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【小説】シルバー・ライニング

あらすじ
なぜか目の前にいる「不思議な少年」に、うだつの上がらない人生をやり直すという提案を持ちかけられ、疑いながらもそれに乗る、というドロッとしたSFストーリーです。
創作大賞用に編集しています。

他に投稿するために、予告なく削除する可能性があります。
(蛇足ですが、作品中の「少年」は、マーク・トウェインの不思議な少年に、影響を受けています)



 母は運命を受け入れるべきだと私・ヨウコに教えた。しかし、母の言う運命が、ヨウコにはどういうものか分からなかった。それは母の言うことを受け入れろ、ということか?

 彼女がしょっちゅう著名人のことばやことわざを引用するのは、自身のことばには説得力が無いと、自分でも認めているからではないか、と思うと、それだけで、母のことばが聞く価値の無い薄っぺらなものに感じる。

 母から離れて、結婚しようとした時だ。四年前、ヨウコが三十一歳のとき。彼は、フリーターで夢追い人だった。結婚の理由の、半分は母から逃げるためだったから、後悔はしていない。その事に気付いたのは、離婚した後だった。

 職場で十ほど年上の上司から、プロポーズを受けたのも、その時。条件で考えるのなら、上司を選んだほうが良かったのだけれど、当時はプロポーズのことばが気になって、断ってしまった。

 上司の平林(ひらばやし)さんは、ヨウコが近々結婚することを知っていた。平林さんは、片親の元で育ったヨウコを、やや不快に感じられるほどに心配していて、けれど、ヨウコも平林さんの、他に私と話を漏らさない口の固いところは信用していたため、いろいろ相談してしまっていた。

 彼氏が定職に就いていないことを知っていた平林さんは、ヨウコにプロポーズした。青天の霹靂だった。彼のプロポーズはとんでもなかった。

「その男と結婚するのは、やめた方が良い。その代わり、私と結婚して、その男と付き合い続ければ良い」と。

 そんなことをして、平林さんになんのメリットがあるのか、と問うと、彼は照れながら「可愛い部下だと思っていたが、いつの間にか恋愛感情に変わっていた」と言った。

 ヨウコは、考えさせてほしいと言いつつも、そのプロポーズを断ると決めていた。平林さんがヨウコのことを知っているように、ヨウコも平林さんを知っていた。彼には八方美人で姑息なところがあった。彼氏の愚痴をこぼすと、私以上に、彼のことを悪し様に罵った。キャリアや社会的地位がありながら、結婚できないのは、良縁に恵まれなかったからと思っているようだけど、その実、職場で彼の嫉妬深い本性が垣間見える時が、ままあった。女性社員は距離をおくものも多かった。

 ヨウコの仕事をさも自分がやったかのように報告することも多く、人事部評価はパッとしなかった。

 結婚しても彼氏と付き合い続けて良い、という平林さんが掲げた条件は、自分を寛大に見せ、部下に抱いた劣情を、父性愛だと誤魔化したいがために思えた。当時のヨウコは思っていた。結婚するなら、彼氏のような「ピュア」な人が良い、と。

 結局フリーターの彼を選んだことで、平林さんとの関係は悪くなり、彼は別部署の管理職に異動した。ヨウコの結婚も、上司のプロポーズを断ってまで添うた相手ながらうまくいかず、一年ほどで離婚してしまった。

「ヨウタくんは、悪い人じゃなかったけど、別に良い人でもなかったんです」

 そこで、気付いた。「彼」はヨウコの話にふんふんと頷きながら、眼の前のチョコレートパフェをつついているけれど(しかもスプーンで好きな果物とそうでないものを、行儀悪く選りながら)、誰だろう?知らない人だった。

 そばかすが左右不均等に並んだ肌は、少年らしく張りがあるが、青白く、瞳の色は紺碧である。

 ヨウコはことばを失った。喫茶店は行きつけの場所だったが、なぜ、見知らぬ少年と二人、入り、さらにはプライベートな話を滔々と語っているのか、およそ十分前の゙経緯をまるで思い出せない。

 ヨウコが黙っていると、彼はようやくそれに気付き、パフェをいじくり回すのをやめて言った。

「ちゃんと聞いてるよ。それで?」

「あの・・・」

「ぼくが誰なのかは、気にしなくていいから」

「そういうわけにも・・・」

「ふむ、なるほど」

 スプーンを置いて手を組み、その上に顎を乗せて、少年はヨウコの顔を睨め回した。呆けた状態から、ヨウコにもようやく「失礼な少年」と相対しているという認識が産まれ、怒りが湧き上がってきた。けれど、記憶がない以上、「私が彼を誘った」という可能性が頭を過り、突然苦情を言ったりこの場を去るのは、憚られた。彼のことばを待った。

「僕は、名乗る名前を持たないことを、君にすまなくに思うよ」

 彼は確かにそう言ったが、その言い方や態度は、ちっとも「すまなさそう」では無かった。

「は、はあ・・・」

「僕は、さっき君に聞いた。やり直したいか?と。すると君は、うん、と応えた。以上が、今君が僕に話を始めることになった顛末」

「え?」

 訳が分からない。いくら記憶が飛んでいるといっても、自分が、見ず知らずの少年に、意図不明の質問を投げかけられて、即答するとは到底思えなかった。毎年の健康診断では常にオールA、酒も呑まないヨウコにとって、「記憶が飛ぶ」ということが、既に異常事態だったのだが。

「あの、私をからかってるの?」

 眼の前の少年への警鐘となるように、少しだけ声を荒げた。「からかっている」という表現は、ヨウコの気持ちとして適切だった。頭と体のバランスや皮膚のハリから見て、眼の前の少年は明らかに十代の子どもだ。けれど、それくらいの体格なら、本気で怒らせたり怯えさせたりすれば、三十代半ばのヨウコは返り討ちにされる、と不安になった。だから少しだけ、怒ってみせた。

 少年は、ヨウコの心を見透かしたように、ニヤリと笑った。彼が指を弾くと、海馬に奇妙な絵が浮かんだ。行きつけの喫茶店の前で、彼に誘われ、ヨウコは寂しげな笑顔で頷いている・・・。

「や、やめて!」

 叫んだ。それに呼応して、目の前のコーヒーが震え、客とスタッフのほとんどの視軸が、ヨウコに集まった。

「気を付けたほうが良いよ」

 少年は言った。

「僕は良いけど、君には世間の目っていう軛がある。奇人と見做され、社会的信用が落ちれば、そう簡単には人生を取り戻せない」

「あな、あなたは、お化け?なに。悪魔なの?」

 少年は渋面を作った。

「悪魔、というのが近いかな」

「な、なに?」

 信じられない、ということばが喉元まで出かかったが、人間である方が信じられないことをされた、というパラドックスに陥り、再び声を失った。

「まあ、僕が誰かなんて、気にするほどの事じゃない。君はどうせすぐ忘れるよ」

「悪魔なんでしょ?理由なく私を苦しめて、そうしたら忘れることなんて、出来るわけない」

 少年は、ぶほっと唾を吹き出した。

「さすがの被害妄想狂だね。母譲りかな?」

 彼の言うことがすぐに呑み込めず、寸暇の間固まった。けれど、すぐに頭に血が上るのを感じた。

「あ、あなたね。私の何が分かるの・・・」

「まあ、落ち着きなよ。私を苦しめる?君、僕に何かされたの?」

 彼がヨウコに手を掲げると、不思議なことに、頭に上った血は、スーッと下に降りていく。

「何も、今はまだ、何もされてないけど。だって、悪魔なんでしょ?」

「悪魔みたいなものだけど。悪魔が何をするか知っているの?」

 そう言われて、想像力を巡らせる。悪魔、悪魔。はじめに湧いたイメージは、イギリスに伝わる妖精・グレムリンのような小鬼が、道路で大騒ぎしているような場景。車を傷付けたり、事故を起こしたり・・・

「あ、あなたはわざと頓珍漢なイメージを私に与えているのかも・・・」

 少年は大げさな様子でガックリと項垂れ、首を振った。

「なるほど、君が何を思いどう考えようと、悪いのは僕ってことだね」

 席を立ち、「じゃあ帰るよ」と言った。「ちょっと」と引き止めると、得意げに「ほらね」と振り向いた。

 ムッとした。

「お会計」

「伝票を見てみなよ」

 そこには、一人分のコーヒー、つまりヨウコが今飲んでいる分しか書かれていない。眉に皺を寄せて「こんなの、間違っているだけよ」と言った。

「しょうのない奴」

 そう言って、少年は指を弾こうとしたが、逡巡した。

「僕は、パフェを消せるけど、再び出すことはできないんだ」

「消すって」

 なぜか彼は、苦しげに呻きながら指を弾いて見せた。ヨウコは、チューリップのような器を凝視した。ガラスの縁が、フーっと透明になり、散乱光を発する埃のように消えた。

「けっこう美味しかったのに」

 名残惜しそうに机を撫でると、「じゃあ」と、その場を去ろうとする。

「ちょっと待ってよ。結局何の用だったの?」

 今度は、少年がムッとして言った。

「そうだね、君でなくてもいい、とだけ言っておくよ。もう少し大人で、落ち着いて話を聞ける人が良い」

「失礼な子!」

 じゃあ、こうしよう。と、少年はニヤニヤした。

「君は、僕にパフェを一杯奢る。それで、僕は君に用向きを話す」

 なぜ、こちらがへり下らなくてはいけないのだろう。納得はいかなかったが、先刻、少年が眼の前で起こして見せた超能力への好奇心に抗えず、渋々首肯した。

 唇を引き結んでいれば美少年なのに、彼の笑い方はゾッとするほど下品だった。舌舐めずりをしながらメニューを開き、二千円近くする、ハシリの美味しそうなフルーツがたくさん乗ったパフェを注文した。

 「アイスとなんだかよく分からないブヨブヨとしたやつと、底に敷いてあるカリカリは、美味しくないから君にあげるね」

「・・・」

 不快を堪え、いろいろ考えざるを得なかった。この生意気な子どもが、ヨウコの常識では考えられないような何かであることは間違いない。霊感など無い私が、そういうものと出遭えることは、二度と無い奇跡であると同時に、どういう思惑なのか探るというのは、恐ろしいことでもあった。

「やり直さないか、と聞いたわよね。それって、私の人生をやり直すという奇想天外なこと?あなたには、そんなことまで出来るの?」

「まあ、そうだね」

 彼は、眼の前に置かれたパフェ皿を、また下品にいじくり回し始めた。

「・・・それってどういうこと?自分の人生をイチからやり直すの?」

 と、聞いてみたものの、実を言うと、その話に誘惑と呼べるほどの魅力は感じていなかった。記憶や知識を持ち越せなければ、たとえやり直しても、今の状態より良いものになる保証は、全く無い。

 けれど、彼はまずその点を明らかにした。

「君には、いくつかのターニングポイントを感じているよね?あの時

ああしておけば良かったとか、こうしていたらどうなっただろう?とか。僕は、あなたのそのモヤモヤ解消すべく、記憶を保持したまま、やり直させてあげますよ、ということさ」

 唸った。

「それって、何か代償が必要なんじゃないの?たとえば寿命が縮むとか」

「君はどうやら、自分を過大評価しているみたいだね」

 キッパリと言う。本当に失礼な少年だ。

「どういうこと?」

「君の想像力逞しい頭で考えて欲しいんだけど、僕が君の寿命を頂戴して、逆になんのメリットがあるんだい?」

「そ、それは」

 それは、どうだろう。人外のメリットなど、人であるヨウコに分かるはずが無い。

「楽しい、とか」

 愉悦。悪魔、少年のことばを借りると「悪魔のようなもの」は、己が力で人を振り回すことに、愉悦を感じるんじゃないだろうか。

「ふむ」

と、言った。鋭いね。

「正解なの?」

「過程は間違っているけど、まあ、そうだね。別に、君の寿命なんか要らないよ。だって寿命を奪うといえば、君は納得してしまうだろ。重要なのは僕の愉しみ、存在意義ということさ。僕がなんの積もりかは分からないけれど、僕の提案には興味がある。どうしよう、と、この場合、君を「振り回す」とはそういう事さ」

「そんな」

 どういう事だ。

「どうして僕が、君にこんな提案を持ちかけるか、という問いに、十全かつ簡潔な回答をするのは難しい。たとえば、こういうのはどうかな?僕の存在は人間に従属するけど、僕の能力は人間を超越する。つまり、人間と関わりを持たなければ、僕らは存在できないけど、僕らには人が持ち得ない能力がある」

「そして、それで人を振り回すのだ、ということ?」

「その通り。人間はお金をあらゆるものと互換可能と考えて、それを支配下に置いているつもりだけれど、しょっちゅう金に狂い振り回される。僕らには、意思めいたものが多少なりあるけれど、ほとんど「金」と似たようなものだ。そう、ヨウコはあり得ないような大金を拾った、超ラッキーな人間なんだよ」

 少年はそう言って指を弾いた。ヨウコは肩を竦ませたが、何も起こらなかった。

「信じ」

られない、ということばを、最後まで言うことができなかった。

「信じるためにはどうすれば良いか?僕を使ってみればいいのさ」

 うまい勧誘だと、ヨウコは思った。けれど、それは口上がうまいと思っただけで、心動かされたわけでは無かった。何より、生意気な少年の口車に乗るのが、癪だった。

「あなた、さっきから私の脳に干渉しているようだけど、それならこんな風に言質を取ろうとしなくても、強制的に時間を巻き戻したりすれば良いんじゃない?」

「ふむ、それを説明するのは、人間とは違う、僕らの存在意義に関わる話で、君には理解がし難いと思うけど・・・」

 などと言いつつも、彼は語り始めた。

「僕は君たちからすれば、悪魔のようなものだと言ったけれど、人間とは決定的に違う点がひとつある。それは、嘘をつかないことだ」

 そうだろうか。悪魔の方が、人を惑わす嘘をいくらも吐きそうなものだけど。首を傾げた。

「さっき君は、僕になんのメリットがあるのか、と聞いたね。人間の悪いヤツが、人を騙した末に何か対価を得ることは違い、僕らは人を惑わすこと・そのものが目的であり、存在意義だ。ここで質問だ。君は、誰かが虚実を語ったとして、いつ怒る?」

「いつ?」

「いつ」

 いつ(何時)。

「そりゃ、自分が騙されていたと知ったとき、嘘が嘘と知れたとき、じゃないかしら」

「たとえば僕が君に、過去からやり直せば、必ず今より素晴らしい人生を手に入れられる、と言うとする。これは嘘だ。そんな確証はない。けど、もしかしたら今より良い人生になるかも知れない、と勧誘する。これは嘘じゃない」

 頷いた。

「僕たちという種族にも、自我めいたものがあり、嗜好がある。ゆえに僕たちの中には、人間の一瞬の怒りや恐怖を恣にするべく、自分が、さも万能の神のように語る者もいるのさ。でも、僕としては、それはあんまり面白くない」

「そ、そうなの?」

「そうだよ。また質問するけど、君が考える僕のメリットって一体なんなのさ?」

 人外の存在にとって、金など俗物は利益では無い。彼の言う通り、人間の恐怖や怒り、戸惑いといった感情そのものが目的なのだとして、悪魔はそれ以外に、何かを求めるだろうか。

「その、命とか、魂とか」

「それは一つの誤解だね。確かに、取引の対価に命やら魂を求めれば、人は恐怖し、狂ったように勇猛に振る舞おうとする者もいる。それはそれで面白いけど、君ならどうする?命を求められたら」

 それは。

「え、断る・・・」

 確かにヨウコは彼の提案に揺れているが、命を懸けるほどではない、と思ってしまう。

「まあ、そうだろうね。放っておけば、確実に死ぬような環境にいる奴に声をかければ、イチもニもなく首肯する。けれど、そこに戸惑いなんか無いよ。崖から落ちそうになっている奴に、命を助ける代わりに魂を差し出せ、なんて契約を持ちかければ、成約は必至だ。ただし、その契約で得られるのは、僕らにとって無価値な人間の魂などというものだけだ」

「悪魔なんでしょう?食べたり、何か、糧にできるんじゃないの?」

「僕らの糧になるのは、あくまで生きている人間の感情だけだ。そうだなあ。人間は、魂や人肉を食らうバケモノに、恐怖を感じるだろうから、君たち人間が見ている前で、アピールとして食うことはできるよ。そういう方法を採る仲間もいるだろうけど、僕はあまり良いとは思わないな」

「なぜ?」

「これもまた、説明が難しいけど、人間の゙、負の感情のために、人間の命を奪うと、僕らが存続する可能性も、低くなるから。人と同じで、「僕ら」一人ひとりの力はそれほど強くない。人間からすれば、超常的な力を持つのが僕らだけど、それと同時に、思念を糧にする僕らは、人間の思念によって殺されるのさ」

