エネルギーが溜まらない日

子供の頃から親や先生に何度叱られたり怒られたりしても、親に怒られる自分は悪い子で、良くない子だ、と思ったことがないの。それがどういうことなのか自分でも分からないからずっと考えていて、ふとあるとき気づいたがあるのよ。それは仮定であり過激な極論でもあるのだけど、「自分が関わる最初の社会である親、親が怒り、自分を叱り、しまいには世にはびこる暴力的な正論を浴びせるその親を憎んだ人間は、世の中に対して攻めのポジションに身を置くサディストになる」ということ。断っておくけれど、これはあくまで傾向であって、環境がその人を作り上げるのだから、本人でも制御のしようがないの。

よく「尊敬する人は誰ですか?」「憧れる人はいますか?」なんて質問を受けるけど、私はそのたびに頭を悩ませるの。もちろん素晴らしいと思う人、素敵だと思う人はいるけれど、自分ができないことをできるわけだから尊敬してるといえるかもしれない。では憧れているかといえば少し違う。心の底から染まりたいわけではない、おそらく染まりたくても染まれないだろうということが心のどこか、頭のどこかで分かっているの。

ほら、男の人って一時的な情熱で女と抱き合ったりするでしょ?そういうとき、この興奮は一時的なもので永遠に続くわけじゃない、もしくは持続的なものであることは分かっていてもそれだけじゃ足りないって頭のどこかで分かってるんでしょ?それと似てるんだと思う。

では私は誰に憧れてるのか。それは、素敵だと思う人、好きだと思う人と楽しそうに、嬉しそうに話している自分をイメージして、そのイメージの自分に憧れてるの。私には何年も前から好きな人がいるんだけど、私はずっとその人に支えられてると思っていたの。でもよく考えてみると、その人が私を支えてるのと同時に、簡単に会えないからこそ、その人を好きになった気持ち、今も好きでいる気持ちそのものが最終的に自分を支えてるの。分かる?分かってちょうだい、愛って受け身じゃなくて、最後の最後は自発的なものでしょ?

それでね、自分にサディストの傾向があるのは分かったんだけど、そんな私にとって重要なのは職業じゃなくてポジションなのよ。世の中に対して攻めのポジション、それを分かってないとどんな職業に就いても意味がない。ではどんなふうに世の中と関わろうと考えるのか。

理解してもらえるか分からないけど、サディストはね、出会う人々に必ずしも馴染まなければいけないわけではないのよ、馴染めないのではなく、安易に馴染みたくはない、もっと言えば馴染む必要がないの。そもそも周りに馴染めない自分をそれほど悪いと思っていないんだから。でも日本の、人と人は支え合わなければならない、助け合わなければならないという教えと、プロセスを重んじる根強い精神論が人間の冒険心を阻んで邪魔をする。その助け合いの精神が本人にはプレッシャーとなっていることに誰も気づかず、“あの人は周りに馴染めない人間なのかもしれない”という発想を生んでしまう。これが “沼”なの。私はその沼から逃れたいだけ。

沼が自分の体力と気力を奪うから、疲れてくると身動き取れなくなって、周りを振り払うために私は本能的に攻撃的になる。もはやヒステリーというレベルではなくて、一人で何人倒せるか自分でも分からないほど残忍になる。それは自分流の自己防御のようなものなんでしょうね。

でも世の中に対してサディスティックに振る舞っていることが生きていく上で最善かというとそうではないし、自分だけがサディストというわけではないでしょ。パートナーになれるかどうかはほとんど気質で決まってしまうんじゃないかと思う。たとえば兼近大樹さんの「むき出し」の語り手であるentranceの石山はサディストの芽を持っていて、うまくいけば自分のような女とある意味で同志となれる人かもしれない。ただ、あの物語の終盤で何となくヒューマニックな方向に進んでしまいそうで、日によって彼のメンタルの針がサディズムに振れるのかヒューマニズムに振れるのか分からない。そんな複雑な人だから、周期が一致するようなことがあれば何か生み出せるかもしれないと思ってるの。

一方で、私には又吉さんの「火花」の神谷のように、破壊衝動を抱えた人間でもある。それを彼が漫才という手段で世の中に還元するには、一人になってエネルギーを溜め込むようなある程度の時間や期間が必要。それが理解できる人はとても少ないから神谷はいつも孤独で、孤独の中で世間の“沼”を憎んでるんだと思う。そんな厄介者の神谷には漫才のために自分と世間を繋げる存在が必要。それが徳永で、神谷には徳永が必要なのよ。神谷に畏れを抱いたり憧れたりしながら、ドアの陰からそっと優しく見守ってくれる徳永のような人がね。その徳永も「劇場」の永田のような拘りを持っているならば、神谷と徳永はまさに火花散る関係にもなる。厄介者同士、困ったものね(笑)

結局のところ、私には同じようなサディストが必要なのか、私を求めるマゾヒストが必要なのか分からない。そういう人とどんなふうに惹かれ合うのか、恋人になるのか、同志となるのか、友達になるのか、あるいは仕事仲間になるのかなんて頭で考えて決めるものでもないし、関係性は常に変化するものだから、自分の内側に起こるものに忠実に生きて、いつか会ったときに、お互いの振る舞い方が自ずと決めていくのだと思ってる。



こういう言葉を並べて文章にできるまで、ずいぶん時間がかかっているけれど、部屋の中も外も、得体の知れない視線に晒されていたから仕方がなかったのよ。で、最近の私はどうなのか。

村上龍の「五分後の世界」によると、“恐怖”とは想像が生むらしいわ。想像するから恐ろしくなる、だから想像しなければいい、絶対に想像してはならず、目の前にあることにだけに集中しろと。実に男らしい思考だと思う。今私のいる部屋に例えて言えば、正体の分からない複数の視線は相変わらず恐ろしい。それは変わりない。でも恐怖に飲み込まれた自分は自分ではない。だからそうなる前にある時期から私は視線に意味を与えなくなったの。でもそれは私の意志で決めたわけじゃない、おそらく身体が勝手に決めたのよ。敵である視線を意識から排除しようとしたのではない、味方になったのでもない、視線を跳ね返す必要はない、戯れる必要もない。そうやって毎日を過ごしているうちに、身体が少しずつ幾多の視線を甘受するようになったの。ただ“甘受”はするけれど絶対に“支配”されたくはない。だから視線による恐怖を自分のサイズ内に収まるように留めておく。それは、私の身体の全ての器官と全ての神経が総動員して最善の方法を決めていくことで、私自身、頭は使わないわ、頭で自分を制御しようとするんじゃなくて、身体が答えを出すのを待ってるの。ただ、待ってるの。これが間違ってるのかどうかなんて考えるのはナンセンスでしょ、シンプルに男と女の違いなのかもしれないんだから。

もし私を好きでいてくれる人がいたら、今日の残った時間は私のことだけ考えて過ごしてください。私もあなたのことを考えて過ごします。

ではまた。

#雑記 #日記


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