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体の中に耀る月 第二話「脣」


※このnoteは、所事情により予告なく削除する可能性があります。詳しくは第一話の但し書きをご覧ください。
 楽しんでいただけると嬉しいです。



第2話「脣」

 

暗がりの中に、音が響いていた。モーターと、冷却ファンの音。無機物の出す音には、秩序がある。途切れなく続いていたかと思って安心していると、ある日突然弱々しくなりこと切れる。苦しみも足掻きもない。

 春(ハル)は、モニターをぼんやり眺めていた。ブルーライト。その前には、光にキラキラと反射する埃。間断ない光にも秩序がある。整然と並ぶドット。ガスが縦横無尽に飛び交い、燃える星とは違う。あの胸を締め付ける生物的な輝きとは違う。ディスプレイの光には、やはり苦しみも足掻きも感じられない。技術とは貴金属とプラスチックの際限ない組み合わせだ。感慨の無いものは扱いやすい。しかしこれは美しいのだろうか。これで良いのだろうか。

春は、目を閉じた。今日一日の出来事を、瞼の裏に上映する。

学校での出来事。感情を取り除き、事実だけを拾い記憶に留めようとする。いつも、上手くいかない。

だって、本当は、あの子もあの子も、嫌っている。そんな風に思うのは、間違っているだろうか。笑顔ですり寄ってくるのは、私を利用したいから。

 いや、あの空間がえも言われず、気持ち悪いのは、決してそれだけではない。私の味方もいるだろう。本当は、場を支配する空気に逆らいたい人たち。

 でも良いのだ。勝算もないのに、闇雲に逆らうのは、バカのすることだ。小さくなっているがいい。無機物と違って、生き物は決してひとつの方向を目指したりしないものだ。無秩序。混沌。喜び笑い励まし合っている一方で、蔑み嗤い人を貶めなければ、命を維持することができない。

 私は強い。私は賢い。それを知っている私は、どれだけ傷付いても、耐えなくてはならない。滑稽で独り善がりな考え。そう思っても口に出さないことで私は自尊心を保っている。

 振動音。スマホが、机をかたかた叩く音。着信の相手を、確認する。顔をしかめた。あの男。

 要件は、聞かなくても察しがついていた。カンニングがばれたこと。疑われ、苦しい言い訳で辛くも罰を逃れただけなのに、俊之は後になって教師の詰めが甘いと嗤う。だから、生徒になめられるのだ、と。呆れたが何も言わない。教師には、本気で相手にされていないだけだ。

 教師の仕事は、本気で子どもの相手をすることではない。子どもの相手を本気でするフリをすることだ。俊之への詰問が甘いのは、教師に、「牽制すれば止めるだろう」と思われていたからだ。「牽制しても止めない」のは、俊之がバカだからだ。誠に残念。学校側は正しく対処しました。俊之君がひねくれているのは、家庭環境に問題あるのでは?そういう事だ。

 前回の集団カンニングは、彼女のスキルと生徒への信用という名分の裏にある、教師の怠惰があったから成り立った。まず、俊之の発案で、彼女が俊之にオーダーメイドの「アカウント」を作り、売った。そして、セキュリティの緩い学校のシステムに侵入し、テストを盗み出した。俊之はそれで小遣い稼ぎをした。彼女に半分の稼ぎを渡しながら、味をしめた。俺たちうまくやってやったよな。

彼女はこれが最初で最後。俊之と手を組む気は毛頭なかった。彼は幼稚だ。

 もともと春はクラウドで客を集め、アカウントを売っていた。今でこそ、ガツガツと金稼ぎをする理由はないが、一時期彼女は追い詰められていた。母親の入院で、彼女は生活に困窮した。親戚の世話になるという事もできたが、春の母親は二十歳の頃から、親戚と折り合いが悪かった。怒涛の勉強をするまで高額医療費控除や生活保護、親戚を頼らずとも幼い彼女を助ける制度がある事を、何も知らなかった。それで無謀な事に、彼女は一人で生活しようとした。趣味のプログラミングで稼ごうと、クラウドで客を集めたが、客はなかなか定着しなかった。彼女は安易で危険な方法に手を出した。直に並々ならぬ才能が開花し、そこそこ金を稼ぐことができるようになった。思い出すと苦しくなるが、死亡保険もおりてまとまった金ができたため、体を売り物にする行為は一度きりで一切止めた。

しかし俊之は、彼女のそのたった一度の間違いを見ていた。脅されるような形で俊之のゲームに付き合わされることになったのである。

  俊之は、儲けを折半にするのだから、春もそれに満足していることと思い込んでいる。金のためになんでもする女と思っている。更に我慢のならないことに、彼女を上手に利用していると思い込んでいる。けど、違う。集団カンニングも彼女は気が進まなかった。

 バレたら退学になるかもしれない。母親があれほど苦心して、入れてくれた私立校なのに。

「怖いのかよ」と、俊之は嗤った。違う。そんなリスクを侵してまで、小銭を稼ぐのが、嫌なのだ。もし、彼女がアカウントを売っている事を知ったら、学校側は、やはりそれを問題視するだろう。しかし、これは合法的なビジネスだ。客の望む、架空の人物を創造する。皆信用と華のある看板を欲しがっている。需要があるから供給する。税金を納めてさえいれば、学校側にいくら糾弾されようと、彼女は恐れない。面倒になりそうだから、わざわざ言わないだけ。

 無論、売ったアカウントを、俊之のように姑息な手段に使う奴もいるかもしれないが、彼女には関係のない事。提供したサービスをどう使おうが、客の自由。しかし今回のカンニングは商売ではない。生物のテストは結局無効となって追試が設けられる事になった。俊之にも彼女にも、利益はない。場を掻き乱しただけ。

 それで、俊之が満足するのは彼が幼稚だからだ。

彼は、後ろ暗い事を隠すというよりも、むしろ自分のしたことを学校に誇示したがっていた。そのために、教師陣から疑われていることも、彼の望むところだった。カンニング首謀者であるという決定打に欠ければ、教師陣は下手に懲罰を加えることはできない、と考えている。どうだ悔しいだろう?そういう思考回路。

 教師は、ノロマな鯰である。生け簀に放たれた無数の稚魚を、丸のみすることはできても、素早い一匹を狙い打ちすることはできないのだ。俊之は、得意気に語る。

 しかし、だからどうだと言うのだろうか。そもそも、必要もないのに捕食者の前に躍り出ることに何の意味があるのか。これだけ俊之を軽蔑しながら、彼女は彼に逆らえない。

「もしもし」

しぶしぶ電話に出た彼女に、俊之は、愚痴を言う。生玉典子と、睦への愚痴。

 彼女の用意した端末と、ワイヤレスのスピーカーが、典子に見つかった。それは、クラスメートの睦が、典子にチクったせいだと言う。事実に、感情を織り混ぜながら話す俊之。女々しいと思う。女らしいは、褒め言葉なのに、「おんな」が1つ増えただけで、ねちねちとした悪口になる。不思議だ。ぼんやりと気の入らない相槌を打っていたら、俊之がだんだんイライラしてくるのが分かった。

ちゃんと聞いているのか、と。

聞いている。ばかばかしいと思っている。けど、ちゃんと話を聞いて本音を言えば、アンタはやっぱり逆上するだろう。ただ「聞いてるよ」と、呟いた。

俊之は、納得いかずに黙っていた。黙っていたが、すぐに提案と言う名の命令を始めた。

もし、彼女の側に誰かがいたら、幽鬼のようなその顔に、怯えただろう。蒼白になった面の下に、怒りと屈辱を湛えていた。架空アカウントの制作や、学校のパソコンにハッキングすることは、乗り気でなくとも、やり甲斐だけはあった。しかし、今回のカンニングのために用意した端末やイヤホンの設定は、彼女でなくとも容易くできることだった。俊之が、今彼女に要求していることは、彼女が最も嫌う行為であり、苦手とすることだった。 睦を懐柔し貶める。そういう計画を、俊之は語った。

ふざけるな、と言いたいのを堪えて、彼女は言った。

「私じゃなくて、良いんじゃないの」

俊之は、猫撫で声で、春の知性や容姿を誉めた。お前じゃなきゃ出来ない、と。分かっている。彼女は断れない。どれだけ優しくされようと、どれだけの見返りがあろうと、俊之の握る彼女の弱味を取り返し潰さなければ彼女は俊之に逆らえない。切り札をちらつかせながら、彼女を宥めようとする、その姑息なやり方も、彼女の神経を常に逆撫でしていた。

「分かった」

苦々しい思いで、電話を切った。震える手で、携帯を床に置いた。

落ち着いて、考えなければならない。俊之は助長している。「溺れない」と慢心して飛び込んだ海。当然水を吸って重たくなった服が枷になり窒息寸前。死なばもろともと彼女を足を引っ張っている。下劣で知性の欠片も無い男!

しかし彼女が逆らえば、俊之は彼女の秘密を暴露するだろう。彼女が俊之に知られている秘密は、女としては致命的だ…。

彼女は、臍を噛む思いに耐えていた。落ち着かなければ。

俊之に従うのは、もう終わりだ。上り調子の時に従うのとはワケが違う。今度の依頼は、単なる俊之の憂さ晴らしだ。俊之にすらリスクはあってもメリットはない。そのリスクを、彼女に背負わせることで、逃げようとしている。どうしよう?