「ど、どういうこと?」

「簡単に言うと、同時期に大勢から深い恨みを買うと、僕らはどういうわけか消えてしまう。なんだっけ。盛者必衰の理、とかいうの」

 自然界の理を無視した者が、何を言うのか。

「人の思念によって生まれた存在は、超常的な力があっても、人に畏れを越える存在であってはいけない、ということなのだと思うなぁ」

「ねえ、待って。じゃあ、今あなたがパフェを食べているのは?」

「これねえ。始めての頃のことはちゃんと覚えていないけど、たしか、何かを食べるって、人間の真似をし始めたんだ。人とは全く違う生き物なら、能力も生態も何もかも違って当たり前だけど、人に近い生き物が人とは違う方が、不気味でしょう?ただ、僕らには吸収器官がないから、口にいれると同時に、分解しているだけなんだけど。でも、今ではわりと好きで食べているところもあるよ。以前会った僕らの仲間は、習慣は第二の天性だ、と言っていたなあ」

「話が逸れていると思うんだけど・・・」

 子どものような容姿だからか、それとも剽軽な態度にほだされているのか、ヨウコに湧いていた怒りや戸惑いは、既に収まりかけていた。彼は、ジッとヨウコを見つめた。読心術があるのではないかと怖くはなるが、ヨウコは特殊能力に対して自分を守る術を持たない。

「そう、なんで嘘をつかないか?だったね。つく意味が無いからさ。破礼れば、人は居直る。けど、本当のことなら、少し言うだけで、人間は戸惑う。だろ?」

 彼はニヤリと笑った。

「信じられないような本当のことを言うと、惑いやすい人間は、終始、何が嘘か分からず疑心暗鬼に陥り、自分の行動は正しいのか、戸惑う。悪魔って、そういうふうになるよう、人を促すことだろう?」

 背筋が冷える。

「それなら、やっぱり私があなたの勧誘に乗るワケにはいかないよね。うまいやり方とは思えないんだけどな」

「じゃあ、さようなら、だね」

 彼は、好奇心に抗いがなれないヨウコの心を見透かしていた。

「もう少し詳しい説明を聞いてから、断ったって構わないよ。強制するわけじゃあ、無いんだから」

 動揺しながらも、首肯した。

「本当はね、少し前までの僕は、ある人間と人間を入れ替えるということをして、遊んでいた。でもコレ、あんまりうまくいかないんだよな。」

「どうして?」

「正直、君みたいなのは、このエリアにたくさんいる。何かちょっと選択肢を変えるだけで、今とは自分素晴らしい自分があるんじゃないか、と。けど、確信の持てない人生の入れ替えは嫌みたいで、僕が提案すると、宗教家が青ざめるような煩悩を炸裂させるのさ。分かる?」

 それは、分かる。奇跡を頼みに「別人」になるのに、自分「以下」の人間と入れ替わっても仕方がない・・・。

「僕らには、破壊ー分解と言い換えることはできるけどー創造は無理なのさ。だから、眼の前の凡人を、居もしない完璧な超人に変えることはできない。俗物は、俗物なりに知恵を巡らしているものだし、人工知能のほうが、上手く編集するだろうね。かといって、誰かと人生を交換しようにも、君みたいな人が憧れるような、天から二物も三物も与えられ、おまけに自らの欲を満たす努力を惜しまない人は、信仰が無くても誘惑に靡かないものだ。分かる?」

 分かる。分かるけれど、感じが悪い。

「実のところ、僕らの時間という概念こそが、君たち人間とは全く違うんだけれど、人間ふうに言うと、一昔前までの僕は、人生交換を成約させるために、東奔西走していた。人生交換を一件成約させると、君の人生をやり直すよりも、単純計算で二倍多くの「混沌」を生むわけだから、大口案件ということが出来る。けれど、さっき言ったように、なかなか成約しない。だから僕は、小商いに方針を変えたってワケさ」

「分かったけど、それで私があなたと契約することに、なんのメリットがあるの?」

「え?うーん、そうだなあ」

 少年は寸暇の間、腕を組んでから応えた。

「僕にはよく分からないけど、人にはない可能性や選択肢の提示。人にとっては、これだけでメリットになるんじゃない?」

 ヨウコが返事を渋っているのは、得体の知れない者と契約することへの一抹の不安、そして、生意気な少年の口車に乗ることへの、「面白くなさ」だった。契約内容自体に惹かれていることは、認めざるを得ない。彼女は、少年のいう「やり直し」を受け入れることによって生じるデメリット、と言っても彼にはなかなか通じないので、肉体的・精神的に苦しんだり、死んだり、死後の世界があって七生を苦しむ羽目にはならないのか、と、繰り返し確認した。

 判然としない回答だったが、要は、少年にできることは、本当にやり直すことだけで、彼女が超常現象を起こせるようになるわけではない。車の前に飛び出したりビルから飛び降りたり、そういうことをすれば、当然死ぬ。

 驚いたことに、彼はヨウコに、三回目も「やり直し」のチャンスを与える、と言った。しかし、先程の説明通り、彼女はただの人なので、複数の世界を同時に生きることはできない。「現在」に至った時点で、少年はヨウコに、その世界を採択するかと問う。三回とも気に食わないのなら、「現在」に戻す。契約履行終了。ただし、三回繰り返して、最良の「現在」を採択することはできない。

 彼女が選択できるのは、「今」か、少年の力によって与えられる「その時」のどちらか。そして、選択後、ヨウコは選ばなかった時のことを全て忘れるのだと言う。

「注意点が、もうひとつあるね」

 少年は言った。

「完璧な時間遡行、つまり存在するはずの平行世界から、君の望むものを一つ選び取り移動させるのは、僕のような存在ができることではない。僕ができるのは、君の「今」をベースに、今とは少しズレた「今」の時間軸、分岐を作ることだけだ。それでも十分に複雑で難しく、そんなに正確な仕事は」

「つまり、何が言いたいの?」

 少年は、言いにくそうに唇を咎めると、やや伝法な調子で言った。まるでそれは、大したことではないとでも言うように。

「やり直しの時間軸では、時間が飛ぶように過ぎて「今」と平行する。線をイメージしろ。長さも一緒になる」

「ちょっと待って。その場合、やり直しの記憶はどうなるの?私がやり直すことによって変わる世界の時間が飛ぶように過ぎたら、私の記憶は空白だらけになるんじゃないの?」

「だから、正確な仕事は難しいと言ったろ?今までの記憶が吹っ飛ぶわけじゃない。ただ、整合性が取れなくなることは、ままある。でも、もし君が首尾良くやって理想に近い世界を手に入れたら、多少の記憶障害なんて、気にならないだろ...」

「何それ」

 けれど、生意気な少年が、ヨウコから目を逸らして低き声でボソボソと呟くのを見ていると、それがこの少年の触れられたくない部分なのだという気もして、クサクサした気持ちが、いささか晴れた。

 ヨウコは、斜に構えて言った。

「そうだなあ。やっぱり、その提案に乗るのはさして良い案とは思えない。簡単に言えば、あなたは人間相手に契約を取るっていうの、存在意義のためにやっているのよね?けど、この世知辛い情勢と同じように、どうも、私に確かなメリットも夢もない提案に感じるのよね」

「ふむ、なるほど」

「・・・記憶障害になるっていうのも、あなたが思うほど、小さな問題じゃないし」

「そうかな。世の中には自己欺瞞ほど簡単な事はないと、言うじゃないか。君が自分の記憶としてこだわる物に、赤の他人は興味が無いと思うよ。つまり、交渉決裂と言うことで良いかな」

 少年の恬淡とした態度に、ヨウコは違和感を覚えた。

「それだけ?」

「なにが」

「否が応でも、私と契約しようという気概は無いのね」

「さっきも言った通り、別に君じゃなくても良いことだから、さ」

「パフェを奢らない、と言ったら?」

「食べ終わったら、僕は煙のように消えるのだから、どのみち現世を生きる君は、支払いしないわけにはいかないよ」

 やはり整った容姿ながらおよそ可愛げのない少年だ。

「何か、特典みたいなものは無いの?王子様みたいな人との邂逅を設ける、とか」

 ぶっと彼は吹き出した。

「面白いことを言うなあ。特典だって?」

「だって、あなたのその態度。人間社会はもっとシビアよ。営業をかけられている側だって慣れているんだから、嘘はつかないにせよ、需要に合わせたサービス提供に試行錯誤するのは、当然だと思うけど」

「ふむ」

 彼は両手を組み、その上にほっそりとした頤を乗せた。

「そうだな、特典ね。僕との契約で、君は三回、やり直しのチャンスを得るわけだけど、インターバルには僕からアドバイスをあげる、というのは、どうかな?」

 ヨウコは呆けた。

「あなたのアドバイスに、何か意味があるの?」

 それなら、私の望む未来になるよう、都度指示をするか、でなければ、はじめからそういう未来にしてくれれば良いのに、と言う前に、彼は言った。

「別に。なんとなく思ったことを言うだけだ」

 ヨウコは憮然とした。

「ならそれは、アドバイスじゃなくて、茶々とか横槍とか、そういうものよ」

 少年は煩そうに首を振った。

「君は、その他大勢と同じように、要は保証や責任転嫁できる何かが欲しいんだろ?僕は万能の神じゃない、与えられたチャンスをどう活かすかは君次第だけど、思う通りいかなくても、僕のアドバイスのせいにできるんだから、良いじゃないか!」

 ヨウコが尚も抗議しようとした、その時だった。近頃の携帯には、ひっきりなしに知人の近況が通知される。ヨウタ君に新しい彼女ができるのは仕方がないと

思えたのに、平林さんのプロポーズを断って一月も経たず、彼が結婚することになったのは、なぜかヨウコにショックを与えた。

 ヨウタ君と付き合い続けながらでも良いから、自分と結婚して欲しい、と、その申し出は、自分の器量を大きく見せるための、少年の言うような自己欺瞞からのプロポーズだと冷めた考え方をしていたのにも関わらず、いざ、他の人との結婚を決められ、彼女のための「自己欺瞞」を平林さんがアッサリと放棄したと感じられるのが、不満、そう、不満だったのだ。

 

「君が僕の手を取ることを拒むのは」

と、少年は言った。意地だ。そう、意地なのだ。

「君が僕を呼んだ理由も、意地だ」

 そう言われて、ヨウコは尚も少しだけ悩んだのだが。

(少年が生意気だったということの他に、断る理由はなかった、けど)

 ヨウコは教室をぐるりと見渡した。小さな、椅子・机。廊下を出てすぐに長い石作の水道があるけど、それすら小さい。その上、水しか出ないなんて。けれど、今のヨウコのサイズに比して、椅子も机もピッタリと認めざるを得ない。彼女が視線を前に移すと、そこには巨大な黒板がある。懐かしの、五年四組の教室。

 ヨウコの意識は思うほど変わっていなくて、先程まで少年と話していた記憶が、はっきりある。それでも荒唐無稽な話で、どういう現象か理解が出来なかったが、彼女は呆けているように見えて、どうにかこの場に適応しようと必死に考えたいた。

 少年は、時間を巻き戻すというのとは違い、彼女が元居た今と、時間軸を少しだけずらすのだと言っていた。彼女は、自分の身で、シュミレーション・シナリオのゲームをするようなものだ、理解しようとしていた。昨日からそれ以前の記憶が少しだけ鮮明になってきたが、それは、仕事が雑でオマケに責任感も薄そうな少年による適当な記憶の植え付けなのか、「分岐前」の記憶が自然によみがえったものなのか、ヨウコには判断がつかない。

「ねえ、国語の宿題できた?見せてよ」

と言うのは、「れいな」というヨウコの同級生だ。ヨウコがこの時点を分岐に選んだのには、もちろん理由がある。件の国語の宿題。彼女は、それが原因で、半年間ほどクラスメートから嫌がらせを受けた。たかが半年だと、三十代半ばの時間感覚では思うが、彼女の思春期を歪ませるのに、十分な期間だった。高校を卒業するまで、同窓生を信用できなくなった。本当は意固地なのに、卑屈になって、他人のご機嫌伺いをするのが、癖になってしまった。

 一重にれいなの責任だと、疎遠になってからもしばらく恨んでいたけれど、人の気持ちとは不思議なもので、随分前に、れいなのやったこと。それは、自分の言動が原因で友人が苛められているのにも関わらず、自分が巻き込まれないように距離を置く、ということだが、彼女の正当性を認めるようになってしまったのだ。

 頭では許さない、と思っても、当時のヨウコがもし逆の立場なら、れいなと同じようにするのではないか。いじめ、というのは、加害者にしろ被害者にしろ、その状況に、一定の合理性を感じているものだ。当時のヨウコは、自分のやったことを考えると、嫌がらせではなく、クラスメートから「制裁」を受けるのは仕方ないと思っていたし、クラスメートも彼女が「制裁」を受けるのは仕方がないと思っていた。

 れいなには責任を感じて欲しかったけど、彼女の言動に、当時のクラスの雰囲気を覆すほど影響力があるとは思えない。れいなは引け目を感じているからこそ、クラスメートから無視されていたヨウコと、距離を取ることを選んだのだ、と、彼女は会社勤めを始めて、やっと納得できた。けれど、れいなを許し自分の懐の深さに酔うには、時間が経ち過ぎていた。ヨウコとて「いろいろ経験」するうちに、れいなと同じ立場になったことがあるからこそ、自己欺瞞に逃げることもできず、しぶしぶ、自分がいじめられた事についてれいなに責任はなかった、と認めたに過ぎない。

 けれど、今の彼女はやり直す機会を得た。れいなが関心を示したのは、国語の創作的課題で、絵本を描こうというものである。

「見せあいっこしようよ。あ、ねえ、この子はもっと髪の毛長い方が可愛くない?」

 れいなに言われるままに改変した作品は、登場人物がクラスメートの一人に酷似していると言われて、問題になった。推薦図書を真似して、いじめを受けていた少女がドラマチックに周りと戦うというストーリー。足や手の描き方が未熟だっただけのことなのに、何かのメタファーではないか、と教師からはあらぬ疑いをかけられた。教師は一応ヨウコの言い分を信じたが、トラブルの処理はずさんだった。ヨウコはクラスメートを差別しているという噂が生まれ、広がった。箝口令など敷かれることもなく、クラスの鼻つまみ者となった。当時のヨウコは、巧みに弁明することも出来なかった。

 むしろ「差別主義者」だと謗られることで、周りが言うのだからそうなのだ、と卑屈になり、耐えた。れいなを恨むのは、差別主義者の自分から生まれる他責的で「正しくない」気持ちだった。だから圧し殺した。

 その時のことを思い出すと、三十半ばの今でも、苦しい気持ちになった。ヨウコがやり直す前の時代には、ミートゥー運動やフラワーデモなど、自分の被害経験をハッシュタグ付きで拡散するのが、勇気ある行動だと称賛される風潮があった。主に性暴行だが、いじめも含む。対して加害者経験をカミングアウトする風潮など全くなく、むしろ加害者はパブリックエネミーとして過制裁を加えられる傾向が強い。理不尽、不公平な世の中を肌身に感じると、嫌煙する母「運命を受け入れるべきだ」ということばが頭を過り、ヨウコの懊悩は終わらない。

 けれど、やり直しの今なら、この負の連鎖を断ち切るのは簡単だと、彼女は考えていた。

「ダメだよ!これは私の自信作だから」

そう言ってれいなを遮ると、

「えー、いいじゃん。ケチ。つまんない」

などと暴言を吐きながらも、彼女の席から離れた。

 ヨウコは登場人物全てに手を加え、漫画の主人公と悪役のような、荒唐無稽のファンタジーに改変した。クラスメートには似ても似つかない。架空のキャラクターたち。「人」でなければ、手足が無くても肌の色がどうでも、差別なんて言われない。ホッとすると同時に、また、母のことばがよみがえった。クラスメートからの無視が始まり一月ほど経った頃、さんざん悩んだ挙げ句母に相談すると、「あーあ、失敗したわね。もっと上手くやれば良かったのに」と言われた。

 当時のヨウコは、突き放されたと感じ傷付いていた。けれども、やはり「自分が間違っていた」と思った。では、ヨウコは間違いを正したのか?正したのだ、と思い込もうとしても、心の底に焦げ付き残った不安を、全て削ぎとることはできない。

 けれど、ヨウコの思惑通りだった。絵本というより漫画だという評で、教師からの評判は今一つだったけれど、いじめどころかクラスメートからの評判は上々だった。クラスでいちばん面白い、キャラクターが可愛い、と。ヨウコはそれを、三十代の謙遜で受け流す。れいなは、ヨウコがちやほやされることには手離しで喜べないらしく、「ここを、こうすればもっと良かった」などという講釈をぶった。

 こんなに嫉妬深かったかな?いや、女子小学生なんてこんなものか。

 少年の言っていた通り、飛ぶように時間が過ぎた。二倍速・三倍速で時を過ごしているというより、時間のスキップという感覚だった。久しぶりの小学生生活、テストを受けた記憶もないのに、採点されたものが返却される。なるほど、やり直すといっても、天才少女に変身することはできないんだ。

