徒が職業希望の動機を聞いてるんだから、後学の為に教えてくれても良いじゃん」
「何よ、アンタは教師になりたいの」
「そうだなあ、考え中。前途ある若者を毅然と導く俺。かっこよくない?」
「やっぱり、アンタには向かないわ。止めときなさい」
「なんだよ。先生に言われたくないな。長谷川さんは違うって言ってたけど、先生は子ども嫌いだろ」
典子は溜息を吐いた。
「好きも嫌いもないわ。教師はね、在学中に問題が表面化しなければ、いくらでも生徒を歪めることができるし、なんの責任もなく、将来を左右する影響力を持つのよ。それが分からないうちは、教師なんか目指すべきじゃない」
「つまり…?」
「いい加減な事はするなってこと」
ジュンシが言った通りの事である。しかし、それは「責任感」なのだろうか。むしろ、子どもに対する「怯懦」とも言える。
「ふうん。だから、先生は生徒と仲良くしないのか」
「気安い存在でいるべきじゃないと思うわね」
「でも俺は、前ほど先生が怖くないよ。何言ってんのか分からん事もいっぱいあるけど、ときどきカッコいいって思うこともある。生徒とスゲー仲良しな先生もいるじゃん。そうしたらダメなの」
「ムリね」
「変だよ。自分でルールを作って、そのせいで怖がられたり非難されたりして、教師が楽しくなくなってるってことだよな。責任が大きくて大変だって知ってるのに、なんで先生は先生になったんだよ」
「ずいぶん口達者なこと。だからいろんな事情があるのよ。大なり小なり仕事には軛が付き物だわ」
睦も仕事にルールがあると言われれば納得できるが、わざわざ拡大解釈して枷を重くする必要があるのだろうか。
「分かんないな、先生。じゃあ西にだけ甘いのは、なんで?」
何気なく睦が問うと、典子が一瞬凍り付いたような気がした。
「別に甘くしているつもりはないわ」
典子の語調は重く、毅然としていた。何故か睦はふと春を思い出した。典子は春の「おばさん」だと言うことは、南戸から聞いていた。典子が春の父方の親戚か、母方の親戚かは分からない。しかし半分の確率で、典子は血を分けた姉妹を喪っている事になる。そう、睦の認識では半分の確率のはずが、なぜか睦は「典子が姉妹を喪っている」事を確信しつつあった。典子と春がいがみ合い、ジュンシがことばに詰まり、典子の敦子に対してのみ見せる情のようなもの。一つ一つ全く関わりのないこの事象、そこに纏わりつく不気味な不自然は、誰かの死が絡んでこそ生まれる歪みである。
睦に、身内が不幸に会う記憶はない。昨年の年末に、母方の祖父が肺癌で亡くなっていたが、そこには死を哀しむ感覚は伴わなかった。一昨年まで、祖父母の家には年に二度、盆と正月にだけ帰っていた。(この辺の感覚も、母にとっては帰省でも、睦には旅行に行っていた、の感覚である)
昨年は、祖母が祖父の介護で忙しくなったので、睦は母の田舎に行かず、母だけが月に二度、一泊二日で実家に帰り、祖母の手伝いをしていた。
訃報は祖母からの電話だった。母は落胆していたが、実は、そのとき祖父の訃報に少しだけ安心した。たった一年の事であれ、祖母から電話がある度に、母親は訃報を恐れて、神経を磨り減らしていたし、片道三時間の実家に向かうため、家を出る母親の後ろ姿には、えもいわれぬ翳りがあった。睦は母の出掛けるその日だけ、どうしても憎まれ口を叩けなかった。このままずっと、黙って母親を見送っていたら、母が祖父の死に引きずりこまれるような気がした。
祖父の葬式で、母と祖母はすすり泣いていたが、睦は泣かなかった。本当は、初めての葬式でどう振る舞えば良いか分からず、母達が泣くのだから、とりあえず「泣いとこう」とは思った。ただ、祖父を喪った事に対する哀しみというのは思いの外薄く、祖父の事をいくら思い出しても悲しくならなかった。口数は少なく、遊んでもらった記憶もない。たまに発する声が不快なほど大きくて、それも、「男の子なんだから、もっと食え」とか「男の子なんだから外で遊べ」とか、大体が説教だった。なんとかして涙をひりだそうと顔をしかめて頑張っていたら、父親や親戚が、睦の肩に手をそっと置いてきた。騙しているようで、心苦しかった。