彼女は教室でのカンニング騒ぎを思い返した。

 彼女は、自分の席で今日の典子達のやり取りを見ていた。俊之は、丸い補聴器のようなワイヤレスイヤホンをしていた。

 今回のカンニングは、教師が俊之のイヤホンか端末のどちらかを認めた場合、彼女が遠隔で二つの電源を落とす事になっていた。彼女は、典子が教卓の奥をガサゴソやり始めたのを見て、予定通りシャットアウトした。

 このとき、典子の姿勢では、俊之がイヤホンを外したところは見えなかったはずだが、典子は、端末を見付けてから教卓へ放ると、直ぐ俊之へ向かった。

 俊之の話を合わせると、睦が、俊之の独白を典子に話していたと考えるのが自然だが、典子はいつ、教卓の中の端末に気付いたのだろう。典子が端末を見付けたのは、二日めの一時間め。典子の担当である生物の試験が始まって、十分ほど経ったあと。とても中途半端な時間だ。

一日めに端末を設置したのも、テスト終了時に端末を回収したのも、そして、二日めに再び設置したのも、彼女だ。俊之はリスクを全て、彼女に背負わせていた。

 細心の注意を払ったものの、どこかで、誰かがそれを見ていて、典子に密告していたなら、カンニング犯として吊し上げられるのは、彼女のはずだ。

 彼女は、2日とも早朝に登校して端末を設置している。教室を出るのは、休憩時間にトイレに行くときぐらいだった。その間、睦か典子のどちらかが教卓を探ったのなら、テスト開始前に騒ぎになっているはずだ。

 典子が、端末に気付きながら主犯が特定できないため、俊之を泳がせていたとする。それなら、こっそり端末を回収し、その持ち主を調べる。何も、みんなが見る前で取り出して、俊之を警戒させる事はない。少し考えただけで、もっとマシな方法がある。

何より、俊之は、「自分はシロだ」と主張して、強引ながら、難を逃れている。

 わざわざ生徒全員の関心を惹いておきながら、典子のやり方は、あまりに中途半端だった。

その上、カンニング犯の俊之ではなく、睦という密告者、ひいては自分の協力者であるはずの、睦を陥れるような形を作った。

そもそも彼女には睦がよく分からない。殆ど口を聞いたことがないからだが、教室で見せるその行動も、一貫性がなく解せない事が多い。俊之とは幼馴染みらしいが、俊之は睦以外にも友だちが多い。不文律として存在する、上下関係は無視するとしても。それに対し、大抵睦は一人だ。いつも何かに怯えてコソコソしている。そのくせなぜか急に気丈に振る舞おうとする。決して器用ではないのに、格好つけたがりでオタクと交わる事を嫌う。

呆れたことに、俊之は、睦に自分がカンニング主犯であることを仄めかしていた。しかし、今回のカンニングの手口については、全く話していない、と言う。睦は鈍くてお人好しだから、教師にチクる事はないだろうと、タカを括っていた。(俊之は、睦を「信用」していたと話した。)

 睦は妙にオドオドしていて、ミーアキャットが無理やり胸を張って強がり、腰を痛めているような滑稽さがある。典子の好むような生徒ではないのかも知れない。しかし、それを言うなら、典子は俊之のような姑息な生徒は、もっと典子の好むところではないはず。元々、典子は一人の生徒に必要以上の時間を割くことを嫌う。カンニング騒動に巻き込まれる事も内心苦々しく思っていただろう。

テスト中は、筆記用具とアナログ時計以外、机には置かない。前学期のカンニングから、職員会議で、このルールを徹底すると周知があったらしい。教師に嫌味を言われるからと、わざわざアナログ時計を買った生徒もいて、それはそれで保護者の不評を買った。その点、典子の持ち物チェックは緩かった。デジタルの時計を机に置いたままでも、一言の声をかけることもなかった。最前列の生徒に、テストを渡したあと、あとは教卓の脇に置いた椅子に、足を組んで座っていた。無言のまま。学校側の方針ですら時に蔑ろにする典子だが、決して寛容ではない。そんな典子が、教師と生徒の双方から一目置かれ、睦のように恐怖する生徒がいることには理由がある。それは、カンニングとは別の事件が原因だが、今は関係ないので反芻しない。問題は今回の典子への違和感。

無論、カンニング犯を、その場で摘発することは、やり方がどうであれ、教師としては矛盾のない行動だ。しかし、睦の告発を仄めかし、意図的に睦に注目を集め、彼の不評を買うことに、なんの意味があったのだろう。

睦と俊之の仲に、亀裂を入れる。睦と俊之の恨みを買う。典子に何のメリットがある?嫌いと言うだけで、生徒同士の仲を掻き回す事を典子はしないだろう。いや、あの女は性格が悪い。彼女が知らないだけで、気に入らないというだけの理由で、生徒を苛めることもあるかも知れない。

 春は、典子が嫌いだった。生徒を見下して憚らない女。そんなに子どもが嫌いなら、教師なんて辞めてしまえば良いのに。そう思っていた。

しかし、睦に、典子の関心を惹く「何か」がある、と仮定する。俊之の言う事を素直に聞くふりをして、睦に近付いてみるのも良いかも知れない。彼女は、典子が好きではないが、それでも俊之への対抗手段として、担任教師を見方に引き入れることは、悪手ではないはず。典子に頭を下げて協力を依頼するは、彼女のプライドが許さない。もっとも落ち着いて考えてみたものの、具体的なプランは何もない。ただ、俊之の言いなりになるフリをして睦に近付く。直感的にそう判断した事が彼女の賢明なところ、なのかもしれない。それは大きな発見があったものの、彼女の不器用さとプライドが邪魔をしてなかなか困難な事になったとは言え。

 

その日の朝は、アスファルトに撒かれた水が、少しずつ天に蒸発してゆく靄が見えるようだった。テストは全教科ギリギリ赤点を回避した程度、 俊之との仲は気まずいままで、睦は、沈んだ気持ちのまま登校する日が続いていた。

敦子とことばを交わした事を思い出し、気分が高揚することもあったが、学校の外での事。それこそ蜃気楼のような数十分。典子の話に違わず、クラスメートのから漏れ伝わる噂話に耳をそばだててみると、どうやら敦子はかなり浮いた存在であることが分かった。

美少女と友だちになったと言うのに、誰に自慢できる話事もなく、睦は寂寞とした日々を送っていた。対して俊之は、睦じゃなくとも苛立っていることが分かった。カンニング以降、露骨に俊之を避け始める生徒が現れたからだ。前々から、俊之は、成績優秀で溌剌とした生徒として評判だったが、その反面、利己的だと非難する者も少なからずいた。しかし、俊之の評判が良い時は、その批判がたとえ正鵠を射ても、無視されていた。側溝の下水とともに流れる朽葉のように、「僻み」から涌き出た、下らない讒言としてそれを口にした生徒が爪弾きにされた。俊之は教師陣から「推定無罪」として放免されたにも関わらず、彼の評判は翳りを見せた。これを機会に、内々の不満を爆発させる生徒が多かったのだ。

 睦は、俊之に不満を抱いていたものの、彼の凋落のキッカケを作ったのは自分だと、俊之に後ろめたさを感じていた。以前、肩身の狭い思いをしていた睦の側に、彼が寄り添ってくれた事を思い出し、睦も、俊之の味方であろうと決めていた。しかし、他ならぬ俊之が、睦に怒りの矛先を向けていた。発散される剣呑な雰囲気にたじろいでしまって、俊之に謝ることもできずにいた。

 二人で落ち着いて話ができれば、とは思うが、嫌われ始めたとは言え、俊之の周りはいつも数人の友だちが、彼の周りを固めていて近付けない。休み時間に、机に突っ伏して寝る以外の選択肢が無くなった睦は、悩みの壁が四方を覆う憂鬱な思考を止めて、前夜にみたテレビや動画の面白いところを思い出し、なんとか気分を平行に保とうとしていた。

「ね、ね。睦くん」

その、睦が一人で過ごす機会を狙って、小さく横幅の広い何者かが、キイキイ甲高い声で話しかけてきた。顔をあげると、意外な事に南戸だった。女生徒に苛められているところを助けたにも関わらず、一言のお礼もなかった男である。無視してやろうかと思ったが、心根が真っ直ぐな睦は、それができない。

「‥‥なに?」

「そ、その、そのね。あの、僕、言いたいことがあって、あの、だからその」

冗長になるので、睦が気付く前に、書いておかなくてはならない。南戸は、これから先も、ずっとこういう喋り方をする。声量の小さく甲高い声で、セコセコと話す。聞き漏らすまいと、注意をしていても、大半は「あの」とか「その」とか「ねえ」とか、どうでもいい連体詞である。「え?」と聞き返すと、焦り「だから」「だから」と、余計に早口で繰り返す。

相手をイライラさせる喋り方だ。南戸の喋り方を綴ると、何が書きたいのか分からなくなるし、ただでさえ冗漫な文章が目も当てられなくなる。南戸のセリフは、なるべくシンプルに書くことにする。それで、登場人物への南戸への風当たりが、無意味にキツく感じるかも知れないが。

 南戸が睦に話しかけている。南戸にとって、それは満腔の笑顔なのだろうか。しかし、目は焦点が合わず虚空を掻き、額には汗が浮かんでいる。短いまつげを伝い目に入ろうとする汗が、不快らしい。拭けば良いものを、睦の前で遠慮しているのかハンカチを持っていないのか、汗を避けようと片眼だけ瞑ろうとして、不器用なウインクをしているよう。口元もひん曲がっていて、なんとも形容しがたい不気味な顔になっていた。

 我慢して南戸のことばに耳を傾けていると、どうやら南戸は、女子生徒に絡まれているところに、声をかけたくれた睦に「ずっとお礼が言いたかった」と、言いたいらしい。威張り屋の俊之と仲が良いので近付けずにいたが、睦とは友だちになりたかった、などという趣旨の事を話した。睦は、おざなりに相槌を打っていた。南戸への関心が薄いことを察し、彼は焦ってますます早口になった。服の袖をつまんできたので、睦は嫌悪感を抱いたが、南戸は、半ば強引に睦の耳元に唇を寄せ、囁いてきた。