 とは言っても、小学生の俊敏さは三十代のそれより優れているようで(ヨウコが体感する限りでは、の話だが)、三十代としての意識があるときに、「体育」の授業は憂鬱だった。体は軽いが、体のを動かし方を忘れている。コントロールの悪さは、球技で特に顕著に現れた。現役当時、ドッジボールは人気の科目だったはずだが、人の頭ほどのボールが飛んでくることにスリルなどなく、恐怖で頭がいっぱいになったし、たとえ素材がゴムであろうと二の腕にバチンと当たると痛いし、かといって胸の前で抱えても、けっこう痛い。と、いうわけで、ヨウコは早々に外野に出て、ダラダラしようとしたわけだが、そういう周りを白けさせる態度でいじめられるようになっては、本末転倒である。だから、ヨウコはジェネレーションギャップを隠すため、乗り気じゃないことを隠す必要に度々迫られたわけだけれど、結局のところ、ヨウコはやり直してみて、自分がなぜいじめられていたのか、ハッキリするどころか、むしろ本質的な原因が曖昧になっていく不安感に駆られた。

 あるひとつの岐路で選択を変えても、結局は同じ道に収束する。この奇跡的な機会で得られるのは、ヨウコはヨウコのまま、「つまらぬ存在である」という認識だけかも知れないのだ。

 ただ、目的を「人生・三十半ばの時点で、より良いものにする」と考えると、気が焦るが、あえてもの思うことを止めると、小学生から再度人生をやり直す、という経験は、楽しみに満ちていた。通学路の途中にある公園は、自治体の活躍で今ではキレイになっているが、彼女が子供の頃は、体の半分もの高さの雑草が生い茂り、それはそれで、楽しかった。

 小学生高学年にもなると、ませた子は公園で遊ぶことを小馬鹿にし始め、同級生に見つからぬよう、れいなと二人で探検ごっこをすると、なんだか悪いことをしているようなスリルがあった。

 いじめが原因で、ヨウコはれいなと遊ぶことを止めてしまっていたが、子どもだった頃の遊びは、五感に刻まれふとしたきっかけで、郷愁をかきたてる。

 彼女は、ただ、自分がいじめられた頃の苦い記憶を払拭するため、やり直しの起点に「ここ」を選んだ。再びれいなと仲良くしたいわけではなかった。彼女のなかのれいなは、傲慢な裏切り者で成長が止まり、三十半ばまでずっとそう思っていた。

 しかし、どうだろう?想像の中のれいなよりも、巻き戻った時間の中にいる「れいな」は、やはりワガママなところもあるが、傲慢というよりも気弱で、何よりヨウコがれいなを気遣うよりも、ずっとヨウコのことを気遣っていた。

 れいなは、ヨウコと他の子とのやり取りを、よく聞いていて、彼女が肩身の狭い思いをしたり、ムッとしたりすると、然り気無く、会話に入ってヨウコの肩を持つ。

 それも、やり直してみるまでは、まるで彼女がヨウコの一番の友達だというアピールのようで、うっとうしく感じられていたが、ヨウコの精神が年を取ったからだろうか。いじらしく感じられる。

 記憶はハッキリしないが、そういえば、れいなは、ヨウコが嫌がらせされていたとき、表立って彼女を救おうとはしなかったものの、彼女なりにヨウコの傷を嫌そうとしていたように思うのだ。

「遊びに行こう」とか「一緒に帰ろう」とか誘われたのを、叩きつけるように断っていたのは、ヨウコの方だったか?予想以上かき乱される記憶と気持ちに、あの少年が、彼女を後悔させるために捏造した記憶なのでは、と疑いさえした。

 けれど、その疑念は自ら否定せざるを得ない。ヨウコの中のれいなの記憶、れいなだけでなく、他の人物像の全てを、当時の未熟な観察眼で描き、手前で勝手に色付けた滲みや色ムラを、その人の欠点だと思い込んでいたようなものなのだ。(三十代のヨウコの観察眼が、当時と比べて円熟しているかどうかは別の問題として)


 れいなと仲良くしようと思い直したのは、彼女の人格を見つめ直すことにより自然発生した願いではなく、罪悪感を卵として生まれた義務感、のように思う。

 れいなは、ヨウコに対して媚びるような独占欲を見せることが少なくなると同時に、笑顔も少なくなり、彼女の側では暗い表情を見せることが多くなった。その変化を、三十半ばの意識がある間のヨウコは、戸惑いながらも好意的に受け取めていた。

 昔、れいなの朗らかな態度に、演技のようなわざとらしさを感じていたのは、間違いではなかった。彼女は無理を、していたのだ。後に明らかになったその理由はさておき、演技を止めたれいなはクラスの中で、「暗い」と謗られ、浮き始めた。けれど、彼女は気に止めていなかったようだ。ヨウコが側にいたからである。

 中には「関わらない方が良いよ」と、親切心の蓑を被りながらも薄暗い愉悦を隠しきれず、彼女に直接苦言を呈する子もいたが、ヨウコは取り合わなかった。正義感があったからではない。三十半ばのヨウコは、れいなと離れ新たな人間関係を築くのが面倒くさく、年相応の情緒を持ったヨウコは、れいなと離れることも、他の誰かと仲良くなることも、怖かったからである。

 二人で下校している途中、いつもより一層暗い顔をしたれいなは、ヨウコを呼び止めた。話したいことがある、と、彼女は、駅前の喫茶店にヨウコを誘った。小学生が二人で喫茶店?その時、ヨウコには三十半ばの意識ぐあって、最近の子はませている、と思わず憤慨しそうになったが、ヨウコもれいなも「最近の子」ではない。むしろ、健康志向が高まっている今でこそ、喫煙席のある喫茶店に未成年が入ることは難しくなったが、「この時代」の数年前までは、電車内でタバコを吸うこともできた。

 れいなはフルーツジュースを頼んで、自分が誘ったのだからと奢ろうとさえしたが、ヨウコは、小銭入れの中にいくら入っていたか覚えておらず、焦りながらもそれを固辞した。彼女は戸惑っていた。こんなに大人びた子だったろうか。忘れただけか、それとも「知らなかった」だけなのか。

 れいなの悩みは、両親の離婚危機のことだった。今までも、夜中に彼らが度々口論するのを察していた彼女だったが、少なくとも、れいなの前では、仲を取り繕う両親を見て、彼女は安心していた。安心しようとしていた。

 けれど、ある時期から、母親が鞄の中に、父に宛てた手紙を偲ばせており、不安に駆られ、罪悪感を覚えながらも、されを盗み読んだしまった。果たせるかな、難しくてよく分からないところもあったが、それは「あなたが望むなら離婚しても良い」けれども、娘が大きくなるまで嘆願する内容だった。取り分け彼女がショックを浮けたのは、「愛を裏切っても構いませんから、どうか」という文字面だった。

 愛を裏切るという詩的な文言が、何を意味するのか、ハッキリとは分からなかった。けれど、れいなはパニックになり、泣きながら、それをグシャグシャに丸めて、自分の机の抽斗に押し込むことで、無かったことにしようとしたのだ、と言う。当然、そんなことで両親の不和が解決するわけもなく、彼女の「粗相」は、すぐに母親が知ることになった。母親は、れいな以上に動揺して、激昂したかと思えば、急に弱々しくなり、彼女を抱きしめ「弱いお母さんでごめんね」と泣いて謝った。それ以降、母は情緒不安定で、些細な言動がきっかけで怒ったり泣いたりするらしく、れいなは精神的に消耗しているらしい。

 ヨウコは、それを聞いて頭が真っ白になった。そして、薄情なことに、戻った意識にて最初に感じたのは、そんな話を聞かせるほどにれいなは自分と仲良しのつもりなのか、と驚きだった。今でこそ、れいなへの悪感情は薄まっているが、子供の頃、ヨウコはれいなが薄情だったのを恨んでいた。鏡に映る自分よろしく、自分の情を測られる気分になるとは思いも寄らなかった。ヨウコは、三十半ばの記憶力を頼って、児童相談窓口とかなんとかいうものを頼るよう、勧めようとした。手元に携帯などあるはずなく、いつだったか、たまたまラジオをつけた時に聞き齧っただけの情報で、子供のれいなにすら、戸惑いはハッキリと伝わってしまったことだろう。

 れいなはいじらしくも、「ごめんね、困らせて」と言って以降は、家族のトラブルを話さなくなった。しばらく、彼女はヨウコを避けた。休憩時間にも、一人でいることが多くなった。ヨウコは、あまり有意義なアドバイスも、励ますことも出来なかったか、と、自分の不甲斐なさを悔いたが、小学生ではこんなものだろう、と、甘んじていた。

 しかし、事態はもっと深刻だった。れいなは、ヨウコを避けていたが、空元気を取り戻そうとしていた。彼女が下校しよう誘うも断り、目の前で、別の子と一緒に帰ろうと誘うこともあった。れいなに湧く怒りは皆無では無かったが、それよりもむしろ、ホッとしていた。

 れいなの家庭での悩みを、この世界線で初めて知った。ヨウコを狼狽えさせるために、あの少年が運命を変えたと思いたかったが、どちらにせよ、以前もヨウコとれいなは、この頃から疎遠になった。嫌がらせに加担することこそ無かったが、仲良くしていたのに、助けようともしない。ヨウコにも嫌われたくないと、保守的で姑息な思考を隠そうともせず、周りに同級生がいない時だけ、ヨウコを気遣う。ヨウコはれいなを嫌っていたのだ。それが、当時から、実は誰にも言えないような深刻な悩みを抱えていて、それでも「現状維持」のために、彼女は自分に出来る最大限のことを、しようとしていたのではないか。もし、れいながヨウコを嫌っていたら、クラスでの立場を固めるために、ヨウコのいじめに加担することだって、出来たはずだ。

 れいながイジけているのを見て、自分が「やり直し」などしなければ彼女は辛い目に合わなかったかもしれない、と、全く思わないでもなかったが、もともと彼女は「自分の人生」をやり直そうとした。ヨウコが、負の経験を払拭したのなら、その分割を食う人がいるのは、仕方がない。

 自分の娘でもおかしくない年齢の子を、ケアが必要と感じながらも、放置する。淑女とは程遠い性根の悪さを感じてはいたが、この機会に自分の痛みに甘んじていては、本末転倒というものだ、と、割り切ろうとした。

 しかし、彼女の自己弁護は、あるクラスメートからのことばで、あっさり崩れた。彼女の意識が三十半ばになるのは、大体一週間に一回程度だ。だから、大人のヨウコにとって、れいなはすぐにヨウコを避け始めたように見えたが、実際はそれくらいのブランクがある。彼女は自分のほうが大人なつもりでいたが、ヨウコのもとに「気にしない方がいいよ」「関わらないほうが良いよ」などと親切ごかしたアドバイスをよこすクラスメートが何人か現れて、れいなはその深刻な問題をみんなに話しているのか?と内心首を傾げたのは束の間、もっと得心のいく仮説に思い当たり、青ざめた。

 私が、れいなの家の事情をみんなに言いふらした。

 ヨウコは昔、感情表現に乏しい暗い子供だった。泣いていると、大体「しょうもないことで泣くな」と母親に怒られるからだったのが、そのせいなのか「泣く子」は今でも苦手だ。

 事情の深刻さと涙は、比例関係にない。だから、泣いていても事情は分からない。このやり直し期間では、三十半ばの経験を活かして天才になることは出来ない。同様に、れいなに罪悪感を抱いたとて、自分の無神経な振る舞いを、自重することもできない。

 ヨウコは、もし「当時の」自分が両親のトラブルで不安定になっているれいなの心境に触れたとき、どう振る舞うのか、正しい想像をすることができない。できないが、彼女は、他人の心には疎く無神経なところがあるという自覚がある。れいなも、勘づいていたように思うのだ。だから、前の世界線で、れいなとヨウコは一応仲が良かったものの、彼女はヨウコに家庭の悩みを相談することなど無かった。けれど、この世界線のヨウコには、たまに三十半ばの意識がある。

 子ども特有の鋭さで、れいなはヨウコに実年齢以上の包容力を感じ、懊悩を打ち明けようと思ってしまった、のではないか。れいなの勘は鋭いと言えるが、結果から見れば、愚策だったわけだ。

 少年は、記憶障害が起こると言っていたが、年を経てヨウコが今の自分の情緒と同じ、三十半ばになったとき、自分自身は、れいなに何をしたか、何を言ったかなんて、忘れてしまっているだろう。

 彼女は、その事に改めて恐怖した。どうにも後味が悪く、三十半ばの意志があるヨウコは、彼女に謝ろうと機会を伺ったが、れいなは以降、ヨウコに心開くことはなく、当たり障りのない会話を数度するだけで、疎遠になった。そのうちに、れいなは学校に来なくなり、それは卒業まで続いた。


 撚った糸を隙間なく空に並べたような曇天だった。ヨウコは大人になり、少年と向き合っていた。

「ジャネーの法則というものがあるらしいよ。年を取ると、時間が経つのを早く感じる。今まで過ごしてきた分が分母に、時間経過を感じる基準となるから、と、そういう理屈らしいけど、君は今の年齢に追い付くまで、自分の半世を編集したのだから、実際早いのは、当たり前かもね」

 少年は、饒舌だった。こんな顔だったかしら?と、十数年前の、朧気な記憶を探ったが、知己のように振る舞っていても、たかだか十分程度話したことがあるだけの知人である。思い出せない。ヨウコは、思い出すことを早々に諦めたが、なぜだか、彼もどんな顔をしたか忘れて、適当に顔を作ったんじゃないかという疑念に駆られた。

 喫茶店は、以前少年と話した時と、同じ店だ。けれど、ヨウコの立場は大きく変わっている。いちばん大きな違いは、ヨウコはとっくの昔に仕事を辞めて、子どもがいる、という事だ。

「で、どうする?この人生はどうだった?」

 彼女は、悪いことを咎められた子どものように、肩を竦めた。これまで何度も、自分には関係のないことだと思い込もうとしてきたのにも関わらず、やはりれいなの顔を思い出してしまった。いや、正確に言えば、れいなの顔だって、ヨウコはちゃんと覚えていない。もう二十年以上会っていないのだから。彼女の頭にこびりついて離れないのは、ローカル紙やネットニュースに、れいなの自死の報道が、小さく載っていたことだ。

 年齢や所在地から察するに、同窓生のれいなだと、ほとんど疑う余地はなかった。けれど、ヨウコが「元々いた世界線」でだって、れいなは死んでいたかも知れない。私がれいなに対して罪悪感を抱いていて、彼女のその後を気にしていたから。私が、変えたと言いきれるものではない。いや、変えていないと、言いきっても良いくらいだ。私ごときに、そんな影響力は無いはず。

「顔色が悪いね」

「え」

「上手くいかなかったのなら、もう一度やり直せば?チャンスは後、二回ある」

 彼女は寸暇の間、考えて、首肯した。

「すぐに諦めるんだね、今を」

 ヨウコは青ざめながらも、ムッとした。

「あなたに、そんな事を言われる筋合いはない。あなたなんか所詮、他人の悩みに首を突っ込んで引っ掻き回すことでしか、存在意義を確認できないんでしょ」

 ヨウコは目を伏せた。

「私は、あなたにどう思われようと、一所懸命だもん」

 少年も、眉根を吊り上げた。嫌みの応酬を始めるのかと思いきや、彼は意外にも優しい声音で言った。

「で、何故なのか、聞いても良いかな。後学のためにさ。君は優しい旦那と可愛い子宝に恵まれて、幸せを手に入れたんじゃないの?」

 少年が、本当は、ヨウコの悩みを知っているんじゃないか、知っていて、ヨウコの口から言わせることに、背徳的な悦びを見いだしているんじゃないか、と邪推したが、彼女は言った。

「幸せ、じゃない」

「だから、なんでさ?」

「夫は、浮気してる」

「だから、なんでさ?」

「私に、モラハラって言うか、些細なことで、文句を言うようになってきて」

「それが、なんだって言うのさ」

「それが嫌なの」

「やり直したいほどに?」

「そうよ!嗤わないで」

「嗤ってないよ」

 嗤っている。憎たらしい悪魔だ。

「なんなの?後学のためと言うならね、真剣に考えているフリくらい、しなさいよ」

「ふうん、じゃあ言わせてもらうけど」

 そう言って、悪魔は身を乗り出した。

「君、ほどほどに不幸慣れ、してんじゃない?」

「なによ、それ」

「だからさ、君は安全圏で普通の幸せを望んでいってて、ほどほどに努力している。だから、僕から見れば、始めから今まで、やり直す前ですら、君はほどほどに幸せで不幸に見える。君は、自分自身を、瑕疵の無い幸せに恵まれるに足るほど、良い人間だとは認められないんだろ?」

「どういうことよ」

「夫が嫌なら、別れれば良い。一人が嫌なら稼げば良い。できない理由がある人を除いて、そう、人間社会の軛である法律でもあろうものなら話は別だが、そういうどうにもならない事情は、会話にすらのぼらないのさ。けど、この世のみんな、僕から奇跡を賜れずとも、望み通りに生きているのよ」

