「対立」についての話

皆さまはじめまして。私は大学院で化学系の研究をしている者です。名前は二ヒコテとでも呼んでいただけると嬉しいです。国語は苦手なので文章作成にはあまり自信がないですが優しい目で気楽に読んでいただければ幸いです。

どの分野においても「対立」はありがちなのですが、今回は科学における対立について話そうと思います。ここ最近の記事はやたらと長かったので今回は短めです。

まずどんな「対立」があるのか。それは大きく分けて3つだと思います。

(1)時代との対立

(2)制度との対立

(3)人間との対立

まずは(1)の時代との対立の話から。

まず科学において目的が存在しないことは絶対にあり得ません。化学においては私は(ⅰ)生活の向上(ⅱ)ロマンの追及(ⅲ)国家転覆だと思っているという話は以前しました。他の分野においても学術研究には目的があります。目的なしで毎日続けることなんて常人にはできませんし、目的があっても実現の為にずっと毎日毎日同じようなことをするなんてことは常人にはできません。目的はノーベル賞がほしいみたいなものでも構いません。具体的な目標を掲げた研究でも自分の名誉の為の研究でも目的は目的です。人それぞれ目的は違いますし研究のゴールも違うわけです。ノーベル賞を取って終わりという訳でもありません。人によってはノーベル賞の価値はまちまちでDNAの二重螺旋構造を解明してノーベル賞を受賞したワトソン(下人物)は生活費の為に売却しています(約6億円の値が付いたそうです)。このようにノーベル賞は必ずしも誰しもが必要としているものではないということです。

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目的があっても必ずしも実現するとは限りません。それは科学は時代と深い関係のある分野だからなのです。時代を歴史に言い換えるとイメージしやすいかもしれません。以前から私は化学と歴史との繋がりについての話を幾つかしました。そこで登場したハーバーはアンモニアの工業化を確立した優秀な科学者でもあり同時に化学兵器の父でもあったのです。彼の場合は祖国ドイツの為というのが目的ではありましたが、もし彼の生きている時代に戦争がなかったら、彼は毒ガスの研究なんてしていたのでしょうか?また、科学は日進月歩の世界です。医学なんて特にそうです。時代遅れのものは必要とされないのです。どれだけ優れた研究成果でもその時代に適切なものではないと誰にも評価されないのです。逆もあります。時代を先取りしすぎても評価されない対象となります。あっても死後再評価という形となります。このように、科学は時代に遅れてもいけないし先取りしすぎてもいけない、更にその時代の社会背景(戦時中など)に沿った研究ではないと評価してくれない、実は深いように見えて案外狭い分野だったりもするというわけです。

次に制度との対立です。ここでいう制度とは何か?それは法律倫理感の事です。例えば完全自動運転が実現した自動車。開発さえ成功すれば実用は簡単なように見えますが、実際は違います。それは道路交通法が原因です。なぜなら道路交通法は人間が運転していることが前提だからです。事故の際に責任が問われるのは運転者である人間だと規定されています。しかし、完全自動運転が実現したら万一の事故の際の責任の所在はどこにあるのでしょう?このように法はあくまでも制定された時代に合ったものとして規定されているだけなので科学の進展においていつしか弊害となりかねないというわけです。

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もっと言うなら倫理観との対立の方が深刻です。クローン技術なんかが正にそうです。デザイナーベビーは現在の技術があれば実現は可能です。でもデザイナーベビーが禁忌とされているのは人間の倫理観でもある優生思想故だと思います。悪質な遺伝を取り除いて優秀な遺伝子のみを残せば有能な子供のみ生まれる。聞き心地はいいのですが、どんな遺伝子だろうが一つの命ということには何も変わりません。遺伝子組み換え技術の発展が命の選別に繋がってしまう。激しい拒絶感を抱く人も多いのが現状です。遺伝子組み換えだって今は昔よりも安全性は高まっているものの、まだまだ遺伝子組み換え食品を激しく嫌悪している人だって多いはずです。その時代で実現可能でも受け入れてもらわなければ成果とは言えません。ロボトミー手術は戦後すぐは戦争の疲弊が溜まっていた米兵を中心に流行したものの、前頭葉を切断したことに伴う感情消失の副作用が見つかってからはモニス(下人物)は悪人同然の扱いを受けてしまいます。時代はすぐに変貌していくものです。A時代では善でもB時代に変われば一転して悪になる。科学は善にも悪にもいとも容易く変わってしまう場合もあるのです。このように科学は時代とも関係性は深く、更に法律や倫理観とも深く関係しているのです。

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最後に人間との対立です。研究者と利用者の価値観は当然相異なるものです。よく研究者と一般人の乖離なんかがテーマになる話を見ますが、これが場合によっては途轍もなく深刻な問題になりかねないのです。研究者からすれば「猫を電子レンジにいれてはいけない」というのは当たり前でも、利用者全員がその認識とは限りません。中には濡れてしまった動物を乾かすのに電子レンジが有効だと考える人だっていなくもないのですから・・・。電子レンジのマニュアルに「動物を電子レンジに入れてはいけません」と書かれていなかったせいで飼い猫が死んだ。説明責任が果たされていない。賠償金払え!と訴訟される可能性だってなきにもあらずなのですから。研究者は知識があるから常識でも利用者は必ずしもそうとは限らない、この辺のトラブルは時代関係なく常に付きものなのです。

科学者同士にだって対立はあります。私の好きな哲学者にカール・ポパー(下人物)がいます。彼が唱えたのは「反証可能性」。反証が出来ることこそが科学の真髄であり、反証できない科学はエセ科学だという思想です。どんな研究にも賛同者もいれば反対者はいるものです。中には時代と共にこれおかしくね?と反論意見が湧くことだってありますし。ベルセーリウスが元素記号をアルファベットで表そうと画期的な意見を示したところで「いや~という点でダメだ」と批判する者だっていますし、制度上の問題点を指摘して反証を試みる者だっているのです(実際ドルトンはベルセーリウスに真っ向から反対しました)。人間がいる以上、さまざまな科学が進歩する反面、至ることろで反発が起こるものです。

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私は寧ろ反証可能性こそが科学の醍醐味だと思っています。対立は面倒な問題や障害を生じさせる原因にもなりますが、中には批判や反証によって更に科学が進展する未知の可能性を秘めていると思うからです。科学は対立が起こりがちなので広いようで狭い。だけども研究自体は無限大。追求し甲斐のある最高に面白い分野だと私は常日頃感じている所存です。

皆さまとの出会いに感謝、略してC₁₀H₂₂です!

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