「友情の印に、僕のマル秘写真集を見ない?」と言う。南戸の湿った呼気を、肌で感じてしまい、睦の嫌悪感は高まった。写真集とはなんだと聞くと、校内の可愛い女子の写真を、「加工して芸術的に」仕上げたものだと言う。

「要らねーよ、変態か」と、はね除けたい気持ちと、「見たい」気持ちが攻めぎあった。敦子の顔が頭に浮かんだ。彼女の写真もあるだろうか。俊之や典子の都合良いように扱われている事が、睦の気持ちを、サディスティックにさせていた。南戸なら、こちらが上位に立てると踏んで、睦は首肯した。南戸は、ますます挙動不審になったが、どうも、喜んでいるらしい。睦を喜ばせようと、早口でいろいろと捲し立てた。

 南戸があまりに喜ぶので、その様に睦は少なからず自己嫌悪を抱いた。「誰にも見られないように」と、人気のない校庭の裏側、ブロック塀に腰掛けて、南戸のタブレットを覗き見た。 青々とした寒椿だけが、彼らの同行を見守っている。主に、廊下から撮った女子生徒の写真を、解像度を上げてトリミングしたらしい。隠し撮りとは言え、健全な写真集だった。南戸の前フリ通り、芸術すら感じる。

 色彩や、写真並びなど構成にも拘っているらしい。エロティックなものを期待していた睦も、高揚しながらフリックした。

「僕と睦君の、二人だけの秘密だからね」

その一言に、気味の悪いものを感じたが、写真集から伝わる南戸の印象は、それほど悪いものでもなかった。俊之のように、奸計に腹を立てる必要がなく、典子のように、怯える必要もない。一枚一枚、じっと見つめながら、睦は敦子の写真を探していた。

「敦子の写真は無いのか」と、直接聞きたい気持ちに駈られたが、南戸に胸中を知らしめるようで、恥ずかしい。

 南戸は、睦が聞くも聞かぬも気にせず、話し続けていた。この写真の拘ったところとか、この女子生徒は顔の形が良いとか、実は僕は良いカメラを持っているとか。

 もしも、季節が進み校庭裏に枯葉が敷かれていたら、彼らは、それを踏み締める音で、忍び寄る彼女の気配を、察する事ができただろう。しかし、爪先から足を落とし、歩を進める福吉春(ふくよし・はる)は、意図的に音を殺していた。傍らに立つ春に気付いたのは、睦の方だった。睦は、全身が粟立つ恐怖を覚えて、傍らに顔を向けたが、春は、笑顔でそれに応えた。

「コウモト君」

睦は、勢いよくタブレットを閉じた。南戸は、目を丸くして、固まっていた。繰り返すが、春は笑顔だった。両目は丘を、整った鼻梁の下の、口元は谷を描いていた。頭頂から弧を描く柔らかなボブカットの髪は、顔の稜線を柔らかく包み込み、その真ん中を彩る彼女の表情は、先の南戸とは比べ物にならないほど、完成度の高い笑顔だった。それに戦慄を覚えたのは、最近見たある不自然な笑顔と、共通する何かを感じたからだ。しかし、典子と違い、睦は春と初めて会話を交わす。笑顔の春の、どこに怯える必要があるのか、睦自身にも分からない。

 まず、春は、開口一番、実は「俊之が嫌いだった」と睦に告げた。だから、「悪評ふんぷんに、イライラする俊之を見るの、痛快だ」と言う。更に、南戸と同じく、睦と友だちになりたくて、後を尾けてきた」らしい。

 春は、睦の視線を意識しているらしく、時折栗色の髪を撫で付けたり、細身の体をくねらせたりした。それでいて、故意に南戸を無視している。一度も目を合わせない。

「それでね、アツシ君に、お願いがあるの。ちょっと、二人だけでお話ししない?」

ないがしろにされることに、耐えられなくなった南戸が声を上げた。

「僕らが今、話をしてるんだよ。失礼じゃないか」

春は、返事をしなかった。ただ、睦にも、春が無視しているのか、反応に困っているのか、分からなかった。南戸がたったこれだけの事を言うのに、傍らの睦でさえ、何が言いたいか、そのことばから意図を拾うのに、30秒ほどかかった。

 しかし、測らずも、南戸の冗漫な喋り方が、春の「女」の面を剥がした。その裏には、また別の「般若」の面があった。

「話ってなに?いかがわしい写真を見ながら、何を話すって言うの?」

やはり、春はタブレットの中を見ていたのだ。南戸は、しどろもどろになって(元々しどろもどろであるが)、目を白黒させた。

「これは、その」

南戸は、あっという間に畏縮してしまった。

「別にいかがわしくなんかないよ」

と、反駁する睦にも、冷や汗が伝う。後ろ暗い事は、確かだ。

「ふうん、じゃあ見せてよ」

睦には、友好的に振る舞っていたのも束の間、春は挑戦的だった。目に、鋭い光を湛えるところも、典子に似ている。

睦は、「ダメだ。秘密だ」

と、春の要求を跳ねたものの、

「い、良いよ。別に」

と、南戸は、全身を震わせながら、タブレットを春に差し出した。

「そんな、エ、エッチな写真なんか、ないだろ」

春の瞳が、一層鋭い光を放ったような気がして、睦は、不安になった。タブレットを受け取った、春は、

「どうかな。隠してるかも知れないよね」

パラパラ写真を捲った後、春は、勢いよく、踏み締められた砂利に、タブレットを叩き付けた。整然とあるべきところに収まり、意志疎通を測っていたプラスチックと金属の塊は、粉々に砕け散った。乾いた音が響いた。南戸は、地面に顔を伏せて泣き出し始めた。こちらは悲痛な泣き声だった。

春は、南戸の泣き様を、ニヤニヤ眺めながら言った。

「隠し撮りは、犯罪だからね。皆に言い触らされないだけ、マシと思いなさいよね」

春の言い分に理はあるが、南戸に同情を禁じ得なかった睦は、思わず彼の肩に手を置いた。ことばの拙い南戸自身より、写真は雄弁に彼の事を語っていた。あくまで睦の意見だが、写真にモデルの人格を卑しむ気持ちは微塵も感じられなかった。彼女らの一瞬の煌めきを、フレーム内という制約の中、最大限引き立たせようで としていた。容姿を小馬鹿にされる事が多い南戸に、こんな写真が撮れるのかと、睦は感心した。

「コウモト君は、南戸君の肩を持つんだね」

睦は、敵意を持って春を睨んだ。膝を付いた睦の視界は、春の小柄な肢体を、実物より大きく見せた。皮肉と嫌味の笑み、セーラー服とブルーソックスが覆い被さった、細い体。

「あっち行けよ」

睦は普通に言ったつもりだったが、以外にも低く唸るような声が出た。春から笑顔が消えた。

「コウモト君は、南戸君とそんなに仲が良いの?ほっとけばいいじゃん」

春のことばを防いで、言った。

「お前に関係ないよ。お前みたいな性悪は嫌いだ。あっち行けよ」

睦のことばは、春を傷付けたらしい。彼女の顔色は一瞬で変化した。柔和の仮面は、どこにも残っていなかった。小刻みに震えながら、春は、拳を握った。睦は警戒したが、春は手を出してはこなかった。

「ふうん?じゃあ、こういうのはどう?さっきのいかがわしい写真の数々は、実は、このUSBにダウンロードしてあります。南戸君、その様子じゃバックアップ取ってなかったんじゃない?睦君が私のお願いを聞いてくれたら、これをあげます」

嗚咽を漏らしていた南戸は、わずかに顔を上げて言った。てっきり、南戸から是非そうしてくれるよう、哀願されるものと思っていた。意外なことに南戸は言った。しゃくりあげながら、早口で。しかしハッキリと「要らない」と言った。もごもご不明瞭な発音で続けた。始めは練習のつもりだったのが、いつの間にか力作になった。睦君との友情の証に、初めて睦君だけに、見せた。それを脅迫の材料にされるくらいなら、言い触らされる方がマシだ。今度はちゃんとモデルに頼んで、もっと良い写真を撮る。

注意深く聞かなければ、ただむーむー言っているだけに聞こえただろうが、どうやらそういうことらしい。思い通りにいかないことを知った春は、ハラワタの激情を持て余しているようだ。息が荒くなっている。

 南戸への印象が、少なからず変わっていった睦は、春に向かって言った。

「お願いってなんだよ」

南戸は、厚ぼったい眼を睦に向けて

「ダメだよ。言うことを聞いたら。どうせロクなことじゃないよ!」

「うるさいな、アンタは黙っててよ。それじゃあ引き受けてくれるんだ」

春は、跪いたままの睦と南戸に視線を合わせるため、わざわざ屈みこんで、あえて顎を引き上目使いで微笑んだ。

「引き受けるかどうかは、聞いてから決めるよ」

「スゴく大事なお願いなの。最近、陸上部の間で、物を無くす子が増えてるの。この間なんか部活中、確かにロッカーにいれてた筈の下着を無くした子がいて、大騒ぎになった。先生に相談しようって事になったんだけど、そうしたら、『誰にも言うな』って書かれた隠し撮り写真が貼ってあったの。ホラ」

そう言って見せた写真は、どうやら更衣室のロッカーの上から撮られたらしい。ピンボケした着替え中の女子生徒が写っていた。

「部員で、更衣室を調べたけど、隠しカメラなんて見付からなかったの。皆に見付からないよう、こっそり置いたり回収してるのかも。コウモト君、物捜し得意みたいね?探すの、手伝ってよ」