「つまり、何が言いたいのよ」

「君はこのまま、この世界線を過ごしても、どうにもならないと思っているね。男が浮気しても、君を尊重しなくても、君なんてその程度と甘んじる他ない。そう君自身がそう思っているね。なんでさ?後学のために、教えてくれよ」

「そんなこと思ってない」

「ふうん。なら、今の結果を受け入れれば良いじゃないか?」

「うるさいな。契約通りでしょう。ごちゃごちゃ言わずに、早くやり直してよ」

「なんだか態度が悪いなあ」

 悪魔は肘をついて、ヨウコの顔をねめまわした。

「それも、あなたに言われたくないわ」

「僕はね、嘘はつかないけど、気紛れなんだ。加えて、君たちが思うところの魔力、特殊能力が高いわけでもないから、大厄災を引き起こすことはできないのさ。その代わり、僕たちは何者にも使役されていないからね。僕が気に食わなければ、君をこの世界線に放置することは、出来るんだよ」

 ヨウコは、ギョッとした。

「そんなの、契約違反よ」

「そう、じゃあ裁判所に訴えて、逮捕状でも出してもらうんだね」

 少年はせせら笑った。

「い、嫌よ。それなら、まだ元の世界線の方がマシよ。戻してよ」

「ふふん。だから、なぜ?答えるか、答えないかは、君次第だよ」

「卑怯者」

 少年は目を細めた。

「分かっているんじゃないの?」

「知るはずないだろ」

 ヨウコは、しぶしぶ答えた。

「別に、大した理由じゃないわ。昔仲良くしていた同級生が一人、亡くなったの。私の、せいかも、と。たぶん違うけど、目覚めが悪いの」

「ふうん、なるほどね」

 少年は、気のない返事をした。

「ほらね、そういう反応がムカつくから、言いたくなかったのよ」

「ふうん、じゃあ、どういうリアクションなら気に入るのさ?」

「そんなの」

 あなたには分からない、とは言わなかった。言い淀んだその隙に、少年がことばを繋いだ。

「人間の不満なんか知らないよ。不満ってことは満足していないってことだろ。不思議なことに、どれだけ物質的に満たされている人間でも、満足なんかしないのさ。対立するイデオロギーは宗教か哲学くらいのものだ。だからこそ、僕みたいなものが存在できるんだけど。けど、この場に限って言えば、君が言われたいことなんて、赤ちゃんにも分かるよ。お友達が死んだのは、君のせいじゃないって言えば良いんだろう?」

「違う。そもそも私の責任とは思っていない」

「いいや、初めから想像だにしていないことを、言うわけはない。ましてや君は、ことばにしてそう言った。そう言ったということは、そう思ったんだ。君のね、頭が否定しても、君の心は、そう感じているのさ。友達の死と君の存在、君の魂に因果関係があると。それを踏み越えて歩みを進めると、今度は、所詮悪魔だと見下す僕の存在と、自分が同等だと感じずにはおれなくなる。ますます「普通の幸せ」が遠退くね。だから、やり直すしかない、というわけだ」

 少年は、それだけ言うと、またじっくりとヨウコの顔を眺めた。

「良いねえ。君、なかなか良い。気持ちが表情に出る人って、好きさ。僕、生きてるって感じがする」

「あんたなんか」

 死んでしまえば良いのに、ということばを、ヨウコは呑み込んだ。それを言っても、少年には塵芥ほどの意味もない。いや、悦ばせかねない。彼女に罵倒されることではなく、彼女が動揺を見せれば見せるほど、この悪魔は喜ぶのだ。

 毎年二万人の自死者が出る国で、一人頭の知り合いが百人いるとしたら、誰かの死に後ろ暗い気持ちを抱く者は少なくないだろう、と少年は言った。喜んでいた。これは良い手だ。

 少年に、どう見えているか知らないが、ヨウコは背徳感を捨て去らなければ進退窮まる、袋小路に追い詰められていた。妊娠し、子どもを産むまでの一年弱は、以前の世界よりも幸せだという確信があった。

 けれど、今は自分が精神的に未熟なまま母親になってしまったのではないかと疑い、以前と比べ物にならないほどの重圧、不安、焦燥感を抱いて、生きている。子どもの躾や教育、学校に蔓延るイジメの噂。信用できない教師。目敏く耳敏いご近所付き合い。ヨウコの不安に無関心な夫・・・。

 些細な不満だと、少年は言う。そうなのだろうか、と首を傾げる。決して命を奪うほどの苛烈さはない、けれど、真綿よりは過密な、この閉塞感に耐えながら生きることが、幸せなのか、と。ヨウコが生き辛さを抱えているのは、単に時代のせいなのかも知れない。実際、忙しく立ち動いていれば、れいなのことなんて、忘れていることの方が多いのだ。

 しかし、れいなの不幸の引き換えとしては、あまりに冴えない半生である。

「やり直したい」

 ヨウコはそう繰り返した。

 そして、気付いたときには、また戻っていた。彼女は十六歳。場所は、五階建てマンションの二階。母と二人で暮らしていた頃の部屋だ。彼女は寝ていたらしく、半身をむくりと起こして、辺りを見渡した。そして思った。少年のやり方は、実年齢との差が大きければ大きいほど、自制は行き届かず、不確定要素が増し、目指す未来との解離は大きくなる。(やり直しにあたり、肉体と魂のどちらを実年齢とするのが正しいのかは、分からないが)

 彼女の精神・三十五歳からすれば、十六歳も、約二十年前のこと。前回とさして変わりない気もするが、この時、彼女には忘れられない出来事があった。そういえば、私が十六歳の時、母はちょうど四十歳になった。洗面台に立って、自分の顔を覗き込んだ。

 昔、男に、デブだと酷いことを言われてフラれたことで、無茶なダイエットをしていたのが、この頃。母との関係も、加速度的におかしくなった。ダイエットと言うだけで、色気付くにはまだ早いと罵られ、「性への関心をコントロールする方法」とか「ハイティーンに読むべき本」などという興味のない哲学の本を、何冊も読むことを強いられた。こちらが気にしていること・ニキビも体重もお構いなしで、「あなたはこれが好きだから」とおかずを大量に作り、残すと感謝が足りない、と、また怒られた。

 暗い気分になりながら、彼女は改めて鏡を見た。私の精神年齢は、この頃の自分よりも母に近い。母の言っていることが、今になっても、まるで理解できないわけではない。たとえば「気にするほどには太っていない」という言葉だ。それに続く「自意識過剰」ということばは、ヨウコの自尊心を傷付けるだけの嫌みだったが、三十半ばのヨウコから見れば、十六歳のヨウコは、我ながら、肌がキメ細かく、チークを塗らずとも頬は常に朱みがあって、可愛い。頬骨やエラが出ているのが気になって、この頃持たせてもらった携帯電話で、手術で削り取れないか真剣に悩んでいた。

 モデルのアンナ・Jは、清純派の女優としても売り出され、レギュラーで出演した洋ドラマは大ブレイク。ヨウコは彼女のファンだった。しかしアンナは突然「音楽がやりたかった」と宣言し、撮影をサボるようになったらしい。脚本にもそれが表れ、迷走した。主人公への劣等感と葛藤しながら成長してゆくヒューマンストーリーのはずが、ドラマのアンナは、違法ドラッグの売人にまで転落し、更正のため全寮制の学校へ行くことになった。彼女は女優業を辞めた。

 ヨウコは落胆した。けれど、母に愚痴をこぼすと、ヨウコが話すアンナの芸能界での活躍よりもむしろ、ドラマでの転落ぶりや彼女の野心が周りを振り回している、という「娘の教材」を得たことに喜んでいるようだった。それでも、とりとめの無い話をするだけの気持ちが、ヨウコにはまだあったのだ。

 母はこの頃、娘に理解を示すよりも、娘に尊敬されたかった、愛されたかったのだろう。それに、娘の貞操を心配する気持ちも本物だったのだろう。

 母は、自分の姿形や能力、運命を受け入れることを、ヨウコに説いた。そして母にとって、子は、愛したぶんだけ愛されることが、当然だった。それを運命だと思い込んでいた。たとえ子から疎まれても、子が幼いから、親の崇高な教育理念や深い愛情を、感じ取れないだけだと思っていた。だから、母は、娘が運命から逸脱することを許さず、矯正することに執着した。

 ヨウコは、これが無ければ私の人生はもっと華やかだったと、傾国の美女・クレオパトラさながらに、当時本気で憎んでいた頬骨を撫でた。今では、かつてほどの嫌悪感は無い。しかし、それは自分を好きになったのではなく、思春期ほど容姿に執着しなくなったに過ぎない。その代わり、三十半ばのヨウコは、鏡の中にしょっちゅう母の面影を見つけるようになり、目を背ける。

 容姿への欲には底が無いが、美への自信を失うのは一瞬だ。心根や、母のいうような運命など、他人に見えはしないし、鏡にも映らない。

 母とは、少ないながら今も交流があるが、ヨウコにとってこの頃のイメージが一番鮮烈である。くっきりと顔に刻まれた中頬線。疑心暗鬼に満ちて、揺れる視線はいつも鋭く、なんでも無いようなことを責められるのが鬱陶しかった。

 彼女は、顔をさすった。親子だもの。似ているのは、当たり前だ。母のようになりたくないから、と、運命を否定したり顔を装うことに必死になればなるほど、母の方へ手繰る見えない糸の力が、強まるような気がした。それにより一層逆らうため、二十代の頃のような、我武者羅な気持ちを持ち続けることに、今はもう疲れてしまった。結局自分の半生に納得がいかないまま、老いていく。

 そうか、だから少年は近寄って来たのか。選んだのは私なのか。けれど、こうして奇跡によって選び直す機会を与えられると、結局、彼女に選択の余地はほとんど無いように思える。いや、選択肢はある。けれどそれは、ほとんど同じ結果に収斂していく、人を磨耗させるだけの、無数の、意味の無い選択肢なのだ。

 ヨウコは目を閉じた。彼女がここに戻ることを選んだのには、理由がある。

 隣人の男の人だ。鍵を持たずに家を出た。帰った時には母が外出中で、初めて自分のミスに気付いた。立ち往生していることに隣人が気付き、自分の部屋で母の帰りを待てば良いと言った。ベランダには二メートル半ほどの仕切りがあるが、火災など「もしも」の時のために蹴破れる。とはいっても、そこまでものものしい事をするのはかえって迷惑かとおもい、隣人の厚意を受け入れた。

 単身独り身であることを全く警戒しなかったわけではないが、十代の嗅覚など大したものではない。母の帰宅時間を気にしながら、ネットカフェに籠るのも億劫で、隣人から知己のように誘われて「そういう話」が出なかったことから、ヨウコは渡りに船だと、むしろホッとしていた。

 そして彼女は隣人に押し倒されたのだが、ヨウコが騒いだので未遂に終わった。事態を知った母親は、隣人と何か話をして、どういうわけか、彼と和解してしまった。彼女の記憶に残るのは、慰めの言葉ではなく、叱責だった。ヨウコの方から誘いをかけたという疑いすらかけられ、彼女の自己肯定感はこの時、地に落ちた。

 ヨウコは考えていた。れいなの時のように、断片的に三十半ばの意識があるだけの、この「やり直し」は、ただ「起きた出来事を起こらないようにする」というのは、予想だにしない揺り返しのリスクが高い。となると、ハイティーンの自分が、母に知られないうちに、隣人に幻滅するよう、誘導できれば良いのだ。

 しかし、どうしよう?と、ヨウコは悩んでいた。結局事が起こってしまえば、三十半ばのヨウコが母に黙っていても、ハイティーンのヨウコは母を頼ってしまうかも知れない。隣人に対して「怖かったけど、母に言うほどではない」くらいの思いを抱きたい。そう思うのは簡単だが、自分のことであってもハイティーンの時の情緒を全て記憶しているわけもなく、具体的にどうすれば良いか、よく分からない。

 彼女は作戦を考えた。

 危険にも思えたが、下手にこの日鍵を持って家を出る、というような事はしない。別の日に、同じようなミスをするかも知れないから。とりあえず隣人の誘いに乗り、軽いボディタッチがあった場合、すぐに外に出る、というのは、どうだろう?十代のヨウコは、怖いと感じるに違いないし、母に漏らしてしまえば、二三の嫌みくらい言われるかも知れないが、トラウマという程にはならないはずだ。

 不確定要素が多く、不安は大きかった。取り分け、隣人がどんな人物だったか、ほとんど覚えていないことが、恐ろしい。襲われた時の恐怖、パニック、当時の感情ばかりが先によみがえり、帰納的に「女子高生への劣情を抑えられない、イヤらしく卑怯な男の人」という印象を、つい持ってしまう。けれど、よくよく思い返すと、母と和解した事に加え、そもそも自分自身が誘いに乗ったことから、「普通の人」だった、少なくとも当時の彼女には、そう感じられていたのだ。だからこそヨウコは、彼のことをほとんど何も覚えていない。

 やり直すのであれば、人並みに男あしらいの経験がある三十半ばの意識の方が良いという確信はあるが、問題なのは、記憶に無いだけで、隣人が凶悪さを周囲に悟らせないだけの狡猾さが備わっていた場合だ。本来の過去では、なぜか襲った娘の母親の対応が柔らかかったために、隣人の感情を逆撫でしなかった。だから、ヨウコはそれ以降付きまとわれることなく無事だった、ということもあるかも知れない。自分が今まで生きてきた世界の「メリット」は、外側から改めて眺めると、想像以上に気付いていなかったことも多い。

 今回、ヨウコが中途半端な知恵を巡らしたことで、その場はうまく切り抜けられたとしても、隣人から逆恨みされる、などということは無いだろうか。まさか、くびり殺されたりは、しないだろうか。

 前回、れいなを含む同窓生や先生の記憶は、やり直しの人生を始めると同時に甦ってきた。けれど、今は、再びやり直しを始めても、隣人の記憶が殆どない。つまり時を経て記憶が失われたのではなく、はじめから無い、よく知らない人ということだろう。


 可能性と不確定要素(リスク)は表裏一体だと、三十半ばにしてヨウコは思った。やり直しにより、幾本もある道をヨウコは選び直すことができる。その中のどれかは、ヨウコの望む道にも繋がっていようが、勝率の良い賭けとは言えない。

 母の顔を、久しぶりに見たはずだった。やり直しの前の世界線で、母との関係は良くないので緊張していた。けれど、心配は杞憂に終わった。

 夕飯の時は自然と一緒に机を囲んだ。母からは何も聞かれず、ヨウコも何も言わない。会話が無いので、どちらともなしに、テレビを付けていた。食事を終えると、ヨウコは母の分まで食器を片付けて、母は風呂の準備をしに行った。

 明晰夢というものがある。これは夢だと気付く夢。やり直しの世界線は、明晰夢に少し似ている。「今」「ここ」で食器を洗っている感覚は、紛れもない現実だが、ヨウコの意識は、やり直す前の世界線を基礎に構築されている。その差分で、この世界線を推し測ろうとしている。また、そうしなければ、現実を認識できない。その上、意識が飛び飛びになるものだから、触れるもの、起こることに、なんとなく現実感が沸かない。

 母との関係は、こんなものだったろうか。こんなものだろう。違和感があっても、受け入れなければいけない現実。その無情さに、ヨウコのような平凡で平和な世界に生きる女は、泣き叫ぶでもなく、ただ擦りきれていくのだ。もしかしたら、母もそうだったろうか。母は自分の娘であるヨウコに、夢と運命を重ねて託したのかもしれない。

 ヨウコの目から、不意に涙がこぼれ落ちた。母の心中を思ったわけではない。彼女が無かったことにした、以前の世界線の子どもの事を思い出したのだ。罪悪感を覚える必要はない、と、彼女は例のごとく自分に言い聞かせていたが、彼女に沸いたのは、また別の感情だった。

 彼女の意識が途切れることがなくても、子育てしていた頃のことは、まるで夢の中のようだった。夢見心地と夢中で、まるで意味が違うのはなぜだろうか。夢を見るのはのんびりとでも出来るが、夢幻の住人は、大変なものなのかも知れない。夢の中から現実の成功を掬い上げようと、一所懸命に、旦那の態度が酷くなってからは、その日々が幸せなどと、感じる余裕も無かった。それでも、今、子どもに会いたくなるなんて。私は私のために、やり直すことを選んだのに。

 彼女は翌日、一瞬迷った後に、やはり鍵を家に置いたまま自宅を出た。おぼろ気な記憶ながら、体が真っ直ぐ学校へ向かう、という習慣の力には、驚かされる。昨日の気鬱が、少しは晴れるほどに。