「いや、意外と早く死んでくれて、良かったですよ」とは、口が裂けても言えない雰囲気。人生百年時代らしいが、二百年も生きた人はいまだいない。先達が恐れ、必死になって伸ばした寿命である。今より死が身近にあった時代では、それは何より恐ろしく受け入れがたいものだった、という事だろう。しかし、睦は考えた。早く死ねば、長く生きる事の不安も苦しみも、孤独すら知らずに済む。それは幸せな事ではないか、と。
「生きている事に感謝しろ」というのは、お仕着せの幸せである。
一方で、睦にとっての死は、掴み所のない気持ち悪いものである。荘厳でありながら滑稽。理不尽で、容赦なく、この世を黒く塗り潰していく。
「先生ってもしかして、ヨシハルに嫌われてるから、代わりに西と仲良くなろうとしてるの?」
典子の顔が強張った。琥珀の眼を細めて、睦を睨んだ。睨んで見せたのではなく、典子は目の前の睦に、あるだけの警戒と敵意の籠った視線を向けてしまったという感じ。睦はその顔をみて、「しまった」と思った。罵声を覚悟したが、意外な事に典子は、すぐに眼をそらして
「嫌味な言い方するわね」
と言っただけだった。睦は耳の奥でまた、陶器が割れるような音を聞いた。言ってはいけないことだったのだ。これまでの典子の怒りは、陽炎のように輪郭のないもので、それが睦の恐怖を助長していた。教師の典子は、睦の畏れの分だけ大きく見えたが、典子の行動原理に焦点があったその一瞬、睦に違和感を与えるほど彼女は小さく見えた。典子はふとシニカルに笑った。
「そうね。私は春に嫌われている。あの子は私があの子の為にと思って動いた事を、受け入れてしまった自分が許せないの。だから私は春を放っておいた。あの子が自分で自分を傷付けるような行動を取るたび、倫理か正義か情か、よく分からない感情から、止めるべきじゃないかと悩んだわ。春だけの事じゃない。アンタ達生徒の言動は、私の理解を越えているし、ずっと見ていると頭がおかしくなりそうよ。自分の中学生の頃はどうかと照らし合わせても、追想はうまくいかない。やっぱり止めれば良かったと思うから。けど、結局私が何を悩み何をしても、受け取り手のアンタ達は勝手に捉えて勝手に成長するからね。その成長がどれほど歪に見えても、私はもうそれが、今の自然だと受け入れる他ないわ」
睦を咎めるような口調。しかし、その内容は独白、懺悔、そして後悔に近い。目の前の勝ち気な大人が何を言うのか、そのことばに、睦は砂を噛むような気持ちの悪さを感じた。唾を飲み込んで、この得体の知れない何かを嚥下してしまおうとした。そこに、追い討ちをかけるかのようにメールが届いた。
典子と気まずくなったので、睦はバイブ音に導かれるままスマホを開いた。
敦子から初めてきたメールだった。
それは一文、「死にたい」という、穏やかじゃない内容に睦は動揺し、思わずそれを典子に見せた。
しかし、典子は落ち着いていた。スマホを開き、タップを一回。ため息を吐いて、無言のまま睦にスマホをしまうよう促した。典子はレザーの鞄からスマホを取り出した。どうやら、敦子は典子から返事が無いために睦にもメッセージを送ったらしい。
「先生、敦子大丈夫かな」
典子は無言だった。
「何もしなくて良いの?」
重ねて問うと、典子は
「後で電話するわ」
と、恬淡と答えた。悠長ではないだろうか。こうして話をしている間に、こうして電車に揺すられている間に、敦子は死んでしまうのではないだろうか。
「電話だけ?」
やはり責めるような語調になった。それが典子の気に障ったのは、表情から明らかだった。
「他にどうしろと?」
睦は口ごもった。しかし、葬式の深い紫の幕が睦の目の前にちらつく。それを見透かしたかのように典子は言った。
「よくある事なの。敦子はよくこういうメールをしてくるのよ」
「それで先生はどうするの」
「ただ話を聞いてるわ」
「それで西は落ち着くの?」
「一時はね」
「‥‥」