流れるような説明だった。睦の「物捜しが得意」というのは、カンニングのタブレットの事を言っているのだろう。しかし、あの時は傍目からは、典子が捜し当てたように見えたのではないのだろうか。それとも、それも睦が密告したと思われているのだろうか。

睦は、返答に困った。こういうとき、焦って返事をすると、墓穴を掘ることになる。大体、更衣室を物色するような人間が、学校内外のどちらにいても問題だ。いくら脅迫されたとは言え、教師や警察に相談するべきじゃないだろうか。

「睦君が困ってるよ。男子が女子の更衣室を調べていいわけないだろ。変なこと頼むの、やめろよ」

南戸は、腫れた目で春を睨んだ。

「ああもう、うるさいな。黙ってろよ、デブ」

これは春のことばである。

この女の図々しさはどうだろう。南戸とは決して深い友人ではないが、わざわざ二人話しているところを横入りし、睦には、媚びたような態度を取り、南戸を扱き下ろす。

「分かったぞ‥‥ひょっとして、コイツ、ヒラタニ(俊之の名字)の事が好きで、カンニングがバレたのを、逆恨みしてるんだ。それで、お願いなんて言って、睦君を女子更衣室に入れて、痴漢にしたてようとしてるんだ!」

南戸は、そのような意味の事を喚いた。睦は、驚いて南戸を見たが、それよりも驚愕の表情を浮かべたのは、春だった。

「あ、コイツ。さては図星だな。見て!睦君、コイツの顔を」

春は、睦に鳥肌が立つほど、暴力的で下品なことばを使い、南戸のことばを遮った。小柄な体から想像もできない力で、南戸の胸ぐらを掴み、彼をブロック塀に押し付けた。睦が、慌てて、呻く南戸と春を引き離そうと、春の腕に触れると、春は身を震わせて、何かに弾かれたように南戸と距離を取った。

睦が詰問する間も与えず、春は逃げてしまった。後には、気持ち悪そうに咳き込む南戸と、呆けた睦、そして、無念にも死体となった無機物の残骸が残された。

 

メスの切ってあるフラスコを眺めていた。中に注がれた液体は、ガラスの縁を這い上がろうと、せり上がっている。

 生玉典子は、眩しいからと 、ブラインドを閉めていた。傍らの南戸がシャッターを切るのも気にせず、答案の採点をしている。

「それでアンタは、その子の話が本当かどうか、陸上部の裏付けを取ろうとしたワケね」

睦は頷いた。

「練習後に、更衣室に戻ってくる女子生徒を捕まえて、聞いてみたのね。下着を無くした子がいないか」

睦は頷いた。

「それで変態扱いされた、というわけね」

睦は、憮然としたまま頷いた。

「絶対嘘ですよ。本当に痴漢が女子更衣室に侵入していたのなら、もっと騒ぎになっています。それにね」

カメラのデータをチェックしながら、南戸は、そういう意味の事を、ぶつぶつ呟いていた。睦が、典子のところへ行くと言うと、彼も一緒に付いてきた。

睦の陰に隠れながら、

「写真を撮らせてください」

という南戸の申し出を、典子は恬淡と承諾した。

「それに、僕の調査によると、福吉さんは部活にはほとんど出ていないみたいです。無愛想で、仲の良い子もいないとか。そんな子がわざわざ睦君に話しかけるなんて、変です。絶対に良くないことを企んでいたんですよ」

典子は、無関心とも呆れとも取れない、短い溜め息を吐いた。

 睦は、やっぱり落ち込んでいた。この一週間、南戸は、睦に邪険にされながらも、一生懸命彼に付いてきた。それが単に疎ましいのではない。

 確かに、南戸は小肥りで、髪の毛の生え際なんか、皮脂でテロテロ光っていて、中年のようで、一緒にいるところを見られると恥ずかしい。日陰を好む南戸を、今まで、南戸とろくに話もしないまま、容姿も話術も自分の方が優れていると、軽蔑していた。しかし、一緒にいると、南戸は、睦よりもよっぽど教室を観察していて、鈍いなりに気を配っていた。廊下を一緒に歩いていると、「あれ、南戸君。男の友だちできたんだね。良かったじゃん」と話しかけてきたのは、大人しく目立たないが、クラスでもかわいい方の女子である。南戸は、実は睦よりもコミュニケーションが高いのではないか、という事に睦は傷付いた。

 気のせいか、南戸に対する典子の対応も、いくぶん睦より柔らかい気がした。

「南戸君、そんなに撮ってどうするの」

苦笑しながら、南戸を制す典子の表情は、しかし怒りを含んではいない。しかし南戸は、陸が「典子のところへ行く」と言ったときに、「生玉先生は怖いから一人は嫌だけど、睦君がいくなら行く」と付いてきたのである。

 劣等感や嫉妬で、南戸を、根性なしと罵りたい気分に駆られたが、堪えた。

「まあ、でも確かに気になるわね」

睦の「懺悔」を聞いていたか聞いていなかったか、よく分からなかった典子が、不意に話を戻した。

「福吉さんが、そういう事をするとは思ってなかったわ」

「先生にそんな事分かるのかよ」

「いいえ、よくは知らないわ。けど、頭の良い子だからね」

「勉強ができるってだけじゃねえの」

「まあ、確かにムラっ気があるわね」

「ムラっ気ですか?僕なんか、タブレットを叩き壊されたんですよ‥‥」

南戸が、恨みがましく言う。典子の顔が曇った。

「やり過ぎね。南戸君。私が弁償するわ。型番を教えてくれない」

南戸が、目を見開いた。

「センセー、なんか南戸に甘くない?」

睦は、唇を尖らせて抗議した。典子は反応しない。

「そんな。僕、そんなつもりで言ったんじゃ‥‥そ、それに、そういう大事な物を学校に持ってきた僕も悪いんです」

そう言って恐縮する南戸の手には、しかし一眼レフ紛いとは言え、名の知れたブランド物である。

「校則がどうであれ、意図的な損壊は見逃せないわ。早く」

典子に脅かされるような形で、南戸は壊れたタブレットの型番のメモを渡した。睦は、心中面白くない。典子は言った。

「ねえ、睦君。福吉さんとまた話をしに行ったら?」

「え、なんでだよ!」

「どうしてですか」

「別に。ただ何がしたかったのか。ハッキリさせても良いと思って」

「嫌だよ、なんで俺が」

「そう?案外何てことない、ただ構ってほしくて話しかけてきただけかも」

「別に‥‥どうでも良いよ」

「なんですって」

「どうせ、俺はトシユキや南戸と違って不器用だよ」

拗ねたようにそっぽを向く。

「何言ってるの」

典子が、瞬間的に殺気だったのが分かった。なぜ、俺は、典子の気を逆立ててしまうんだろう。緊張で心臓が跳ねるのを感じた。

「アンタ。自分の思い込みと話すのなら一人でやってくれない。わざわざ私のところに来ないでよ」

頭をくらくらさせながら、反抗する。

「なんだよ。別にせっかく相談したとのろで、先生なんか、つまんなそうにするだけで、なんのアドバイスもくれないじゃないか。いいよ。そうやってバカにしてろよ」

そう言って、睦は、生物室を飛び出した。南戸は、慌てて睦の後を追った。

「どうしたの?睦君。なんだかイライラしてるね?」

「別に、南戸に関係ないよ」

項垂れる南戸に、睦は何か申し訳ない気持ちになり、言った。

「南戸が悪いんじゃないよ。悪かったよ」

「僕は、睦君が羨ましいよ。勇気があってあんな美人の先生と仲良くできて」

俺に勇気がある?典子が美人?そして、南戸には睦と典子が仲良くみえるのだろうか。

「俺には、生玉先生が何考えてんのか、よく分かんないだよ。いろいろ知ってそうだけど、ちゃんと教えてくれない。ムカつく事言うばっかりで、ひょっとして、何も分かってないくせに、偉そうにして生徒を顎で使いたいだけかも知れないぜ」

今度は、南戸が黙った。何かを考えているようだ。

「僕、思うんだけど、生玉先生って」

「なんだよ」

「いや、なんでもない」

「何がだよ」

「‥‥福吉さんに聞いてみたら、分かるかも」

「また福吉かよ。あのポッと出。ワケわかんねえ。南戸の方が良くない事企んでるって言ったんだろ」

「そう、なんだけど‥‥」

「分かったよ。直接聞いてみるよ。俺は、あの先生と関わってからずっと女の持って回った言い方に、イライラさせられてるんだ」

 

 開け放たれた教室の窓から、クチナシのにおいが泳いでいる。今はまだ心地良い陽気。窓際の春の席は、もうじき西日が耐えられない季節になる。

ぼんやりとしてから、下校の準備をしていると、不意に話しかけられた。

 睦と南戸。驚いたが表情には出さない。春は、やはり男性の懐に入るのは苦手だ、と、無表情のまま、ことばを交わした。傍らの南戸は、挙動不審で見ていてイライラしたが、この間の事があるので一応の謝罪をする。封筒を渡す。

「後で見て」

タブレットの弁償代。反省ではない。取り乱した自分を許すための行為。

誘われるままに屋上へ向かう。

 南戸は元より、睦も怪訝そうな顔で、後ろを歩く春を窺っている。春は、既に「敗戦」を認めていた。男性の懐に入るのは苦手だ。アカウントは売れても「媚び」をうまく売れない。南戸が睦に尾いて回る事は予想外だった。さらに南戸が見かけによらず鋭いことは致命的な予想外だった。俊之は、しつこく「計画を進めるよう」春に迫ってくる。俊之にまだ「失敗した」とは言えない。逆上して、援助交際を学校内外にバラされたら、どうなるか。もういっそ、どうにでもしてみようか、捨て鉢になりそうにもなる。けど、今後春の人生に、長く翳りが差すことを思うと二の足を踏む。悩み続けた数日間。睦の方から話しかけてくるとは、何事か。生き物の思惑はやはり底が知れず、そのくせ何も考えていない事もしばしば。気持ち悪い。