 突然、真っ直ぐに続く歩道がグニャリと曲がり、ヨウコは手すりを求め、民家の石垣に手をついた。周りをよく見ようと目を見開くと、そこには少年がいた。

「今、何をしたの?」

「別に、なにも」

 そう言いながら、少年は手持ちぶさたに耐性が無いらしく、不躾にも傍らで紅く咲き誇る寒椿を、手折り落とした。

「そんなことしなくても」

「すぐに落ちるのに?はは、そうだね」

「何かよう?」

「別に。どうかな、と思って。今度はうまくいきそう?」

 ヨウコが答えなかったからだろうか。少年は、なぜか自分が落とした花を、気の毒そうに眺めてから、言った。

「君は、不死鳥ってどう思う?あれは悪魔だと思う?それとも神様の使者だと思う?」

「なに?突然」

「僕は、人ような朽ちる肉体を持たない、人に従属する概念的な存在として、人の思考を考えることが多い。不死鳥という、あの怪鳥は興味深いモノだと思ってね」

「怪鳥?むしろ、神々しいイメージがあるけど」

「そうだろうね。輪廻転生を信じるアジアの人間たちには、世の理を具現化したように映るのだろうさ。もちろん他の地域で、ただ忌み嫌われているというわけではないけれど。最後の審判を持って生命は終結する、と信じる人間たちには、受け入れ難い部分がある。人間様に劣る禽鳥が、神の裁きを受けることもなく、無限の命を生きる、というのだから。祝福なのか、業なのか、混乱極めり、判断がつかない」

「なんだか感傷的ね。あなた、死ぬのが怖いの?」

 少年は目を見開いた。

「君は、平凡だ。けれど面白味がないわけじゃない。なんでかなあ。ぐずぐず悩んで、無い物ねだりをする。愚かな人間のはずなのに、僕のような得体の知れない者の言うことに耳を傾けて、僕は一体なんなのか、探ろうとしている挑戦的なところは、面白い」

「自分がその不死鳥みたいな存在だとでも言いたいの?」

「違うね。僕は死ぬ。というより、消滅し得る。僕は、初めにことばがあって、その空隙に生まれ、巣くう者だ。どこにいようと、昔の人は、もっといろんなものを恐れていた。そして、いろんな名前を付けた。それだけなら良かったが、今、僕らのニッチ(生息区域)はそれほど多くない」

「科学的に、怪奇が自然現象や人のやることだと、証明されたから?」

「そう言ってあげても良いけど、大正解とは言えないね。たとえ理屈が分かっていても、予測のしようが無いのが生命だ。だから、人を惑わす存在である僕らが、怪奇はない、ただそれだけの理屈付けで存在を脅かされる事になったとは言えない」

「じゃあ、なぜあなたは昔よりも消えやすい存在になった、と言うの」

「僕らが惑わす事もなく、人は惑うことが多くなったから」

 彼は寂しげに言った。

「は?」

「集団の愚昧が顕著になった。とは言え仕方がない。情報が少ないうちは、ある分の情報で、なんとか対処しようとする者が多かった。そこに僕らが一見より良い選択肢をぶら下げてやれば、惑わずにはいられない。けれどね、今は違う」

「情報があるんでしょう。それらを精査され、正しい解答を出せるのだから、確かに人が迷うことは少なくなるでしょうね」

「そうでもない。正しい、正しくないなんて、どうでも良いのさ。情報が多いということは、相手が自然だろうが人間だろうが、排斥を正当化する理由が増えるだけ。都合の悪い存在は無かったことにする、というのが、短絡かつ狭い視野の中でのいちばんの合理なのだから。神をも恐れぬ人間は、その代わり、些細なことで憎しみ合うようになった。排斥される者と排斥しようとする者の直接的な対立が激化し、僕らの入り込む余地が少なくなったということなのさ」

「そんな、人間がサイコキラーみたいな言い方」

「個体の話じゃないよ。大勢いれば、その中のいくつかはおかしい。それは可能性の話だ。しかし、僕が言うのは、社会構造のことだ。君たちは、個としての幸せを求め、競争し、高々十年二十年程度の物質的な充足感を比べて、合理を判断する。次いで、食料。今の場合は富だが、それを独占し、元手から更なる富を産み出すため、必要以上の対価を求める。今度は当然、必要以上に富を蓄える者を排斥しようという心理が働く。富豪は貧者に倫理だの理だのを説こうとするが、当然、生きるか死ぬかの問題を抱える者にとって、そんなことは大した問題じゃない。次に起こるのは暴力だ。富豪と貧者の暴力は、どちらが勝つか。百年前は、数の暴力が世を変えた。けれど、今は火力が物を言う時代だ。人間は、誰も彼もが、結局は暴力を愛し、そして服従している。君たちは、このどうにもならない情報の海の中で翻弄され、そして狂っていく。」

「本当に失礼ね。それを言うなら、私たち人間は、あなた方が死のうが消えようが、別に構わないのよ」

 冷たいなあ、と少年は独り言のように呟いた。

「なんなの?私、学校に行かなきゃいけないんだけど」

「そうだ、僕はひとつ、君に助言を与えようと思って来たんだ」

「さっきまでの、なんだか嫌な気分になるだけの話からして、あなたの言うことは、まるで信用できないわ」

 少年は、ニヤリと笑った。

「まあ、聞きなよ」

 彼は革靴のかかとで、コツコツとコンクリートを叩いた。ヨウコは顔をしかめた。あれは牛だろうか。彼に指摘されずとも、人間の消費生活が世界のバランスを崩していることくらい、ヨウコは知っている。、それに、罪悪感を、日々感じないふりをしている自覚くらいある。だってどうしろ、と言うんだ。それこそ、世界を変える、なんて、ビジネス目的の恥知らずか、本当におかしくなった奴が言うことじゃないか。悪魔ごときに説教されたくはない。

「自分のさ、母親を殺してみたらどう?」

 少年は、気分転換に散歩でも、というような調子で、ヨウコに殺人を薦めた。

「は?」

「君が、自分の転換期だと感じているこの時に、あえて「記憶と同じ行動」を取っている。分かるよ。このやり直しのルールでは、自分の望む未来に誘導するのが難しい、と思っているんだろう?」

「それがどうして、母を殺す、なんて突飛な発想になるの?」

「君のような凡人にとって、それが一番手っ取り早く非日常へ繋がる道だから」

「以前よりずっと悪い方へ行くわ」

「なぜ?まるで人を殺したことがあるかのような言い方だ」

「それこそ、社会から排斥される」

「ははは、君というコンテンツに、そこまでしなければならないほどの影響力は無いよ。それにさ」

 

少年は言った。

邪魔なんだろ?

何も、自分で手を下さないといけないってわけでもない。

一緒に住んでいるんだ。いくらでもやりようはある。

「あと、もう一回あるし、ね?」

「やめてよ」

 ヨウコは思わず耳を塞いだ。少年は、手を叩いて喜んだ。

「そう言って、本当に私が殺る人間だったら、どうするの?」

「どうする?どうするも、こうするも、素晴らしい発見じゃないか」

 言いたいことだけを言って、瞬きした瞬間に、少年はいなくなっていた。思わず仰いだ曇天を、申し訳なさそうに山茶花の葉が彩っていた。

 久しぶりの学校生活は、それほど良いものでは無かった。少年に、憂鬱にさせられたということを差し引いても、感慨深いのはものの十分。このやり直しの期間では、ヨウコに三十半ばという本来の年齢の感覚はあるのだが、どうも、情緒はそれに付随しないらしい。

 と言うのは、友達と喋ることや懐かしいはずの先生、過去が鮮明に甦り昂るが、長くは続かない。当時のように、それが当たり前であるからこそ、一瞬である。

 ・・・さて、ここに出てくる鳳凰とは、うん。ゲームでお馴染みなのか。だが、もともとは中国で瑞鳥と崇められた幻獣だ。雄を鳳、雌を凰とし、高貴な有職紋様にあしらわれる事も多く。

「ボーッとしているな。何か質問は無いのか?」

 ヨウコは教師に問われた。

「不死鳥と鳳凰は、どう違いますか」

 謝罪を期待していたらしい教師は、一瞬目を丸くしたが、突発的に口から出た彼女の質問が気に入ったらしく、どちらかというとユーモアに欠けていて退屈な古典教師は、ふーむと唸った。

「鳳凰は前漢の時代に記述が残っており、頭は鶏、頷は燕、頸は蛇、背は亀、尾は魚というキメラのような様相だが、これは端午の鯉のぼりと同じ五色、つまり仏教においての如来の知恵や精神を象徴している。対してフェニックスはエジプト神話の霊鳥で、名前の語源は赤色を指し、火の鳥とも言われる。元々は別の鳥だが、長寿の霊鳥という類似点からか、ふたつは混同される事がある。フランの写本に残るフェニックスは、鳩に似ていて風切羽と尾のみが赤かった。まあ、実際には存在しない生き物だが、鳩の首が角度によって違う色に見えるのは、構造色というが、これは化学の時間に学んでもらうとして」

「それでは、不死鳥は悪いものですか?」

 ヨウコは教師の話を遮り質問を重ねた。彼女の態度に、疑念を抱いたクラスメートの視線が注がれたが、三十半ばのヨウコはそれで怯んだりはしなかった。

「フェニックスはソロモン王が使役した精霊のひとつであると言われる。現在のイスラム教とキリスト教の関係を考えると、フェニックス悪魔と呼ばれることもある。個人の嗜好はあるだろうが、霊鳥であっても瑞兆とは限らない、くらいは言えるだろうな」

 意味が分かりません、というヤジがとんだ。ヨウコは、ありがとうございます、と言って話を切った。

 集中して聞くように。教師はまた、教科書に視線を落として、教室の空気を支配し始める。彼女は変わらず憂鬱だった。

 良いものか悪いものか、自分で自分を決めることができない、概念の狭隘に墜ちた存在。少年は、フェニックスに共感しているのか。失礼で図々しい存在だと思っていたけれど、案外繊細なのかも知れない、と、ヨウコは思った。

 ぼんやりとしたまま一日の授業が終わり、帰路についた。そして、ようやく思いだし、緊張してきた。そういえば、これからヨウコは、隣人の男の人に「襲われる予定」なのだった。

 本来の世界線では、母に知られずにはおれず、結果母への不信感にもつながる大事となった。しかし、今回は母に知られないように上手く躱し、十代の自分自身には、その後隣人には近づかない程度に、危機感を植え付ける。

 酸いも甘いも噛み分けた、とまでは言わないが、男あしらいなら三十半ばのヨウコに一日の長がある、はず。

 予定通り、というのも妙だが、鍵を忘れて自宅に入れないヨウコは、玄関前でたたらを踏んだ。チラっと隣の様子をうかがった。母が戻る深夜まで、時間潰しのために、十五分かけて駅前に戻り、ネットカフェで多くはないお小遣いを遣うのは癪だ。確か、あの時はそんな気分だった。今もそんな気分だったが、ヨウコはなんとなく振り返り、手すりに手をかけて景色を眺めた。自分の人生をやり直している間、三十代半ばの意識があるうちは、当時の気持ちを思い出しながらも、どこか厭世感があり、彼女はよく景色を見ている。それが、手放したくない、かけがえのない、大事な光景だからというわけではない。ここを変えれば、何か少しは変わっていたかも、と思う曲面に戻っても、特に何かできるわけではない。無期限に、永遠に、同じ時を繰り返せるのだとすれば、どこかで自分を納得させられる程度の変化はあるのかも知れないが、自分自身が何か特別な能力を持つわけではない。だから、ヨウコは途方に暮れて、景色を眺めるのだろう。

 ため息をついた。誰にだったか、ため息をつくと幸せが逃げると言われたことがあるけれど、ため息をつこうがつくまいが、何も変わらない。説教にしておためごかしなどせず、辛気臭いから止めろ、と言えば良いのに。成長への憧れを、いつの間にか年齢が追い越してしまった焦りや失望に、うまく適応している人は、殊の外少ない気がする。ヨウコとて、それを責められるような「例外」の人間ではないのだけれど。

 ぼんやりとしていると、背後に視線を感じたので振り返った。痩身で猫背、無精髭を生やした男が、褞袍を女のようにかきだき、蛇のように細い目でジットリと見つめていた。ヨウコと目が合うと、「あ・ごめん」と言う。その部屋の居住者でありながら、自分の風貌が不審であると認めているようだった。

「あ、いいえ」

「お母さん、待ってるの?鍵、無いの?」

 まるで幼児に語りかけるような猫なで声を不気味に感じ、目を伏せて黙っていると、隣人は部屋の奥へ消えていた。ヨウコは呼び止めるわけにもいかず、焦った。私は、彼の甘言に騙されて、イタズラされそうになったのではなかったか?そんなトラウマをよもや忘れるはず無いと思うのだけれど、現に隣人は、ヨウコにしつこく構うことなく、部屋に戻ってしまった。そうだったろうか?

 彼女が呆然と立ちつくしていると、隣人は再び戻ってきた。

「ホイ、これで時間つぶしてきたら」

 そう言って彼がヨウコに渡したのは、金だった。

「う、受け取れません」

「え、じゃあ、どうするの?」

 ヨウコはやはり戸惑っていた。記憶の中の隣人より、実物の方が、人好きのする人物だったからだ。妙に高い声や、なぜか左右不均等の顔の動きがどこか気持ち悪く、風采の上がらない格好もあいまって、黙って視線を送られると、変質者のような印象を受けるのだが、少なくとも、無理やりヨウコを部屋に引きずり込もうとするような異常者ではない。みすぼらしいと言えばみすぼらしいが、ボサボサとした髪にフケは浮いておらず、着ているものにシワが覆いが、染みはない。清潔感もある。

 断ったとは言え、大して親しくもない女子高生を自分の部屋で待たせることはせず、金を渡すという機知や配慮は、好ましいとすら感じた。安易に金を差し出したり、途方に暮れている相手にどうするか聞くなど、不器用なところも感じるが。

 何より、当時は「おじさんに襲われた」というイメージが強烈だったが、いざ隣人を目の前にしてみると、二十代後半から三十前半というところで、おじさんと言うには若すぎる。無精髭や目の下のクマが実年齢より老けて見せていることを考慮すると、もっと若いのかも知れない。なぜ、当時の自分が感じた年齢とそれほど解離があるのか疑問に感じ、少し考えてから、自分の年齢が今三十半ばだから、という理由に思い至りショックを受けた。

「どうするって・・・」

 口ごもっていると、彼は「うーん、じゃあ、俺んちで待つ?散らかってるけど」と、気乗りせぬように言った。来た、とヨウコは思ったが、即答するのも変だと思った。「あの、ご迷惑じゃありませんか」と言った。

「迷惑っていうか。うーん、大丈夫かなって。ちょっと待ってね」

 隣人はなかなか煮え切らなかったが、結局部屋を少しだけ片付けてきたと言って、ヨウコを招き入れた。

 廊下から居間にかけて、物が多くなっていくのが見通せた。隣人の「片付ける」は、本やティッシュの箱など細々したものを、部屋の縁に寄せただけの事だった。それを全て収納するだけの抽斗やタンスなどの大型家具が、この部屋には無いのだった。

 不意に、平太君(以前付き合っていた恋人)のことを思い出した。平林さんと天秤にかけた、あの日。将来性を考えれば比べるべくもなかったが、独身男性の、この匂い。柔軟剤とは違う、子供時代を引きずったような押入の樟脳と皮脂が混じりあったような匂いに、ヨウコは弱い。ヨウコはハッとして頭を振った。隣人に色気を感じて、どうすると言うのだ。

 振り返り、施錠されていないか確かめた。隣人が変な気を起こしたら、すぐに逃げるのだ。彼の動きに警戒していなくてはならない。

 ところが、隣人は終始ヨウコ以上に戸惑っていて、愛想無く、しかし彼なりに持てなそうとしているのか、お茶やらマンガ雑誌やらを、雑念とした机に並べるなどしたあと、「じゃ、俺、隣にいるから、何かあったら言って」と、襖で区切られているだけの隣の部屋に引っ込んでしまった。ヨウコは唖然とした。彼女の記憶以上に、隣人は女慣れしていないようだった。これで、どんな間違いが起こるというのか。この奥手ぶり、ヨウコが隣の部屋に行って、彼にしなだれかかったとしても、それを真に受けて押し倒す姿すら、想像が難しい。

 貞操の危機は杞憂だったのだから、それはそれで結構だが、するとこれからどうなるのだろう?ヨウコは、今この時隣人に好感を抱いて、それが十代のヨウコに引き継がれる。隣人に対して無防備な態度を続けた結果、十代の精神の時に襲われ、運命は変わらない、ということにならないか。

 ヨウコは焦った。どうしよう。過去を「ある時期」まで同一の運命にするためには、隣人に襲われなければいけない。けれど、ここで彼に誘いをかけて「騒ぎ」になり、次に、彼女が自力で逃げることに失敗して、母親が仲介役となり、隣人に懐柔されると、運命は変わらない、ただ過去の軌跡を辿っただけ、どころか、ヨウコの方から誘いをかけたのだ、という彼女の自尊心を打ち砕く要因となった母からの疑念が、今度は真実にまでなってしまう。

 彼の家を出る手段もあるが、このままでは、ヨウコの中の隣人への印象は、ただの「良い人」である。強いて言えば、形容詞的に「不器用ながら」が付け加えられるだけ。この先、彼がヨウコに劣情を抱いてくれるのか、確信は持てないし、その時に三十代の意識があるとは限らない。

