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出ない声を書く選択をした。

声が出なくなった。
長引く咳がきっかけで、声を出そうとすると咳き込むようになってしまった。
仕事の都合上、人と話さない訳にはいかないのでとても焦っていた。
それにこのご時世でこほこほと咳をされては、取引先も黙ってはいられない。私は黙ってしかいられないのに…。

まだ笑い話に出来るほどの段階ではないのだが、一旦そんな訳で職場での役立たずレベルが1上がった私は只今絶賛休職中である。

家族や友人と居ても出ない声を張らないといけないストレスと、それに伴う咳。無理に話そうとすると吐きそうな程苦しくなる。なによりのストレスなのは、相手に伝わらないもどかしさと相手が聞き返してくる嫌な顔。
私は声を出すことを辞めた。

声を出さずにいると、私の言葉の色々は心の内で不思議な挙動を示した。
伝えることを諦めると表向きの私は黙りこくるが、代わりに頭の中で言葉が出たらなんと伝えるだろうと考えてみるのだ。そして、頭の中でそれを聞いた相手は反応し、言葉を返す。これが意外にも鮮明で現実味を帯びていることに驚いた。まるで一度試してみたかのようだった。

私は声を出さない場合と声を出した場合の二つを体験したことになる。
二つの景色を堪能する事に私は幸福感を抱いていた。

人生は選択の連続とはよく言ったものだが、ある選択の結果が2~3秒先の未来を変え、その選択肢がこんなにも身近で手前にあることに改めて気づかされたのだ。

高所から身を乗り出してみるとき、「ここから落ちたらどうなるだろう」と考えてみて身震いしたことがあなたにもあるだろう。心地よい風と真下に広がる世界に一旦心躍らせるが、あなたの選択しえなかった選択が作ったもう一つの未来が見えた瞬間に我に返ってしまう。

このようなことが私に度々起こった。
日常生活における選択の自由から、生死におけるそれまで感じてしまった。
自死をほのめかす訳ではもちろんないが、それほど広範囲にわたって選択の自由を感じ、それと同時に私にできる選択の限界を見た。

私は私に出来ることと出来ないことがある。
しかし、出来ないことであっても非現実的な観念としてそれを選ぶことが出来る。
一つしか選べないことへの負け惜しみとなるのだろうが、私はそれに希望を感じている。

実際、私は思っても声が出せず、誰かに伝えられなかった心のもやを書くことで吐き出せている。これが実現しえなかった私の未来の可能性である。

要約してしまえば、声が出せないなら書けばいいということに気づいた。
ということである。

これまで考えていた言いたくても言えなかったこと、したくても出来なかったこと、書きたくても書けなかったこと。
これらの内に秘めた声を書いていくことで、私の声は次第に安心してまた帰ってきてくれるのではないか、と。

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