「あのさ、聞きたいんだけど」

話を切り出したのは睦だった。

「この間の話って、本当なの?」

「この間?」

ぼうっと睦の顔を眺めてみた。間抜けそうな顔だ。

「女子更衣室が痴漢に荒らされるっていう話だよ」

「ああ、良いよ。忘れて。コウモト君に協力を頼むなんて、私どうかしてた」

まったく。何も疑わずに正義感や男気に溺れてホイホイ言うことを聞く奴かと思っていたのに。

「なんだよ、勝手だな」

「それより、気になってたことがあるんだけど」

春は話の舵を奪い取る。

「なんだよ‥‥」

「トシユキ君のタブレット、どうやって見付けたの?私、朝いちばん早く来ていたから、変だなって、思ってたのよね。もしコウモト君が見付けたんじゃなかったら、私の勘違いだわ」

「そ、それは、その。」

急に狼狽える、睦。

「勘だよ‥‥」

「へえ‥‥勘なんだ‥‥」

春の反応が鈍いことに、焦る睦。納得しがたい言い分であることの、自覚はあるらしい。

「ビビッと!きたんだよ。なんか‥‥」

「ビビッと‥‥ふうん」

「凄いね!僕はてっきり、生玉先生が見付けたのかと思ってたよ!」

「は!」

睦が、驚いたように目を見開いた。「そういうことにしておけば良かった」と、顔に書いてある。南戸の横槍は、しかし肝要な点を突いている。そう、この程度の「鎌かけ」に引っ掛かるのだから、やはり睦は間抜けだ。

「さすがだね!睦君、さすがだね!」

盲目的に、睦を称賛する南戸。睦は複雑な表情をしている。茶番である。トシユキが、睦をナメてかかるのも、分かる。

「いいんだよ。そんな事は。そ、それで、どうなんだよ。女子更衣室の痴漢の話は、嘘なのか、本当なのか」

「アンタはどう思うの?」

「質問に質問を返すな」

「私学校ではいつも一人だし陰気だし、南戸に疑われても仕方ないと思う。(ほとんど図星だったし) それでも、私が本当です、と言えば信じてくれるの?」

 怖がりの癖に一丁前に睨み付けてくる南戸が鬱陶しい。

「わからないから聞いてるんだよ。例えば、実は、盗撮被害にあったのは福吉だけで、犯人に直接脅されて」

睦が、何故か「春の都合良いよう」話を膨らませているのを聞いて、春は目を丸くした。

「は?」

「怖くなって、俺にだけ相談したとか・・・」

「それは、想像力たくましすぎじゃないかな」

また、南戸の横槍。この男は、本当に鬱陶しい。黙っていろ。

「それで、わざわざ私に確認しにきたの」

「‥‥」

「僕は君に関わるなんて、反対なんだけどね。君は幽霊部員だし、陸上部の事を気にかけて単身で動くというのが、僕にはどうしても信じられない。それでも、生玉先生に相談したら君のこと気にしてあげてほしい、というから、仕方なく来たんだ。睦君を騙すような事をしたら僕は許さないよ」

そのような意味の事を、もごもごと言う南戸。南戸の嘴だけでなく、春の勘に障る言葉がもうひとつ。

「生玉先生?ふん、あの性悪に何か言われたんだ」

突然、睦が鬼の首を取ったかのように、はしゃぎ始めた。

「知ってるぞ!福吉、それ、ドーゾクケンオって言うんだ」

春の顔が凍りついた。異様な雰囲気を、先に警戒したのは、南戸だった。

「睦君」

「なんだよ、南戸だって、思うだろ?福吉、お前。生玉先生にそっくりだぜ!話し方とか。顔もどことなく似てる」

睦は思い出していた。春の笑顔を見たときのそれが、「生玉典子が敦子の母親に見せた」の笑顔とそっくりなのだ。

「睦君、それぐらいに」

「なんだよ、南戸。‥‥うっ」

幽鬼のような顔の春に、やっと気付いた睦。滝のように冷や汗を流しながら、蚊の鳴くような声で言った。

「でも、可愛いと思うよ。うん。」

春は、トシユキと南戸とそして睦。皆をまとめて、屋上に呼び出し、気が済むまで痛め付けるのを想像してみた。そう。スパナとか、ペンチとか、工具を使っても良いことにしよう。きっと胸が透く事だろう。しかし、落ち着かなければならない。

なるほど、睦は、「妙な勘の良さ」と「信じられないほどの鈍さ」、そして「破滅に至る寸前までの人の良さ」が混在している。生玉典子やトシユキ、取り分け自尊心の高い連中が、睦を掌握したがる理由は、その辺にあるのだろうか。

 春は考えていた。睦をもっとよく把握しなければならない。そして俊之は睦をただ愚鈍な奴だと思い込んでいる。それには俊之の「願望」が混じっており、そこに俊之のスキがある。睦を正確に掌握すれば、あるいは俊之の弱味を握る手がかりが見付かるかも知れない。。

 春は微笑んだ。その微笑に、睦はまたしても典子を想起した。「ミニ典子」ということばを、呑み込む。

それが見込み違いでも、と春は、考えた。その時は、惨めな痴漢として、睦に泣いてもらおう。私は別の手段を考えなくてはならない。睦には情も義理もないのだし。

 

春と俊之の計画は、単純なものだ。まず、春が睦に、「女子更衣室に、痴漢により隠しカメラが仕掛けられた。どこにあるか分からないので、物探しが得意な睦君に探してほしい」と言う。

 睦は、承諾する。睦に探させて、(見付けられなければ、見付けるよう誘導し)睦がカメラを手にするとき、春は遠隔で録画をオンにする。女子更衣室でカメラを弄る睦が撮れる。その動画を証拠に、睦を痴漢に仕立てる。それだけである。

俊之の言う睦の「間抜け像」が強かったため、春のお粗末な演技でも、睦を奮い立たせる事ができるかも知れない、楽観視していた。

 しかし、南戸である。春が、渋々ながら睦にすり寄った瞬間、南戸が、確信に近いところを突いた。春は即座に「負け」を認めざるを得なかった。春が俊之に好意を抱いているという以外は、ほぼ真実なのだから、春には睦に話を信じさせ、動かすほどの説得力を持つ材料はない。何を言っても、睦は春を信用しないだろう、と諦めていた。

 しかし睦は、頑固なのかお人好しなのか。砂場に「落とし穴を作りました」と言わんばかりの継ぎ接ぎがあっても、「落ちてみないと落とし穴か分からない」という体である。よくそんな事で今日まで生きて来られた。日本の平和ボケを体現したような人間である。

春は結局同じ「お願い」を繰り返した。南戸の「嘘なんだろう?!」という詰問は無視した。睦が、一分でも「本当かも知れない」という可能性を残していて、協力してくれるという。春は春で、睦に目を使わず物の位置を探る力があるか、試してみようとしていた。ネックは南戸で春が無視しようが罵倒しようがなかなか引き下がらない。横からずっと文句を言う。睦も優柔不断で、春が押せば無下に断りもしないが、なかなか承諾しない。話が進まないので、結局春が譲歩することになった。南戸に「そんなに心配なら、私が悪さをしないか見張っているといい」と言うと、彼は頷いた。

春との会話から二日経った。彼女は、放課後に睦と南戸を、女子更衣室前に呼び出した。

どこかで、携帯が鳴っている。そう感じた睦は、辺りを見渡したり、自分のポケットをまさぐった。それが、ケラが鳴き声であることに、しばらく気付かなかった。

南戸が、睦の顔を覗き込み、心配そうに「虫だよ」と言った。

睦は、服の埃を払うフリをして誤魔化した。彼らは、春に「騙されてみる」事にした。春は、陸上部の女子生徒の、最後のひとりが下校しようとするのを見計らい、「更衣室に忘れ物をした」と言って、鍵をもらった。施錠の念を押される。春には先輩にあたる生徒は、「練習には来ないくせに」と、ぶつぶつ文句を言いながら、去っていった。教室で待っている、睦と南戸に連絡する。

 彼らは、カメラが見付からなかった時はどうすれば良いかと聞いてきた。不在の証明は難しい。カメラは仕掛けられている。確信がある春は、そのときは、また日を改めると適当な事を言った。何日かに分ければ、彼らもカメラ探しに意地になるかも知れないが、そんな悠長な事をするつもりはない。春が先頭、睦がしんがりで、女子更衣室に入った。二人はさすがに挙動不審である。「初めて入った」「良いにおいがする」などとぼそぼそ呟きながら、手をモジモジさせて侵入している。

 さて、春は適当にカメラを探すフリをしながら、睦が不思議な力を使わないか、そっと窺っていた。第六感で即カメラを指さすとか、ダウジングとか、透視能力とか。眼前で繰り広げられる「不思議な現象」に少し心躍らせていた。

 しかし、「春を見張る」南戸が、ぴったりと張り付いているし、睦も睦で春や南戸を気にして、ろくに動かない。女子更衣室に入った順とは逆に、睦・春・南戸と並んで、更衣室を徘徊している体である。拉致があかない。睦は、隠し方は稚拙ながら、どうも「物探し」のカラクリを隠したがっているようだし、春や南戸の目があるといけないのかも知れない。都合よく、南戸が「トイレに行く」と言ったので、春もそれに乗じて睦を一人にしようとした。南戸は「睦君を残して痴漢に仕立てるつもりだ!」と喚いたが、春は、うんざりしていて、「それなら、睦も外に出ていれば良い」と言うと、黙った。全くやかましい。春は、睦に隙を与えて、隠し事を披露するところをビデオで見るつもりだった。カメラは教室に置いてあるタブレットに繋いである。