 彼女は十代の自分自身より男あしらいが上手い自信くらいはあったが、その気はない男をその気にさせるような、手練手管を持っていなかった。


 手持ちぶさたで、隣人の用意したマンガ誌に手を伸ばしてみたところ、それは青年誌で、エロティックな漫画ばかりだった。良い雰囲気にするための下心ではなく、何も考えていないんだろうと思った。再び雑誌を置き、当たりを見まわすと、やはり雑念としている。忙しい中、片付けようとはしているんだろう。代わりに整理でもしてあげようか。はたきや雑巾などを探そうと、目が動いた。

 この健気ながらダメな男感に、ヨウコは、母性本能をくすぐられていた。くすぐられていることに、困惑していた。

 記憶の中の隣人は、痴漢と同様の印象だったため、そんな気持ちに駆り立てられることわ、想定の範囲外だった。

 隣の部屋から「ねえ、ちょっと」と声をかけられ、ヨウコはにわかに我に返る。隣人が変な気を起こす。彼女は拒否し、それを突き飛ばしてでも、逃げる。おかしな話だが、彼女はそのために来たのだ。「なんですか?」そう言いつつ、玄関の鍵を開けてから、おずおずと襖を開けた。

「これを見て欲しくて」

 と言って、彼がヨウコに差し出したのは、陰茎でも陽根でもない、青いファイルに綴じた、ただの写真集だった。

「はあ、なんですか?」

「何と聞かれても困るけど、どう?趣味で撮るんだ」

「へえ、これなんか、キレイですね。好きですけど」

 そう言って、適当な写真を指差すと、彼はレンズの選び方や焦点距離の計算方法などを、早口に語りはじめた。ヨウコは、彼の話の中身には興味が無かったがその姿勢に惹かれていった。

 結局、彼はヨウコに手を出すことなく、家に返した。以降も、彼がヨウコに劣情を抱くことは無かった。隣人とはいえ、そもそも生活上に接点すらほとんど無かった。

 そして、そのまま、ヨウコは歳をとった。

 例の喫茶店で、少年は爆笑していた。

「恋に落ちた、というわけだ。司法浪人だか写真家志望なんだかよく分からない、モラトリアム中の彼の自由なところに惹かれた。けれど隣人との距離は埋まらず、彼はいつの間にか引っ越してしまい、彼と比べて複数の男と付き合ってはみたものの、上手くいかず今に至る、と。とんだロマンチストだ」

「嗤わないでよ。そもそも」

「僕は何もしていないよ」

 ヨウコが追及する前に、少年は否定した。

「君の思惑に反するように、僕が隣人を変えたんじゃないかって言いたいんだろう?僕にはね、そんな器用なことはできない。君が自分の気持ちを完全にコントロールできるわけではないのと、同じに、ね」

「だって、それじゃあ」

「記憶違いじゃないか?襲われたというのだって、うっかり触れてしまったのを君が大騒ぎした可能性だってあるんだ」

 ヨウコはムッとしたが、ことばに詰まった。少年に「セカンドレイプ」などと、今風に非難することは、無意味だと思った。

「僕の存在意義のために、手を変え品を変え、君を貶めるための工作をする存在だと、僕を疑っているようだけど、今一度言うよ。僕には、そんなことは出来ない。人間にとって時を戻すのも、超次元的奇跡として映り、その延長で人心を操るのも容易かろうと貧困な想像で言うんだろうが、無理なんだよ。そんなことが出来るなら、君の周りを変えるなんて回りくどいことはせず、直接君を操り惑わすさ。自慢できることじゃないが、君たち人間が悪魔だと言うような超常現象を起こせるのなら、現在になって僕らの存在意義が危ぶまれる事は、なかっただろうからね」

「・・・」

「そう落ち込むなよ」

「誰のせいだと思っているの」

「やっぱり僕のせいだと思っているのか?」

 少年は大げさに肩を竦めてみせた。肘をついて何か思わしげな顔をすると、「まあ、そうかもね」と言った。

「認めるの?」

「何を?」

「自分の責任だと」

「何が?君の人生に、僕が責任を取れ、と?」

「・・・」

「さてね、僕は今、君のおかげで満たされているから、僕の言動が君に影響を与えた、というところまでは認めるけれど、君の今後の人生については知ったことではない。君が留意すべきは、判断材料がどれだけ少なかったとしても、君たち人間は、自分の都合の良いストーリーを作り出して自己満足する生き物だってことだ。君が、僕の責任だと思えば、僕の責任なのさ。けれど、僕は君の人生に責任を取らない。君の母親が、君の人生に責任を取らないように、ね。けれど、僕は満足しているよ。小難しい嘘や策略を練らなくても、君は惑う。僕の存在意義を満たしてくれる。僕にとっては良い人間だ」

 少年は恍惚とした。

「・・・」

「それで、どうするの?」

「どうするって」

「やり直すの?もう辞めて、今の自分を受け入れる?」

「やり直す。あと一回あるし」

「ふうん、意外だね。そこは割り切っているんだ」

「どういうこと?」

「良いイメージは、できないだろ。このままやり直したって、大した違いは無い、と」

「そうだけど」

「次は、どこからやり直したいの」

 ヨウコは深呼吸して、次のやり直し時点を伝えた。少年は驚いたようだった。

「ふうん。どうして?傷付くだけじゃないか?」

「別に。なんだって良いでしょ。理由を言わなくちゃいけないって契約じゃないはず」

「そうだけどね。これも勉強なんだよ。この期に及んで、わざわざ幼少期の、母親から植え付けられたトラウマを再認識したい、という意図に聞こえるんだけど、分からないなあ。殺意でも高めにいくの?僕の意見を真面目に検討したってこと?」

 少年は愉快そうに、せせら笑った。

「けど、体が小さいうちは無理だろう?今回みたいな時期に戻った方が、手っ取り早いんじゃない?」

「あなたの言うことなんて、真に受けるハズがない。あなた人間じゃないもの。人の気持ちなんか、分からないでしょう」

 少年は一瞬顔を強張らせると、唇を尖らせた。冷たいなあ、と言いながら、ヨウコを三度過去に戻した。

 これが最後のチャンスか。少しだけ、溜飲の下がった。少年の言うことが、いちいち癇に障るのは、彼が人間の外側から本質を突くからだ。だから、間違っているとは言えないが、所詮は他人事のくせに、という悔しさが沸く。けれど、それは彼にしても同じことで、彼は自分の所業を責められるよりも、あなたには関係ないと、突き放される方が堪えるらしい。

 先ほどまでと同じ、ダメ男の隣人がいるアパートの一室。けれど、彼が引っ越して来たのは、「今」よりもっと後の事だ。ヨウコが縮んだために、家具が一回り巨大化したような錯覚に陥るが、何も変わらない。彼女と母親が二十年以上一緒に暮らした家である。部屋はまだ、引っ越ししたての頃の綺麗さを、部分的に残していた。

 彼女が戻ったのは、六歳の頃、ある日の春。なぜだろう。嫌なことを言われた記憶から、ヨウ太君との破局まで、春には良い思い出が少ない。単純に変化の多い季節、別れの季節だからという理由もあろうが、きっと緩急ある日本の四季のうち、夏と冬は、誰しも身体がその季節を乗り切ることに大きな労力を割くので、嫌なことがあっても覚えていられないのだ、とヨウコは考えた。

 当時はピアノを習わされていて、母から練習するように、キツく言われていた。夕食を食べて、お風呂に入って、九時になるまでに、三十分は練習する、というのは、母が娘に一方的に契らせた約束。なんとか寝る時間までやり過ごせないかと、この時期のこの時間、毎日考えていて過ごしていた。

 今から振り返ると、三十分くらいどうにか前向きに練習すれば良かったと思う。中学生の時、憧れた先輩はピアノが上手くて、当時のヨウコにとっては「なんでも器用にこなす人」だった。裏を返せばそれは、ヨウコは不器用で、彼女にとっては「あまり良くない母」の元ではあまり幸せな成長を遂げることが出来なかったからかも知れない。どうせ、この時期、母の庇護から離れて暮らす事など出来ないし、従順に振る舞っていれば、母の機嫌だって良かった。

 買い物に行っていた、母が帰宅した。「おかえり」「ただいま」という短い会話だけで、母はすぐに風呂掃除と晩御飯の支度に取りかかる。彼女は部屋の角で、絵を描いたり、静かにしている。母が家事をしているとき、アレコレ話しかけると、集中が途切れるといって酷く罵られる。

「じゃあ、アンタがやってよ」とスポンジを投げ付けられ、ヨウコは長いこと風呂場で泣いていた。翌日、母は「ごめんね」と言って、彼女たちは和解したことになった。それから、夕方から夜のこの時間帯、胸にじくじくとした罪悪感を抱えながら静かに過ごすことが多くなった。

 これは、母に言わせると、「躾が功を奏した」その二日目のこと。この日を皮切りに、母から酷い虐待を受けるようになったとか、ネグレクトするようになった、とか、劇的なことは何もない。

 自身が小さい頃、ヨウコには、母がヨウコを苦しめる悪鬼に度々変身するよう感じられることもあったが、それもやはり振り返れば、母は気分にムラがある人というだけの話だった。彼女は子供ながらに、母の中の悪鬼を変身させぬようコッソリと原因を探り、そして、それとおぼしき台所下のアルコールを流しに全部捨ててみたことがある。あれは、「今」から一年後くらいの事だったろうか。

 プルトップの缶を開けるのは、たかだか十本程度でも、柔らかい爪と小さな身体では、なかなか骨が折れたが、彼女は半ば英雄的な気持ちに酔いながら、任務を遂行した。酒の呑みすぎが身体に良くないことくらい知っていたので、母という良くない大人が、彼女の行動によって悔悛する。当時はそんな夢を見ていた。

 実際、ただ勿体ないと、母を激昂させただけに終わり、アニメのようなストーリー展開には至らなかった。

 さて、ヨウコがこの時期に戻ることを選んだ理由だが、なんのことはない。少年の言う通り、このシステムでは人生を劇的に変えることは不可能と、彼女は諦めていた。ならば、せめて今後も付き合いが続くであろう母親を、三十代の意識があるうちによく観察し、せめて少しでも良い関係を築くことに繋がる知見を貯めておこうと思ったのだ。

 あの少年は、人間など多少の差はあれど皆一様に強突張り、とでも思っていそうだったから、ヨウコはムッとしていたし、契約関係とはいえ動機を説明してやる義理はなかった。母を殺せと教唆された。そんな提案に乗るわけがなかった。


 けれど、身近な誰かを排除し、生への苦しみを取り除くという意味では少年が「母を殺せ」というのは正しい。悪魔的な正しさだけど、少年は悪魔のようなものだから。

 一月ほど経った。この日の母は機嫌が悪かった。そして、ヨウコには三十代半ばの意識があった。夕食中からピリピリとした空気を感じ取っていた。ヨウコは、怯えながら食器を流しに持っていくと、それをしばらく注視したあと、「もういい。危なっかしい」と言って、手からひったくった。そのまま母の方こそ、割るんじゃないかとハラハラするような荒さで、水を張ったシンクに放り込んだ。

 けれど、その食器を洗うことはなく、母はそのままリビングの隅に置いてあるピアノの前に座り、バンバンと長椅子を叩いた。何をイライラしているのか、などと聞けるものではない。「はい、練習する。早く座って、グズグズしない」

 ヨウコは言われた通りにした。機嫌が悪いとき、彼女が一瞬でも躊躇したり怯むと、母はそれを「グズ」だと罵る。けれど、慌てて母の望み通りにしようと動くと、転けたり、持っている物を落としたり、手が縺れたり、ぶつかったり、失敗する。母はそれを「トロくさい」と罵る。

 三十代の彼女は、それが躾ではないことに気づいていた。母の身に「何か」が起こっていて、子供はただの八つ当たりの対象だ。けれど、再び母に感情を支配されないようにすることは、容易ではなかった。それどころか不可能。

 自分でも驚くほどに、この時期の「ヨウコ」は、母を見て、母を頼っていた。小さな体、低い背、自分の思う通りに動かない指先。そこそこの都会で日常生活を送るのに、歩けさえすれば、高い運動能力は必要ではなかったものの、手先の器用さを必要とすることは多い。

 自分で上手くできないうちは、母を苛立たせないように、自尊心をくすぐりながらやってもらうしかない。母のことばに支配され、自分は融通が利かない上に鈍いのだ、と今まで思い込んでいたが、幼子として母と生活するのは、気位の高いチンパンジーの手を借りるようなものだ。母に怒鳴られながら練習する中で、チンパンジーを連想したのが良くなかった。

 ヨウコは、半べそをかきながらニヤリと笑った。母はカッとなって、「真面目にやれ!」と彼女を椅子から叩き落とした。呆けているのが気にくわなかったのだろう。母は、真面目にやらないから、真面目にやらないからこうなるのだ、と呪文のように繰り返して、ヨウコの頭を叩いた。

「もう知らない!死んでしまえ!」と言って、母は和室へ引っ込んだ。こういうこともあったかな、と思いながら、彼女はぼんやりと襖の露芝模様を眺めていた。なぜかその時の襖が、彼女の脳裏に焼き付いている。母に死ねと言われたことと襖の模様は何の関係もないのに。彼女は幼少期に、そう、今、繰り返しているこの光景から、襖を見ると落ち込むようになったのだった。

 かといって、この「やり直し」で母への憎しみだけを右肩上がりに再燃させることは難しかった。母は、つまりはヨウコを虐待していた事実を矮小化していたのだが、彼女が自認しているように、ヨウコを可愛がっていたことも、事実だったからだ。小学校の同級生で、おませな子は、もう一人でなんでもできると豪語しているが、母は今でも歯の仕上げ磨きを欠かさなかったし、お風呂で後ろ頭を洗ってくれるし、押入の中には子育てハックのPHP文庫があって、前触れもなくヨウコを抱きしめたりした。

 愛することなく人を憎むことができるだろうか?母の、母としての良い面だけを見て、成長できたら幸せだったろうが、残念ながら成長するほどに、彼女がどれだけ気を砕いても、負の面の方が大きくなっていった。

 ヨウコが中学生になると、酒量が多くなり、家では飲んだくれてヨウコに暴言を吐く夜が増していった。その一方で、仕事が急がしい中、マンションの自治会やPTA活動には積極的に参加して、子育てと教育への熱意を説いた。どうやら母は、自分の話を相手が十分に聞いた、と感じられれば機嫌が良い。けれど、彼女の話をいくら聞いたところで、ヨウコに母の自尊心を満たすような社会的立場上げる影響力はなかったし、母は、ヨウコが一人立派に成長し評価を得るより、良い母として評価されることを望んでいた。それが、片親として子供を育てた得るべき正当な対価だと、彼女は思っていた。

 酒を呑むのを止めてほしくてシンクに酒を捨てたことを、ヨウコはずっと覚えていた。思春期になってからその事を母に言ったことがある。彼女もそれを覚えていた。けれど、あの時ヨウコを「叱った」のは、酒でなくヨウコのために買っていたジュースまで一緒に流したからだと言うことになっていた。そしてそれは、育児伝のエピソードとして喧伝されていた。子供の頃、ヨウコが恐れていた母の酒癖の悪さは、母の中で、嗜み程度か、あるいは彼女の懐の深さ・母の愛に比べれば、人として当然あるであろう些細な欠点にまで矮小化された。

 少年に誓って言えるのは、ヨウコが母を殺したいほど憎んだことはない、ということだ。悪魔の少年が、母の愛を幻想化するのか分からないが、彼が自分で言っていたように、ヨウコの気持ちを正確に把握できないことは確かだろう。

 母の元で育ち、思春期を経て数十年で育くまれた感情は、怒りや憎しみではない。諦念だ。勉強も運動も突出して出来るわけではない。他に特技もなく、家がお金持ちで、ヨウコに力を入れてサポートをしてくれる大人もいない。

 母を殺すより、自分が消えてしまいたいと望むことの方が多かった。けれど、と彼女は考える。死を望む事と実際に死ぬ事には、大きな隔たりがある。死ぬというのは、それと同等以上に生への渇望が無ければ、行動に移せないものなのだ。知恵の実を食べる以前のアダムのようなもの。彼女は、死語の世界や心霊現象を信じていなかったが(少年と出会い奇跡を実感していることに、何の影響も受けていないとは言えないが)、死には曖昧模糊としていながら、全ての終わりという暗いイメージしか持っていない。母が嫌だからといって、深淵に踏み込む勇気が沸く道理はなく、彼女は漫然と生きてきた。

 フェニックス、火の鳥に、同情を寄せていたらしい少年を思い浮かべる。死を超越した生き物というのは、それを「生き物」と呼んで良いのかも定かじゃないが、その心中は意外と虚しいものなのかも知れない。人にとって、死の恐怖から解き離れるというのは、生への悦びも喪うことだからだ。

