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存在を知るために不在に苦しむ/縋るものは多い方がいい

本日は思考を書き留めておこうと思う。
 タイトルの通り幻肢痛、存在していたものがなくなったが存在していた事実があるために痛みを感じてしまう。

 昔読んだ本に三秋縋の「君の話」というものがあり、作中で記憶をナノマシンによって操作し、存在しなかった記憶というものを脳内に植え込み(これを義憶という)、自分の中で愉しむというものが存在している(もちろん記憶を消すナノマシンも存在している)。作中で主人公は15歳までの記憶を消すために頼んだナノマシンが企業のミスにより、記憶を植え付けるナノマシンに挿げ替えられて服用してしまう。そして植えられた記憶の中の幼馴染「夏凪灯火」の存在が人生の「縋るもの」になり、その後同姓同名の人物が現れて(※)話が進んでいく。

※記憶を植えるナノマシンは記憶の混濁防止のため実在する人物の登場を禁じている

 序盤で判明することなのでおそらくネタバレとはならないが、主人公は両親が義憶漬けで最低限の食事及び金銭のやり取り以外は両親は自室で義憶に浸っており、愛情を知らず学校でもうまくやれない空虚な人生を送る。


 そこで自立した18歳に記憶を消すナノマシンを購入したわけなのだが、例えば自分で考えてみると、自分の今までの人生が空虚だったとは言えない。様々な経験が自分の中に存在している中で義憶という異物を混入させると、義憶というものは思い込みによって本物の記憶と思い込むことも可能だが初めは本来の記憶ではないと認識することもできるため、自分は自分の人生に本当は存在していないはずの記憶を持っていること/自分の人生で望んだ記憶を得ることのできなかったことに苦しむと考えている。


 最近の自分が精神的に負のエネルギーで満たされる状態に陥った時に何を考えるかというと、理想及び幸福などといった抽象的概念の自己に対する不在に苦しんでいることが多い。つまり、抽象的概念を知らなければ不在ということに悩むはずもなかったのに存在を認知してしまっている故に不在に苛まれている。つまり精神的幻肢痛に近いだろう。


 例えば人生において幸せですかといえば、日本人は割合的に少ないにしろ、自分のことを幸福です及び理想的な人生です、といえる人間が存在している。しかし一方で自分は幸福だと感じることはあまりない、恵まれているとか不幸ではないとは思うのだが、少なからず幸せですとすら言いきれない自分の自己肯定感、人生について苦しんでいる。


 もう一つのタイトル、縋るものは多い方がいいについて。
 このタイトルはAmazarashiの「帰ってこいよ」という楽曲の歌詞である。この曲は、都会に出て夢をかなえるために努力する友人を想う田舎に残された/残った友人の歌だと自分は解釈している。

信頼できるものは傍にいるならいい 愛する人ができたなら尚更いい
孤独が悪いわけじゃない ただ人は脆いものだから 
縋るものは多い方がいい
      Amazarahi 「帰ってこいよ」より引用

 
 人生は中高生の頃思っていたよりも何倍もつらかった。高校生の時に応援歌練習というスパルタで歌詞を暗記する行事があり、PTA会長が人生でこれよりつらかったことはないと言っていたのを覚えているが、自分はあんなことよりつらいことは人生いくらでも存在していると思った。つらい人生、働かないで生活したい人々、ニートになりたい人。そんな楽できるならしたいと思う人が少なからず存在する中で、人々は何かに縋っている。アニメに縋って、音楽に縋って、愛に縋って、煙草に縋って、暴力に縋って、宗教に縋って、人々は生きている。信頼できる友人がいれば悩み事を抱え込むこともなく、一緒に解決していける。愛する人がそばにいれば愛情にも縋れる。


 孤独は人をおかしくする、しかし孤独は悪いわけではない。私は真の孤独を知らない。必ずだれか支えてくれ、相談に乗ってくれる人生だった。おそらく真の孤独というものは人生で抱えるすべての悩みを一辺倒に一人で抱え込んでしまうことであり、孤独が悪いのではなく一人で抱え込む状態が悪いと考える。


 ただ人は脆いものだから、縋るものがあったとしてもおかしくなってしまう人もいるし、些細なことで歯車がかみ合わなくなったりする。


 自分の人生は何度も言うが自己肯定感が絶望的に欠乏している。自尊心は多少あるにせよ、肯定することとは別の話だ。そうした人間が陥りやすいのは、「自分を肯定してくれる人間を盲信してしまうこと。」である。人生というものは出会いが悪ければ肯定してくれる人に会う機会が少ない、特にこの国では。他は知らんが。そのために自分を肯定してくれる人というものはありがたい。研究室のボスはまず褒める事をしてくれたうえで改善点を述べてくれる、教育的に非常に優れていると私は考えている。何が現状できているかを認識することができるからである。話が逸れたが、肯定してくれる人間との出会いがない故にヒモみたいな彼氏/彼女、暴力的な彼氏/彼女に縋ってしまう。女友達ばっかなので男の例は聞いたことないけど。


 わかりやすい例でいえば、山本白湯さんの「姫と騎士たち」というマンガに出てくる登場人物の塩さん。

 妹に偏重した愛情を向ける両親と阻害される塩さん。当然自己肯定感など存在せず、彼女は以前記事にも書いた「比較の魔物」に襲われ、混沌に陥ります。比較することは自己肯定感の低い人間にとっては自殺行為以外の何物でもありません、自分が比較して優れているという結論など出せるはずもなく、ただ自分が傷つきに行っているだけなのだから。それを認識することができなければただただ肯定感をもっと下げていくだけ。ちなみにこのマンガ、ホンマ最高におもろいんでここからモーメントで全話読んでくれ。

 そしてこのあと塩さんが辿る道というのは、彼氏がヒモだから別れなという友人からの進言に耳を傾けることができず、友人はおそらく減っていく。より彼氏との共依存的な生活は深度が上がり、使えなくなったところで彼氏から捨てられ、最後にははげ山もびっくりの何も残らない孤独だ。孤独はより人をおかしくする。この文章に目を通した人はこのような一方通行の地獄に落ちることなく人生を送ってほしい。

 こんなことにならないために、辛い人生でも縋るものを多種多様にこさえておいて、強く生きていこうねって話。1つに縋ると逃げ道がなくなるので絶対に多種多様にしろよな。


 

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