 春は外に出て、トイレではなく教室に向かった。そこで南戸は睦に警告を与えた。「昨日考えたんだけど、今回の隠しカメラが、福吉の自作自演かどうか見極めるための、ひとつの指標があるんだ」

そのような事を言った。睦は先を促した。

「ホンモノの痴漢の立場になって考えると、あくまで、仮に、仮にだよ」

「カメラは、なるべく地面に近い方、下の方に仕掛ける。だってやっぱり、エッチなローアングルからの画像が欲しいもん。仮にだよ。(仮にをしつこく繰り返すので、睦は、南戸が気持ち悪くなった。)

でも、福吉さんが、僕らに見せた写真は、鳥瞰図だった。やっぱり、おかしいと思う。カメラを探す人間の顔を撮ろうとするなら、上の方に仕掛けるはずだ」

この話を聞いて、睦は「なるほど」と思った。南戸は、「ともかく一人で女子更衣室なんかにいないで」と言うが、今尿意がない。それに、実は、睦にもひとつ考えがあった。睦の「特殊な感覚器官」は、常昼の都会でこそ目立たないが、暗闇でもっとも便利な能力なのだ。もしも春が睦を痴漢に仕立てようと企んでいても、真っ暗闇の中カメラを見付けて回収してしまえばいい。(遠赤外線搭載のカメラもあるが、そんな事まで考えていなかった。)南戸は、春と南戸が戻るまで、戸の前で待っている、と宥めた。南戸が、男子トイレに消えるのを確認してから、一人、そっと女子更衣室に戻った。電気を消す。林立するロッカーを「感じ」ながら、カーテンを閉めた。これでたとえカメラを見付けても、その姿が捕らえられる事はない。安易な考え。しかし、それは、今回痴漢の汚名を回避するのに十分だった。その代わり、俊之よりも厄介な女に目を付けられることになるのだが。睦は、その感覚を下に向けた。静寂。わずかに残る制汗剤の匂いが、睦の鼻をくすぐった。室内は整然としていた。ロッカー内にも、生徒の私物はほとんどない。真上から見れば、五列にロッカーは並んでいる。蛇腹に歩いて足元を探る。折り畳まれたタオルハンガーや誰かが落としたらしいキーホルダーが、床に敷かれたパレットの隙間に挟まっている。感じるのは、つまらないものの形だけ。そろそろ、更衣室を一巡しようかというときに、ロッカーの上から、何か別の物の感覚が跳ね返ってきて、睦は立ち止まった。顔を向けて、爪先立ちでもう一度、感じてみる。動物のぬいぐるみらしい物が乗っている。まさか、インテリアではないだろう。ハンガーラックから、ハンガーをひとつ拝借し、取手と服をかける部分をぐっと引っ張り、平らな三角を、細長いひし形にした。輪の部分を手に持ち、腕を拡張する。取手でぬいぐるみを引っ掻け落とした。手で確認すると、だるまのようなフォルムで、腹に当たる部分に、チャックがある。睦は、考えていた。春が、睦を陥れようとしていても、彼女がいない内に済ませてしまえば、彼女は、悔しがりながらも、睦が上手だったと認めるしかない。およそ数分、経ったところだろうか。そろそろ南土や春が戻ってくるだろう。更衣室の外で、待っていよう。

 ついでに、カメラを明るいところでよく見ようと、更衣室を出た。出た瞬間凍りついた。

「お前、何やってるんだ」

睦を待ち構えていたのは、俊之だった。勝ち誇ったような顔だった。友人だと感じていた人間が、自分に怒りや恨みしか向けてないことをハッキリと感じ取った。

  春は、教室で一人笑いを噛み殺していた。なんとまあ。映像には何も映っていないが、急に真っ暗になったので、睦か南戸のどちらかが、「電気を消した」事が分かった。しかし、時節カーテンが揺れて、まだ、ビルの中に沈んでいない太陽の光が室内をほの暗く照らし、誰かがごそごそと動いている事に気付いた。その時点で、春の朗報を待ち受けて図書室で時間を潰しているはずの俊之に電話をかけた。

「今、睦は女子更衣室に一人でいる。自分で捕まえてやればいい」と。春自身は光源の少ない映像に、目を凝らしていた。ゴソゴソ。やがて、映像が大きく揺れて、誰かがカメラを動かした事が辛うじて分かった。ゴト、ゴトンという雑音で分かる、衝撃。ぬいぐるみの中に入れていなければ、壊れていたかも知れない。お腹のチャックから出ているレンズを、誰かが覗きこんだ。それに呼応して光る両の瞳を、カメラは捉えた。どういう事だろう。春は腕時計を見た。春が出てから、およそ数分。これは、暗闇を見る際に使う桿体細胞が人より発達しているか、それとも、反響定位だろうか。いや、カンニングの件も考えると光の大小は関係ない。反響定位の方だ。しかし、テスト中、睦は足を踏み鳴らしたり、声をあげたり、「反響」を拾えるだけの物音を立てていなかった。

と、すると体のどこかから、人間には聞こえない周波数の音を出せるのか。あるいは音ではない何か。もしくは超能力。どうであれ、「人間業」ではない。盲ですらこんな芸当はできない。

そうだ。睦が隠したがり、そして、典子が睦に関心を示す理由はこれだ。さらに俊之は気付いていない。あの小悪党が、睦にこんな技が使えると知りながら、今までにそれを利用してこなかった筈がない。クスクス‥‥と、春は声を圧し殺して笑った。体の奥から涌き出る優越感が春を充たしていった。哄笑を堪えきれなくなった春が、一人教室にいると、そこに、南戸が青ざめた表情で、飛び込んできた。

「やっぱり!」

叫んだ。

「お前。睦君を。ハメたな!卑怯な!卑怯な‥‥嘘を吐いて!この卑怯者!睦君が!」

血相を変えて、掴みかかってくる南戸も、また、面白くて、春は笑った。

 すぐに表情を変えなくてはいけない。それまでに、笑って笑って発散しておかなくては‥‥

睦は、すぐに、俊之によって職員室に引き込まれた。俊之は、睦を女子更衣室隠し撮りの現行犯である、と宣言した。職員室は、動揺と興奮で色めきたった。典子だけが、常の無表情で睦と俊之を見ていた。睦は、救いを求めるように典子を見た。

「また、君のところのクラスメートか。この間のカンニング騒ぎと言い」

教頭が、典子に嫌みを言った。

「ええ」

典子は恬淡と返事をした。

「それで、俊之君。どういうことかな」

俊之が何かを言っていた。 説得力のある話ぶりだった。女子更衣室から、カメラを持って、出てくるのを見た、と。

「コウモト君、本当か?」

教頭の顔は怖かった。顔面蒼白にした睦は、何も言えずに黙っていた。

「待ってください、先生」

颯爽と登場するも、あまり決まらない南戸である。南戸は、福吉春の腕を、しっかりと捕まえていた。彼女は、抵抗せずに大人しく従っていた。

「睦君はハメられたんです」

これまでの経緯を、モゴモゴと説明する南戸。こちらは、朗々とはいかず、聞く者のかなりの集中力を要した。春は、睦と南戸が一緒にいたことを、俊之に伏せていた。俊之は春を睨み付けたが、春は、素知らぬ顔をした。

「どういうことだ‥‥」

困惑する教師陣だが、すぐに俊之が、反駁した。

「南戸は、睦君を庇っているに違いありません。二人は最近仲が良かったしグルなのかもしれませんよ」

「俊之君、決め付けたらいけないよ」

俊之を諫める教頭だが、睦や南戸の方を疑っているのは、その表情から明らかだった。

「ちょっと待ってください。福吉、なんとか言ったらどうだ」

南戸がキイキイ喚いた。俊之も、春の自供を焦っただろう。

「福吉は、関係ないだろう。な?」

何が「な?」だ。白々しい。春は、舌打ちを堪えて、ぐっと目頭に力を込めた。瞳が熱くなり、涙が溢れ落ちた。

「わか、りません‥‥」

か細く哭いて、顔を覆う。

南戸は激昂し、

「コイツ!泣けば済むと思ってるのか!」と、再び春に掴みかかった。南戸を制した俊之だが、内心は、俊之に加担しなかった春を苦々しく思っているだろうが、教師の前であるため、滅多なことは言わない。睦は、真っ青な顔で、立ち尽くしていた。騒然とする職員室で、まるで台風の目のように典子はただ成り行きを静観していたが

「トシユキ君。睦君が、女子更衣室から出てきたところを見たと言ったけど、中にいるのを見た訳ではないのよね?」

ようやく睦をかばうような発言をして、俊之はそれに気分を害したようだ。

「なんですか、それは。詭弁ですよ」

「少しでも濡れ衣の可能性があるなら、私刑はいけないわ。そうよね?」

典子は、カンニングの被疑者であった俊之を見逃した事を仄めかした。俊之は、寸暇の間口をつぐんだが、

「そうだ。カメラに何か映っていないか見てみましょうよ」

と言った。春は睦が一縷の光明を見いだし、瞳を輝かせるのを見逃さなかった。吹き出したくなるのを堪えた。やはり、俊之は睦の能力をちゃんと把握できていなかった。彼は、睦が電気を点けて更衣室に入り、「初めからどこにあるか知っていたかのように」カメラを取る姿が映っているものと思い込んでいる。睦が一応警戒し、「暗がりの中」カメラを探し出した事を、俊之はまだ知らない。