でもそれじゃ堂々巡りじゃないか、と言いたいが、また典子の勘に障るのは言わずもがなだった。けれど、ジュンシの言うよう、典子が本当に責任感の強い先生なら、もっと敦子にしてやれる事があるのではないだろうか。睦にはそれがもどかしくてならない。教師という権力があって、敦子の未来がほんの少しでも見えるなら、これに光明を与えられる筈なのに、それを渋っているように感じる。
困惑の次に訪れるのは結局疑い、そして、怒りである。
「でも、万一」
その先を典子は遮った。睦はやはり踏み込んではいけないところに来ていた。典子の逆鱗を逆撫でし続け、逃げようともせずどうなるか気軽に構えていた間抜けである。典子は腰を浮かして睦の胸倉を掴んだ。息が詰まる。
「万一ですって?万一敦子が自死を選んだら私のせいだと言いたいの?それともそうならない為に、私が何かするべきだと?大体、今敦子に甘いと文句を言ったのはアンタでしょう。返す手で私を責めるのね。全ての生徒に粉骨砕身尽くせとでも言うの?大人の悩みや苦しみには想像力が及ばず、社会のルールに半端な知識しか持たないアンタ達生徒は、大人を疑って気まぐれに逆らって‥‥それでも飽きたらず、まるで教師に私的な感情は一切許さず、ただひたすらアンタ達に尽くすことが当然だとでも言いたいようね」
「先生」
気が遠退いた。車両内に人は疎らで、典子の声も大きくないので、気付く者は居なかった。いつでも対象を鋭く捉え続けた典子の眼は、今睦を見ていない。典子を怒らせているのは、怒りそのものだった。彼女が正気を取り戻す前に、睦は死んでしまうと恐怖した。
「先生」
睦はがむしゃらに典子の手をほどこうとしたが、静脈の青い筋が走り淡く光る手に、爪を立てることが出来なかった。睦が爪を立てれば、皮膚が破れて血が出る。
「せん、せい」
意識にすがり付きながら、典子の手をぺしぺしと叩いた。離してくれ、頼むから。声なき嘆願が届いたのか、典子は正気を取り戻して睦を離した。典子は、時が止まったかのようだった。中腰のまま典子は呆然として、むせる睦を見ていた。呼吸を落ち着けて、涙に滲む眼を拭うと、聴覚も戻ってきた。丁度、停車を告げるアナウンスが聞こえたので、睦はそれがどこかも確かめず、電車を飛び出した。典子は、無表情で見送った後、両手で顔を覆った。典子はジュンシが別れ際に言ったことばを思い出した。
「僕、てっきり女の子を連れてくると思っていたよ。君の言っていた、不思議な事が出来る子って、女の子のような気がしていたから」
「ああ、その子は」
と言いかけて、典子は口を噤んだ。今、敦子の事はみだりに人に話せない。ジュンシは慌てて話題を逸らした。そうだ、昔、教師に向いているなんて、適当な事を言ってごめん。いろいろ大変そうだね、と。典子は溜息を吐いた。アナタのことばにそれほど心を捕らわれていない。確かに典子にとって、ジュンシは信頼を置く先輩であり、頼り甲斐のある異性だが、ジュンシの奔放さが典子には気に入らない。二人の間に、恋人関係を確かめ合った過去はない。ジュンシが誰と付き合おうと典子は知った事ではない、と彼女は斜に構えていたが、ジュンシが校内で誰かと浮名を流す度、心が乱れた時期があった。ジュンシからの好意を感じていながら、ジュンシに踏み込めなかったのは、一重にジュンシの「去る者追わず」の態度が気に食わなかったからである。彼はいつでも穏やかで、典子に「釈迦の涅槃像」を連想させる。しかし人並みに欲があり、思い詰める事もせずに「仕方ない」で済ませてしまうジュンシのいい加減さは、大半の人に「フレンドリーで付き合いやすい人」「楽しい人」と好意的に捉えられるのが、典子は怠惰の誤魔化しに見えて受け入れ難かった。事実、典子が自身に抱える問題、研究の事・進路の事・親戚の事、一人闇の中を進んでいる苦しさに、一時の安寧を求めてジュンシに相談したところで、どうにもならなかっただろう。そう…僕にはどうする事もできないけど、話だけなら、いつでも聞くよ。その優しいことばに幾許か慰められて、お終いである。優しさは中毒性の高いステロイドのようなものだ。その場しのぎに過ぎず、病の根治には至らない。
