「ただやる」?「ただ書く」?

朝のベランダに一輪だけ濃厚で優雅に香るクリムゾン・グローリーがこちらを向いて咲いていた。ベランダのバラは蕾が色付いてきている。これからしばらくは肥料を止めることになる。バラは肥料を花に集中させ開花に至る。肥料過多で成分が株に残っているとダブルヘッドといって花の中心が割れて咲いてしまう。肥料を株から“抜く”ことでバラは最も美しい形で開花する。

色付いた蕾を眺めながらそんなことを考えていたのだけど、バラが肥料過多で生育が乱れてしまうのは人間も同じなのかもしれない。情報過多で消耗してしまうのだ。だから株から肥料分を抜くように、与えられ、摂取し過ぎた情報を自分から抜くことで調子を取り戻す。もっとも、バラにも品種があって開花時期もまちまちでタイミングもまちまちなので全てのバラに適用する方法ではない。人間からどの情報をどのくらいの期間抜けばいいのか個人差があるのだろう。情報という、有害でもあり無害でもある肥料を抜こうと、ネットから距離を置いている未定の期間や時間に徐々に分かってくることも多々ある。

そもそもSNSに限らず現実世界でも、私はずっと自宅にいるので他人に働きかけたり優しくしたりする機会が極端に少ない。人に会うことが働きかけるチャンスがないからというわけではない。ネット内だろうとネット外であろうと、何らかの縁で繋がっている人が、何かに困っていたり、反応を待っていたり、苦しんだり悲しんだりして辛そうであれば、自分も心が痛んだり動いたりするのは他の人と同じである。にも関わらず、なぜか手を差し伸べることをしない。何もしないでおこうと心に決めているわけではない、何もしてあげることが出来ないと自分の能力の不足を嘆いているわけでもない。

そんなときの自分の意識を意識するのは難しいので言葉してみて正しいのかどうか分からないが、何らかの理由で相手の状態が不調であることを感知する、無視するわけではなくちゃんと意識を途切れさせることなく相手に注いだままだ、ここまではいい。問題はそこまで分かっておきながら何もしない自分を、さして冷淡だとは思っていないところにある。それを薄情というのかもしれない。

そこで手を差し伸べたり慰めとなるような優しい言葉を掛けるなどして相手を元気づけることは頭にある。ここで相手を心配してすぐに声をかける人も多くいると思うが、わたし の場合は、本当に適切なのかを考えてるようなのだ。誤解されやすいが、そのあいだは何かの判断や選択を迷っているわけではない。むしろ決め手となる何かを“待っている”感覚なのだ。もちろん的を射た言葉を自分の意のままに繰り出せればいいと思うし、それができることもある。けれど、どういうわけか言葉が浮かんで来ない。
「ああ、そうなんだ、この人はそう考えるんだなぁ」
と思うくらいで、反応しようがないのだ。

上手く言えないが、何か“深さ”や“大きさ”のようなものが関係していて、それは相手からの情報の多さとは無関係だ。自分と相手の深さや大きさが一致するまで待つ。そうしないと私なりに持つ脳の運動能力が作動しないのだ。そして作動したとしても、すぐに言葉にできるわけではない。自分が想像しうる限りの相手の苦悩の種類、深さ、それに相応しい表現、それが私ももっとも優先したいものであって、それは何の予告もなしに突然頭に閃く。閃くのは一つではなく幾つかのパズルのピースだ。ピースというのは何かの示唆で、そこらじゅう示唆だらけ。そしてそれぞれの場所で離れて輝いていたいくつかのピース(示唆)が突然繋がりそうになる。でもそれは未完成の小さなモザイク画がボンヤリ浮かぶようで、なおかつとても繊細で頼りないので、消えてなくなるも多々ある。なので消えてなくなる前に注意深く用心しながら、でも頭はスーパースピードでフル回転しながらピースを繋げていく。そんな感じなのだ。

表面的には何も具体的な動きはない。分かる人は少ないと思うが、私のやり方、人の助け方、反応のしかたについてなんとなく伝わってくるのは、「ギリギリのところで助け船を出す」、言い方を換えれば、「ギリギリまで放っておく」というものだ。もちろん直接聞いたわけではないのでただの想像だ。でもこれは分度器でいえば15度ほどの無視できない差がある。私は好んで、あるいは故意にギリギリのところを攻めているわけでない、第一ギリギリかどうかは自分でも分からないのだ。

では分かってくれる人がまったくいないのかというと、そうでもない気がする。私と同じような脳や精神構造を持っているのではないかと思う人は実際にいる。何事も「ただやる」ということをしない人だ。ある程度の期間様子を見て自分で形にできるまでは何もしない。純粋なエネルギーが溜まるのを待っている。何もしない余白の期間には理由がある。開花したバラを切ったあと、すぐに目が出て葉が展開するわけではない。そんな人だ。
(実際に話したことはないので私の勝手な想像でしかありません)

本当はこんなことをSNSでは書きたくなかったのだけど、特別な人(たち)との連絡手段がないのだ。あったとしてメールでは返信がない。なのでここに書きました。

人の視線の中には「空間を共有したい」という人もいるのだろうけれど、様々な種類の視線を感じながら「見られてる」状態ではまだまだリラックスが足りないようです。が、また書きます。


#雑記 #バラ #肥料抜き #情報抜き

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