 もしかしたら、少年に請い願えば、せめてヨウコが納得できるまで、人生を繰り返させてもらえるのかもしれない。少年には、仕事や金など人間社会特有の軛はなく、ヨウコが惑う姿が少年の養分になるのなら、回数制限など必要ないはずだった。三回という制限は、ヨウコに圧をかけるためで、意味はあまり無いのだと、彼女は考えていた。

 けれど、彼女が頭を下げたからと言って、少年が簡単に承諾するとも思えない。うだつのあがらない彼女をひとしきら嘲笑したあと、去っていくかも知れないのだ。

 人殺しは論外だが、奇跡は奇跡ながら徒労感があるだけの、このやり直しの機会に、ヨウコ自身が劇的な変化を遂げるため、ひとつ思い付いたことがある。皮肉にも、少年の悪魔的な提案がヒントになった。

 それは、臨死体験だ。

 振り返ってみれば、母親からの抑圧がヨウコを自死に追い込むことはなかったが、消えてしまいたいと思ったことは何度もある。過去、既に起きてしまったことを完璧に起きないようにすることは難しいのが、どうやら少年の引き起こす奇跡の限界らしいが、それは反対に「起きるかも知れなかった」ことを引き起こすことができるかも知れない、ということだ。

 彼女は昔を思い出していた。と言っても、現時点ではこれから起こること、予知夢のようなものだけど。中学生のとき、横断歩道に飛び出した同級生がいた。仲が良かったわけではないから、理由は分からない。その日は、春の気配が刻一刻と迫る中、通学路の沈丁花の匂いと、曇天の中の登校を憂鬱に感じながら登校した。そして、祖父の葬式に参列し、後々に知ることになった「通夜の雰囲気」。教室に入ると、張りつめた雰囲気がありながら、どんよりと暗い澱のようなものが溜まっている。

 校長が全校生徒を運動場に集めて、黙祷させた。詳しい事情は何も聞かされなかったけれど、多感で些細なことに焦り生き急ぐ少年少女達は、死が単なる喪失ではなく、甘美で英雄的な、何か厳かなものを感じ取った者も多かった。それに少しでも肖りたかったのだろう、彼女の死の真相を暴こうとした生徒もいたし、ざわつく者を不謹慎だ、などと非難することで、やはり彼女が死をもって得た影響力に肖ろうとする者もいた。

 けれど、他者の死を感じる時、それを俗っぽい反応で受け入れようとすることは、ある意味健全であると今なら思う。死を感じるのは、死を考えるよりも危険だ。ヨウコだって感じた。

 母は悲しんでくれるだろうか?母は、後悔してくれるだろうか?と。

 ヨウコの世界に母の存在意義が大きい子供の時こそ、どうしようもない母への愛憎、希死念慮(一度だけ、心療内科にかかったことがある。「死にたい」という気持ちのことを言うと、その時に知った。)を高めれば、ヨウコは死を選ぶのじゃないか?

 自らの死を思うのは、どうしようもなく悲しく、無意味で、あまりにも卑屈であることに罪悪感すら抱く、孤独な感情だ。母に言っても、ヨウコが本当に欲しいものが手に入るはずもなく、口先だけの心配とか、病院探しだとか、「ネガティブ過ぎる」など見当違いの注意・躾といった、ヨウコがより生を煩わしく感じる要素が増えるであろうこと、想像に難くない。目的が、昔の自分に死を選ばせる事であるのだから、それも一つの手段ではあるが、ヨウコはまず、昔自分が避けていた母を、今度は自我がある限り注視してみようと考えていた。

 いかに自分が危ないことを考えているか、多少は理解しているつもりだった。彼女の「セーフティーネット」は二つあった。一つは、ヨウコがどう振る舞おうとも、結局は幼いヨウコは自死など選ばないという可能性である。死は早い方が良い。年端もいかぬ子供だからこそ、「意味」があるのだ。けれど、「死ぬ」のが三十半ばのヨウコであれ、十代のヨウコであれ、死に怯え踏みとどまるならそれでも良い。

 ヨウコはすでに、自分が凡人であり、大きな成功もなく中年になるという結果を知っているが、是が非でもこの奇跡を機に誰もが羨む人生を手に入れてやろうという野心もない。

 自分の存在に意味があると、他者からの肯定に期待ができなくとも、自分で自分の存在意義を確信する知見が欲しいだけだ。

 もう一つのセーフティーネットは、これが少年の引き起こした人生やり直しの奇跡ということである。ヨウコは「自死を選んだ自分の人生」と「中途半端に漫然と生きる自分の人生」のどちらかを選べるという、選択権があるのだった。

十一

「お勧めはしかねるけどねえ」

少年は言った。

「いつの間に。というかあなた、私の考えていることは分からないんじゃなかったの?」

「薄ぼんやりとだが、分かるよ。君だって他人の考えることが一切合切露ほどにも分からないわけじゃないだろう」

「あなたは人じゃない」

「そうだけど、人に近いから分かるのさ・・・」

「正直なところ、やり直しの期間の間に、「とりあえず死んでみる」なんて、これまでチャレンジした人はいないからね。それで逃れられない死の運命に足掻く人間を見て楽しむといった、僕らにとっては、どちらかと言うと死を回避するための力さ。君はそれを選ぶのか。世も末だなあ。隔世の念が膨らむなあ」

 白く張りのある肌の美少年でありながら、腕組みをして老人のようなことを言った。

「けど母を殺してみろなんて、物騒なことを提案したのはあなたでしょう?あなたにしてみれば、どちらでも変わりないんじゃないの」

「いいや、それは違うね。契約者が死ぬのと、契約に関係のない第三者が死ぬのとじゃあ。僕には、死んだ君を蘇生して、どちらの人生が良いか、なんて聞けるのか分からないよ」

「約束が違うわ」

「仕方がないだろう。君からより多くのものを搾取する魂胆があって、出し惜しみしているんじゃなく、出来るかどうか、本当に分からないんだから。僕を疑いまくって非難する君も、相当悪趣味だよね。僕が、自分の存在意義のために人間を唆す、ということを嫌悪して、だから君は当て付けのように、死んでみせる事を思い付いたんだ。人間は存在意義がなければ死をも、崇高な理性によって自ら選ぶことができるんだ、と、証明したいんだろう?ははは」

「ちが」

 違う、という否定の言葉を、ヨウコは呑み込んだ。少年の言うことは、案外本質を突いているのかもしれない。なぜ、この少年の言うことを、信用できないのだろう。何から何まで嘘だと思うのだろう。不可思議な力。確かに警戒して然るべしなのだが、本能的な敵対心を抱く理由としては、不足している気がする。

 それは、彼の姿が人間だからだ。人間のフリをして、彼女に話しかけてくるからだ。だから、彼は私を騙そうとしていると感じる。

「私は、別に死にたいわけじゃ」

「もちろんさ。死を願うのは、生を願うのと同義だからね。君の願いは、心からの望みじゃない。単なる反発とか誇示とか、そういう類いのものだよ。うだつの上がらない自分や現実、僕に対して、ね。生や死と向き合うことを疎んじ、横道に逸れようとする自分を弁護するために、屁理屈を捏ねているだけさ」

 どうして、そこまで言われなくちゃいけないの?こんな、人間もどきに。

「あなたに四の五の言われる筋合いは、無いよ」

 やっとそれだけ言い返した。

「そうだね。まあ、僕も契約履行出来ないとも言い切らないから、試してみると良いよ。君の命さ。粗末にするのもどぶに捨てるのも、君の自由さ・・・」

 そう言って少年は会話を終わらせ、手を擦りピアノに向き合った。

「うちは壁が薄いの。深夜に弾いたら迷惑よ」

「僕が弾いても、君以外の人には聞こえない」

「幽霊みたいなところもあるのね」

十二 テンペスト

”We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.”


 彼が弾き始めたのは、ベートーベンのピアノソナタ十七番、いわゆる「テンペスト」だった。

「運命じゃ、ないんだ」

「君の反発心を煽るような表題楽曲、今さら必要ないさ」


 母が入信したのは、ヨウコが八歳のときだ。彼女は常に、話を聞いてくれる人・受け入れてくれる人を求めているようだから、熱心な勧誘や世界には「救世主」がいるという思想と、馬が合ったのかも知れない。小さい頃のヨウコは、人見知りで不安を煽られやすい性質だったから、「教会に行けばお菓子がもらえる」とか「英語が習える」と言われても、母について行こうとはしなかった。

 三十代半ばの意識があったヨウコは、この日、母について行った。奥には、昔から地元の人には親しまれる山を眺めながら、アスファルト舗装された傾斜道を登った。友達の誘いで、コンサートに行ったことがあるから、場所に恐怖を覚えることはなく、また、宗教に偏見もないつもりだった。ヨウコが徹頭徹尾違和感を覚えていたのは、母の信仰である。

 母は誰かを許そうとしていたのか。

 それとも自分が許して欲しかったのか。そして、なぜ私を受け入れてくれなかったのか、など。

 母と会話もせず、本を読むことで解答を得ようとしたのは間違いだった。幼い頃のヨウコは、教会へ行けば問答無用で浴槽のようなところへ連れて行かれ、冷や水を浴びせられるのではないかと恐怖していた。母の持っている各ページがとても薄い聖書をパラパラとめくり、角が中に折り込まれている章を読んでも、一体何が彼女の琴線に触れたのかは分からなかった、

 その疑問が、一度教会へ行くことにより解けていった。ヨウコが想像していたのは、日曜礼拝とは、洋画のような、固い長椅子に座った信者達を前に牧師が聖書を朗唱する光景だった。けれど、実際は礼拝堂の上階にある体育館のようなところで、パイプ椅子が五十脚ほど並んでいる。天井は高く、日の光で作られる影が、窓の格子と重たげなビロードのカーテンに揺らされていた。第一印象は、辛気臭い、である。事務手続きの関係で、下の礼拝堂を使えない日でもあるのだろうか。この体育館のような場所が、普段何に使われるのか分からないが、倉庫からパイプ椅子を引っ張り出した後や、何の意味があるか分からない床に張られたガムテープが、どうにも所帯じみていて、厳かな雰囲気を醸そうとするカーテンがちぐはぐとしていて、滑稽なのである。これから話を始めるらしい中年女性も、黒のジャケットにロングスカート、一連の真珠ネックレスと、聖者というよりPTAである。

 けれど、意外にもヨウコと同じ年くらいの子供が何人かいて、説法が始まってから、母の隣で退屈して、居眠りしていても、席を立ち窓の外をちらりと覗き見ていても、注意されたりしない。

 母親の方は、薄暗い中前に立つ女性を注視していたり、腕を組み祈りを捧げていたり、母子ともに居眠りしているように見えたり、様々だった。ヨウコの母は、というと、起きてはいたが、ぼんやりとしていて、特別聞き入っている風にも見えなかった。

 ヨウコより一つ二つ年下らしい子供が、この薄暗い場所が嫌なのか、女性の単調な読み上げが気に入らないのか、ずっと耳を塞ぎ「あーあー」と声をあげていた。母親は、静かにしなさいと声をひそめて子供を諫めるが、収まらない。

 業を煮やした母親は、結局話半ばで子供を担ぎ上げ出て行った。ああいう人たちをどうするのか、と、ヨウコは気になって女性の方を仰ぎ見たが、彼女は何かに憑かれたように朗唱を続けていた。

「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」

 説法が終わると、パイプ椅子を複数組の円状に並べなおし、グループワークのようなものが始まった。一グループに一人、他より立場が上らしい聞き手がいて、一人一人の悩みを聞き「良いんですよ。そのままで良いんです」というようなことを言う。肯定していく。無料のカウンセリングのようなものだった。

 母の悩み事は、他より「優れて」いるように聞こえた。父親と離婚してしまったことが、ヨウコの心の傷になっているのかも知れない、ということ。ヨウコは年齢よりシッカリしているように見られることが多いが、それはヨウコの母親が贖罪と感謝の気持ちで、子供に愛を注いでいる賜物である、と同時に、ヨウコの孤独を癒しきれてはおらず、彼女自身もまた、孤独である、と。

 母は自分をそう評するのではなく、聴者がそう感じるように、注意深くことばを選んでいるようだった。ヨウコは、普段躾と称して自分に小言を言うときも、それくらい気を付けてくれれば良いのに、と不満に感じた。

「分かる、分かるわ」

 うんうんと頷く人たち。カウンセラーは、「そのままで良いんですよ」と母を肯定する。夢見るような瞳と声音の中年女性が、「お母さんのこと、好き?」と、ヨウコの顔を覗き込んだ。反射的に頷きそうになった。この空間での正解は、一も二もなくイエスだった。三十代の自我と一瞬前に出て行った母子の姿が、まだ瞼裏に残っていたことが、ヨウコの反射的な首肯を止めた。

 母の刺すような視線を感じた。

「う・・・ん」

 結局、相手の目を見ず小さく頷いた姿は、その場を取り囲む人にとって、母への複雑な愛憎などではなく、引っ込み思案な女の子の本音と受け取って差し支えのないものだった。誰かから、ふふふと和やかな笑みが溢れた。

 母は、やはりヨウコが当然「はい」であるべき質問に回答を一瞬ためらったことに、腹を立てていた。帰り道の途中、母は「嫌だったんでしょう?もう来なくて良いから」と、優しい声色ながら、是非を言わせない調子でヨウコに命じた。

「うん」

 母は、気持ちが収まらなかったようだった。

「ママはいつも素直に自分の思ったことを言えって言ってるの。あんたのその、相手を値踏みをするような態度、バレバレだしすごく感じが悪いのよ?ママだからいいけど、何も言わなかったら、あんた他でも生意気な態度取ってるんじゃないの?」

「うん」

「無理に子供らしくしろとは言わないけれど、強制してるわけでもないのに、あんたは空気読んでるつもりで、相手に余計な不信感を与えてるのよ・・・」

 と、道中、母のお小言は続いた。

 ヨウコは適当な相槌をうちながら、自分の甘さを責めていた。彼女が意識すれば、母の望む従順な良い子のように振る舞いができるものと思っていた。母との関係が表面上だけでも良くなれば、一人立ちに焦って男選びに失敗する可能性も低くなる。ヨウコは三十代らしい安定思考で、少年から施された奇跡を有効活用するために、複数の手段を考えていたのだ。しかし、どうだろう。思春期から目に見えて悪くなった母との関係は、彼女が物心つく頃からのやり直しなら十分に取り返しがつくのでは、と思っていたが、母はこの時点で十分に、おかしかった。

 エデンに戻ることを人生の目標に掲げる母は、無垢の子供を愛していて、子供に「社会性」が生まれることを嫌悪しているようだった。理想通りにならない八歳のヨウコを、現時点で、母は十分に我慢していて、今にもふつ切れそうになっている。その逃避先のひとつが、酒なのだ。しかし、どうだろう。母がどんな理想を抱いているにせよ、ヨウコにとっての母は、自分が社会に適合するため、上手く関係を築きたい他者の一人としか評しようがない。

 ヨウコが思春期の頃に見てきた母は、人間関係に問題が発生した場合の異常な姿ではない。水面下の問題が、表出した場合の母に過ぎなかった。

 ヨウコは、最後の機会だと頭では理解しているのにも関わらず、何も変えられないまま中学生になってしまった。意識の大半は、年相応の中学生。自分の半生をテレビで見るかのように、差し挟まれるヨウコの意識は、その大半を勉強や友達との交流に持っていかれ、「初めて」母のもとで過ごした時と同じように、浮き沈みの激しい母に翻弄された。

十三

 和室には傷だらけの重たく暗い色をした桐のクローゼットがあって、さらにその中の水平に間仕切りのある上のほうの棚には薬箱が置いてある。母は、小学校六年生の時からメンタルクリニックに通い始めた。酔った勢いで、ヨウコに向かって「死ぬ!あんたのせいで、もう死ぬ!これと一緒にお酒を呑むと、死んじゃうんだからね」と叫んだことがあった。

 その事件の時、今回のヨウコには記憶がない。厳密に言えば、記憶があるから思い起こせるのだが、三度目のやり直しだから、計算するともう一世紀も昔のことだ。すべてのやり直し期間で記憶があるわけではない。大体七日置きに三十代半ばの意識、もっと言うと、少年と契約した頃の記憶が甦るだけだから、体感で流れた時間はもっと短い。それでも、いわゆる昨日の事のように思い出せるという、暗い記憶のしつこさにヨウコは思わず嘆息した。

 肉体は若くても、精神は歳を取るのだろうか。ヨウコは「変わらない現実」に諦念が芽生え、当初の通り、ちょっといっぺん死んでみよう、と、ぼんやり考える時間が増えていった。同級生が亡くなった日から数日間、ヨウコの希死念慮は取り分け高まった。

 それでも、うまくいかなかった。死を、軽く考えすぎていたのだ。痛いのや苦しいのが嫌で、練炭を買うのも、自死決行日まで隠しておく場所がない。一酸化炭素中毒は、亡くなるまで誰も気付かないというくらいだから、彼女にとって理想的なプランだった。しかし、初めてなのできちんと死にきる自信がない。どこか換気の悪い密室を探さなくてはいけなかったし、まだインターネットが自由に使える環境ではなかったから、手頃な自死集団を見付けることも、簡単ではなかった。念入りな下調べ、準備の要るそれよりも、ドラマなんかでもよく見るオーバードーズ。母の薬を拝借して呑んでしまうのが良いと思っていた。