ジュンシは気取らない、良い人間である。頼り甲斐があるという認識は、間違っているかも知れない。典子ではない、それが誰か他の女であっても、ジュンシに寄り掛かれば、彼は肩を貸す。自分の余力が許す限り。ジュンシは寄り掛かってくる相手を気遣って、少しずつ少しずつ肩を落としていく。そして、ある日急に相手を残して立ち上がる。ごめんね。苦笑いをしながら去って行く。ジュンシは自分の生きる道の事を考えている。
典子は、いつか突き放す可能性を残しながら、相手に手を差し伸べるジュンシの軽薄さが気に入らない。それは当然の事かも知れない。しかし、そういうものだ・当然だ・仕方ないと、とっくに割り切ってしまっているジュンシは、思慕を寄せると同時に憎むべき象徴だった。博士課程を中退して教師になる事を、教授以外、ジュンシにのみ伝えたのは、典子にとって、告白と宣戦布告、半々の思いがあった。ジュンシは見る者に親しみを覚えさせずにはいられない軽薄な笑顔で
「そうか、寂しくなるけど。典ちゃんは優しいから、きっと教師に向いてるよ」と言った。
「優しくないですよ」
典子は、数年越しにジュンシに応えた。
「優しかったら、何匹も何匹もラットを殺したりできませんよ」
典子は教授の手伝いで、ある物質の毒性を調べる為、50匹のラットを使い二年間の実験をした事がある。
「今だって、子どもはことばが通じる分扱いやすいかと思っていたのに、ことばが通じる分余計に厄介だって事に気付いたんです。本当に気苦労の多い仕事だわ」
ジュンシは、パーカーに手を突っ込み左右に身を揺らした。
「僕はね、優しくないと生物実験なんて出来ないと思う」
典子は身構える。逆説で口説こうとするのは、ジュンシの癖である。耳の右から左へ流す準備をする。
「映画のマッドサイエンティストみたいな連中や、ただのサディストには到底務まるわけない。だって一回の毒性試験に約一億円、大金かけて毎日毎日、実験の目的以外でラットが健康を損なわれる事ないよう、面倒見なくちゃならないんだろう。並大抵の情熱じゃできないよ。」
「…」
「典ちゃんは、子どもたち全員を最後まで観る事ができないのが、嫌なんじゃない。最後なんてものじゃない、十五歳という最も多感で揺れ幅が大きくて、どこに転がるか分からないときに、一旦は手放さなくちゃならないのが、典ちゃんの性に合ってないんだ」
「いい加減な事、言わないでください。怒りますよ」
「ごめん。なんて言うのかな。ただ僕は」
ジュンシは肩を竦めて見せた。
「ただ僕は、その、そんなに自分を追い詰めなくても、と。」
「お気遣い、ありがとうございます」
大学に戻ってくればいい。僕はその方が嬉しい。ジュンシはそう言おうとした。しかし止めた。ジュンシは典子が好きだった。睦を通して、典子の学校での様子を聞いた事で、その気持ちは一層強まった。しかし典子と話す事が久しぶりだからか、ジュンシ自身が歳を取ったからか、典子から感じる厭世観のせいか、「好きだ」ということばが、正確では無いような気がした。もしかしたら、以前から使っていた「好きだ」と言うことばは、ジュンシの気持ちを正確に表していなかったのかも知れない。その違和感に自覚的になったのが、今というだけの話。では他にどういうことばが適切か。好きです、愛しています、僕の胸に飛び込んでおいで、君がいないとつまらない、君は僕の星だ、月だ、太陽だ。
それか、月は青いですね? 陳腐。付きまとうキャッチコピー感。そうではないのだ。ただジュンシは、典子が自身にとって大事な存在だと伝えたい。できれば、昔のような、典子が姉を喪う以前の朗らかさを取り戻してほしい。けれど、典子自身はそれを望んでいないような気がする。彼女はもう、自分を律してそれが当たり前だと思いこんでいる。仕方なくジュンシは微笑んだ。
「今日は楽しかったよ。また連絡ちょうだいね」
これも陳腐。しかし程度は良い。典子も心なしか、ホッとしたような顔をしたような気がする。
「ありがとう。それじゃ」