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一年二歳計算による春秋暦年表(日本書紀+古事記)について・倭の五王の考察

一年二歳計算による春秋暦年表(年表B.)
日本書紀の在位の記述+古事記の崩御の干支年を合わせたもの

https://docs.google.com/spreadsheets/d/e/2PACX-1vRjSpyWcDfXxX89ZXZrGPAn6jfVEmiFWvo2vDYmUqZfIhjTFuOxOio-SGm4eqsSHtrqQ7QhCw-ZjOwX/pubhtml

倭の五王について

年表B.をもとに導出
讃 〇仁徳天皇~履中天皇~(反正天皇)
珍 〇反正天皇~(允恭天皇)
済 〇允恭天皇
興 〇雄略天皇~(清寧天皇)~〇飯豊青皇女
武 〇顕宗天皇~(仁賢天皇)~(武烈天皇)~〇継体天皇

倭の五王の一つの「王の名」に複数該当者がいることについて

対外的な国の代表としての「王の名」で、政情によって、対外的に続けていたりしたのではないかと推測する。
また「印」などによる文書などによる外交にて用いられたのではないかと推測する。

導出の着眼点

1.仁徳天皇五十八年(AD412.5)に朝貢した記録が一致。

五十八年夏五月、當荒陵松林之南道、忽生兩歷木、挾路而末合。冬十月、吳國・高麗國、並朝貢。

日本書紀 仁徳天皇記 

413年 東晋 義熙9年 高句麗・倭国及び西南夷の銅頭大師が安帝に貢物を献ずる。

『晋書』安帝紀、『太平御覧』


2.履中天皇が即位した翌年(AD430)の1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)

430年 宋 元嘉7年 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。

『宋書』文帝紀

補足.仁徳天皇の治世が長きにわたり、履中天皇、反正天皇になっても、仁徳天皇陵の建設など影響力があったこと、中国王朝が「東晋」から「宋」に変わったことで「讃」の認識が混在していたと思われる。

1.履中天皇、反正天皇、允恭天皇は兄弟で弟の継承

438年 宋 元嘉15年 これより先(前の意味、以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。詔して「安東将軍倭国王」に除す。
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。

『宋書』夷蛮伝

438年 宋 元嘉15年 4月、宋文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする。

『宋書』文帝紀

補足.年表B.ではAD437年の1月に反正天皇は崩御されている。允恭天皇が即位するまで暫く空位のままであったが、允恭天皇元年12月に即位された。
その12月がAD437年であれば、AD438年4月は允恭天皇であるが、それ以外の場合AD438年4月は空位の時期となる。その場合、反正天皇を認めたうえで、当時数え16歳であった雄朝津間稚子宿禰(允恭天皇)を擁立をするための対外的な対応だったと思われる。

1.AD443年に允恭天皇は数え21歳となり、成人として改めて対外的に認められた。

443年 宋 元嘉20年 済は宋・文帝に朝献して、「安東将軍倭国王」とされる。

『宋書』夷蛮伝)

2.允恭天皇四十二年(AD462年)に崩御される。

462年 宋 大明6年 興 これより先、済没し、世子の興が遣使貢献する。3月、宋・孝武帝、興を「安東将軍倭国王」とする。

『宋書』孝武帝紀、夷蛮伝

1.外宮の鎮座がAD477年であることより、当時の斎王もしくは飯豊青皇女と雄略天皇が興

477年 宋 昇明1 ? 11月、遣使して貢物を献ずる。

『宋書』順帝紀

これより先、興没して弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。

『宋書』順帝紀 昇明2年(478年)

外宮の鎮座の由来について、『古事記』・『日本書紀』の両書には記載がない[7]。804年(延暦23年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ[7]、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託した。『止由気宮儀式帳』にはそれが何年のことであるという記述はないが、『大神宮諸雑事記』の第一「雄略天皇」の条に「即位廿一年丁巳」、すなわち雄略天皇21年とある[8]。この神託を受け雄略天皇22年7月7日 (旧暦)、内宮に近い「伊勢国度会の郡、沼木の郷、山田の原」の地に豊受大御神を迎えて祀った

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊受大神宮

「即位廿一年丁巳」にある雄略天皇二十一年はAD477年にあたり、興の亡くなった年にあたります。
雄略天皇が存命であるとするならば、興は飯豊青皇女
2.仁徳天皇~履中天皇~市辺押磐皇子~飯豊青皇女・顕宗天皇・仁賢天皇の流れがあるので、対外的に雄略天皇による後押しの「興」となっていたのではないか。(推測)

1.年表B.よりAD478年、AD479年は清寧天皇で即位の時期、502年は武烈天皇の崩御と継体天皇の即位の時期。

478年 宋 昇明2 武 上表して、自ら「開府儀同三司」[注 5]と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、夷蛮伝)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 建元1 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を「鎮東大将軍」(征東将軍)に進号。(『南斉書』東南夷伝)
502年 梁 天監1 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を「征東大将軍」に進号する。(『梁書』武帝紀)

2.飯豊青皇女の弟、または意富祁王・袁祁王の兄弟のうち弟である顕宗天皇(袁祁王)が即位

興の死後に弟の武が立ったとし、南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする[7]。
また梁の高祖(武帝)が即位した際に、武は「征東将軍」に進号されたとする[7](正しくは「征東大将軍」か[8])

『梁書』列伝 諸夷伝 倭の条(梁書倭伝)

3.AD478年~AD502年まで存命しているのは継体天皇

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