 典子は、引き出しからUSBコードを取り出し、睦から押収したカメラをパソコンに繋いだ。

「おいおい、大丈夫か?ウイルスとか」

心配する教頭を

「心配ございません」

と、キッパリいなした。メディアプレーヤーを起動させ、カメラの最新映像を流す。一瞬、女子更衣室が移ったが、あとは、僅かにちらつく影と暗闇である。すでに映像を確認していた春は、俊之の表情の方こそ気になった。驚愕。手足を戦慄かせて、みっともない。睦も、よしんば疑いを晴らせても、この事態はどう収拾がつくのか分からずに、困惑していた。教師陣が、ざわめき始めた。なんだこれ?何も映っていないじゃないか。

「映像データはこれだけね。よく分からないわ」

「でも、俺は見ました。このカメラは睦が持っていました。睦の物です」

「俊之君、落ち着きなさい」

オロオロと、教頭が俊之を宥める。

「睦君、これはあなたの物なの?あなた、本当にこれを女子更衣室に仕掛けたの?」

詰問という表現が似合う厳しい問い方に睦は恐怖していたが、ハッキリ応えた。

「違います」

「埒があかないわね」

そう言って、再び典子は引き出しをまさぐった。彼女は、偏平のアルミ缶をひとつ、そして自分のスマホを取り出した。そして、ジップロックに入ったタブレットである。

典子が何をする気か分からず、一同は怪訝な顔をした。しかし、典子が、押収したタブレットを机の上に出したことで、不穏な空気を感じた俊之の顔は曇った。

「丁度良いわ。トシユキ君もいるし」

「なんの事ですか」

「指紋検証でも、してみましょうか」

典子は薄く微笑んだ。

「指紋の検証?どうやって。鑑識でも呼ぶつもりですか?」

「アルミパウダー。ネットで買ってみたのよ。それに、指紋検証用アプリ。スマホに入れてあるわ。鑑識監修ですって。整合率は7、8割。おもちゃにしては、なかなかよね?」

俊之の顔が、青ざめた。思いがけない展開に、春も幽霊にそっと心臓を掴まれる思いがした。

典子は、続けた。

「トシユキ君は、正義感が強い子のようね。カンニングのときは、そんな子を疑ってしまって、私も悪かったと思ってるのよ。やっぱり、一点の曇りもなく、疑いを晴らしたいわよね。タブレットとビデオ、両方指紋検証してみましょう。この通り、タブレットには、けっこう綺麗に指紋が浮き出てきたの。重なってぐちゃぐちゃになっているのもあるけど、これなんか綺麗ね。人差し指にしましょう」

彼女は、アルミ缶の蓋を開けた。中には、砂糖よりももっと細かい、ふわふわした粉末が詰まっていた。

「息で、粉が舞わないよう気を付けてね」

マウスパッドを俊之に差し出した。

「指にこの粉を付けて、パッドを触って。成分は、化粧品とそれほど変わらないから、大丈夫よ」

「はぁ、便利な時代になったものですねえ」と、教頭が間の抜けた意見を挟んだ。思わぬ方向に話が進んだ事で、落ち着きを取り戻したのは、睦だった。

教頭に(今以外に、いつ・どこで便利だっていうんだ)と、心の中で異議を唱えた。

典子は、机の周りに、紙で敷居を作っていた。カメラに粉を落とし、刷毛で掃いていく。胴体部分や、液晶の上下部分など、撮影や映像確認をするときの、持ち場所になりそうなところに、注意深く粉を付けている典子。睦は、不謹慎にも高揚した。刑事ドラマ見てるみたいだ。

「カメラには指紋が付いていないわ」

典子は、声高に宣言した。

「と、すると?どういうことになるんだね?」

教頭が尋ねた。

「カメラは誰のものか分かりません」

典子が応えた。

春は、タブレットの指紋も綺麗に消しておくべきだった、と、激しく後悔した。典子が、指紋検証などと鑑識まがいのことを言い出すと思わなかった。カメラを、女子更衣室に仕掛ける前、乾布で綺麗に拭った。深い理由はない。ただ、母の病死や俊之からの脅迫は、徐々に春の心を蝕み、人間不信と潔癖を加速させていた。機械に付き白く光る脂が、気持ち悪かったのだ。だから拭いた。他意はない。

 俊之は、青白い顔で自分の指紋を典子に渡した。春には、俊之の心が分かった。彼は、その指紋が春のものであることに賭けたのだ。春は、俊之の上にだけ槍の雨が降ってくることを祈った。

「バーコードリーダーみたいにカメラで指紋を取る。それで一致率を調べるのよ」

いつの間にか、職員室に残っていた教師のほとんどが、典子を囲んでいる。それもそのはず、俊之は睦を痴漢に仕立て目立たせるべく、職員室に入るなり大声を出して注意を惹いていた。

「‥‥」

典子が黙った。春の立ち位置からは、典子の後頭部が邪魔で、スマホの画面を覗き見る事はできない。心臓が、春の薄い胸骨をバシバシ叩いてくる。今にも飛び出しそうだ。

「どうですか?」

教頭が、俊之と典子の間に割り込み、覗き込む。対して最初の勢いはどこへやらの俊之。いつもなら、不快を露骨に示す彼が、人形にように大人しい。

「先生としてはね」

薄ら笑い。

「トシユキ君と、睦君。二人が汚名を灌いで、仲直りをしてくれれば、と思っていたのよ。でも、残念ながら、これはトシユキ君の指紋だわ」

「‥‥それは、職員室に連れていかれるとき、先生が僕にタブレットを持たせたからです」

一斉に、視線が典子に注がれる。

「いいえ、持たせていないわ」

典子はキッパリと否定した。

「いいえ、持たせました!先生の記憶が間違ってるんです。そもそも、そのアプリは信用できるんですか?僕以外のクラスメート、全員調べたら、二三人犯人候補が出てくるとか、その程度の精度しかないかも知れませんよ。それに、それに‥‥本当に僕だけの指紋しか付いていないんですか?他にも調べてみてくださいよ‥‥その、小さいのとか‥‥」

これは、俊之の失言だった。「典子がタブレットを持たせた」というのも、苦しい言い訳だし、端で聞いていた春は、俊之が春を道連れにしたがっているらしい事がハッキリと分かった。しかし、誰であり共犯の存在を仄めかすのは、それこそ犯人のうちの一人であると、自白しているようなものだ。教師の中の何人かが、首を傾げた。

しかし、典子は溜め息を吐いただけだった。

「そう。そうかも知れないわね。もういいわよ。気を悪くさせて、ごめんなさいね」

「生玉先生、アナタそれだから、生徒にナメられるんですよ。やるならもっと徹底的に‥‥」

教頭が、渋面を作る。

「私は、生徒と口喧嘩しているわけではありません。確たる証拠を突きつけて、屈伏させるなんて、それこそ職分が違います。二人が疑心暗鬼にならずに、仲直りできれば良いと思っただけです」

典子は、睦に向き直った。

「カメラは、生徒の忘れ物かもしれないから、先生が聞いておくわ。勉強と関係ないものは、学校に持ち込まないように。以上よ」

俊之の奸計は潰れた。そして、彼は、衆目の中恥をかいた事への屈辱で、ぶるぶる震えていた。俊之は物を言わず、職員室を飛び出した。睦は、俊之に対して何を思えば良いか分からず、ただその後ろ姿を見守っていた。

「ねえ、睦君。帰ろう」

南戸が、睦をいたわるように言った。

「うん」

南戸は元より、睦から激しい讒言が飛んでくるもの、と春は身構えていた。すぐに、濡れ衣に怯え、取り乱す女子を演じようとしたが、意外にも睦は、意気消沈しながら、職員室を出ていった。

 睦を嵌めることに、なんの罪悪感も持たないようにしようと決めていた春だった。責めてくれれば跳ね返せた。しかし、俊之の思惑こそに傷付いている睦を見ると、なぜか良心の呵責が胸をつついた。

(初めから、ふたりの間に友情なんかなかった。私が気にすることじゃない)

 自分の胸の内に浮かぶことばが、言い訳がましい。

「福吉さん」

踵を返そうとする春を、呼び止める声。戦闘モード。

「更衣室、ちゃんと鍵をかけておいてね」

なぜ、と問い返すことばを、慌てて呑み込む。

「陸上部の部長がね、アナタに鍵を預けておいた、と言いに来たのよ」

部長とは、帰り際に春が声をかけて、鍵を借りた女子生徒のことである。職員室を入ってすぐの右手に、各教室の鍵を納めたロッカーがある。最後に退勤する教師は、鍵さえ戻っていれば、鍵を返却したクラスメートと時間を逐一チェックしない。春は、女子生徒の名前を借りてノートに名前を書いておくつもりだった。生玉典子も、私が一枚噛んでることが分かっていたなら、窮地の睦をもっと早く助けてやれば良かったろうに。この女は、性悪だ。睦が狼狽えるところを見て楽しみ、春への優越感で、充たされていたいのだ。お前が母にした仕打ちを、私は絶対に忘れたりしない。

春は何も言わずに、怨念を込めて、典子を睨みすえた。典子は寂しそうに、顔を伏せた。

「なぜ、睦君をハメようとしたか聞いてもいいかしら」

「なんの事ですか」

春は惚けた。しかし、典子や教師陣に加えられる制裁など、春は怖くない。

 「福吉さん、ちゃんと話をしたいわ」

典子は、辛抱強く春に語りかけた。しかし春は黙秘する。

「いいわ。帰りなさい」

典子は折れて、春は即座に典子から顔を背けた。この女の顔を見ると、怒りや悲しみが沸き上がって泣き出したくなるのだ。

バカな子

彼女から目を背けたあの日の言葉が、後ろから追ってくるような気がした。

 