 まず抗うつ薬は、たとえ患者が求めても、致死量が処方されることはない。タイミングよく薬箱を盗み見ても、一週間分以上の薬が入っていることはなく、試しに一錠服んでみただけで、母にバレて大目玉を食らったあげく、どこか別の場所に隠されてしまった。

 ヨウコが死にたがっていると知っても、母はさしてショックを受けていなかった。同級生が亡くなったことに影響を受けて、真似したがっているのだと言った。母に言わせれば、シェークスピアのロミオとジュリエットのように、中学生は、何かと些細なことで死にたがる年頃なのだという。自分の心の影に、容赦なく光を当てて、その汚れを指摘し磨くように指示するだけで放っておくような、身も蓋もない言い方。そうしてこの人は、子供の自尊心を芽のうちに全部刈り取っていくのだと嫌悪した。

 けれど、大人になったヨウコの精神は、母の言っていることの一部に正当性を認めざるを得なかった。彼女は自分の気持ちを忘れないよう、遺書を書いたり、死ぬときはどんな服を着ようか夢想したりした。

 昔は気付かなかったが、自分が居なくなった世界で自分を惜しむ声が満ちる死の夢想とは、甘美だ。思春期の子供にとって、未知への探究心をも上回ることは、珍しくもないはず。死をこの世の終わりと考えるのなら、どんな惨めな最期だろうが変わらないはずだけど(あの少年は、おそらくそう考えている)、私たち人間は、死後の世界を夢想して、装う。死を思うほどに生への渇望を感じるのは、皮肉なことだ。

 結局、友達と気軽に話をしたり、学校の授業をこなし、家で母が不機嫌なのを不快に思いながらも課題をこなすうち、ヨウコの「死にたい」という思いは心の奥に潜み、よほど強く意識しないと薄れてしまう。

 ヨウコに三十代の意識があっても無くても、ヨウコは頽廃的にならず、かといって人が目を見張るような努力をすることもなく、それなりにやっていく。だんだん面倒になった。思えば、ヨウコが大学に進んでからは、母との関係はますます薄くなる。進学すれば、下宿して母との縁を切ろうと思っていた。以前はそれを励みに頑張っていた。けれど実際は、学費と下宿代を、母の支援費とアルバイトで工面する目処が立たず、悩んだ彼女は下宿を諦めた。

 シングルマザーの身でヨウコを大学に進学させてくれた母の功は小さくない。母を眺めていると、母を恨む気持ちを再認識しながらも、彼女が苦労しながらヨウコを育てたことまで感じてしまい、それと同時に自分が与えられたものの中でどのように生きるのが正解だったのか、分からなくなっていく。

 中途半端な自分にくすぶりながら、彼女は高校生になっていた。気持ちを切り替えて、今度は隣人との恋を成就させるため励もうかとも悩んだが、きっとうまくいかない。なぜなら、これは「そういう」やり直しだからだ。

 母と暮らすのは、毎日一度のギャンブルをするようなものだった。今日は機嫌が悪いか、悪くないか。今、機嫌は悪くなるか、それとも悪くならないか。彼女が望まなくても、一緒に暮らす限りギャンブルは続く。その日の母は、酒を飲んで寝てしまった。

 母の存在を隣に感じながら、彼女はリビングで宿題をして風呂に入って、やっと持たせてもらった折り畳み式ケータイの新着メールを確認しながら、テレビを見る。人生を変える分水嶺があって、それを飛び越えれば自分の人生が豊かなものになる、というのは幻想だったのだ、とヨウコは思う。学校でも家の中でも、一世一代をかけて動いたことはない。そのフラストレーションを内々で昇華するために、試験の心配や友達との会話を深読み、先生の本音や話題の邦楽、母へのモヤモヤを言葉を選びタイミングを選び友人に愚痴として漏らす、彼女の自我が爆発しないよう、それらを作業として繰り返している。思えば、就職してからも、日々思い悩む問題が、結婚やライフワークバランスなど、自分のライフステージとその時代にありがちなものに置換されただけで、ヨウコ自体に変わり無い。運命は定められているからこそ、運命なのだ。

 そのとき、ヨウコが瞠若したのは、母が一瞬うめいたかと思うと、次には水道管が詰まったような「音」を出して、酸っぱい匂いのする固形物の混じったゲル状のものを口から吐き出したからだ。それでも母は起きる気配が無かった。吐瀉物が意思を持った物体エックスのように、つーっと母の頬を沿い布団に染みをつけるのを、不気味に感じながらもヨウコは呆然とそれを眺めた。

 少年は言った。

「放っておけば良いよ」

「あなたがやったの?」

「正直なところ、僕は、こうなれば面白いと願うことを、実現しやすくする能力はあるようだね。けれど、先に言っておくと、この事態を僕の責任にするのは無理がある。本来、生き物というのは生存と生殖に関わること以外、知覚を持たないものだけど、君ら人間は理性や知性によって、それ以外に一般には役に立たない無駄な知識を知覚するようになった。ところがそれは無駄だというので、一旦取り入れた知識を忘れるところに労力を割いたり、その時の興味関心に合わせて知覚をスイッチするようになったんだな。そうして言葉から始まった争いを、人間は未だに克服できない。そこで、人間に従属する僕の意見だが、本来悪魔というのは、人間や神の意識の及ばない、非創造物にこそ当てられて然るべきな語彙じゃないのかね。ところが、君らは自然災害について、悪魔と謗らず、僕らのような人間の悪意の集合体としか評せない者を、悪魔、と。思考の澱ともいえる僕らを、まるで自分達の外側にあるかのごとく称する。これは、今そこに横たわっている君の母体、放置すれば喉に汚物をつまらせて死ぬだろうということだが、その生存の手助けをするか、見てみぬフリをするか?という問題につながる。君が決断を迫られるほんの数十秒の間に、君らにとって悪魔たる僕が言い訳を与えないことは、僕の存在意義にとって、とても大事だ。舞台は家の中。たとえ彼女が死んでも、君は社会的には何ら罪の意識を感じる必要はないが、彼女の生命を重んじるなら、彼女を横臥位にし背中を叩くといい」

「よくも・・・そんな、ペラペラと」

 ヨウコは母親のもとに駆け寄り(駆け寄るほどの距離はなく、ほとんど滑り込んだと言って良かった)、彼女を横に向けて、背中を強く叩いた。こほっと咳き込んだ後、母はむくりと起き上がった。

「お母さん・・・大丈夫?」

 目の焦点は合わず、眉間に皺を寄せていた。呂律の回らぬ調子でなにかを呟くと、彼女はフラフラと起き上がった。足元が覚束ないようなので、肩を支えようとすると、振り払われた。なんということはない。彼女は洗面所で顔を洗いに行ったらしい。ホッとしたのも束の間、ほどなくして戻ってきた母は、自らが吐き出した汚物を見て、汚れていると呟いたあとで、ヨウコの布団を引っ張り出して、再びイビキをかいて寝始めた。


 少年は笑っていた。

 ヨウコは、ついカッとなって、母の首を絞めた。母は踠いた。少年は楽しそうに、嗤いながら言った。

「そーれは上手くないよ。本気なら、君の手首に爪が食い込んでやり損じる前に、せめてタオルでも持ってこないと、ね」

 ヨウコは、ハッとして手を離した。母は、彼女の懊悩など全く気付かぬようで、酩酊状態から戻っては来なかった。ヨウコは、下唇を噛んで、思わず家を飛び出した。振り返って考えると律儀なことながら、わざわざ履いてきた靴を脱ぎ揃えて、最上階の手すり支柱を乗り越えた。

 和解なんて無理だ。死ね、死ね。私が死んで、心底後悔すれば良いんだ。無意識のうちに娘を自死に追いやった母として、一生後ろ指を指されていきれば良い。母には、それがお似合いだ。

 気持ちは昂っているのに、足首にひんやりとした夜気を感じると、死に撫でられているようで、すくんでしまう。彼女の意思に反して、腰が引けて両肩は支柱を離そうとしない。

「背中を・・・押してくれる?」

 少年は、月の光を浴びて青白く輝く前髪を風になびかせていた。静かな春の夜に浸っていた。優雅な佇まいに対して、物言いは冷たい。

「どうして、僕がそんなことを」

「死にたいの」

「死にたいなら、死ねば良い。僕に死生観、ひいては宗教なんか無い。いや、ひょっとしたらあるのかも知れない。なぜなら僕は人から生まれたものだから。けど、僕個人は、君が生きようが死のうがどっちでも良い。そこに秘められた思いには興味津々だから、こうして煽っているんだけどね。本当に死にたいなら死ねば良いさ」

「酷い。私はこんなに辛いのに」

 少年はため息をついた。

「私は、運命を選べる?」

「運命に選択肢なんか無いね。君の母親が正しい。死は、繁殖と交配をシステムと快楽に切り離し統治しようとした人間の逃れられない業であり福音だ。君自身や母親の死で、せめて自然摂理を蹂躙した気分だけでも味わいたいというなら、そうすれば良いんだ。けれど、あいにく僕には全く興味がないね。死にたがる人間なんてさ。今や珍しくもない、面白くもないよ」

 ヨウコは深呼吸をして、手の力を緩めようとした。けれど、彼女の筋肉は、それこそ死んでしまったかのように硬直して動かない。

「そんなに押してほしいのなら、押してあげる」

 少年は意地悪くそう言い、ふわりと宙を舞った。ヨウコの目に彼が天使に見えたのは、その時限りである。一見すると、少年のような質量のある生き物が、風や重力の影響を受けず、揺らめくこともなく空中に踏み留まっているのは、不思議な光景だった。少年がヨウコに語ったどの言葉よりも、その光景が、少年というものをよく表しているように感じた。少年は、人の感情に従属する存在。ヨウコが認識しなければ、彼は晩霞に紛れて消えていくのだろう。

 彼が手を勢いよく手を振り上げた。押すどころか殴られると思ったヨウコは、思わず眼をギュッと閉じた。十八分の一秒後に、彼女は廊下に足腰から崩れ落ちつ状態で、「君は死んでいない」と小馬鹿にした様子で見下している少年を、ただ呆けた顔で見つめるばかりだった。

 それから、彼女の肉体や現実世界と精神の世界の時が一致した、と感じられるようになるまで、ヨウコは自死しようとすることはなかった。かといって、少年のことばに耳を傾けることも無かった。あの日以降、何がなんでも生き延びてやるなどという、強烈な意志が芽生えたわけでもない。

 むしろ、ヨウコは忘れていった。母を恨む気持ちも、少年を嫌悪する気持ちも。ただ「どうにもならないのだ」という諦念が、絶望とは違う清々しいものとしてわずかながらヨウコに残った。少年が、生者・人間に向ける嫉妬や憎悪が、彼女を客観視させた。

 シェヘラザードがシャフリヤールに語った物語・千夜一夜物語のアラビアンナイトに登場する魔神は、数百年後に商用アニメーション映画化された不朽の名作。人の世のサクセスストーリー。けれど、登場する全能の魔神というキャラクターはなぜか人になることを望み、反対に、人が魔神になるという野心を「悪」とした。現代では、全能であり人を蹂躙出来る悪徳は、科学技術や自然災害といった、人格を持たない者が持っていい「格」らしい。

 九世紀頃アラビア語で編纂されたという、千夜一夜物語のタイトルは、アルフ・ライラ・ワ・ライラ。なんだか歌でも歌っているかのような響きだ。昔は、少年のようなこの世の者じゃない者と、人間が畏れをもって関わる時に、人と人との会話に使うことばではなく、歌でもって聖性を侵犯しないよう、注意していたのだろうか。

 物語成立当初の魔神は、人になることを望んでいなかったはずなのに。お互いがお互いの存在・「格」を、認めていたからだ。それが今や「魔神」が「人」になることを望み、人が魔神になることを望む。お互いの存在の方が恵まれている、優れていると思い込んでいる。けれど、人が産み出した人ではない者の架空人格を、産みの親であるはずの人間が羨ましがるという錯誤は、一体どの時点で産まれたのだろう?

 その答えを、ヨウコは言語化することが出来なかった。ただ、彼女は少年に会うことで、今まで疑問に感じていなかったことに疑問を抱き、そして、そのことに幾分か納得した。少年がヨウコに唆したような、自分の人生に対する納得とは全く別のものだ。結果から言えば、ヨウコは少年の甘言に乗って、ただ心の傷口に塩を縫っただけの、それは詐欺だった。

 生者は、生きられない者にとって、嫉妬の対象になるのだ、と。少年の存在は、ヨウコにその実感を与えた。彼女は、二番目の人生で子どもを授かりながらもやり直した事が、引っ掛かっていた。その全てが、母が子に抱く愛おしさであると考えるほど、彼女は「母」の愛を信じていなかった。ただの負い目だった。けれど、少年がヨウコの心を乱そうと思うのであれば、彼女が、子供の人生ではなく、自分の人生を選んだことを、非難すれば良いはずだった。そうすれば、彼女には良心の呵責が生じる。少年は彼女の選択を、咎めることは無かった。

 三度目の人生を選んだ瞬間に、ヨウコの息子は、彼の嫉妬の対象とは、なり得なくなったからだ。

 人間に憧れるだけで、決して生者ではない少年は、人間を邪なだと決め付けながらも嫉妬が溢れて溢れて止まらない。一方ヨウコの方と言えば、少年の神秘性を、強いて考えれば羨ましく思う気持ちも少しはあるのかも知れないが、少年に「成りたい」という気持ちは微塵もない。彼が神出鬼没に現れ、嫌みを言うときにだけ、彼という存在を嫌悪感とともに認識する。

 少年に、人生への憧れがあって、更に彼が人間の人生をほしいままに出来るのなら、ヨウコの身体を乗っ取るなり、命を吸い上げるなり、好きにすれば良い。けれど少年にそんなことは出来ない。気持ちの問題ではない。能力が無いからだ。生きることに飽いていたヨウコとて、少年がそれほど望むのなら、自分の身体や命を好きに使ってもらったって、構いやしないのだ。ヨウコにはそれが出来ない。やはり気持ちの問題ではない。誰にも代替できないたった一つ、絶対の物。幸せよりという曖昧な定義よりも、確実に在るもの。それが命だ。運命は、命を運ぶと書く。では、海流に逆らう鰯は運命に抗っているのだろうか。海流が運ぶのは鰯の身体だけで、まず、世界に自分を押し流すほどの流れがあるとい事実を受け入れなければ、海流に抗うという選択肢も存在しないのだろう。

 彼女が生について滔々と考えることは、彼女にとって意味がある。それが彼女の問題だからだ。少年は違う。彼がどれだけ生について考え語ったところで、ヨウコが感じるのは、ブルジョアがヨウコに節約術を説くような不愉快さばかりである。

 生者と、生きてはいない者の溝は、マリアナ海溝より深いらしい。

 ヨウコは、婦人科の一室で額に脂汗を浮かべながら、久しく記憶から遠退いていた少年のことを思い出していた。

「うーん、まだ子宮口が開ききっていませんね。何かあったら呼んでください」

 間欠的な陣痛で、彼女の思考はいつも以上にまとまりがない。頭に響く少年も、幻影なのか現実なのか判断がつかない。

「せっかく面倒事を無かったことに出来たのに。君はまた同じ道を選ぶの?」

 ヨウコの旦那は、仕事の都合がつかず分娩には立ちあえないと言っていた。一人は心細いとは言え、ヨウコは少年の毒舌にホッと安堵しさえした。彼女が疑った生への疑念を、疑いもせずただ嫉妬するだけの少年は、裏を返せば生の絶対無謬を証明する存在である。

「これでいいの。私は運命を受け入れてやる」

 挑戦的な物言いは、少年の嗜虐心を刺激したかもしれない。彼は、耳元で嫌みに笑った。けれど少年は、なぜかヨウコの額に浮く脂汗を手で拭い、「つまんないな」と言ったきり消えてしまった。彼は、悪魔「のような者」として、彼の言葉に翻弄される次なる獲物を探しにいったのだろう。

 不意に、少年には感謝を告げなければならないような、倒錯した気持ちに駆られた。少年は孤高でありながら、命へ執念を燃やすだけの卑しい存在である。そんな少年から、ヨウコが与えられたものは、一体なんだったのか。陣痛の間隔が短くなり、ヨウコの思考は全く纏まらなくなった。

 螺旋を描き、彼女の子宮からついに出てきた命は、初めて外気に触れて驚きの産声をあげた。助産師に取り上げられた小さな生き物は、まだ目も見えないのに、ヨウコを母と認識してもぞもぞと母乳を探そうとする。胸いっぱいに広がる安堵と歓喜の刹那、やはりヨウコは少年に感謝せずにはおれなかった。














 



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