 睦は、学校で南戸と一緒にいることが多くなったが、俊之は、孤立する時間が増えていった。休み時間に、仲の良い友人に話しかけられても、不機嫌に押し黙っている。以前の活達さが徐々に失われていく俊之に、声をかけたくともできない日々だけが、虚しく過ぎていった。一度、勇気を鼓して、「おはよう」と挨拶した。全てを「水に流そう」という意味を込めて。俊之は睦を一瞥しただけで、無言だった。それ以降、睦を見ようとしない。

随分後になってから、春は、「被害者が加害者を許せても、加害者の後ろ暗さは変わらない」と言った。

 睦が、以前カンニングの濡れ衣を着せられたとき、俊之は、睦を庇ってくれたが、疑念を晴らしてくれたわけではない。ただ、孤立する睦を慮ってくれた。

 俊之にどんな底意があっても、睦はそれに救われた。嬉しかった。俊之に不満があっても、誰かにとっての悪い奴でも、俊之と友達でいたかった。

 次第に、俊之は学校自体を休みがちになった。彼への陰口に制御をかけるものが不在になり、悪評は尾鰭を付けて、教室を泳ぎ回った。俊之はわがままだ。自己中だ。甘ったれだ。寂しいだけだ。一人っ子だからだ。きっと血液型は○○だ。親の躾が悪い。下らない奴だ。等など。俊之と親しかったはずの女子まで、彼の悪口を言うようになった。睦と南戸に、媚びた顔で謝りにきた、彼女は言う。

「俊之君が怖かったの。でも、本当は俊之君が嫌いだった」

 ある学校の昼日中気分が悪くなり、睦は保健室に行きたいと、教師に訴えた。教師は、「ひとりで行けるか?」と聞いた。「大丈夫です」と答えると、教師は、ホッとしたように見えた。授業を中座させられることが、嫌だったんだろう。随伴したがる南戸を拒否して、睦は、とぼとぼと教室を出ていった。本当は、うっすら頭痛がするだけで、授業を受けられないほどではない。俊之への悪意が澱む教室は、それ自体がひとつの生き物のようだった。意思を持って、俊之を排斥しようとする。

 保健室の校医に、頭痛薬をもらった。熱をはかる。一時間だけ寝ていても良い、と許可がおりた。

「隣のベッドにも生徒がいるから、起こさないように」

一畳分の狭いベッドを、カーテンが覆い尽くしている。睦も薬用の水を飲んでから、靴を脱いで横たわった。頭痛薬は、ポケットに入れた。薬を呑むほどではない。うぜー、とか、かったりー、とか、そんな事ばかり考えていた。やがて、校医が静かに保健室を出ていく気配を感じだ。隣から、ごそごそ音がして、少しだけカーテンが開いた。

「睦君だ」

敦子が顔を覗かせた。それだけ言って、カーテンを閉める。敦子が、登校していた事に驚いた。上半身を少しだけ浮かせて、敦子のことばを待ったが、それきりだった。隣に敦子がいると思うと、急に落ち着かなくなり、睦は、何か言わなければならないような気がした。

「友達と喧嘩したんだ」

藪から棒に言う。反応はない。敦子に言っても仕方ないと感じつつ、場を繋ぐためだけに、ことばを続ける。

「初めはただの誤解でさ。でも、友達はスゴく怒って、とりつく島もないって言うの。西はそういう事ある?」

反応はない。

「女子と男子じゃ、違うかな。んで、今、友達はちょっとしんどい事になってるというか。周りが敵ばっかりなって、でも、俺拒否られてるから、何もできなくて。前に、友達は俺の事助けてくれたのに、見捨ててるみたいでさ。すげー情けないってゆーか。申し訳ないってゆーか 」

恥ずかしくなってきた。何を言ってるか、分からなくなってきた。敦子の反応はない。睦は一人赤面していた。

「に、西はさ」

話題を変えようとしたとき、睦は、微かな物音に気付いた。耳をそばだてると、敦子はぶつぶつと何かを呟いている。

「それ、国語の中間試験で出てきたよな。復習なんて、偉いじゃん」

睦の話を無視していた事に、ショックのような安堵のような、複雑な気持ちになった。西は変わっている。悪気はないのだ、と睦は受け取った。

「復習じゃない。これは詩。D・H・ロレンスの、愛の詩」

「愛の詩?」

問い返した。

「そう。気持ちが通じ合っている恋人同士のことば」

「西は、国語が得意なの?」

無言。不安になる。敦子のように、カーテンを開けたい衝動に駆られたが、憚られた。

「勉強は苦手。人の気持ちの事は、もっと分からない。これは、典子先生に貸してもらった詩集。お母さんに禁止されていると言ったら、貸してくれたの」

「西のお母さんは、詩集読むのを、禁止するの?」

「恋愛の事が書かれているのは、ダメなの」

睦は納得しがたかった。確かに、小説のエロシーンに興奮した事くらいあるが、少なくとも、敦子の言うロレンスの詩集が、エロティックだとは思わない。意味が分からず、萎えるばかり。恋愛の詩だということも、今知った。

「ふうん。それ好きなの?」

「これは理想の形だから。こうなったら良いなと思う。睦君もそうでしょ」

突然なんの話だろうか。

「それって、俺と西がってこと?」

「違う。睦君と、そのお友だち。他のみんなと」

「俺、別にその友達に恋してるわけじゃないけど」

「恋じゃなくても。気持ちが通じ合うことが素敵」

睦はため息を吐いた。敦子と会話が噛み合わない。しかし、敦子があまりにマイペースなので、こちらも気張らなくて済む。

「どうやったら、仲直りできる?」

睦は、一人言のように呟いた。

「仲直りはできないかも」

質問に対する明朗な回答だった。けれども。

「無理かな」

「俊之君が、睦君の思いやりに気付くのは、いつになるか分からない。けど仕方ない。愛情も寂しさも暴力と同じ。重たすぎる想いは人を傷付ける。俊之君が受け入れられるまで待つしかないのよ」

睦は、不意に敦子が予言的な物言いをしたことに、驚いた。それとも、何か最近読んだ本にでも書いてあることを、復唱してみたんだろうか。何よりも驚いたのは、不登校の敦子が、睦と俊之の関係を把握していたことだった。困惑する。返事ができずにいると、

「睦君は、優しくて強いね。私はね、学校って気持ち悪かったけど、下校のときには必ず肩が重くて、制服に何かへばりついてくる感じ。苦しくて嫌で、ずっと家にいたかったけど、睦君と友だちになってからは、少し違うの。睦君がいると思うと登校するのがちょっと楽しみになったよ」

なぜ、突然褒めるのだろう。訳が分からない。告白とも取れる賛辞に、顔が熱くなった。そのナントカという詩集に書いてあるのだろうか。睦は、居たたまれなくなり、

「あの、西?」

と言いながら、カーテンを勢いよく開けた。

「なあに」

敦子は仰向けに寝そべって、面前に詩集を広げていた。敦子があまりにも可愛かったので、睦は、突然彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。

「あの、あの」

「なあに」

「キスしていい?」

睦は発情していた。それが、突拍子もなく、病的とも言える発言でもあることに、睦は気付いていない。敦子は冷や水を浴びせた。

「嫌。気持ち悪い」

敦子は、首を振った。睦は我に返り、「ごめん、本当にごめん」ともごもご呟きながら、そそくさと保健室を出ていこうとした。

「睦君。頬になら良いよ。そうっとね」

敦子の譲歩に、睦は、再び天にも上る気持ちになった。からかわれているような気もしたが、睦は緊張しながらも、敦子の頬に唇を押し付けた。

それからしばらくは、俊之との仲違いを気にせずに過ごせた。敦子と、急接近できたことが嬉しい。唇に残る、柔らかな頬の感触。家でも、思い出してニヤけた。母親に、気持ち悪いと罵られた。しかし、気にならなかった。告白は「友達から」と、退けられたが、ひょっとしてひょっとするかも。しかし、昂りはいつまでも続かなかった。睦は、敦子の痴態を想像した。事が終わってから、気付いた。妄想の敦子は、「敦子」本人ではない。睦の性的知識は、アダルトビデオや青年誌からのものだが、それに登場する、どのキャラクターも、敦子には当てはまらない。羞恥や、恐怖、照れ隠し、媚び。どれも、妄想の敦子にそういう表情をさせると、まったく敦子では無くなってしまう。 そもそも、敦子を眼前にしていないときの想像の敦子は、既に薄い靄がかかったようにイメージが空虚だ。その行動には理がなく、感情的であってもその感情に全く一般的な何かを見い出せないからかも知れない。

 ほとんど話をしたことが無い春の方が、睦を罵倒しながらも、脚を開く。女になる。人的で雌的なのは春の方である。身体に恥部がありそれを隠し暴かれる事を嫌う「女」である。内部を不透明な膜で覆い、強欲を楚々とした振る舞いで巧みに隠す春や典子は、睦に、好奇心とセットで不安と恐怖を惹起させる。春や典子とは違って、クリオネやメダカのように内部が透けて見えそうな敦子は、誰よりも清くて、無垢で愛らしい。しかし、その無垢さは、実際に教室という与えられた現実の中でうまく機能していない。妄想ですら恋愛がうまくいかない事に睦は違和感を覚えた。

睦は再び落ち込んで、俊之を気にしてはその険しい顔に臆し、ため息を吐き、傍らの南戸が、睦を慰めるという、停滞した日々を送った。



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